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モネの「市場価値」の実像(2) ── モネの絵は高かったのか? 安かったのか?

📘 このシリーズでは、『五郎さんがえらくこだわってるモネと後妻アリスの関係、👉 深掘りしてみたら… 当時のブルジョワ社会の解像度が格段に上がった!』という視点を軸に、モネをとりまく人間関係・経済・社会構造を多角的に読み解いています。

🖼️ 第19回の今回は、「モネの作品の値段は、当時の画家として高かったのか?安かったのか?」を探るべく、モネが“成功”する前の1870〜1880年代に活躍していた他の画家たちが、どれくらいで絵を売っていたかを見ていきます。地道に100点ほど集めた来歴調査から浮かび上がってきたのは ── またもや、出身階級による格差が色濃く反映された、少し残酷な現実でした。



芸術家間の収入格差 ー いつの時代も既得権益層は最強?

19世紀のパリでは、先端的な芸術作品は基本的にほとんど売れませんでした。サロンの権威はいまだ健在で、そもそも美術品を専門に扱う真の意味での“アートのプロフェッショナル”たちが登場したのは、ようやく世紀の半ばを過ぎてからのことです。そして彼らの多くは、サロンのお墨付きを得た芸術家の作品を中心に扱っていたため、印象派のような「新しい」芸術を積極的に取り扱う画商はごくわずかしか存在しませんでした。
つまり、1870〜80年代当時のモネや仲間たちの経済的な立場は、依然として、サロン出展を通じて成功を収めていた著名画家たちとは、比べ物にならないほど厳しいものでした。

1857年からサロン会場となったシャンゼリゼの産業宮殿の眺め。
サロン会場は、出品数の増加に対応して、ルーヴル宮殿からチュイルリー宮殿(第二共和政期)、パレ・ロワイヤル(第二帝政初期)へと移り、1857年以降は、1855年のパリ万博のために建てられた産業宮殿で開催されるようになりました。

<サロン : 長寿の秘訣は、お墨付きがもたらす巨大な副収入>
サロンがこれほど長きにわたって芸術家の登竜門として機能し続けた背景には、まず、公衆に向けて作品を発表できる場が、基本的にサロンしか存在しなかったという事情があります。── そしてこの“機会の独占”に、ささやかとはいえ風穴を開けようとしたのが、第一回印象派展でした(ちなみに、印象派展の参加条件には「サロンには出さない」というルールがあったのです!)。
さらにこのサロンは、賞や栄誉を中心とする報酬制度によって、芸術家を生涯にわたって支援できる仕組みを備えていました。これが、サロンの権威を一層強固なものにしていたのです。つまりサロンで認められた芸術家には、政府からの買い上げや注文、肖像画の依頼、国立美術学校での任用といった実利に加え、レジオン・ドヌール叙勲やアカデミー選出といった名誉も用意されており、キャリアの各段階で目指すことのできる昇進型の報酬制度が整っていました。

<実はかなりハイブリッドだった、サロンの画家たち>
とはいえ、19世紀後半のサロンは、すでにかなり形骸化が進んでいたことも事実です。それにもかかわらず、サロンを目指す芸術家志望者の数は増加の一途をたどっていました。このため応募作品数は激増。開催組織側がその増加に十分対応しきれなかったことから、審査の基準はますます不明瞭になり、不満を爆発させる落選者があとを絶たなくなります。

📊 サロンへの平均出品数の推移
 ・1789〜1814年(革命〜ナポレオン没落):762点
 ・1815〜1847年(復古王政〜七月王政):2,181点
 ・1857〜1874年(会場移転〜印象派登場前夜):3,518点

この状況に対応すべく、ナポレオン3世が自ら指示を出し、1863年には「落選者展(サロン・デ・ルフュゼ)」が開催されることになります。これは、時の帝国政府が、芸術家や大衆に対して自らの美的自由主義を示すと同時に、芸術アカデミーの信用と権威に痛烈な一撃を加え、芸術に関する主導権奪回を狙ったという意味でも、象徴的な出来事でした。

エドゥアール・マネ《草上の昼食》(1863年、208 x 264 cm、オルセー美術館)。
1863年の「落選展」は、五郎さんの「【マネ】「草上の昼食」この女性はなぜ1人だけ裸なの!?【問題作】」で取り上げられたこの作品が展示されたことでも知られます。マネはモネたちの印象派展を励ましつつも、自身はサロンの正当な評価を追い求め続けました。

こうした背景からも、一言で「サロン画家」と言っても、その実態は一様ではありませんでした。

もちろん、宗教や神話、古代の歴史に題材をとる歴史画を頂点とした絵画のヒエラルキーを忠実に守り、伝統的な美の価値基準の継承者としての自負を持つ、いわゆるアカデミックな画家たち(多くは国立美術学校の出身)が、依然として主流を占めていたのは確かです。

しかし、それだけではありません。主流と折り合いをつけつつ、戦争画や宗教画・歴史画のなかで独自の作風を打ち出し、高い評価を得た画家たちも少なからず存在しました。また、努力の末にサロンへ入選したものの、審査基準には必ずしもそぐわず、落選を繰り返しながら、意識的か無意識的にか、独自の芸術スタイルを追求していった作家たちもいました。

こうしたハイブリッドな顔ぶれこそが、三度の革命を経て王政・帝政・共和制と、政治体制がめまぐるしく変化していた当時のフランスにおいて、美の基準や価値観もまた、大きく揺れ動いていたことを物語っているように思えます。

<ケタが違ったサロン画家たちの作品の値段>
それでは、こうした多様な顔ぶれを持つサロン画家たちは、モネらが数百フランで作品を売るのに悪戦苦闘していた1860〜80年代に、どの程度の価格で取引されていたのでしょうか?

実は、これを明確に示すのは至難の業です。モネのように帳簿を残していた画家は少数派で、その帳簿が今日まで残されているケースとなると、さらに稀です。しかも、美術品の売買は現在に至るまで価格が公になることが少ない分野です(ニュースで話題になる高額な落札価格は、あくまで転売市場=セカンダリーマーケットでの価格であり、アーティスト本人の収入を示すものではありません。したがって、モネの“収入としての作品価格”と直接比較できる資料にはなりません)。

ジャン=レオン・ジェローム《ヴェルサイユでのコンデ大公の迎え入れ》(1878年、96.5 cm × 139.7 cm、オルセー美術館)。
本作はグーピル商会が、娘婿でもあるジェロームから買い取った後、画商でメトロポリタン美術館の理事を務めたサミュエル・B・エイヴリーを通じて、アメリカの鉄道王ウィリアム・H・ヴァンダービルトに10万フランで販売されました。

それでも、入念な来歴調査によって、画家本人から直接買い取られた作品の価格が判明しているものもあります。今回はそうした作品を100点ほど丹念に収集し、以前の回(「モネの財産はどのように築かれたか?」)で紹介したモネの作品単価と比較してみました。

もちろんサンプル数に限りがあるため、全体像を代表するデータとは言えません。とはいえ、それでも明らかなのは、モネとサロン画家たちの間には、作品単価において桁違いの差が存在していたという事実です。

一言で言えば──
同時代のモネの作品単価と比べて、サロンで認められていた画家たちの作品は、控えめに見積もっても“ゼロが一つか二つ多い価格”で売れていたのです。

では、具体的な例を見ていきましょう。

アカデミック絵画の巨匠たちの値段 ー 権威は高額で高収益

<アカデミック絵画の王道を歩んだ巨匠たちの値段>
19世紀後半に最も権勢を誇った画家の一人として挙げられるのが、ジャン=レオン・ジェローム(1824–1904)です。第二帝政期のアカデミック絵画を代表する存在で、40年近くパリ国立高等美術学校で教鞭を執り、その門下生は2000人を超えました。19世紀末には、まさに「公式画家」としての地位を確立していた人物です。

ジャン=レオン・ジェローム《灰色の枢機卿》(1873年、68.6 x 101 cm、ボストン美術館)。
ルイ13世の幼少期に実権を握った「赤い枢機卿」リシュリューの宮殿を再現した本作は、1874年のサロンに出品され、グーピルが3万フランで買い取りました。

ジェロームは、前回「モネの「市場価値」の実像(1)」でも紹介した、美術商大手グーピル商会の創業者アドルフ・グーピル(1806–1893)の娘マリーと、1863年に結婚しています。この縁もあり、彼は同商会に多くの作品を販売しており、その一部の販売記録が今日まで残されています。確認可能な1860〜1880年代にグーピル商会で取引されたおよそ30点弱の作品について、平均単価を算出すると約15,000フランに上ります。これは、アレクサンドル・カバネル、エルネスト・メソニエ、ウィリアム・ブグローといった他のアカデミック絵画の大家たちの“相場感”ともほぼ一致します。

また、取引記録には詳細が残っていないものの、人気を博したヒット作にはサイズ違いの類似作が注文されることも多く、複製販売による収入も含めれば、さらなる利益が生まれていたと考えられます。これはまさに、グーピル商会が得意としたビジネスモデルそのものです。

<お国のお買い上げは何よりのご褒美>
アカデミック絵画の大家たちが持つ最大の強みは、国による買い上げや制作の受注を受けられることでした。購入者が「お上」であるため、価格設定は市場価格よりもやや低めになる傾向はあるものの、その事実自体が名誉であり、作家の市場価値を押し上げる効果も絶大です。

アレクサンドル・カバネル《フランチェスカ・ダ・リミニとパオロ・マラテスタの死》(1870年、184 cm × 255 cm、オルセー美術館)。
ダンテ『神曲』地獄篇に登場する中世イタリアの悲劇的な恋人たちを描いた本作は、ロマン主義やアカデミズム絵画で人気の高い題材でした。

ジェロームと並ぶもう一人の巨匠、アレクサンドル・カバネル(1823–1889)も、そうした名誉を何度も手にしています。1865年、1867年、1878年と三度にわたりサロンで最高名誉賞を受賞し、パリ国立高等美術学校の教授、さらには学士院会員にまでなった輝かしいキャリアの持ち主です。彼が1870年のサロンに出品した《フランチェスカ・ダ・リミニとパオロ・マラテスタの死》は、翌1871年に国が12,000フランで買い上げ、1873年のウィーン万博、1878年のパリ万博と二度にわたって展示されるという栄誉も得ました。

(左)ギュスターヴ・モロー《オイディプスとスフィンクス》(1864年、メトロポリタン美術館)、
(右)ギュスターヴ・モロー《オルフェウス》(1865年、オルセー美術館)。
いずれも神話を題材にした象徴主義的な作風で、当時のアカデミズムに一石を投じる存在でした。

<王道から外れた個性派たちも、高値で取引>
一方、アカデミーの画家が「主流」を形成していた時代にあっても、歴史画という大ジャンルの系譜に連なりながら、アカデミズムとは一線を画す独自の画風を確立し、それでもなお国による買い上げや受注を得ていた画家たちも存在します。その代表が、ギュスターヴ・モロー(1826–1898)とピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1824–1898)です。

モローは「アカデミックなアプローチではない歴史画」を追求し、唯一無二の作風を築きました。代表作《オイディプスとスフィンクス》は、制作年の1864年にナポレオン3世によって8,000フランで即買い上げられ、《オルフェウス》も1866年に国が同額で購入しています。

一方のピュヴィス・ド・シャヴァンヌは、サロンに入選するまでに8回の落選を経験するという苦難の道を歩みましたが、フレスコ画を思わせる物語性のあるスタイルが高く評価され、特に第二帝政期のパリ改造計画に伴う新建築物への壁画需要と合致したこともあり、国から多数の受注を受けました。1864年に新築されたアミアンのピカルディ美術館のために制作された壁画《アヴェ・ピカルディア・ヌトリクス(万歳、ピカルディよ、養う者よ)》の習作2点は、制作から30年後の1893年にそれぞれ10,000フランで画商デュラン=リュエルに売却されています。

ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ《アヴェ・ピカルディア・ヌトリクス(万歳、ピカルディよ、養う者よ)》習作、(上)《川》、(下)《シードル》(1864年頃、メトロポリタン美術館)。
神話と田園的風景を組み合わせた象徴的な世界観で知られています。

このように、モネより15〜20歳年上で、かつ歴史画という大ジャンルに位置づけられる作品を描いた巨匠たちの作品は、安価なものであっても数千フラン、平均すると10,000〜25,000フラン、高価なものになると50,000フランを超える価格で取引されていました。対して、1880年代半ばまで作品単価が数百フランにとどまっていたモネとは、価格にして“桁が二つ違う”世界だったのです。

デュラン=リュエルがイチオシしていた「1830年派」の市場価値

<デュラン=リュエルが推した「1830年派」とは?>
印象派の価値をいち早く見抜いた画商ポール・デュラン=リュエルは、回想録の中で「自分のキャリアは『1830年派』の画家たちの評価を高めること、そして印象派の芸術家たちを支援すること、この二つの大きな野心に突き動かされていた」と述べています。

彼の言う1830年派とは、自然主義の流れを汲むバルビゾン派 ── ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(1796–1875)、テオドール・ルソー(1812–1867)、ジャン=フランソワ・ミレー(1814–1875)── そして写実主義のギュスターヴ・クールベ(1819–1877)といった、1830年代から頭角を現した画家たちを指します。

ウジェーヌ・ドラクロワ《サルダナパールの死》(1827年、390 x 490 cm、ルーヴル美術館)。
この作品は、1873年にデュラン=リュエルが96,000フラン(手数料込みで100,800フラン)という高額で競り落としましたが、景気後退の影響で1879年に50,000フランという破格で手放すこととなりました。

デュラン=リュエルは、1855年のパリ万博でロマン派のウジェーヌ・ドラクロワ(1798–1863)に感銘を受け、画商として生きる決意を固めたとされています。つまり彼は、アカデミックな新古典主義に対抗する「反逆児」たちに惹かれる素地をもともと持っていたとも言えるでしょう。

1865年に家業を継いだ後は、1860年代末から1870年代初頭にかけて、キャリア晩年を迎えていた1830年派の画家たちに積極的に投資していきました。彼らは、形骸化しつつあったサロンの歴史画に代わる「新しい」価値観を提示し、印象派の出現へとつながる礎を築いたのです。

<サロンの反逆児たち : クールベとミレーの群を抜く価格>
1830年派の中でもすでに高名であったクールベとミレーの作品価格は、他の同派画家と比べても際立って高価でした。たとえば、デュラン=リュエルがミレーから直接12,300フランで購入した《七面鳥の群れのいる秋の風景》のように、10,000フランを超える作品も散見されます。サロンの大家ほどではないにせよ、決して安くはありません。

当然ながら転売市場ではさらに高額になりますが、デュラン=リュエルは「推し」の画家であれば、ためらうことなく買い占めを進めました。

ジャン=フランソワ・ミレー《七面鳥の群れのいる秋の風景》(1872/73年、メトロポリタン美術館)。
本作は、1872年5月にデュラン=リュエルが12,300フランで購入し、翌年にはマルセイユ在住のギリシャ人実業家・コレクターに30,000フランで売却されています。

彼は保守的な君主制支持者かつ敬虔なカトリック教徒でしたが、急進左派であったクールベとも政治信条を超えて関係を築き、その芸術を一貫して支援しました。

たとえば、1870年の普仏戦争中には、クールベのアトリエから《オルナンの埋葬》や《画家のアトリエ》など重要作を安全な場所へ移送させています。また1872年には風景画を中心に26点を一括購入。さらに1873年には、ヴァンドーム広場の円柱再建費用としてクールベの資産が差し押さえられそうになると、国外に逃れた彼に代わって重要作をウィーンへ持ち出し、万博に合わせて個展を開催しています。評価額10,000フランの委託作品を、その5倍の価格で買い取るという破格の支援も行いました。

ギュスターヴ・クールベ《波の女》(1868年、65,4 × 54 cm、メトロポリタン美術館)。
この作品は、1872年にデュラン=リュエルが10,000フランと評価していましたが、クールベが画商ルグランに「5万フラン、または証券で4万5000フラン」売却するよう依頼していたものです。

<手堅いバルビゾン派 : 堅調な価格形成>
他のバルビゾン派画家たちの価格は、ミレーほど高くはなかったと見られます。彼らの多くが1860〜70年代に没しており、当時の直接取引記録は豊富ではありませんが、いくつかの例から想定が可能です。

たとえば、コローの《ニンフたちの踊り》のバリエーションと見られる2点が1872年に6,500フランで取引されており、また《ソドムの焼失》(1843/1857)は1869年に15,000フランで販売された記録があります。

ルソーについても、1861年頃の《フォンテーヌブローの森の初夏の朝》が画家自身の競売で1,485フラン、没後にはデュラン=リュエルが《冬の森、夕暮れ》(1846~67頃)を10,000フランで購入するなど、数千~一万フラン超の価格帯で安定していたと考えられます。

テオドール・ルソー《フォンテーヌブローの森の初夏の朝》(1861年頃、38.1 x 60 cm、メトロポリタン美術館)。
本作は1861年に「岩の中の小道」として1,485フランで競売され、1872年にデュラン=リュエルが9,000フランで購入しています。

<帳簿が物語るキャリア : ドービニーの堅実な成功>
価格資料が少ない中でも、モネをデュラン=リュエルに紹介した風景画家、シャルル=フランソワ・ドービニー(1817–1878)は、帳簿を残していたことで年収が判明しています。

帳簿によれば、彼の年収は以下の通りです。

1856–1859年:合計44,200フラン(平均年収:11,050フラン)
1860–1866年:合計80,650フラン(平均年収:約11,521フラン)
1867–1869年:合計215,800フラン(平均年収:約71,933フラン)
1871–1873年:合計369,800フラン(平均年収:約123,267フラン)
※ 特に1872年には、単年で188,900フランを稼いでいます。

このように、ドービニーは着実に収入を増やしていきました。商才に優れていた彼を、モネが尊敬し「お手本」としたのも納得です。ちなみにモネが1872年から帳簿をつけ始めたのも、屋外制作のために「アトリエ船」を使用したのも、ドービニーにならったものと言われています。

(左)シャルル=フランソワ・ドービニー《アトリエ船》(1867〜1872年、171.5 × 147cm、オルセー美術館)、
(右)エドゥアール・マネ《アトリエ船で絵を描くクロード・モネ》(1874年、82.7 × 105 cm、ノイエ・ピナコテーク)。
マネはモネの制作姿を題材に、印象派の絵画制作風景を記録に残しています。

<次なる挑戦者たち : サロンの外で生きる道>
このように、印象派の先輩格にあたるバルビゾン派の画家たちは、大ジャンルでも小ジャンルでも、まずはサロンで評価されることによって数千〜数万フランの価格で作品を販売することが可能になっていました。

しかし──。
「サロンを経ずとも、売れる画家になれないか?」

こう考えて、これまで誰も挑戦しなかった手法で独自の市場を開拓しようとしたのが、印象派の画家たちでした。とはいえ、サロンで評価された画家のように収入を得るのは、決して容易なことではなかったのです。

印象派の画家たちの値段 ー 各人の出自や商才が値段にも影響?

一般に、印象派の画家たちは、当初なかなか絵が売れず「貧しかった」とされます。しばしば比較される前世代のバルビゾン派の画家たちの非常に高額な価格に比べると、確かに低価格でしか取引されていませんでした。ただし、同じ印象派の中でも、画家によって絵の値段にはかなりバラつきがあったのも事実です。

エドゥアール・マネ《ケアサージ号とアラバマ号の戦い》(1864年、188 x 125 cm、フィラデルフィア美術館所蔵)。
マネは若い頃、海軍士官を志しており、海の記憶はその後の作品に反映されました。本作は1872年にデュラン=リュエルが3,000フランで購入しています。

<桁違いに高かったマネとドガ>
さて、「印象派の画家たちの値段」を論じる際、モネたちの印象派展を支援しながらも、あくまで自らはサロンでの評価を目指していたマネを、印象派の画家として分類するべきではないかもしれません。しかし、印象派の画家たちとの親密な関係性や、「印象派の父」とも呼ばれるマネの絵画に対する革新性を踏まえ、本稿では、経済面の比較を中心とするため、便宜上マネを含めて論じます。とりわけ、パリの都市生活を描き続けたという点で、ドガとの親和性が非常に高いからです。

モネより6〜8歳年上のドガとマネは、親しい画家仲間でありながら、常に一定の距離を保ちつつ、互いを強く意識し合うライバルでもありました。ともに大ブルジョワ家庭に育ち、モネたちのような深刻な金銭的困窮とは無縁でした(もっともドガは、後に家族の負債返済に何年も費やすことになります)が、それでも家族の期待に応えねばならないというプレッシャーはあったと考えられます。

(左)エドゥアール・マネ《闘牛士の衣装を着た嬢(マドモアゼル・V. . .)》(1862年、165.1 x 127.6 cm、メトロポリタン美術館)、
(右)エドゥアール・マネ《マホ(スペインの洒落者)の衣装を着た若い男》(1863年、188 cm x 125 cm、メトロポリタン美術館)。
デュラン=リュエルは1872年に左の作品を3,000フラン、右を1,500フランで購入しました。

皮肉なことに、このように経済的に恵まれていた二人の作品こそが、1870年代初頭からすでに1,500〜5,000フランという比較的高値で取引されていました。

二人の大きな違いは、マネが1883年にわずか51歳で早世したため、後年の価格上昇を享受できなかった点です。一方、ドガは1917年に83歳で没するまで長命を保ち、1890年代以降の美術市場の高騰の恩恵を受けました(たとえば1912年には、画商ヴォラールにパステル画6点を100,000フランで売却しています!)。とはいえ、晩年のドガはアトリエにこもって制作を続けながらも、展覧会への出品はほとんどしていませんでした。むしろ没後、アトリエに大量に残されていた作品の数々が人々を驚かせることになります。

エドガー・ドガ《観覧席前の競走馬》(1866/1868年、オルセー美術館)。
1872年に1,000フランで購入された本作は、いったん売却された後、1893年に100,000フランで買い戻され、同年カモンド伯爵に30,000フランで売却されました。

現在確認できる売却価格の多くは、画商デュラン=リュエルの資料によるものです。彼がこの二人の作品を他の印象派画家たちの5〜10倍もの価格で買い取っていた背景には、まず題材がブルジョワ購買層に好まれる「売れ筋」だったことが挙げられます。ドガがよく描いた競馬や踊り子といったモチーフは、都市の富裕層にとって馴染みのある娯楽であり、売れやすいテーマだったことは否めません。

さらに、マネやドガに共通する、都会人らしい洗練された画風も、当時の都市ブルジョワ層の好みに合致していました。こうした「洗練」は、生まれ育ちに大きく影響されるものであり、モネやピサロといった、より素朴な出自をもつ「田舎者」の画家たちには、真似し難い要素だったといえるでしょう。残酷な現実です。

エドガー・ドガ《ル・ペレティエ通りのオペラ座の舞台裏(ダンスの控え室)》(1872年、33 x 46 cm、オルセー美術館)。 本作は1872年にデュラン=リュエルが2,500フランで購入しています。

<ピサロやルノワールより高値で売れたモネ>
では、それ以外の印象派画家たちの作品は、いくらで売れていたのでしょうか? 結論から言えば、モネより低価格で、かつ販売数も少なかったようです。

たとえば、モネと同じく、1871年にロンドンでデュラン=リュエルと出会い、作品を買い取ってもらっていたピサロは、この画商からモネの半分から三分の一程度の金額しか受け取っていませんでした。支払いが10,000フランを超えたのは1882〜1884年のわずか3年間のみで、それ以外は0〜数千フランにとどまります。作品単価も1870〜80年代を通して200〜500フラン程度と伸び悩み、ほかの画商への売り込みも、値段を下げなければ売れない状態だったと伝えられます。
ようやく一作あたり数千フランの値がついたのは1890年代に入ってからのことでした。

カミーユ・ピサロ《ポントワーズの公園》(1874年、60 x 73 cm、メトロポリタン美術館)。
本作は1891年まで画家のために預かり品としてポール・デュラン=リュエルが保管。同年8月に800フランで正式に売却されました。

自分は著名な出版者「シャルパンティエ夫人のお抱え画家だ」と自嘲気味に語っていたルノワールも、長らく作品単価は数百フランの水準にとどまっていました。例外的に高額だったのは、1879年のサロンに入選し出世作となった《シャルパンティエ夫人とその子どもたち》(1,500フラン)や、のちに「印象派で最も美しい肖像画」と評されることになる《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》(同額)など、ごく限られた作品のみです。いずれも、購入者の財産規模を考慮すれば、かなり安く買われた印象が否めません。

ルノワールもまた、早くからデュラン=リュエルの援助を受けていた画家の一人ですが、金銭的な困窮は晩年まで続いたといわれています。

ピエール=オーギュスト・ルノワール《シャルパンティエ夫人とその子どもたち》(1878年、メトロポリタン美術館)。
1879年のサロンに出品された本作は、制作依頼主の死後、1907年の競売でデュラン=リュエルがメトロポリタン美術館のために84,000フランで落札しました。

そしてシスレーに至っては、少数ながら一作品200フラン程度の取引きばかりで、窮状が窺われます。シスレーは生涯経済的余裕を持てなかったと言われ、1899年に亡くなった時には、印象派仲間がシスレー未亡人の窮状を救うために、お金を出し合ったと伝えられます。

このように、同じ画商のもとにいながら、ピサロ、ルノワール、シスレーとモネとのあいだには、これほどまでに大きな経済的格差が存在していたのです。モネは複数の画商を競合させ、自身の作品の価格を引き上げることにある程度成功していましたが、他の画家たちはそもそも交渉の余地すらなく、切羽詰まった状況で作品を手放さざるを得なかったとも言えるでしょう。

アルフレッド・シスレー《ヴィルヌーヴ=ラ=ガレンヌの橋》(1872年、49.5 x 65.4 cm、メトロポリタン美術館)。
本作は1872年に200フランで購入され、その後複数のコレクターを経て、1920年には37,200フランで販売されました。

<実はなかなか健闘していたモネ>
ここまでサロン画家、バルビゾン派、印象派仲間たちの作品価格を概観してきました。では、モネの作品価格は高かったのでしょうか? それとも安かったのでしょうか?── 冷静に見ると、モネはかなり健闘していた画家の一人といえるのではないでしょうか。

モネの財産はどのように築かれたか?」の回で紹介したように、1872年に12,100フランだった年収は、1912年には369,000フランにまで増加。一作品あたりの価格も、1870年代の300フランから1880年代には600〜1,200フラン、1909年には14,000フランと、サロン画家並みに上昇しています。

必ずしも出自に恵まれていたわけでも、華々しい受賞歴があったわけでもないモネですが、要所で支援を引き寄せ、展示機会や人脈を活かして作品の価値を高め、着実に売れる仕組みを築いていった。その背後には、明確な意欲と地道な努力、そして「売れるにはどうすればいいか」を考え抜く実行力があったように思われます。

(左)オーギュスト・ルノワール《クロード・モネ》(1875年、84,0 x 60,5 cm、オルセー美術館)、
(右)クロード・モネ《レオン・モネ》(1874年、個人蔵)。
兄レオン・モネは、印象派画家たちの作品を直接購入する支援者であり、モネの長男ジャンを自身の工場に雇うなど、家族としても重要な支えとなっていました。

売れないと嘆くのではなく、どうすれば売れるかを考えたモネの姿勢は、家族の負債返済のため短時間で仕上がるパステルで踊り子を大量に描き、高値で売ったドガの例とも通じるものがあります。絵を売らなければ生きていけない状況が、時に作品の質や売れ行きを押し上げることもある ── そう考えると、画家たちの営みは単なる「苦難の物語」にとどまらないのかもしれません。

そしてモネには、出自や権威に頼らず、自力で道を切り開こうとする強い意志が感じられます。周囲に窮状を嘆きつつも、毎日日の出と共に起きて制作に打ち込む自律的な生活スタイルは、長期的に見れば心身の安定を支え、創作を長く続けるための基盤となっていたのでしょう。

さて、1890年代以降、サロンの権威が後退しはじめ、市場経済が美術界にも浸透するようになると、美の基準そのものが、市場によって新たに形づくられていくようになります。次回は、モネ作品の価格高騰を支えた美術市場の構造的変化がどのようにして起こっていたかについて、多角的に掘り下げていきたいと思います。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。



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