ムサシトミヨのいる川。自然を奪いすぎた人間が、もう一度境界を引き直す場所

序章
小さな川に立っていた
元荒川のそばに立っていた
そこは、いかにも観光地という場所ではなかった
住宅地が近くにあり、畑があり、駐車場があり、フェンスがあり、護岸があり、看板が立っていた
水は流れている
けれど、山奥の清流のような美しさではない
人の生活圏のすぐ横を、細い水が流れている
その水路に、ムサシトミヨがいるという
世界で熊谷市にしか生息しない小さな魚
そう書かれた看板を見たとき、少し不思議な感覚があった
世界でここだけ
その言葉はあまりにも大きい
けれど、その大きさは巨大な建物や壮麗な景観として現れているわけではなかった
それは、細い水路の水草の間に隠れていた
見落とそうと思えば、いくらでも見落とせる場所だった
けれど、そこには確かに、熊谷という土地が抱えてきた自然と人間の関係が凝縮されていた
私はムサシトミヨを見に来たつもりだった
けれど、そこで見えてきたのは、小魚そのものというより、人間が自然とどう関わってきたのかという問いだった
第1章
ムサシトミヨは、ただの小魚なのか

人間都合で冷たく考えれば、局所的な生息圏しか持たない小魚がこの世から消滅したところで、人間社会への影響は限定的なのかもしれない
明日も電車は動く
店は開く
学校も会社も続く
住宅地も道路も橋も、そのまま残る
ムサシトミヨがいなくなったとしても、多くの人の生活はすぐには変わらない
だからこそ、守ることに意味が出る
実利だけで考えれば、切り捨てられるものがある
効率だけで考えれば、後回しにされるものがある
多数決だけで考えれば、忘れられるものがある
それでも守るという行為は、人間が自分たちの都合だけで世界を測り切らないための証拠になる
ムサシトミヨは、ただ珍しい魚なのではない
人間が一度、奪いすぎたことに気づいた証拠なのかもしれない
このままでは消えてしまうものがある
自分たちの生活の外側に押し出してきたものが、もう戻れないところまで来ている
そう気づいた地点に、保護という行為が立ち上がる
だから、ムサシトミヨの生息地は、単なる自然保護の場所ではない
そこには、人間の過去の倫理が埋まっている
第2章
自然とは、人の手が入っていない場所なのか



元荒川の水路を見ていると、自然という言葉が簡単には使えなくなる
護岸がある
フェンスがある
看板がある
採捕禁止区域がある
人の生活排水が流れ込む場所もある
水草には、人間がかつて持ち込んだ外来由来のものもある
そこに、ムサシトミヨがいる
では、これは自然なのか
それとも、人間の手によって作られた自然なのか
人間は、自然と人工を分けたがる
本来の川
改修された川
清流
排水が混じる水路
在来種
外来種
天然記念物
人工護岸
そうやって分類したくなる
けれど、そこに生きる魚にとって、その分類はおそらく意味を持たない
ムサシトミヨにとって、そこが本来の自然か、人間の手が入った自然かを区別する術はない
水がある
流れがある
水草がある
隠れ場所がある
巣を作れる条件がある
そこで生きられるなら、そこが世界になる
自然とは、人間の手が一切入っていない場所のことなのだろうか
それとも、命が続いていける条件が残っている場所のことなのだろうか
元荒川の水路に立っていると、後者のように思えてくる
自然とは、起源の純粋さではなく、命が続く条件のことなのかもしれない
第3章
ムサシトミヨが巣を作るように、人間も街を作る

ムサシトミヨは、小鳥のように巣を作る魚だという
水草を集め、水の流れの中に、小さな生活の場を編む
魚なのに、ただ泳いでいるだけではない
水の中に、自分の場所を作る
このことを知ったとき、人間の街もまた、巣なのだと思った
ムサシトミヨが水草で巣を作るように、人間は木材や鉄やコンクリートで家を作る
道路を通し、橋を架け、配管を通し、電線を張り、街を作る
それは悪なのだろうか
私は、そうは思わない
人間もまた、生きるために巣を作る生き物だからだ
問題は、巣作りそのものではない
人間の巣作りが、あまりにも大きくなりすぎることだ
一匹の魚の巣は、水草の中に収まる
けれど、人間の巣は、川を埋め、山を削り、流れを変え、他の生命の条件を奪ってしまうことがある
そこで、渋谷川のことを思い出した
童謡、春の小川の舞台にもなった渋谷川は、現在では多くの区間が地下に埋められている
幼少期の私は、その事実を知ったとき、人間の残酷さに落胆し、涙した
小川を地下に押し込め、有毒ガスが発生するような川にしてしまった人間とは、なんと残酷なのだろうと思った
そのとき私は、人間が自然を殺したのだと思った。
けれど今は、その言葉だけでは足りないと思っている。
特定の誰かが悪いのではない
人間が文明を築き、そこで生活をする
その生活には、住まいが必要で、道が必要で、排水が必要で、衛生が必要で、都市を維持する仕組みが必要になる
それらは一つ一つ、人間が生きるための巣作りだった
ただ、その巣作りの圧力が、川の流れを押し込めた
自然が自然へ戻ろうとする圧力と、人間が文明を維持しようとする圧力が、同じ場所でぶつかった
そこに単純な善悪はない
あるのは、巣を作る生命同士の圧力であり、時の流れなのだと思う
第4章
自然から奪うことは悪ではない
自然から奪うことは悪ではない
人が生きるためには、自然の恵みが不可欠だからだ
食べること
住むこと
服を着ること
火を使うこと
道を作ること
水を使うこと
どれも自然からの取得を含んでいる
だから、自然から一切奪うなという倫理は、人間の生を否定してしまう
問題は、奪うか奪わないかではない
奪っていることを忘れるかどうか
必要以上に奪いすぎるかどうか
この二つだと思う
水は蛇口から出る
食べ物は店に並ぶ
道路は最初からそこにあるように見える
排水は流した瞬間に生活から消える
けれど、消えたのではない
見えない場所へ移動しただけだ
人間の生活は、自然から奪ったものと、見えない場所へ押し出したものの上に成り立っている
それを忘れたとき、奪うことは奪いすぎへと変わっていく
だから必要なのは、自然から奪わない純粋さではない
自然から奪っているという事実を忘れないこと
そして、必要以上に奪いすぎないこと
この二つなのだと思う
第5章
倫理とは、奪いすぎない地点を探し続けること
倫理とは、奪わないことではない
生きる以上、奪わないことは不可能だからだ
倫理とはむしろ、どこまで奪うことを許し、どこから奪いすぎと見なすか
その境界を引き受けることだと思う
ここを間違えると、治水ですら悪になってしまう
川をそのままにしておけば、自然に見えるかもしれない
しかし洪水が起きれば、人の命、家、畑、街の記憶が失われる
だから堤を作る
流路を整える
橋を架ける
護岸する
これは自然への介入であり、ある意味では自然からの奪取でもある
けれど、それをすべて悪にしてしまうと、人間の生活を守れない
逆に、治水の名のもとに川を完全な排水路にしてしまい、生き物の条件も、景観も、記憶も、すべて押し潰してしまえば、それは奪いすぎになる
だから必要なのは、自然崇拝でも人間中心主義でもない
拮抗点を探す倫理だ
倫理とは、奪わない純粋さではなく、奪わざるを得ない存在が、奪いすぎない地点を探し続ける態度である
奪いすぎたかどうかは、奪った量だけでは決まらない。
その変化から、命が戻ってこられるかどうかも重要である。
一時的に川が濁っても、流れと生息条件が残っていれば、回復する可能性はある。
だが、湧水が失われ、水路が埋められ、個体群が途絶えれば、後から反省しても同じ世界を戻せないことがある。
奪いすぎないとは、何も変えないことではない。
命が戻ってこられない地点まで、条件を閉じないことである。
荒川では、人間は水から街を守るために自然へ介入した
元荒川では、人間は自分たちが変えてしまった自然の中で、ムサシトミヨを守ろうとしている
治水も保護も、どちらも人間の手だ
同じ手が壊し、同じ手が守る
だから、その手を悪と呼ぶだけでは足りない
問題は、その手がどこまで伸びるのか
そして、どこで止まれるのか
第6章
欲は、その境界を揺さぶる
欲は、悪ではない
欲があるから、人間は家を建てる
便利にする
安全に暮らそうとする
豊かになろうとする
子どもに良い環境を残そうとする
欲は文明を作る力でもある
けれど同時に、欲は、奪うことと奪いすぎないことの拮抗点を揺さぶる
これくらいはいいだろう
生活のためだから仕方ない
自分一人くらいなら関係ない
昔からそうしている
どうせ小さな水路だろう
そうした小さな甘えが、境界を少しずつ動かしていく
最初は必要だったものが、いつの間にか快適さになる
快適さが、いつの間にか当然になる
当然が、いつの間にか権利のように感じられる
そして、その裏側で何を奪っているのかが見えなくなる
人間は、しばしば奪いすぎたあとで、初めて奪いすぎたことに気づく
ムサシトミヨの生息地が保護されているのは、ただの税金の無駄遣いなのではない
それは、人間が自然を奪いすぎたことに気づいた証拠なのかもしれない
保護とは、失われかけた自然を守る行為であると同時に、人間が自分の欲の境界を引き直す行為でもある
第7章
過去の倫理は、現在の観光資源にもなる
けれど、人間はそこで終わらない
ムサシトミヨの保護は、過去に人間が奪いすぎたことへ気づいた倫理の痕跡である
しかし同時に、その保護された場所は、看板が立ち、未来遺産になり、地域の学習資源になり、外から人が訪れる観光資源にもなる
そこには、少し矛盾がある
自然を守るためには、人を遠ざけなければならない
けれど、守る意味を伝えるためには、人に見せなければならない
静かに残したい
けれど、知られなければ守る理由が伝わらない
保護したい
けれど、保護にはお金も人手も制度も必要になる
だから、寄付や啓発や観光的導線が生まれる
純粋な保護だけでは続かない
人間社会の中で保護を続けるには、意味、予算、参加、記憶、教育が必要になる
過去の倫理の証拠は、現在の観光資源にもなる
人間は、その上に利権や地域ブランドや行政実績を載せることもある
それは綺麗ではないかもしれない
しかし、それを単純な悪とは呼べない
人間の倫理は、純粋なままでは長続きしない
社会の中で存続するためには、制度をまとい、金を必要とし、物語を必要とし、人を呼ぶ理由を必要とする
人間は、反省すら資源化する
それでも、資源化しなければ反省を維持できないこともある
その濁りまで含めて、人間なのだと思う
第8章
保護とは、揺れの管理である
ムサシトミヨが絶滅するとは、一種類の小魚が消えることだけではない。
それは、その魚が次の世代へ続いていく未来が閉じることでもある。
だから人間は守ろうとする。
しかし、守るためには知らせなければならない。
そして、知らせすぎれば、その場所は消費され、踏み荒らされ、悪意の対象にもなり得る。
保護とは、善意だけではない。
倫理だけでもない。
制度だけでもない。
そこには、何に価値を置き、何を守り、何を見捨てるかという人間の選別も含まれている。
どこまで知らせ、どこから隠すか。
どこまで見せ、どこから遠ざけるか。
どこまで価値化し、どこから消費化を止めるか。
保護とは、価値と知名度の高低差の狭間にある揺れを管理することなのかもしれない。
第9章
濁った水路の中で、それでも守ろうとする



元荒川の流れを追っていくと、ある地点から水は濁り出した
生活排水が流れ込む場所があり、護岸があり、人工物があり、川はどこまでも清らかな姿ではなかった
そこで、私は少し立ち止まった
自然は人の手によって壊されたのか
それとも、人の手が加わることで初めて時の流れに抗っているのか
たぶん、どちらか一方ではない
人間は自然を壊した
けれど、壊された自然は、もはや人間の手なしには残れないことがある
そこにあるのは、手つかずの自然ではない
かといって、人工物でもない
人間の傷と、人間の保護が、同じ水路の中で混ざっている
自然とは、純粋なものではなくなった
少なくとも、この場所ではそうだった
それは壊され、守られ、濁りながら、それでも命の条件をかろうじて残している
ムサシトミヨは、清らかな自然の象徴というより、濁った世界の中で、それでも生きられる条件を探す存在なのかもしれない
完全な環境などない
純粋な場所などない
それでも、条件が少しでも残っていれば、命はそこに巣を作ろうとする
終章
人間は濁ったまま、守ろうとする
ムサシトミヨを見に行ったつもりだった
けれど、実際に見たのは、小魚そのものではなく、その魚を成立させている条件だった
水草
流れ
護岸
排水
看板
保護
観光
寄付
制度
そして、人間の欲と倫理の揺れ
ムサシトミヨは、ただの希少魚ではなかった
それは、人間が自然から奪いすぎたことに気づいた証拠であり、その気づきすら観光資源や制度に変えてしまう、人間の濁りの鏡でもあった
けれど、その濁りを単純な悪とは呼べない
人間は自然を奪う
それなしには生きられない
人間は奪いすぎる
欲が境界を揺さぶるからだ
人間は奪いすぎたあとで、気づく
そして、壊した手で、もう一度支えようとする
その姿は純粋ではない
綺麗でもない
けれど、そこにこそ倫理があるのかもしれない
倫理とは、汚れないことではない
奪ったことを忘れず、奪いすぎたことに気づき、濁った手で、それでも守ろうとすることなのだと思う
ムサシトミヨのいる川は、小さかった
けれど、その小さな川には、人間が自然とどう生きるべきかという問いが流れていた
自然とは、起源の純粋さではなく、命が続く条件である
倫理とは、奪わないことではなく、奪いすぎない地点を探し続けることである
そして人間とは、壊しながら、守ろうとする生き物なのだと思う
補章
柵は、人間が引き直した境界である

川沿いに、柵があった。
その向こうには水が流れ、草が伸び、黄色い花が咲いていた。
一見すれば、ただの安全柵である。
人が川に落ちないため。
子どもが身を乗り出さないため。
通行人が不用意に水辺へ近づきすぎないため。
けれど、しばらく眺めていると、その柵は人間だけを守っているわけではないように見えてくる。
柵は、人間を川から守っている。
同時に、川辺の草花を人間から守っている。
人が踏み込まないから、草は伸びる。
人が歩き回らないから、花は咲く。
人間の身体を止めるために作られた境界が、結果として、植物の生きる余白を残している。
ここには、自然と人工の単純な対立はない。
柵は人工物である。
護岸も人工物である。
川の流れも、すでに人間の生活圏の中に組み込まれている。
それでも、その人工物のあいだで、草花は勝手に伸びている。
自然とは、人の手が入っていない場所だけを指すのではない。
命が続いていける条件が、まだ残されている場所でもある。
ムサシトミヨのいる川で考えたことも、そこにつながっている。
自然を完全に手つかずのまま残すことは、現代の都市や生活圏では難しい。
人間は川に近づく。
水を使う。
道を作る。
護岸する。
安全のために柵を立てる。
それは、自然から何かを奪うことでもある。
しかし、その手がすべて悪なのではない。
問題は、どこまで伸びるかである。
そして、どこで止まれるかである。
柵とは、その止まる場所を示すものなのかもしれない。
ここから先には踏み込まない。
ここから先は、見るだけにする。
ここから先は、川と草花の側に残す。
そういう人間側の抑制が、一本の柵として立っている。
自然は、人間の外側にあるだけではない。
人間が引いた境界の内側にも、自然は芽吹く。
人間が近づきすぎない場所に、命は続く。
だから柵は、自然を閉じ込めるものではない。
むしろ、自然を奪いすぎた人間が、もう一度境界を引き直すための装置である。
ムサシトミヨの保護区域も、川沿いの小さな柵も、根は同じところにある。
人間は自然を利用する。
人間は自然へ近づく。
人間は自然を変えてしまう。
けれど、変えてしまったあとでも、すべてを自分のものにしてよいわけではない。
どこかで止まる。
どこかで退く。
どこかで、こちら側と向こう側を分ける。
その境界を引き直すこと。
それが、濁ったまま自然を守ろうとする人間の倫理なのだと思う。
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