死にたいわけではなく、現実を見失うことがある
副題
生への柵と、意識が途切れる数秒について
はじめに
昔、YouTuberがこんな話をしていた気がする。
「自殺したい人に、金を借りさせて、FXで大きく勝負させればいい。」
「大損したら元の考えに戻るだけだし、大儲けしたら自殺を考え直すかもしれない。」
そんな趣旨の話だったと思う。
発想としては、たしかに面白い。
生命の有無を、ひとつの損得計算として見るなら、最後に一発逆転の選択肢を置くという考え方は、理屈としてはわからなくもない。
けれど、私は少し違う気がしている。
なぜなら、人はいつも「死にたい」と考えて死へ向かうわけではないと思うからだ。
死ぬ意思がある。
死ぬ計画がある。
死ぬ覚悟がある。
そういう場合も、もちろんあるのだろう。
けれど、すべてがそうではない。
人は、死にたいから危険へ近づくとは限らない。
ただ一瞬、現実を見る力を失って、身体だけが危険の方へ進んでしまうことがある。
それは自殺なのか。
事故なのか。
衝動なのか。
不注意なのか。
その境目は、外側から見ただけではわからない。
第一章
死のうと思っていなかった人
以前、電車に飛び込もうとしていたところを止められた人にその時の話を聞いたことがある。
その人は、死のうとは微塵も考えていなかったらしい。
ただ、
今日も仕事だな
くらいのことしか考えていなかった。
しかし、吸い込まれるように、線路の方へ向かっていた。
引き止められて初めて、
自分は何をしていたんだ。
そう感じたという。
この話を聞いたとき、私は少し怖くなった。
なぜなら、そこには「死にたい」という明確な意思がないからだ。
普通に考えれば、線路に向かって歩いていく人は、自殺しようとしているように見える。
周囲の人も、そう判断するだろう。
けれど、本人の内側では違う。
死にたいわけではない。
死のうと決めたわけでもない。
ただ、現実の一部が意識から抜け落ちている。
線路は危ない。
そこへ入ってはいけない。
電車が来るかもしれない。
そういう当たり前の現実が、その瞬間だけ立ち上がっていない。
外側から見れば、自殺に見える。
内側から見れば、現実から数秒だけ離れている。
この差は大きい。
その人が言うには、ホームドアはかなり意味があると思っているということだった。
第二章
赤信号を忘れる瞬間
私自身にも、似た経験がある。
自宅から徒歩30秒のコンビニに向かっていた。
死ぬつもりなどまったくなかった。
ただ、考え事をしていた。
何かが頭の中を占領していた。
そして気づいたら、信号無視をしていた。
赤信号だった。
けれど、その瞬間の私の中に、「赤信号だから止まる」という認識がなかった。
信号が見えていなかったというより、そこに信号があるという世界設定そのものを忘れていた。
普段なら、赤信号で止まることなど考えるまでもない。
それは判断ではない。
努力でもない。
道徳でもない。
ほとんど身体に染みついた常識である。
赤なら止まる。
車道には飛び出さない。
線路には入らない。
高い場所では身を乗り出さない。
こういうものは、私たちが毎回考えて守っているわけではない。
身体化された現実の層として、普段は勝手に働いている。
けれど、その層が一瞬抜けることがある。
別の何かが思考を占領したとき。
不安、怒り、後悔、焦り、絶望、あるいは単なる深い考え事。
何かが意識のほとんどを奪ったとき、人は目の前の現実を見落とす。
すると、赤信号は赤信号ではなくなる。
線路は線路ではなくなる。
危険は危険として立ち上がらなくなる。
そこにあるはずの現実が、意識の中に入ってこない。
第三章
生への執着という見えない柵
私も、死のうと考えたことがある。
もういっそのこと、死んでしまおうか。
そう思ったことがある。
そこまでではなくても、誰にでも近いことを考えたことはあると思う。
けれど、ではどうやって、と考えた瞬間に、現実が戻ってくる。
どの方法を考えても、誰かに迷惑がかかる。
誰かが見つける。
誰かが処理する。
誰かが連絡を受ける。
誰かの記憶に残る。
そう考えると、死ぬことは自分ひとりの問題ではなくなる。
そして何より、怖い。
考えただけで心臓の鼓動が速くなる。
汗が出る。
身体が拒否する。
頭では、もう死んでしまおうかと思っている。
けれど身体は、それを許さない。
ここに、生への執着があるのだと思う。
生への執着というものは、普段は目に見えない。
けれどそれは、かなり高い壁や柵のように、人間の前に立っている。
死のうと意識してその柵を乗り越えることは、簡単ではない。
少なくとも私には、できないと思った。
だから私は、いつからか人にこう言うようになった。
「死ぬ度胸はないけれど、生きる勇気はある。」
これは、綺麗ごとではない。
死ぬことが怖い。
迷惑をかけることが怖い。
痛みも、苦しさも、取り返しのつかなさも怖い。
その怖さは、弱さかもしれない。
けれど同時に、それは生きる側に自分を引き止めている力でもある。
人間は、死を考えたからすぐ死ねるわけではない。
そこには、生への執着という見えない柵がある。
そして、現実を見失うというのは、その柵を乗り越えることではない。
柵があること自体が、一時的に見えなくなる状態なのかもしれない。
死にたいという意思が柵を越えるのではない。
現実が途切れた瞬間、柵が消えたように見えてしまう。
だから危ないのだと思う。
第四章
柵は、死を遠ざけるためだけにあるのではない
以前、無為自然について書いたとき、私は柵について考えたことがある。
川沿いを歩いていると、柵の向こうに黄色い花が咲いていた。
最初、その柵は人間を川から遠ざけるためのものに見えた。
落ちないため。
危険に近づかないため。
管理するため。
けれど、しばらく眺めていると、その柵は別のものにも見えてきた。
柵は、人間を守っている。
けれど同時に、草花を人間から守っている。
人が簡単に踏み込めないから、草は伸びる。
人が不用意に歩かないから、花は咲く。
人間のために引かれた線が、結果として植物の居場所にもなっている。
この話は、生と死の境界にも重なる。
生と死のあいだにも、柵がある。
それは、死を完全に否定するための壁ではない。
死があることを認めたうえで、そこへ不用意に踏み込まないための距離である。
恐怖。
痛みへの想像。
誰かに迷惑がかかるという感覚。
取り返しがつかないという実感。
赤信号。
白線。
ホームドア。
誰かの声。
腕を引く手。
それらはすべて、生と死のあいだに立つ柵である。
柵は、命を閉じ込めるものではない。
むしろ、命が続くための余白をつくる。
自然の中で、柵が草花の居場所を守るように。
人間の中でも、恐怖や常識や現実認識が、生の側にとどまる余白を守っている。
だから、現実を見失うことが危ないのは、その柵を意識して乗り越えるからではない。
柵があること自体が、一時的に見えなくなるからだ。
赤信号が赤信号として見えない。
白線が白線として見えない。
ホームの端が、境界として立ち上がらない。
怖さも、痛みも、迷惑も、取り返しのつかなさも、その瞬間だけ意識に届かない。
そのとき、人は死にたいわけでもないのに、死の方へ歩いてしまうことがある。
柵とは、死を拒絶するものではない。
生と死のあいだに、関係が壊れない距離を置くものである。
近づきすぎれば、踏み越えてしまう。
遠ざけすぎれば、死について考えることもできなくなる。
その中間に、柵がある。
だから柵は、生への執着であり、現実認識であり、境界線であり、礼節でもある。
人間が生きるとは、死がある世界で、その柵を何度も見直しながら歩くことなのだと思う。
第五章
身体の奥が、意識を引っ張っている
以前、身体について考えたとき、私は「身体の奥が、意識を引っ張っている」と書いたことがある。
喉の違和感。
痰。
鼻水。
頭痛。
疲労。
そういう身体の小さな異変があるとき、人はそれを最初から身体の問題として読めるとは限らない。
気分が乗らない。
外に出たくない。
人と関わるのが面倒だ。
世界が重い。
そうやって、身体の警報を、意識は精神の問題として翻訳してしまうことがある。
だとすれば、死に近づくような危うい瞬間にも、同じことが起きているのかもしれない。
それは本当に、死にたいという意思なのか。
それとも、疲労や炎症や思考の占領によって、身体が世界を暗く翻訳しているだけなのか。
暗い結論が出たときほど、すぐに真理にしない方がいい。
それは思想ではなく、身体の翻訳かもしれない。
人間は、いつも澄んだ意識で世界を見ているわけではない。
眠れていない身体で、未来を考える。
頭痛のある身体で、人間関係を考える。
喉が痛い身体で、外の世界を考える。
疲れ切った身体で、自分の価値を考える。
そのとき出てきた結論は、完全な嘘ではないかもしれない。
けれど、そのまま真理にしてはいけない。
身体が重いとき、世界も重く見える。
身体が暗いとき、未来も暗く見える。
身体が閉じているとき、人間関係も面倒に見える。
身体が警報を鳴らしているとき、意識は世界を危険なものとして翻訳する。
現実を見失うとは、心だけの出来事ではない。
身体の奥が意識を引っ張り、意識が世界を暗く読み替え、その結果として、危険を危険として受け取る力が一時的に落ちることでもある。
だから、死にたいと思ったときほど、まず疑っていい。
これは本当に私の思想なのか。
それとも、身体が世界を暗く翻訳しているだけなのか。
これは本当に私の意思なのか。
それとも、疲労や痛みや孤独や炎症や睡眠不足が、現実の色を変えているだけなのか。
その問いは、死にたい気持ちを否定するためのものではない。
ただ、その結論をすぐ真理にしないためのものだ。
第六章
外側の行為と、内側の意図は一致しない
ここで難しいのは、外側から見た行為と、内側の意図が一致しないことだ。
赤信号に飛び出した人を見れば、周囲は危険な行為だと思う。
線路に向かって歩いていく人を見れば、自殺しようとしているのではないかと思う。
高い場所で身を乗り出している人を見れば、死のうとしているように見える。
もちろん、本当にそういう場合もある。
だから、止めるべきときは止めた方がいい。
声をかけるべきときは、声をかけた方がいい。
けれど、本人の中では、必ずしも「死にたい」が起きているとは限らない。
ただ、現実確認の機能が落ちている場合がある。
考えが深まりすぎている。
感情が濃くなりすぎている。
疲労で意識が細くなっている。
目の前にあるものより、頭の中にあるものの方が現実になってしまっている。
そのとき、人は危険に近づく。
しかし本人は、危険に近づいているつもりすらない。
だからこれは、単純な自殺論ではない。
むしろ、注意の話であり、身体の話であり、現実認識の話である。
人は、死にたいから死の近くへ行くとは限らない。
現実を見る力が一瞬途切れたとき、死の方がこちらへ開いてしまうことがある。
第七章
意思より先に身体が動く
人間は、自分の意思で動いていると思っている。
けれど実際には、かなり多くの行動を無意識に任せている。
歩く。
曲がる。
止まる。
避ける。
目線を動かす。
距離を取る。
私たちはそれらを毎回、言葉で考えているわけではない。
赤信号を見て、
これは赤である。
赤信号は停止を意味する。
今は止まるべきである。
などとは考えない。
身体が先に止まっている。
逆に言えば、その身体化された現実処理が一瞬外れると、人は簡単に危険へ進んでしまう。
それは、意思が弱いからではない。
命を軽んじているからでもない。
ただ、意識の配分が崩れている。
本来なら外界に向けられるはずの注意が、内側の思考に吸い込まれている。
その結果、身体だけがいつもの動作を続けてしまう。
歩いていたなら、そのまま歩く。
考えていたなら、そのまま考える。
前に進んでいたなら、そのまま前に進む。
そこに危険があっても、危険として立ち上がらない。
死にたいのではない。
止まるための現実が、意識に届いていない。
第八章
必要なのは、説得ではなく数秒かもしれない
だから、本当に必要なのは、一発逆転の賭けだけではない。
もちろん、人生の選択肢を広げることは大切だ。
金がない。
居場所がない。
未来がない。
そう感じている人にとって、別の可能性が見えることは意味がある。
けれど、危機の瞬間に必要なのは、もっと手前のものかもしれない。
声をかける人。
腕を引く人。
立ち止まらせる音。
一歩進む前に遮る距離。
意識が戻るまでの数秒。
人間は、長い説得で救われることもある。
けれど、数秒で助かることもある。
その数秒とは、人生を変える時間ではない。
思想を変える時間でもない。
ただ、現実に戻るための時間である。
自分は今どこにいるのか。
何をしようとしていたのか。
なぜここに立っているのか。
その問いが戻ってくるまでの時間。
引き止められた人が、
自分は何をしていたんだ。
と思えたのなら、その瞬間に現実は戻ってきている。
だから、止めるという行為には意味がある。
本人の意思を否定するためではない。
死にたい気持ちを論破するためでもない。
ただ、現実へ戻るまでの数秒をつくるためである。
第九章
死は、自分だけでは閉じられない
死を考えたとき、人は方法だけを考えているようで、実はその死が誰に渡るのかも考えている。
誰が見つけるのか。
誰が片づけるのか。
誰が連絡を受けるのか。
誰の記憶に残るのか。
誰の生活に傷を残すのか。
死は、自分のものでありながら、最後には必ず他者へ渡る。
私は以前、「人は、自分の腕の中では死ねない」と書いた。
自分の死を、自分だけで看取ることはできない。
死んだ自分を見るのは、他者である。
死んだ自分の身体を運ぶのも、他者である。
死んだ自分の不在を引き受けるのも、他者である。
だから、死は一人称の出来事でありながら、最後には必ず二人称や三人称へ移る。
この事実もまた、生への柵になる。
自分がいなくなれば終わり。
そう簡単には閉じられない。
自分の死は、誰かの現実になる。
誰かの記憶になる。
誰かの作業になる。
誰かの傷になる。
だから、死を考えたときに立ち上がる恐怖は、ただ痛みへの恐怖だけではない。
自分の死が他者へ渡ってしまうことへの恐怖でもある。
その恐怖は重い。
けれど、その重さがあるから、人は踏みとどまることもある。
死ぬことが怖い。
迷惑をかけるのが怖い。
取り返しがつかないのが怖い。
その怖さは、弱さではない。
生と死のあいだに立つ、最後の柵である。
第十章
自殺と事故の境目
自殺と事故は、外側から見ると分けられるように思える。
死ぬ意思があれば自殺。
死ぬ意思がなければ事故。
しかし現実には、その境目はもっと曖昧なのかもしれない。
死にたいと思っていたが、最後の瞬間は何も考えていなかった人もいるかもしれない。
死ぬ気はなかったが、危険の方へ吸い込まれてしまった人もいるかもしれない。
助けてほしいという行為が、結果として取り返しのつかないことになった人もいるかもしれない。
自殺。
事故。
衝動。
不注意。
それらは、きれいに分けられるとは限らない。
人間の行為は、外側の結果だけでは決められない。
けれど、内側の意図だけでも決められない。
なぜなら、人間はいつも自分の意図を完全に把握しているわけではないからだ。
自分でもわからないまま、身体が動くことがある。
自分でも気づかないまま、危険へ近づくことがある。
自分でも理解できないまま、現実から離れることがある。
だから、自殺に見える行為を考えるとき、私たちは「死にたい意思」だけではなく、「現実を見失う瞬間」も見なければならない。
第十一章
生きるとは、現実に戻り続けること
生きるということは、強い意思を持ち続けることではないのかもしれない。
むしろ、何度も現実に戻り続けることなのだと思う。
考えすぎたら戻る。
疲れすぎたら止まる。
怒りすぎたら距離を取る。
絶望しすぎたら、まず座る。
自分がどこにいるのかを確認する。
足元を見る。
息をする。
水を飲む。
誰かの声を聞く。
信号を見る。
白線を見る。
柵を見る。
そういう小さな動作が、人を現実につなぎ直す。
人間は、思考だけで生きているわけではない。
身体がある。
場所がある。
信号がある。
道がある。
車が通る。
人がいる。
風が吹く。
そういうものに触れ直すことで、私たちは現実へ戻る。
死にたいわけではなく、現実を見失うことがあるのなら、必要なのは「死ぬな」という言葉だけではない。
戻ってこい。
今ここに戻ってこい。
そういう呼びかけなのだと思う。
終章
死なないための数秒
人は、死にたいから危険へ向かうとは限らない。
死ぬつもりなどなくても、信号を見失うことがある。
線路を見失うことがある。
車道を見失うことがある。
危険を危険として認識できないまま、身体だけが進んでしまうことがある。
外側から見れば、それは自殺に見えるかもしれない。
けれど内側では、死にたいのではなく、現実を見失っている場合がある。
だから私は、自殺というものを、意思だけで考えない方がいいと思う。
そこには、衝動がある。
疲労がある。
不注意がある。
身体の翻訳がある。
現実確認の断絶がある。
そして、本人にも説明できない数秒がある。
その数秒を遮るものが、命をつなぐことがある。
声をかける。
腕を引く。
立ち止まらせる。
その場から離す。
水を飲む。
座る。
大げさな救済ではなくてもいい。
ただ、意識が現実に戻るまでの時間をつくる。
命を守るとは、いつも壮大な救済ではない。
ただ、意識が現実に戻るまでの数秒をつくること。
その数秒がなければ、人は死にたいわけでもないのに、死の方へ歩いてしまうことがある。
だから私たちは、ときどき誰かを救うのではなく、ただ現実へ引き戻さなければならない。
生きるとは、何度も現実へ戻り直すことなのだと思う。
最終命題
生きるとは、強い意志で死を拒むことではなく、何度も現実へ戻り直すことである。
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