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モネの「市場価値」の実像(1) ── 19世紀フランス、画家のリアルな生活と経済格差

📘 このシリーズでは、『五郎さんがえらくこだわってるモネと後妻アリスの関係、👉 深掘りしてみたら… 当時のブルジョワ社会の解像度が格段に上がった!』というテーマを軸に、モネをとりまく人間関係・経済・社会構造を多角的に読み解いています。

🖼️ 第18回の今回は、“絵が売れず貧しかった”とされがちな画家たちの暮らしを、具体的な収入・支出、住まい、仕事環境などから検証。はたして彼らは、本当に「貧しかった」のか──そのリアルに迫ります。



"成功"前のモネはどれくらい"貧しかった"か?

モネが生きた19世紀後半から20世紀初頭のフランスでは、革命によって特権階級が廃されたとはいえ、半世紀以上を経てもなお、社会の格差は厳然と残っていました(そしてそれは現在に至るまで続いています)。

その中で、中産階級出身のモネが、どうやって大ブルジョワ階級出身のアリスとの“格差婚”を乗り越え、芸術的にも経済的にも「成功」を手にしたのか ── これまでの回で詳しくご紹介してきました。

では、そもそもその「成功」以前のモネは、どれほど“貧しかった”のでしょうか?
当時の一般的な生活水準と照らし合わせることで、芸術家志望者たちが置かれていた社会的背景がより鮮明に見えてきます。

クロード・モネ《石炭を運ぶ労働者たち》(1875年頃、オルセー美術館)。
産業革命期、エネルギー源だった石炭は主に艀でパリへ運ばれました。モネはアルジャントゥイユからパリへ向かう列車の車窓から、このような荷揚げ作業の光景を目にしていたと思われます。

<資産から見る格差社会の実態>
2013年(日本語訳は2014年)に刊行され、世界的な話題を呼んだフランスの経済学者トマ・ピケティの著書『21世紀の資本』では、フランスをはじめとする複数の国の収入・資産分布が、長期的なデータにもとづいて精密に可視化されています。

そこから、1870年当時のフランスにおける資本(資産)の分配状況を抜粋して整理してみると、モネが暮らした社会の格差の実態がより具体的に浮かび上がってきます。

  • 上位10%の富裕層:全資産の82%を保有(2010年は62%)

  • 上位1%の超富裕層:全資産の50%を保有(2010年は23%)

  • 相続由来の資産:全体の86%(2010年は68%)

  • 成人の下位4分の3:ほとんど資産を保有せず

  • 新たに創出された資産:全体の14%(2010年は32%)

この数字から見えてくるのは、当時の社会における圧倒的な固定的格差です。
学歴があっても意味は薄く、高収入の会社員や専門職といった選択肢も乏しい時代。資産を築く唯一の現実的な手段は、資産家の相続人と結婚すること ── それが「社会的流動性の乏しさ」を示しています。

<モネが置かれた社会的ポジション>
こうした背景を理解すれば、オシュデ氏の両親が、息子が大ブルジョワ出身のアリスと結婚することを恐れた理由もよく分かります。また、アリスの実家がモネを“場違いな存在”と見なしていたことも、単なる偏見ではなく、当時の価値観に根ざした「合理的な判断」だったのかもしれません。

実際、モネ家もオシュデ家も、おそらく社会的には上位10%には届かない中産層だったと考えられます。

さらに言えば、モネが得意でも好きでもない学業に見切りをつけ、画家として生きる道を選んだことも、社会背景を踏まえれば自然な選択だったのかもしれません。学歴を得ても富裕層に食い込むことは難しく、父親のあまり振るわない商売を継ぐ気もなかった ── そんな中で、絵こそが自分の「突破口」だったのでしょう。

法学を学び、弁護士資格を得てから画家の道に進んだカイユボットのような上流出身者とは、まさに対照的です。

このように、同じ印象派の画家たちであっても、「画家になるまでの道のり」は、生まれた階層によってまったく異なっていたのです。

フレデリック・バジール《家族の集い》(1867/68年、オルセー美術館)。
1868年のサロンに入選した本作は、バジールが夏を過ごしたモンペリエ近郊の実家で描かれました。大きな木陰に集う正装した親族10人の姿は、画面左端に控えめに描かれたバジール自身とともに、彼の出身階級をよく物語っています。

<社会格差の拡大期>
ちなみに、モネが画家として活躍した1860〜1910年のフランスは、格差がいっそう拡大していた時代でもあります。皮肉なことに、社会の格差はナポレオン3世の帝政を嫌った共和主義者たちが築いた第三共和政のもとで、第二帝政期以上に拡大。1910年、いわゆるベル・エポックの時代にそのピークを迎えていました。

理想を掲げた人々の行動が、まったく逆の結果を生む ── 歴史では、そんなパラドックスが繰り返されてきたのです。

<“優雅な暮らし”にはいくら必要だったか?>
では、その“理想”からは遠く離れた現実として、当時の人々にとって「裕福な暮らし」とは、どれほどの金銭的ハードルを意味していたのでしょうか?

当時の人々には、「優雅に暮らし、凡庸から脱することができる財産や所得の水準」が、意外なほど正確に意識されていたそうです。

この“物質的かつ心理的な閾値”は、平均所得の20〜30倍、または下位50%の労働者の平均所得の40〜60倍に相当していました。
1870年当時の平均所得は約800フランだったため、「最低限の品位ある生活」に必要な所得は、少なくとも約2万フランと試算できます。

つまり、「品位ある暮らし」を送るには、膨大な支出を支えるだけの資産や収入が不可欠だったのです。日常的な出費として、食費・衣服・交通費に加え、召使いたちの給与、馬やその餌、馬車の維持費なども必要とされていました。

1875年頃に撮影された、ユダヤ系実業家一族ペレール家の集合写真。銀行・鉄道・保険などを手がけ、当時はロチルド家に匹敵するほどの影響力を持っていました。

この“閾値”は、最も多くの相続を得た上位0.5%の所得とぴたりと一致していたそうです。当時のフランスの人口は約3,800万人。そのうち成人は約2,000万人でしたから、「優雅な暮らし」が可能だったのは、わずか数十万人規模の“選ばれた階級”だけだったことになります。

<労働者・中間層の年収は? : パリと地方の大きな差>
それでは、その「選ばれし数十万人」以外の、「優雅な暮らし」とは程遠い、大多数の人々 ── すなわち、上位10%に次ぐ「中間層」(次の40%)と、「労働者階級」(下位50%)── の暮らしぶりはどうだったのでしょうか。

パリ・コミューン直後、1871年の統計をもとに見ると、当時の労働所得は以下のように示されています(カッコ内はパリの平均年収):

  • 労働者:265フラン(499フラン)

  • 洗濯女:150フラン(300フラン)

  • 事務職など中間給与層:719フラン(1,400フラン)

パリと地方のあいだには、賃金においておよそ2倍の格差があったことがわかります。ちなみに、当時のパン1キロの価格は約0.4〜0.5フラン。これをもとに計算すれば、地方労働者がどれほどギリギリの生活を強いられていたかが見えてきます。

エドガー・ドガ《洗濯女》(1873年、ノートン・サイモン美術館)。
1871年当時、洗濯女の平均日給は1.5フラン(パリでは3フラン)ほどでした。

“貧しい”画家は、庶民より実は格段にリッチ?

こうして見てくると、画家たちの所得は、平均的な労働者はもちろんのこと、ホワイトカラーの年収と比較しても、非常に高かったことが明らかになってきます。

<収入以外に期待できた支援>
モネが会計帳簿をつけ始めた初年度、1872年の年収は12,100フランでした。最も低かった1875年でも9,765フラン。1870年当時に「最低限の品位ある生活を送るための所得」とされた2万フランには届かないものの、家賃を滞納したり、食料品店のツケを支払えなかったりするほど「困窮」していた、というのはにわかには信じがたい話です。

それでもモネは1870年代、個人の蒐集家に繰り返し作品の購入を打診したり、前払いを懇願したり、場合によっては借金を申し出たりと、まるで物乞いのようなふるまいを見せていました。実はモネ、こういった頼みごとをする際、自身の窮状を誇張する傾向があったことでも知られています。

そして、資産家の画家仲間カイユボットは、そんなモネに対して経済的援助を惜しみませんでした。ヴェトゥイユに暮らしながらもモネがパリに保持していた、ヴァンティミーユ通りのアトリエの家賃は、少なくとも1880年4月まではカイユボットが支払い続けていました。彼の名前は、翌年2月までモネの会計帳簿に記録されています。

エッソンヌ県イエールにあるカイユボット家の別荘。11ヘクタールの広大な敷地には公園や菜園、カヌー競技場もあり、カイユボットは1860〜1879年にかけてここで多くの作品を描きました。現在は一般公開されています。

<支払いは渋り、支援者に丸投げ⁈>
ところが、そんなふうに他人からの援助を受けることには積極的だったモネも、自らが払う立場になると、様子が一変します。

アルジャントゥイユやヴェトゥイユでの、まるで常習犯のような長期家賃滞納が示すように、モネは自分よりさらにずっと貧しい人々への支払いには非常に消極的でした。洗濯女や料理人への賃金をしぶり、食料をツケで調達していた店への請求にも、なかなか応じようとしませんでした。

そして遂に、アルジャントゥイユ時代の未払いは、モネがジヴェルニーに引っ越した1883年ごろに裁判沙汰となります。執達吏が来てジヴェルニーでの評判が悪くなることを恐れたモネは、画商デュラン=リュエルの助けを仰ぎ、彼が問題を収めて事なきを得ました。ちなみにこの年、モネの年収はすでに約45,000フランに達していました。

モネが1874〜1878年に暮らしたアルジャントゥイユの家。スイス風の山小屋のようなこの150平米ほどの住宅は、現在は「印象派の家」として公開されています。

<長期投資にもなる共助のエコシステム>
このような経緯を見てくると、「貧しい画家」というレッテルは、一般市民の感覚で額面通りに受け取るべきではない、“別の意味での貧しさ”であることが分かってきます。しかし、大ブルジョワ階級である画商や、美術品を購入する上流階級の人々から見れば、彼らはやはり「貧しい画家」に映っていたことも、また事実でしょう。

実際、印象派の画家たちのなかで、「庶民感覚での貧しさ」を実際に経験した者は、それほど多くありませんでした。モネやピサロ、ルノアールなどは、絵を売らなければ生活できない階層の出身でしたが、マネやカイユボット、バジール、セザンヌといった面々は、そもそも絵を売らなくても生きていける富裕層出身でした。

1894年にデュレが競売にかけたコレクションの中には、モネが1876年に制作した大装飾画《七面鳥》《狩り》の2点も含まれていました。それぞれ12,000フラン、8,000フランの高値で落札され、モネはこれを「卑劣な投機だ」と非難しています(詳しくは「モネの財産はどのように築かれたか?」回で紹介)。

芸術で通じ合った彼らは、金銭面でもよく支え合い、互いの作品を購入し合うことで、ささやかな経済圏を築いていたのです。1878年4月にマネが友人で美術評論家のテオドール・デュレ宛に送った次の手紙がこのような相互援助の実態をよく表しています。

親愛なるデュレへ、

昨日モネに会いに行ってきました。彼はひどく落ち込んでいて、まさにどん底の状態でした。
彼は、10点から20点の絵を1点あたり100フランで買い取ってくれる人を見つけてほしいと私に頼みました。
そこで提案なのですが、私たち二人でこの話を引き受けてはどうでしょうか?それぞれ500フランの出資ということで。
もちろん、この取引が我々二人によるものだということは、誰にも、そしてまずモネ本人にも知られないようにします。
最初は画商か、どこかの愛好家に頼もうかとも思いましたが、断られる可能性があると考えました。
どうしても我々のように絵に通じていないと、たとえ多少の抵抗があっても、これは素晴らしい取引であると見抜けませんし、同時に才能ある人物に手を差し伸べることにもなるのです。
なるべく早く返事をください。あるいは、会える日時を指定していただければ。

友情をこめて、
エドゥアール・マネ

さて、デュレはマネの提案に応じたのでしょうか?

1894年3月、デュレは自分のコレクションを競売にかけます。モネ作品は全部で6点あり、いずれも4,000〜12,000フランで落札されました。マネの打診に応じて、モネ援助のために500フランを出資してモネ作品を1点100フランで購入していたとすると、デュレはマネが言うように実に「素晴らしい取引」をしたことになります。

クロード・モネ《草原で》(1876年、個人蔵)。
花咲く草原で読書をする妻カミーユを描いた本作は、1894年に競売にかけられたデュレ・コレクションの一点であり、彼が初代の所蔵者だったことがわかっています。落札価格は5,100フランでした。

リッチと超リッチを取り持つアートビジネス

こうした芸術家同士の助け合いに加えて、商魂たくましい画商たちも「援助」に加わっていきます。その代表的存在が、画商デュラン=リュエルでした。彼は展覧会の開催や作品購入だけでなく、モネのジヴェルニーの家の購入費やその他の出費にも資金を工面していました。

画商は、富裕層ではあるものの“貧しい画家”たちと、社交の一環として美術品を蒐集する超富裕層のクライアントをつなぎ、文化的娯楽であり同時に投資対象でもある美術品の売買を取り持つ、重要な仲介者だったと言えるでしょう。

そして、こうしたビジネスのクライアント層をさらに拡大することで、世界の主要都市に支店を展開するまでになった美術商も存在しました。フィンセント・ファン・ゴッホの弟、テオ・ファン・ゴッホがフランス支社で働くことになる「ブッソー&ヴァラドン」の前身、グーピル商会です。

パリ・オペラ広場にあるグーピル商会のギャラリー。グーピルはヨーロッパの主要都市に加え、ニューヨークやオーストラリアにも支店・代理店を展開し、絵画や彫刻の複製品を国際的に販売するネットワークを築いていました。

<顧客拡大の鍵はアートの民主化?>
19世紀後半は、社会的流動性こそ依然として限られていたものの、美術品を蒐集する層が急速に広がっていった時代でもありました。

「自由の女神誕生秘話」シリーズの「成り上がり者(Self-Made Man)とアート──上流階級の愉しみの民主化プロセス」で取り上げた、実業家ウジェーヌ・スクレタンのように、産業革命の波に乗って一代で財を成した人々も少なからず現れました。

さらに、何千・何万・何十万フランもの大金を出して名画を購入する余裕はなくとも、名品の複製であれば手に入れたい ── そんなプチ・ブルジョワ層も誕生していたのです。

こうした新たな顧客層を取り込むことで、グーピル商会は一大ビジネスを築き上げていきました。

『リリュストラシオン』誌に掲載されたグーピル商会のアニエール工房(1873年)。写真やフォトグラヴュールなど革新的技術を導入し、複製印刷の先端を行く拠点となりました。

<「公的なお墨付き」はやっぱり金のなる木?>
1827年創業のグーピル商会は、もともと美術印刷物の仕入・販売・出版から事業をスタートさせました。1860〜70年代に絵画や素描の取り扱いを始めた後も、拡大しつつあった中産階級向け市場を意識し、熟練職人による絵画の複製(版画・写真・彫刻など)を大量に生産・販売していきます。

これにより、5フラン〜100フラン程度の出費が可能な層までを顧客に取り込みました。さらに、サロンで高く評価された有名画家の作品を購入し、複製で普及させることで、原作そのものの価値を引き上げるという“雪だるま式”の効果も生み出していったのです。

ジャン=レオン・ジェローム《カエサルの前に立つクレオパトラ》(1866年、個人蔵)とその複製(1909年以前)。グーピルの娘と結婚したジェロームは、グーピル商会によって量産された複製作品によって、さらに広く一般の人々に知られる存在となりました。

その後、会社再編により誕生したブッソー&ヴァラドン商会は、よりリスクを取る姿勢を見せ、モネやピサロといった印象派の作品にも手を広げていきます。ただし、グーピル時代からの基本方針は変わらず、主軸に据えられていたのは、すでに名声を確立した芸術家の作品でした。

そして1880年代に入り、印象派が次第に受け入れられるようになってきたとはいえ、美術の主流を占めていたのは、依然としてサロンで権威を認められた正統派の美術だったのです。

次回は、「モネの作品は高かったのか?安かったのか?」という問いに迫ります。
当時のアートマーケットの記録と比較しながら、その実態を詳しく探っていきます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




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