弔いとしての越境
副題
禁忌に触れながら
禁忌が守っているものを壊さないために
はじめに
禁忌はなぜ存在するのか
禁忌とは
ただの禁止ではない
やってはいけないこと
考えてはいけないこと
触れてはいけないこと
そう言ってしまえば簡単だが
禁忌の本質は
もう少し深いところにある
禁忌とは
共同体の信が壊れる地点に置かれる境界である
人間を食べてはならない
人間を殺してはならない
死者を冒涜してはならない
子どもを対象化してはならない
人間を製品として作ってはならない
これらは
単に気味が悪いから禁じられているのではない
それを許してしまうと
人間が人間をどう見るか
共同体が人間をどう扱うか
その根本の信が壊れてしまうからである
人間は肉体である
しかし
肉として扱ってはならない
人間は死ぬ
しかし
死んだあとにただの物として扱ってはならない
人間は遺伝情報を持つ
しかし
用途に応じて複製される製品として扱ってはならない
この線を守るために
禁忌はある
けれど
禁忌はいつも単純ではない
触れてはならないものに
触れなければならない瞬間がある
死者に近づきたいとき
会えなかった人を思うとき
失われた光景を
一枚だけでも見たいと願うとき
そこには
禁忌に触れているのに
禁忌が守っているものを壊していない行為がある
それを私は
弔いとしての越境と呼びたい
第一章
禁忌とは共同体の信を守る境界である
禁忌を
共同体を破壊するものとして考えると
少し粗くなる
正確には
禁忌が破壊するのは共同体そのものではない
共同体の信である
共同体は
形としては残る
家族は残る
職場は残る
国家は残る
制度は残る
建物も
名簿も
肩書きも残る
けれど
信が壊れた共同体は
もう共に生きる場所ではなくなる
ただ同じ空間にいるだけの集合になる
ここでいう信とは
単なる信用ではない
この人は
自分を食料として見ない
この人は
自分を物として扱わない
この人は
自分が死んだあとにも
最低限の礼を払う
この人は
子どもを守るべき存在として扱う
この人は
弱っている人間を利用し尽くさない
この人は
死者を勝手に喋らせて
都合よく利用しない
こういう
明文化される前の前提である
私たちは
その前提の上で眠る
その前提の上で背中を向ける
その前提の上で家族を預ける
その前提の上で死者を弔う
だから禁忌は
制度以前の境界である
法律よりも深い場所にある
法律は
破られたあとに処理する
禁忌は
破られる前に
人間の見方そのものを止める
食人が禁忌なのは
人間が人間を食べられないからではない
むしろ逆である
人間は人間を食べられてしまう
身体としては可能である
だからこそ
人間を肉として見ない信が必要になる
死体冒涜が禁忌なのも
死者が抗議できないからだけではない
自分も死後に人間として扱われるという信が
壊れてしまうからである
クローン人間が禁忌に触れるのも
技術そのものが悪だからではない
人間は用途のために製造されるものではないという信を
壊す危険があるからである
禁忌とは
人間が人間を人間として扱うために
共同体の底に置いた
見えない境界なのだと思う
第二章
禁忌は問いにした瞬間に危うくなる
哲学は問う
なぜ悪いのか
なぜ禁じられるのか
どこまで許されるのか
何を根拠に線を引くのか
これは哲学の大切な働きである
けれど禁忌には
哲学が問いとして扱うだけで
すでに危うくなる領域がある
なぜ人を食べてはいけないのか
この問いは
哲学的には可能である
しかし
この問いを現実の制度設計として扱い始めると
人間を肉として見る視線が発生する
その時点で
禁忌が守っていた信が薄くなる
なぜ死者をAIで喋らせてはいけないのか
この問いも
哲学的には可能である
しかし
死者をどう使えるか
どこまで再現できるか
誰が権利を持つか
どう商品化できるか
そういう方向へ進むと
死者は弔いの対象ではなく
素材になってしまう
禁忌とは
答えがない問いではない
問いにした瞬間
守っていた境界が露出してしまう問いである
だから禁忌は
哲学が壊れる地点にあるのかもしれない
正確には
哲学が問いを立てた瞬間
共同体の信がむき出しになる地点にある
そこでは
ただ合理的に考えればよいわけではない
ただ便利だから進めればよいわけでもない
ただ感情的に拒否すればよいわけでもない
必要なのは
問いを立てながらも
問いによって壊してはならないものを見失わないこと
つまり
禁忌をただ破るのでもなく
禁忌をただ崇拝するのでもなく
禁忌が何を守っているのかを
見極めることである
第三章
死者のデータはただの情報なのか
昔
死者は墓に残った
仏壇に残った
遺品に残った
写真に残った
手紙に残った
土地に残った
家族の語りに残った
けれど今は
そこに電子の海が加わっている
スマホの写真
LINEの履歴
SNSの投稿
動画
音声
検索履歴
クラウドに残ったデータ
未送信の下書き
AIに学習させられた声や文体
死者はもう話さない
けれど
データは残っている
ここに
現代の不気味さがある
墓や遺品は
基本的には沈黙している
写真も手紙も
こちらが読むだけである
しかし電子データは
検索できる
複製できる
編集できる
合成できる
そしてAIによって
死者がまだ話しているように
見せることもできる
ここで禁忌が発生する
問題は
死者のデータが残ること自体ではない
人間は昔から
死者の痕跡とともに生きてきた
問題は
死者の痕跡を使って
死者を再稼働させることである
死者の声を合成して喋らせる
死者の人格をAIで再現する
死者の未発表データを勝手に公開する
死者の文体で新しい発言を作る
死者の名前を使って誰かを動かす
ここから先は
弔いではなく
死者の再利用になる危険がある
死者は拒否できない
訂正できない
沈黙を選べない
自分の像が変形されても
抗議できない
だから
死者のデータは
ただの情報ではない
本人そのものではない
しかし
本人と無関係でもない
物でありながら
人の輪郭を持っている
情報でありながら
弔いの対象になる
記録でありながら
再演の素材にもなってしまう
この中間性が
現代の禁忌を生む
第四章
許される禁忌はあるのか
禁忌に触れることは
基本的には危うい
けれど
すべての越境が同じではない
禁忌には
壊すために越える越境と
弔うために触れる越境がある
死者を商品化すること
死者に勝手な思想を語らせること
死者の名前で他者を操作すること
死者のデータを素材として消費すること
これは
禁忌が守っているものを壊す
死者を人間として扱わず
利用可能な対象にしてしまうからである
しかし
会えなかった人を思うために
一枚の写真を作ることはどうだろうか
亡くなった娘と
その後に生まれた孫
本来なら会えなかった二人を
ひとつの画面の中でだけ会わせる
そこには
たしかに禁忌への接触がある
死者の姿をAIで作っている
現実には存在しなかった光景を
画像として生成している
それは
厳密には虚構である
けれど
その虚構は
人を騙すためのものではない
死者を商品にするためでもない
死者に何かを喋らせるためでもない
家族の中にあった
会わせたかったという悲しみに
一枚の器を与えるためのものである
そこから伝わってくるのは
技術の面白さではない
AIでこんなことができるという驚きでもない
死者を蘇らせたいという傲慢さでもない
ただ
会わせたかった
抱かせたかった
見せたかった
一枚でいいから
こういう光景が欲しかった
その深い悲しみだけである
だから
こう言えるのだと思う
禁忌に触れてはいる
でも
禁忌が守っているものを壊していない
むしろ
禁忌が本来守ろうとしていたもの
死者の尊厳
家族の記憶
会えなかった者への思い
失われた時間への礼節
それらを
別の形で守ろうとしている
ここに
許される禁忌の輪郭がある
いや
許される禁忌という言い方は
少し雑かもしれない
正確には
弔いとしての越境である
第五章
弔いとしての越境とは何か
弔いとしての越境とは
対象を利用するためではなく
対象に近づくために
禁忌の輪郭へ触れる行為である
ここで大事なのは
越境の方向である
死者を再利用する越境は
死者をこちら側へ引きずり戻す
弔いとしての越境は
死者のいる遠さへ
生者が一歩近づこうとする
前者は
死者を動かそうとする
後者は
生者が沈黙して近づこうとする
前者は
死者を素材にする
後者は
死者の痕跡に触れながら
その奥に人格の輪郭を見る
前者は
死者に喋らせる
後者は
死者の前で黙る
ここに
大きな違いがある
弔いとは
死者を忘れないことでもある
しかし
死者を生者の都合で拘束し続けないことでもある
だから弔いには
距離がいる
近づきたい
でも
連れ戻してはいけない
見たい
でも
使ってはいけない
触れたい
でも
所有してはいけない
この矛盾の中で
境界のぎりぎりに立つ行為
それが
弔いとしての越境である
定義するなら
こうなる
弔いとしての越境とは
失われた対象を
利用
再稼働
所有するためではなく
その不在を抱えるために
禁忌の輪郭へ礼節をもって近づく行為である
越境ではある
だが
侵入ではない
接近ではある
だが
所有ではない
虚構ではある
だが
欺瞞ではない
そこにあるのは
死者を動かしたい欲望ではない
会えなかったという現実を
少しだけ抱えられる形にしたい悲しみである
第六章
虚構には二種類ある
虚構には
人を騙す虚構と
人を弔う虚構がある
人を騙す虚構は
現実を歪める
なかったことを
あったことにする
責任を隠す
利益を得る
人を操作する
誰かを利用する
これは
危険な虚構である
しかし
人を弔う虚構は
現実をなかったことにはしない
むしろ
現実が残酷すぎることを認めたうえで
その残酷さを抱えられる形に少しだけ変える
亡くなった人は戻らない
会えなかった人は
現実には会えなかった
失われた時間は
取り戻せない
その事実は
変わらない
けれど
一枚の画像の中でだけ
会えなかった二人を近づける
それは
現実の改ざんではない
喪失への接近である
本来なら存在しなかった写真
でも
本来なら存在してほしかった写真
そこには
嘘とは違う何かがある
人は
事実だけでは弔えないことがある
事実は重要である
しかし
事実だけでは
悲しみの置き場所が見つからないことがある
だから人間は
花を供える
墓を作る
遺影を飾る
位牌を置く
手を合わせる
亡くなった人に
心の中で話しかける
どれも
厳密に言えば
死者がそこに戻ってくるわけではない
それでも
人間はそうする
なぜなら
弔いとは
死者のためであると同時に
生者が死者との距離を取り直すための形式だからである
AIによる死者の画像も
この弔いの形式に入る場合がある
もちろん
何でも許されるわけではない
だからこそ
礼節がいる
第七章
越境には礼節が必要である
弔いとしての越境は
危うい
だから
無条件に肯定してはいけない
死者の画像を作れば
すべて弔いになるわけではない
死者の声を再現すれば
すべて救いになるわけではない
死者の文体をまねれば
すべて継承になるわけではない
そこには
いくつかの線が必要である
死者を喋らせすぎないこと
死者に
生前とは無関係な思想を語らせないこと
死者を商品にしないこと
死者を笑いものにしないこと
死者の尊厳を壊さないこと
遺族の悲しみを搾取しないこと
死者の不在を
なかったことにしないこと
生者の都合だけで
死者の姿を変形しすぎないこと
そして何より
これは現実ではなく
弔いのための虚構であると
どこかで理解していること
この理解が消えると
弔いは依存になる
依存が深まると
死者を手放せなくなる
死者を手放せなくなると
死者は生者の世界に固定される
それは
弔いではなく拘束である
弔いは
死者を消すことではない
しかし
死者を生者の都合で
動かし続けることでもない
弔いとは
忘れないことと
連れ戻さないことのあいだにある
だから
弔いとしての越境には
静けさが必要である
技術でできるから
やるのではない
見たいから
作るのでもない
悲しみが深すぎて
その不在に一度だけ近づくために
慎重に作る
それは
禁忌を破壊する行為ではない
禁忌の前に立ち
そこに花を置く行為である
第八章
禁忌が守っているものを壊さないこと
禁忌は
冷たい禁止ではない
禁忌は
人間が人間を物として扱わないためにある
死者を素材にしないためにある
子どもを対象化しないためにある
弱者を利用し尽くさないためにある
共同体の信を守るためにある
だから
禁忌に触れることが
常に悪なのではない
問題は
禁忌が守っているものを壊しているかどうかである
食人は
人間を肉に戻す
だから禁忌である
死体冒涜は
死者を物に戻す
だから禁忌である
クローン人間の製造は
人間を用途物にする危険がある
だから禁忌に触れる
死者のAI再現は
死者を再利用する危険がある
だから禁忌に触れる
しかし
禁忌に触れていても
禁忌が守っているものを壊していない場合がある
会えなかった家族を
一枚の画像の中でだけ会わせること
それが
死者の尊厳を傷つけず
誰かを欺かず
商品化せず
生者の悲しみを静かに受け止めるためなら
それは
禁忌の破壊ではない
弔いとしての越境である
ここで大切なのは
禁忌をなくすことではない
むしろ逆である
禁忌があるからこそ
その越境が慎重になる
禁忌があるからこそ
そこに礼節が必要だとわかる
禁忌があるからこそ
これは遊びではないとわかる
禁忌があるからこそ
深い悲しみだけが伝わってくる
禁忌は
越境を禁じるだけではない
越境するなら
何を壊してはならないかを教える
その意味で
禁忌は
弔いの敵ではない
弔いを踏み荒らさないための
境界でもある
終章
弔うために境界へ近づく
人間は
失われたものに近づきたくなる
もう一度
声を聞きたい
もう一度
顔を見たい
もう一度
抱かせたかった
もう一度
会わせたかった
その願いは
とても危うい
なぜなら
その願いは
死者をこちら側へ引き戻そうとする力にもなるからである
けれど
その願いをすべて否定することもできない
人間は
失われたものに手を伸ばす存在である
その手を
どこまで伸ばしてよいのか
どこから先は
死者を利用することになるのか
どこまでなら
弔いとして許されるのか
この問いに
簡単な答えはない
ただ
一つだけ言えることがある
禁忌に触れてはいる
でも
禁忌が守っているものを壊していない
そして
深い悲しみだけが伝わってくる
そのような越境がある
それは
禁忌を破ることではない
禁忌の輪郭に
礼節をもって近づくことである
弔いとしての越境とは
死者を使うことではない
死者を動かすことでもない
死者を生者の都合へ戻すことでもない
それは
会えなかったという現実
失われた時間
叶わなかった光景
それらに
一度だけ近づくための形式である
死者は戻らない
その事実は変わらない
しかし
戻らないからこそ
人間は弔う
触れられないからこそ
花を置く
会えなかったからこそ
一枚の虚構に祈りを込める
弔いとは
不在を消すことではない
不在の前で
どう立つかを学ぶことである
そして
弔いとしての越境とは
その不在に近づくために
禁忌の境界へ
静かに手を伸ばす行為なのだと思う
最終命題
弔いとは、不在を消すことではない。
不在の前で、どう立つかを学ぶことである。
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