死に場所としての腕
副題
人は、自分の腕の中では死ねない
はじめに
夢の中で、旧実家の和室にいた。
そこには昔飼っていた犬と猫がいた。
現在では犬も猫も火葬して実家で管理している墓地で眠っている。
犬は少し遠くにいた。
こちらへ来るでもなく、消えるでもなく、少し離れた場所から、ただこちらを見ていた。
その表情はどこか貫禄があり、鋭いものがあった。
けれど猫は違った。
猫はこちらに近づいてきた。
毛繕いをしていないのか、猫らしいしなやかさは薄れていた。
猫というより、どこかモグラのようだった。
光の上にいるのに、半分はもう土の中へ戻りかけているような姿だった。
私はその猫を見て言った。
「お前まだ生きてたんか。」
すると猫は、私の腕の中に潜り込んできた。
そして人の言葉で言った。
「間に合って良かった。」
「うまく死ねるかな。」
そして、私の腕の中で最後の力を使ってしまったかのように
はぁ…はぁ…
と荒い呼吸をしだして
今にも息絶えようとしていた。
私はひとつも怖くなかった。
猫が人語を話すことも、死を口にすることも、旧自宅にいることも、不思議ではあったが、恐怖ではなかった。
ただ、
そうか、この猫は死に場所を探して私の腕の中に来たのだと思った。
私は言った。
「俺の腕の中で死ね。」
それは、死ぬな、ではなかった。
助けてやる、でもなかった。
ここで終われ、という言葉だった。
その夢から覚めてから、しばらく考えているうちに、ひとつの問いが残った。
人は、うまく死ねるのだろうか。
そして、もうひとつ気づいた。
人は、自分の腕の中では死ねないことに
第一章
知らない猫なら怪談だった
夢から覚めた私は夢で体験したことを頭の中で整理していた。
もしこれが、知らない猫だったなら、私は恐怖を感じていたかもしれない。
旧実家に、見知らぬ猫がいる。
その猫が人の言葉で、
間に合って良かった。
うまく死ねるかな。
そう言いながら近づいてくる。
しかも、その姿は猫というよりモグラのように崩れている。
これは、ほとんど怪談である。
死にかけた猫というより、猫の形を借りた何かに見えただろう。
なぜここにいるのか。
なぜ私に話しかけるのか。
なぜ死に場所を求めるのか。
そう考えた瞬間、夢は看取りではなく、怪異になる。
けれど、あの猫は私の家の猫だった。
だから不気味さは、恐怖ではなく帰還に変わった。
知らない猫なら侵入者。
自分の家の猫なら帰還者。
知らない猫なら怪異。
自分の家の猫なら記憶。
知らない猫なら死の予告。
自分の家の猫なら看取りの依頼。
同じ現象でも、関係があるかないかで意味が変わる。
人語で死を語る猫という異様さは、たしかにあった。
だが、その異様さは、関係の中に置かれることで、別の意味を持った。
怖くなかったのは、死が怖くなかったからではない。
猫が不気味でなかったからでもない。
その猫が、関係の中の存在だったからだ。
関係は、不気味なものを、帰ってきたものに変える。
第二章
夢は不気味なものですら自分の物語に変える
ただし、ここで少し疑っておく必要がある。
夢は、ときどき都合がいい。
夢の中では、明らかにおかしなことが自然に進む。
死んだはずの存在が出てくる。
知らない場所なのに実家だとわかる。
人ではないものが人語を話す。
現実なら恐怖を感じるはずの場面で、なぜか納得している。
これは、夢が不気味なものを、自分が受け取れる物語へ変換しているからかもしれない。
本来なら、これはただの死の気配だったのかもしれない。
何かが近づいてくる。
それは人ではない。
動物でもない。
よくわからない影のようなものが、死を持ってこちらへ来る。
それでは強すぎる。
あまりにも意味がむき出しになる。
だから夢は、それを猫にした。
しかも知らない猫ではなく、旧実家で飼っていた猫にした。
旧実家という記憶の場所に置き、犬を遠くに配置し、完全な孤独でも完全な恐怖でもない空気を作った。
そして最後に、腕の中で終われる構図にした。
夢のご都合主義とは、単に願望を叶えることではないのかもしれない。
本来なら不気味なものを、自分が愛せる形に変形してしまうこと。
恐怖を看取りに変えること。
異物を関係に変えること。
それは救いでもある。
けれど同時に、危うさもある。
なぜなら、夢は理解できないものまで、自分の物語の中へ回収してしまうからだ。
不気味なものを、不気味なまま残さない。
他者を、他者のまま置いておかない。
死の気配を、私の猫の物語にしてしまう。
だから、この夢をただ美しい看取りの夢として読むだけでは足りない。
そこには、夢が異物を私の物語に変換する働きがある。
夢は優しい。
けれど、その優しさの中には、理解できないものを理解できる形へ変えてしまう暴力もある。
第三章
うまく死ねるかな、は自分の声だったのかもしれない
猫は言った。
うまく死ねるかな。
最初は、それを猫の言葉として聞いていた。
死にかけた猫が、私のところへ来て、うまく死ねるかを私に尋ねた。
だから私は、俺の腕の中で死ね、と答えた。
けれど、よく考えると、その声は猫の声を借りた自分の声だったのかもしれない。
俺は、うまく死ねるのだろうか。
この問いを、自分が直接口にしたら重すぎる。
夢の中で、自分自身が、
俺はうまく死ねるかな。
そう言ってしまえば、あまりにも現実に近づきすぎる。
だから夢は、猫に言わせた。
猫なら抱ける。
猫なら腕の中に置ける。
猫なら、ここで死ねと言える。
つまり夢は、自分の中にある死への問いを、猫という形に外部化した。
そのおかげで、私は死にゆく側ではなく、看取る側に立つことができた。
ここが重要なのだと思う。
夢の中で、完全に死にゆく側へ同一化してしまえば、帰ってこられない。
だが、看取る側に立てば、まだ生きている側に戻れる。
死を考える。
けれど、死そのものにはならない。
死にゆくものを抱く。
けれど、自分が死ぬのではない。
猫は自分であり、他者でもある。
だから抱ける。
だから見送れる。
だから現実へ戻ってこられる。
この夢の中で、猫は私を親にした。
しかし、それだけではなかった。
猫は、私の中の、うまく死ねるかな、と問う部分でもあった。
私はその猫を抱くことで、自分では抱けない自分を抱こうとしていたのかもしれない。
第四章
自分は、自分の腕の中では死ねない
ここで、ひとつの事実にぶつかる。
人は、自分の腕の中では死ねない。
自分の手で自分の肩を抱くことはできる。
胸に手を当てることもできる。
寒いときに身体を丸め、自分を守るような姿勢を取ることもできる。
けれど、自分を他者のようには抱けない。
自分の死に際に、自分の腕を死に場所にすることはできない。
自分の腕は、自分の身体の一部だからだ。
自分は自分を慰めることはできる。
自分を励ますこともできる。
自分の孤独をある程度までは引き受けることもできる。
だが、自分の死を自分で看取ることはできない。
死の最後の一線を越えた瞬間、自分はそれを確認できない。
死んだ自分を見るのは、他者である。
死んだ自分の身体を運ぶのも、他者である。
死んだ自分の名前を記録するのも、他者である。
死んだ自分の不在を引き受けるのも、他者である。
だから、死は自分のものでありながら、最後には他者へ渡る。
ここに、人間の死の根本的な他者性がある。
生きることは、ある程度一人でできる。
一人で食べることができる。
一人で眠ることができる。
一人で働くことも、一人で考えることも、一人で歩くこともできる。
だが、死は一人では閉じられない。
自分は、自分の腕の中では死ねない。
だから、人は最後の最後で、他者を必要とする。
第五章
孤独死にも他者性はついてくる
人は孤独死を恐れている。
それは、意識的であれ、無意識的であれ、多くの人の中にある恐怖だと思う。
誰にも見つけられずに死ぬこと。
誰にも看取られずに死ぬこと。
誰の声もなく、誰の手もなく、ただ一人で終わること。
けれど、現代社会において、孤独死は完全な無他者ではない。
死の瞬間は一人かもしれない。
しかし、死後は一人ではいられない。
なぜなら、人間は死んでも身体を残すからだ。
身体は場所を占める。
匂いを発する。
腐敗する。
誰かの生活圏に影響する。
契約、賃貸、戸籍、保険、相続、火葬、届け出。
死んだあとも、身体は社会の中で処理される。
アパートの大家が来る。
警察が来る。
医者が死亡を確認する。
葬儀屋が運ぶ。
役場が記録する。
場合によっては、特殊清掃が入る。
つまり、人間の死は、たとえ孤独死であっても、完全に一人では完結しない。
必ず誰かの手に渡る。
ここで大事なのは、孤独死にも他者性があるということだ。
ただし、その他者性は、看取りではなく処理になることがある。
ここに、孤独死の本当の怖さがある。
孤独死が怖いのは、死後に誰も来ないからではない。
むしろ、誰かは来る。
だが、その誰かが、自分の死を関係としてではなく、案件として受け取るかもしれない。
名前は確認される。
住所も確認される。
死亡時刻も推定される。
書類も作られる。
遺体も運ばれる。
火葬もされる。
だが、そこに、
お前まだ生きてたんか。
そう呼ぶ声はないかもしれない。
俺の腕の中で死ね。
そう言う場所はないかもしれない。
孤独死の恐怖とは、完全な無他者の恐怖ではない。
自分の死が、関係として受け取られず、処理として回収される恐怖なのだと思う。
第六章
制度は身体を回収できるが、腕は存在を受け取る
制度的な他者は必要である。
大家、警察、医者、葬儀屋、役場。
そこに関わる人たちは、それぞれ必要な仕事をしている。
死者の身体を放置しない。
死亡を確認する。
記録する。
運ぶ。
火葬する。
残された手続きを進める。
それは冷たいようでいて、社会が死者を完全に見捨てないための仕組みでもある。
だから、制度を軽く見てはいけない。
誰も愛していなくても、社会は死体を放置しない。
誰も泣かなくても、誰かが確認する。
誰も看取らなくても、誰かが記録する。
人間は、関係から落ちても、制度に拾われる。
これは大事なことだ。
けれど、人は制度に拾われるだけでは足りない。
なぜなら、制度は身体を回収できても、存在を受け取ることはできないからだ。
制度は死を処理する。
腕は死を孤独にしない。
制度は名前を記録する。
腕は、お前と呼ぶ。
制度は身体を運ぶ。
腕は、崩れた姿を抱く。
制度は死を社会的に完了させる。
腕は、死を関係の中で受け取る。
この差は大きい。
人が求めているのは、単に死後に処理されることではない。
自分の死が、誰かの作業になることだけでは足りない。
自分の最後が、誰かの腕に渡ること。
少なくとも、誰かの記憶や言葉や関係の中に渡ること。
そこに、人はどこかで救いを見ている。
だから人は孤独死を恐れる。
死ぬことそのものだけではない。
自分の最後が、誰かの腕ではなく、誰かの業務になることを恐れている。
第七章
死に場所とは、最後に自分を渡せる関係である
夢の猫は、死後に処理されることを求めていたのではない。
猫は、死ぬ前に来た。
まだ生きているうちに、私のところへ来た。
そして言った。
間に合って良かった。
うまく死ねるかな。
この、間に合って良かった、は重要だ。
死後処理に間に合ったのではない。
火葬に間に合ったのでもない。
発見に間に合ったのでもない。
まだ生きているうちに、関係の中へ戻ることに間に合った。
まだ猫として呼ばれることに間に合った。
まだ腕の中へ渡ることに間に合った。
うまく死ぬとは、苦しまずに死ぬことだけではない。
迷惑をかけずに死ぬことでもない。
静かに消えることでもない。
きれいな姿で終わることでもない。
うまく死ぬとは、自分の死を、ちゃんと誰かに渡せることなのかもしれない。
死に場所とは、土地ではない。
住所ではない。
建物でもない。
病院でも、家でも、布団でも、墓でもない。
死に場所とは、最後に崩れた自分を置ける関係である。
そして腕は、その最小単位である。
腕は家より小さい。
部屋より小さい。
布団より小さい。
墓より小さい。
けれど、ひとつの命が終わるには十分な広さがある。
腕は、死を止める場所ではない。
死を消す場所でもない。
死を延期する場所でもない。
腕は、死を孤独にしないための場所である。
おわりに
夢の中の猫は、これから死のうとしていた。
それなのに、どこか嬉しそうだった。
なぜか。
たぶん、見つけてもらえたからだ。
まだ生きているうちに、呼ばれたからだ。
崩れた姿のまま戻ってきてもよかったからだ。
そして、死に場所としての腕を得られたからだ。
猫は、私に助けを求めたのではない。
最後にここへ戻ってもいいか、と聞きに来た。
そして私は答えた。
俺の腕の中で死ね。
それは、死を許した言葉ではない。
孤独にしないという言葉だった。
人は、自分の腕の中では死ねない。
自分の死は、自分だけでは完結しない。
死は必ず、他者へ渡る。
それが家族であることもある。
友人であることもある。
恋人であることもある。
医者であることもある。
警察であることもある。
葬儀屋であることもある。
役場の担当者であることもある。
人間の死には、必ず他者性がついてくる。
問題は、その他者性が、処理として現れるのか、関係として現れるのかである。
もちろん、制度的な処理も必要だ。
人間は社会の中で死ぬ。
だから、死後の手続きから完全には逃れられない。
けれど、それだけでは足りない。
人は、最後の最後で、誰かの腕を求める。
それは物理的な腕とは限らない。
名前を呼ぶ声かもしれない。
記憶かもしれない。
言葉かもしれない。
祈りかもしれない。
ただ、そこには必ず、自分ではない誰かがいる。
うまく死ねるかな。
その問いは、こう言い換えられる。
私の死は、ちゃんと誰かに渡れるだろうか。
俺の腕の中で死ね。
その返答は、こう言い換えられる。
お前の死を、処理ではなく関係として受け取る。
夢の中の猫は、たぶんそれを知っていた。
だから、これから死ぬのに、嬉しそうだった。
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