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命との関わり方

副題
奪いすぎない地点を探し続けるために


序章
命は、ただ守ればよいものではない


命と関わるとは、何だろうか

触れないことだろうか

奪わないことだろうか

壊さないことだろうか

たしかに、それらは大切な態度である

けれど、人間は生きている

生きている以上、食べる

水を使う

道を歩く

家に住む

服を着る

虫を避ける

川を越える

森を切る

土を掘る

光を灯す

排水を流す

何かを得て、何かを動かし、何かを押しのけながら生活している

だから命との関わり方を考えるとき、最初に捨てなければならない幻想がある

それは、人間は命をまったく傷つけずに生きられる、という幻想である

人間は自然の外側にいる観察者ではない

人間もまた、生態系の中で欲し、食べ、移動し、住処を作る生き物である

問題は、命に触れるか触れないかではない

どう触れるかである

どこまで近づくのか

どこで止まるのか

何を通すのか

何を運ばないのか

何を巡らせるのか

何を未来へ残すのか

命との関わり方とは、純粋な無傷を目指すことではない

壊してしまう可能性を持つ人間が、それでも奪いすぎない地点を探し続けることである


第1章
柵は、人間の身体を止める


川沿いを歩いていると、柵がある

こちら側には人間の歩く道があり、向こう側には川が流れている

その間に、金属の線が立っている

一見すれば、それはただの安全設備である

人が川に落ちないため

子どもが身を乗り出さないため

通行人が不用意に水辺へ近づきすぎないため

だが、しばらく眺めていると、その柵は人間だけを守っているわけではないように見えてくる

柵の向こうに草が伸びている

黄色い花が咲いている

人が踏み込まないから、草は伸びる

人が歩き回らないから、花は咲く

人間の安全のために作られた柵が、結果として植物の生きる余白にもなっている

柵とは、自然を拒絶するための線ではない

人間が近づきすぎないために、自分の身体へ引く線である

ここには、命との関わり方の基本がある

近づけるからといって、近づいてよいわけではない

触れられるからといって、触れてよいわけではない

踏み込めるからといって、踏み込んでよいわけではない

命を守るためには、こちら側が止まらなければならない場面がある

柵は、禁止の形をしている

けれど、その禁止はただ自由を奪うためにあるのではない

関係が壊れないためにある

人間が川に落ちないため

草花が踏み荒らされないため

川がただの排水路ではなく、水辺として残るため

柵は、人間と自然を断絶しているのではない

むしろ、関係を続けるための距離を作っている

命との関わり方の第一歩は、この距離を知ることかもしれない

近づきすぎれば壊す

遠ざかりすぎれば見えなくなる

そのあいだに、柵がある


第2章
外来種は、命を運びすぎた結果である


柵が人間の身体を止める線だとすれば、外来種問題は、人間がその線を越えて命を運びすぎた結果である

アメリカザリガニ

ウシガエル

マングース

ワカメ

ヒアリ

これらの名前を聞くと、多くの人は外来種という言葉を思い浮かべる

だが、外来種という言葉だけで考えると、そこにいる命そのものが悪者のように見えてしまう

本当に悪いのは、ザリガニなのだろうか

ウシガエルなのだろうか

マングースなのだろうか

ワカメなのだろうか

彼らはただ、自分の置かれた場所で生きているだけである

問題は、彼らがそこにいることではなく、そこへ運ばれたことである

食べるため

駆除するため

便利にするため

役に立つと思ったため

人間は命を移動させる

しかし、命は物ではない

動かせば、その場所の関係網を変える

食べる

増える

棲みつく

他の命の場所を奪う

水草を減らす

在来種を追いやる

生態系の組み合わせを変えてしまう

命を運ぶとは、単に一つの生物を移動させることではない

関係の束を別の場所に投げ込むことである

ここで必要なのは、悪者探しではない

誰が悪いのかを決めれば、考えた気になれる

けれど、それでは構造が見えない

重要なのは、なぜ人間は運んだのか

運んだあとに何が起こると考えていたのか

逃げた場合、増えた場合、定着した場合、誰が責任を取ると考えていたのか

そこに想像力はあったのか

命との関わり方とは、命を便利な機能として扱わないことである

食材として

駆除剤として

鑑賞物として

実験材料として

教育素材として

人間は命に役割を与える

だが、命は役割だけでは終わらない

役割を終えたあとも、生きる

生きれば、周囲を変える

だから、命を運ぶ人間には、運んだあとの世界を想像する責任がある

外来種問題とは、命の悪ではない

人間の移動の倫理の問題である


第3章
ムサシトミヨは、奪いすぎたあとの倫理である


熊谷の元荒川という川に、ムサシトミヨがいる

世界で熊谷市にしか生息しない小さな魚

その言葉は大きい

けれど、その場所は決して壮麗な自然ではない

護岸がある

フェンスがある

看板がある

人の生活圏が近い

水路は細く、見落とそうと思えばいくらでも見落とせる

そこに、命の条件が残っている

この場所に立つと、自然という言葉が簡単には使えなくなる

自然とは、人の手が入っていない場所のことなのか

それとも、命が続いていける条件が残っている場所のことなのか

ムサシトミヨにとって、そこが本来の自然か、人工的に保護された環境かという分類は、おそらく意味を持たない

水がある

流れがある

水草がある

隠れ場所がある

巣を作れる条件がある

そこで生きられるなら、そこが世界になる

自然とは、起源の純粋さではなく、命が続く条件のことなのかもしれない

人間は自然から奪う

それなしには生きられない

水を使い、土地を使い、木を使い、川を整え、道を作る

奪うことそのものを悪と呼ぶなら、人間の生活そのものが成立しなくなる

問題は、奪うか奪わないかではない

奪っていることを忘れるかどうか

そして、必要以上に奪いすぎるかどうかである

ムサシトミヨのいる川は、人間が一度奪いすぎたことに気づいた場所でもある

このままでは消えてしまう

このままでは命の条件が閉じてしまう

そう気づいたとき、保護という行為が立ち上がる

保護とは、純粋な善ではない

そこには制度があり、看板があり、予算があり、観光資源化があり、地域の物語がある

人間は、反省すら資源化する

けれど、その濁りを単純な悪とは呼べない

倫理は、汚れないことではない

奪ったことを忘れず、奪いすぎたことに気づき、濁った手で、それでも守ろうとすることである

ムサシトミヨは、希少な魚である前に、人間が自然との境界を引き直すための鏡なのだと思う


第4章
魚道は、断ち切った流れをつなぎ直す


柵は、人間を止める

では、止めてはいけない命もある

魚である

魚にとって川は、ただの水ではない

生活の場であり、移動の道であり、産卵へ向かう通路であり、上流と下流をつなぐ生命の連続性である

ところが、人間は川を整えてきた

洪水を防ぐために堤防を作る

水位を調整するために堰を作る

流れを制御するために護岸する

土砂を管理するために段差を作る

人間にとっては安全で扱いやすい川になる

しかし、魚にとっては越えられない階段になる

流れが断たれる

産卵場所へ戻れない

個体群が分断される

命の縦のつながりが切られる

そこで魚道が作られる

魚が上流へ移動できるようにするための通路

流れの速さを調整し、休める場所を作り、段差を少しずつ越えられるようにする構造

それは、小さな土木である

しかし、そこには大きな倫理がある

人間が一度切ってしまった命の流れを、もう一度つなぎ直そうとするからだ

柵が人間に、ここで止まれ、と告げる境界なら、魚道は魚に、ここを通れ、と告げる境界である

境界とは、ただ閉じるものではない

止めるべきものを止める

通すべきものを通す

そこに設計の倫理がある

技術は支配の道具になる

川を直線化し、流れを押さえ込み、命の通路を切断することもできる

しかし技術は、謝罪の形にもなる

壊したものをつなぎ直すために使うこともできる

魚道とは、土木が命に頭を下げた形なのかもしれない

命との関わり方は、自然を手つかずにすることだけではない

壊してしまった接続を、もう一度つなぎ直すことでもある


第5章
トンボ、メダカ、ホタルは、風景の記憶である


子どもの頃、当たり前のように見ていたものがある

トンボ

メダカ

ホタル

それらは特別なものではなかった

風景の一部だった

けれど、ある日ふと気づく

最近、見ていない

本当にいなくなったのか

それとも、いないことに気づけなくなったのか

ここには、生き物の絶滅とは別の問題がある

感受性の絶滅である

トンボは、水と空をつないでいた

ヤゴとして水の中に生き、羽化して空へ出る

その身体には、水辺と空の接続が刻まれている

メダカは、田んぼや用水路の命の流れを示していた

浅い水、ゆるい流れ、水草、人の暮らしと近い場所にある小さな生命の循環

ホタルは、闇と水と沈黙が残っていたからこそ見えた

きれいな水だけでは足りない

餌となる貝がいる

川床がある

夜が暗い

静けさがある

つまり、トンボもメダカもホタルも、単体で存在していたわけではない

それぞれが、条件の束として存在していた

生き物が消えるとは、個体が消えることだけではない

その生き物が現れるための風景が消えることである

水辺が水辺ではなくなる

田んぼが命の場ではなくなる

夜が暗くなくなる

子どもが小さな命を見つける機会を失う

大人がそれを語れなくなる

次世代に遺すべきものは、命そのものだけではない

その命がいた風景である

その風景を見つける感受性である

そして、それを語る言葉である

柵の向こうに咲く小さな花も、同じである

それは珍しい花ではないかもしれない

けれど、その花が咲く余白があるということは、そこにまだ水辺の層が残っているということである

草があり、虫が来て、風が通り、水が流れる

その小さな層を見落とさないこと

それが、命との関わり方の一部なのだと思う


第6章
森は魚を育てている


森と魚は、離れているように見える

森は陸にあり、魚は水にいる

だが、命の世界は、人間が思うほど分かれていない

森の木々は葉を落とす

落ち葉は虫に食べられる

ダンゴムシ、ヤスデ、ミミズ、幼虫たちが、葉を細かくし、糞に変える

さらに微生物が分解する

腐葉土ができる

その土に雨が降る

水は土に染み込み、栄養を含み、地下を通り、やがて川へ流れる

川は海へつながる

海では小さな生命が育ち、それを魚が食べる

だから、森は魚を育てている

もちろん、栄養がただ大量に流れればよいわけではない

多すぎれば水は濁り、海は富みすぎ、別の問題が起こる

大切なのは、栄養が巡ることである

蓄えられ、分解され、少しずつ移動し、次の命へ渡されること

循環とは、ただ流れることではない

流れ去ることでもない

巡って、戻り、変わりながら、次の命になることである

現代社会は、この巡りを見えにくくしている

落ち葉は汚れとして掃かれる

虫は邪魔者として排除される

土は舗装される

雨水はすぐ排水溝へ流される

公園はきれいになる

道路は清潔になる

けれど、その清潔さの裏で、命の中間層が失われていく

落ち葉はゴミではない

腐葉土は死骸の堆積ではない

それは、生命が次の生命へ変わるための場所である

命は保存されることで続くのではない

巡ることで続く

だから、命との関わり方には、止めることと通すことだけでは足りない

巡らせることが必要になる

柵は、人間を止める

魚道は、魚を通す

森の土は、死んだものを次の命へ巡らせる

この三つが揃ったとき、自然はただ残されるのではなく、生き続ける


第7章

何もしないことも、命との関わり方である


命を守るというと、人間が手を引くことだと考えやすい。

触らない。

刈らない。

捕らない。

動かさない。

人間が何もしなければ、自然は本来の姿へ戻っていく。

そう思いたくなる。

たしかに、人間が踏み込みすぎた場所では、手を引くことが必要になる。

だが、すべての場所で、何もしないことが命を守るとは限らない。

田んぼ。

用水路。

ため池。

草地。

里山。

河川敷。

これらは、完全な野生ではない。

人間が水を引き、草を刈り、土を動かし、流れを整えながら、長い時間をかけてつくってきた環境である。

そこでは、人間の手が入ることを前提に生きてきた命もある。

草を刈ることで、日光が地面へ届く。

水路をさらうことで、水が流れる。

畦を直すことで、水辺が残る。

落ち葉や泥をすべて取り除かないことで、小さな命の居場所が残る。

人間が手を加えることが、必ずしも自然の破壊になるわけではない。

反対に、人間が突然手を引けば、それまで保たれていた関係が崩れることもある。

放置された場所が、ただちに「本来の自然」へ戻るわけではない。

それまで人間が維持していた流れや光や空間の配置が変わり、別の環境へ移行する。

つまり、

何もしないこともまた、環境を変える選択である。

手を入れることだけが介入なのではない。

手を引くことも、配置を変える。

管理をやめることも、そこに生きる命の条件を変える。

だから命との関わり方は、

人間が関わるか、関わらないか

という二択では考えられない。

どの関わりをやめるのか。

どの関わりを残すのか。

どこでは自然の変化に委ね、どこでは人間が維持を引き受けるのか。

それを考えなければならない。

そして、もう一つ重要な基準がある。

それは、

間違えたとき、元へ戻せるか

ということである。

踏まれた草が、次の季節に再び芽を出すことはある。

一時的に濁った水が、流れによって澄んでいくこともある。

だが、失われた湿地を戻すには長い時間がかかる。

別の土地へ運ばれ、定着した命を、完全に元の場所へ戻すことは難しい。

一つの種が消えれば、あとから反省しても同じ命を取り戻すことはできない。

命への介入の重さは、奪った量だけでは決まらない。

少ししか変えていなくても、その変化が戻せないなら、倫理的な重さは大きい。

大量に使っても、短期間で回復し、流れを損なわない場合もある。

だから「奪いすぎない地点」を考えるには、少なくとも次の問いが必要になる。

どれだけ奪うのか。

どれほど急に変えるのか。

回復には、どれだけ時間がかかるのか。

間違えた場合、元へ戻せるのか。

戻せないとき、誰が責任を引き受けるのか。

命との関わり方とは、現在の利益だけを見ることではない。

その行為のあとに、命が戻ってこられる道を残すこと

でもある。

人間は、すべての結果を予測することはできない。

だからこそ必要なのは、絶対に間違えないことではない。

間違えたときに止まれること。

修正できること。

戻るための余白を残しておくこと。

奪いすぎないとは、何も奪わないことではない。

取り返しのつかないところまで奪わないこと

なのである。

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第8章
命との関わり方とは、配置を考えることである


ここまで見てくると、命との関わり方は、ひとつの道徳に回収できないことがわかる

自然を守れ

命を大切にしろ

生き物を殺すな

それらは大切な言葉である

けれど、それだけでは足りない

人間は生きるために奪う

安全のために川を整える

食べるために命を移動させる

便利さのために道を作る

清潔さのために落ち葉を掃く

明るさのために夜を照らす

その一つ一つは、単純な悪ではない

だが、それらが積み重なると、命の条件を壊してしまう

だから必要なのは、命に一切触れない純粋さではない

配置を考えることだ

どこで止めるのか

どこを通すのか

何を運ばないのか

何を巡らせるのか

どこを見せ、どこを隠すのか

どこまで使い、どこから残すのか

誰の安全を守り、誰の移動を開くのか

誰の生活を支え、誰の居場所を奪っているのか

命との関わり方とは、この配置を考え続けることである

すべてを開けば、侵入になる

すべてを閉じれば、窒息する

止めすぎれば、流れが死ぬ

通しすぎれば、境界が壊れる

運びすぎれば、生態系が変わる

巡らなければ、森も川も海も痩せる

つまり、命は単独では存在していない

命は、距離、流れ、境界、循環、記憶、制度、感受性の中にある

だから命を大切にするとは、ただ命を抱きしめることではない

ときには離れること

ときには止まること

ときには道を開くこと

ときには持ち込まないこと

ときには掃き清めないこと

ときには見守ること

ときには修復すること

命は、優しさだけでは守れない

設計がいる

抑制がいる

記憶がいる

制度がいる

そして、自分たちが何を奪っているのかを忘れない感受性がいる


第9章

食べるとは、命を引き受けることである


命との関わり方を考えるとき、最後に避けて通れない場所がある。

食べることだ。

人間は自然を守ろうとする。
川に柵を立てる。
魚道を作る。
外来種を規制する。
森の循環を戻そうとする。

しかし、その人間自身が、毎日何かを食べている。

肉を食べる。
魚を食べる。
米を食べる。
野菜を食べる。
果物を食べる。

食べるとは、他の命を自分の身体へ変えることである。

ここに、完全に無傷の倫理は存在しない。

動物を食べないという選択は、一つの倫理である。
苦痛を感じる存在への配慮として、それは理解できる。

けれど、そこで問いは終わらない。

草は命ではないのか。

植物は声をあげない。
血を流さない。
逃げない。
人間の目に見える苦痛を示さない。

だからといって、それは命ではないと言えるのだろうか。

もちろん、植物が動物と同じように苦しむとは簡単には言えない。

だが、植物もまた生きている。

光を求め、根を伸ばし、傷つけば反応し、季節の中で枯れ、次の命へ渡っていく。

ならば問題は、苦痛の有無だけで倫理を決めてよいのか、ということになる。

人間に見える痛みだけが、倫理の対象なのか。

鳴く命はかわいそうで、鳴かない命は食べてよいのか。

血を流す命は痛ましく、緑の汁を流す命はただの食材なのか。

逃げる命は守るべきで、根を張って逃げられない命は倫理の外なのか。

ここには、人間の感受性の限界がある。

だからといって、何を食べてもよいという話ではない。

むしろ逆である。

何を食べても、私たちは無傷ではいられない。

だからこそ、食べることを軽く扱ってはいけない。

食べるとは、他者の命を自分の生へ変える行為である。

そこには負い目がある。
感謝がある。
必要がある。
欲がある。
習慣がある。
文化がある。

日本語の「いただきます」は、その複雑さを小さく引き受ける言葉なのかもしれない。

それは、ただ料理を作ってくれた人への礼ではない。

私は、これから命を受け取ります。
私は、他者の死を自分の生へ変えます。
私は、奪わずには生きられない存在です。

その自覚の入口にある言葉である。

人間は、食べずには生きられない。

ならば命との関わり方は、命を奪わないことではなく、奪っていることを忘れないことから始まる。

植物も動物も生命である。

しかし、生命であることと、苦痛を経験することは同じ論点ではない。

感覚や苦痛を持つ可能性によって、配慮の仕方や重さが異なることはあり得る。

それでも、植物を倫理の外に置き、無限に利用してよいということにはならない。

私たちは、それらの問いの上に立っている。

だから、食べることは単なる栄養摂取ではない。

命の循環に加担することである。

そして加担する以上、人間は無罪ではいられない。

けれど、無罪でないことは、生きることを諦める理由にはならない。

むしろ、そこから倫理が始まる。

奪ったことを忘れない。
食べたものを粗末にしない。
必要以上に欲望を膨らませない。
見えない命を、存在しなかったことにしない。

命との関わり方とは、清らかになることではない。

自分が共犯であることを知りながら、それでも感謝し、悼み、問い続けることである。


終章
奪いすぎない地点を探し続けるために


命との関わり方とは、命を壊さない純粋さではない

人間は、壊してしまう

踏み込めば草を折る

運べば生態系を変える

整えれば流れを断つ

照らせば闇を消す

掃けば土の循環を止める

食べれば命を終わらせる

それでも、人間は生きている

だから問うべきなのは、人間は命に触れてよいのか、ではない

どう触れるのかである

近づきすぎたなら、柵を引く

断ち切ったなら、道をつくる

運びすぎたなら、もう運ばない

奪いすぎたなら、保護する

見えなくなったなら、語り直す

巡らなくなったなら、土へ戻す

命との関わり方とは、こうした小さな修正の連続である

人間は自然の外側に立つ裁判官ではない

自然を一方的に支配する王でもない

自然に完全に溶け込める無垢な存在でもない

人間は、自然の中で過剰になりやすい生き物である

だからこそ、境界がいる

通路がいる

循環がいる

記憶がいる

反省がいる

そして、奪いすぎない地点を探し続ける態度がいる

柵の向こうに咲く花を見たとき、そこにただの雑草を見ることもできる

けれど、そこには人間が踏み込まなかった余白がある

川の段差に魚道を見るとき、そこには人間が切ってしまった流れをつなぎ直そうとする意志がある

森の落ち葉を見るとき、そこには死んだものが次の命へ変わる時間がある

ムサシトミヨのいる小さな川を見るとき、そこには濁った手で、それでも守ろうとする人間の倫理がある

命は、ただそこにあるのではない

命は、関係の中で続いている

だから、命との関わり方とは、関係を壊さない距離を探すことである

止めるべきものを止める

通すべきものを通す

運んではならないものを運ばない

巡るべきものを巡らせる

見えなくなったものを語り直す

それは、美しい自然賛美ではない

もっと濁っていて、もっと現実的で、もっと人間くさい営みである

けれど、そこにこそ倫理がある

人間とは、壊しながら、守ろうとする生き物である

その矛盾から逃げずに、奪いすぎない地点を探し続けること

それが、命との関わり方なのだと思う

そしてこの問いは、やがて人工魚礁のような問題にもつながっていく。

壊すために作られた構造を、命の器へ変え直すことはできるのか。

それもまた、命との関わり方のひとつである。


最終命題

命との関わり方とは、命に触れない純粋さではなく、触れた結果を引き受け、奪いすぎないよう関係を修正し続けることである


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