身体の奥が、意識を引っ張っている
副題
ネガティヴとは、心の弱さではなく、身体が世界を暗く翻訳した状態なのか
はじめに
金曜日の昼間から、喉に違和感があった。
痛いというほどではない。
けれど、いつもより喉の奥がざらついている。
少し乾いているような、何かが引っかかっているような、身体のどこかが小さく警報を鳴らしているような感覚だった。
その時点では、まだ大したことはないと思っていた。
熱もない。
身体が動かないわけでもない。
ただ、喉の奥に、ほんの少しだけ違和感がある。
土曜日、出かけようと思った。
せっかくの休みだし、少し外に出れば気分も変わるだろうと思って、駅前まで行った。
けれど、どうにも気分が乗らなかった。
何かを買いたいわけでもない。
どこかに行きたいわけでもない。
人混みの中にいるだけで、少し面倒になってくる。
結局、そのまま帰宅した。
そのとき私は、自分の気分が落ちているのだと思った。
今日はなんとなく前向きではない。
出かける気力がない。
人と関わる気分ではない。
そういう精神状態なのだと思っていた。
けれど、帰ってから少しずつ身体の方が騒がしくなってきた。
痰が絡む。
鼻水が出る。
頭が重い。
そのうち、頭痛までしてきた。
熱はない。
けれど、明らかに身体の奥がいつもと違う。
土日は、ほとんど横になっていた。
何かを考えようとしても、思考が深く進まない。
本を読む気にもならない。
文章を書く気にもならない。
外に出ようとも思わない。
ただ、横になっている。
月曜日は、なんとか仕事に行った。
動けないほどではない。
だから働いた。
けれど、帰宅してから頭痛がひどくなった。
身体が、もう外へ向かうなと言っているようだった。
火曜日と水曜日は、仕事を休んだ。
そこで、ふと思った。
これは本当に、私がネガティヴになったのだろうか。
それとも、身体の奥で起きている炎症が、意識を内側へ引き戻していただけなのだろうか。
第一章|気分が乗らない、の正体
私たちはよく、気分を心の問題として扱う。
気分が乗らない。
やる気が出ない。
人と会いたくない。
外に出たくない。
何も考えたくない。
そういう状態になると、つい自分の精神を疑う。
疲れているのか。
落ち込んでいるのか。
ネガティヴになったのか。
人生への意欲が落ちているのか。
けれど、今回のように後から痰や鼻水や頭痛が出てくると、少し見え方が変わる。
土曜日に駅前まで行って帰ったあの感覚。
あれは、単なる気分の問題だったのだろうか。
それとも、身体はすでに異常を察知していて、意識より先に外界への関心を下げていたのだろうか。
喉の違和感。
痰。
鼻水。
頭痛。
だるさ。
外出への抵抗。
人混みへの面倒くささ。
それらは別々の現象ではなく、身体がひとつの方向へ切り替わっていたサインだったのかもしれない。
呼吸器感染症では、喉の痛み、鼻水、咳、頭痛、疲労などが出ることがあり、風邪では鼻水・鼻づまり・咳・くしゃみ・喉の痛み・頭痛・軽い身体の痛みなどが見られるとされている。
熱がないからといって、身体が何も起こしていないとは限らない。
つまり、土曜日に「気分が乗らない」と思った時点で、身体の方ではすでに防衛反応が始まっていた可能性がある。
意識はそれを、まだ言葉にできない。
だから、こう翻訳する。
今日は気分が乗らない。
外に出たくない。
何もしたくない。
人と関わるのが面倒だ。
だが実際には、身体がこう言っていたのかもしれない。
今は外へ行くな。
内側を直せ。
余計な刺激を入れるな。
休め。
第二章|身体は、意識より先に知っている
意識は、自分が最初に判断していると思っている。
出かけるかどうか。
働けるかどうか。
人と会いたいかどうか。
文章を書けるかどうか。
けれど、身体は意識より先に多くのことを知っている。
喉の粘膜に違和感がある。
鼻の奥で分泌が増えている。
免疫が反応している。
筋肉が重い。
頭が痛い。
睡眠を要求している。
身体はそれらを、言葉ではなく感覚として意識に送ってくる。
なんとなく嫌だ。
今日は違う。
動きたくない。
外に出たくない。
考えがまとまらない。
世界が重い。
この「なんとなく」は、実はかなり重要なのだと思う。
なんとなく気が乗らない。
なんとなく人に会いたくない。
なんとなく出かける気がしない。
そういう曖昧な感覚の奥には、身体の具体的な変化がある場合がある。
炎症や感染時には、免疫系のシグナルが脳に影響し、倦怠感、眠気、食欲低下、無気力、苛立ちなど、いわゆる sickness behavior と呼ばれる反応を生むことがある。これは身体が活動を抑え、回復や防衛へ資源を回すための反応として理解されている。
だから、気分が落ちたのではない。
身体が、意識の向きを変えたのだ。
外へ向かっていた意識を、内側へ戻した。
人間関係へ向かっていた関心を、身体の修復へ戻した。
未来へ向かっていた思考を、今日一日をやり過ごすところまで縮めた。
その結果、意識はこう感じる。
何もしたくない。
気分が乗らない。
世界が重い。
けれどそれは、心が弱くなったのではない。
身体が優先順位を変えたのである。
第三章|ネガティヴになる前に、身体が燃えている
ネガティヴになるとは、心が暗くなることだと思われている。
けれど、今回のような流れを見ると、少し違う気がしてくる。
金曜日に喉の違和感がある。
土曜日に外出する気がなくなる。
痰と鼻水が増える。
頭痛がする。
土日は横になる。
月曜はなんとか仕事に行く。
帰宅後に頭痛が悪化する。
火曜と水曜は休む。
この流れを後から見れば、最初から身体は内側で戦っていた。
ただ、意識はそれをすぐには理解できなかった。
だから最初は、精神の問題として読んでしまった。
今日は気分が乗らない。
最近少し落ちているのかもしれない。
外に出る気力がない。
でも実際には、身体の奥で炎症が起きていて、その炎症が意識の明るさを下げていたのかもしれない。
このとき、世界が暗くなったのではない。
身体が暗い世界を生成していた。
人間関係が面倒になったのではない。
身体が人間関係に使うエネルギーを止めた。
未来が見えなくなったのではない。
身体が未来を考える余力を、修復へ回した。
つまり、ネガティヴになる前に、身体が燃えている。
炎症とは、身体が異常を見つけ、防衛と修復を集中させる反応である。感染だけでなく、身体の損傷や毒素などによっても炎症は起こる。
だから、ネガティヴな思考が出てきたとき、すぐにそれを人生観の問題にしてはいけない。
その前に問うべきことがある。
寝ているか。
食べているか。
喉は痛くないか。
鼻水は出ていないか。
頭痛はないか。
胃腸は荒れていないか。
筋肉は壊れていないか。
身体は炎症を起こしていないか。
この問いを飛ばして、いきなり「自分は落ち込んでいる」と決めつけると、身体の声を精神の失敗として処理してしまう。
第四章|無意識よりさらに内側が、意識を引っ張っている
心理学では、意識の下に無意識があると言う。
たしかに、過去の記憶、恐れ、欲望、癖、傷つき方は、意識を動かしている。
けれど、今回のような身体の不調を考えると、さらにその下がある。
喉。
鼻。
痰。
頭痛。
体温。
血流。
自律神経。
免疫。
炎症。
睡眠。
これらは、心理よりも古い。
言葉よりも古い。
意味よりも古い。
人間が悩む前から、身体は自分を守っていた。
人間が哲学する前から、身体は傷を塞いでいた。
人間が未来を考える前から、身体は感染細胞を処理していた。
だから、意識の下に無意識があるだけではない。
無意識のさらに内側に、生物としての維持装置がある。
そしてその維持装置が乱れると、意識の色が変わる。
世界が暗くなる。
人が遠くなる。
未来が重くなる。
自分が弱く見える。
でも本当は、意識が勝手に暗くなったのではない。
身体の奥が、意識を引っ張っている。
第五章|暗い結論を、すぐ真理にしない
火曜日と水曜日に仕事を休んだとき、たぶん意識はいろいろな解釈を始める。
自分は弱っているのか。
疲れているのか。
もう無理なのか。
仕事に行きたくないだけなのか。
生活が重いのか。
世界がしんどいのか。
けれど、そのとき出てきた結論は、身体状態を含んだ結論である。
頭痛がある状態で考えた未来。
鼻水と痰が出ている状態で考えた人間関係。
喉に違和感がある状態で考えた人生。
横になっているしかない状態で考えた自己評価。
それらは完全な嘘ではない。
けれど、そのまま真理にしてはいけない。
それは、炎症を含んだ意識が出した暫定解釈である。
暗い考えが出たとき、否定しなくていい。
ただ、少し待てばいい。
身体が戻るまで待つ。
炎症が下がるまで待つ。
眠れるまで待つ。
鼻と喉が落ち着くまで待つ。
頭痛が引くまで待つ。
それからもう一度、同じ問いを見る。
そのときまだ同じ結論なら、それは考える価値がある。
でも、身体が悪いときだけ出てくる結論なら、それは人生の答えではなく、身体の警報かもしれない。
ネガティヴになったのではない。
身体が、世界への開放性を閉じていた。
喉の違和感も、痰も、鼻水も、頭痛も、横になっていた土日も、仕事を休んだ火曜と水曜も、すべて別々の出来事ではなかった。
それらは、身体がひとつの方向へ意識を引っ張っていた記録だった。
外へ行くな。
人と関わるな。
考えすぎるな。
今は内側を直せ。
そう言っていたのだ。
意識はそれを、最初は「気分が乗らない」と翻訳した。
けれど本当は、身体の奥が先に知っていた。
世界が重いのではない。
身体が、重い世界を生成していた。
だから、暗い結論が出たときほど、少しだけ疑っていい。
それは本当に思想なのか。
それとも、身体の翻訳なのか。
意識は、自分で世界を見ているつもりでいる。
けれど時に、無意識よりさらに内側にある身体の維持装置が、意識の向きそのものを変えている。
そのとき人は、世界が暗くなったと思う。
だが実際には、身体が一時的に光を絞っているだけなのかもしれない。
余談
ひょっとすると、これは生存本能なのかもしれない
ふと、そんなことを考えた
今は冒険するな
狩りをするな
安全な場所に身を隠して大人しくしていろ
そんな身体からのメッセージのようにも思えた。
けれど、人は意志の力でそれを乗り越えられることを知っている。
火事場の馬鹿力とかもそれにあたるだろう。
安全な場所に身を隠そうとした生き物が、いつも安全な場所にたどり着けるとは限らない
体調が悪くても生きるために戦う場面もあるだろう。
それは窮鼠猫を噛むのような、生きるための本能なのだとしたら、
本来なら非常時にだけ発動するはずの「生き延びるための集中」を、現代人は日常の中で使い続けているのかもしれない。
だとすれば、疲れているのに動けてしまうことは、健康の証明ではなく、危機対応が常態化しているサインでもある。
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