おひとりさまの老後|介護するとき 介護されるとき|主演女優賞
施設での生活をしている伯母は95歳になった。
2年前、大腿骨骨折で救急車で運ばれ、それ以来、自宅に戻っていない。
認知の低下がすすみ、我慢ができなくなったのか、「帰りたい」と口にするようになったのは、今年のはじめのこと。
「今は寒いから、春になったらね」
と約束した。
3月になると
「家に行きたい。許してくれる?」
と懇願され、わたしは言葉を失った。
彼女の願いを叶えられないという罪悪感を、わたしはずっと抱えている。
彼女は、そんな約束も忘れたのか、あきらめたのか、「帰りたい」と言ってこなくなった。
「食べたいものがひとつあって…」
と切り出された願い。
「お弁当屋さんのうなぎ。まるまる1匹長いのがはいっているやつ」
「お寿司が食べたい」
と言われたときは、外に連れ出すことしか考えが浮かばず、叶えてあげることができなかったけれど、差し入れという方法なら今の彼女の願いを叶えてあげられるかもしれない。
それにしても、「まるまる1匹」とは食いしん坊さんならでは、だ。
以前、「バナナが小さい」と不満げだったので、切り身ではなく、できるだけ1匹に近いものを探そうと思った。
食べきれないのは、わかっている。
それでも、大きなうなぎを見せてあげたかった。
来月になれば、土用の丑の日も来る。
そのタイミングにしようかとも思ったけれど、いつ何があるかわからない。
すぐに段取りをしなければ、わたしの後悔の種が増えてしまうと思い、早速、施設に相談した。
持ち込みをした翌週のこと。
施設から、吞み込みが悪くなってきたので、とろみ剤を導入すると連絡が入る。
うなぎの差し入れを早めに段取りしててよかったなと、しみじみ思った。
願いを叶えてあげられないという自責の念から、わたしが解放された瞬間だった。
そして、感動屋さんの彼女のことだから、今度の面会でどんな風に喜びを伝えてくれるのか、とても楽しみにしていた。
うれし涙のひとつも見せてくれるかもしれない。
わたしの中では、いつだって主演女優賞候補なのだ。
面会は、施設から連絡のあった週末だ。
ところが、面会にいくと、
「手に力がはいらなくなった。ここ1週間で、がくんと弱ってきた。脳外科に即入院しないといけないかもしれない。先は長くない」
と言う。
1年前に、関東から甥っ子が面会にきたときは、
「あら、来たのね。まだ早いよ」
と言って、笑顔でみなを笑わせたけれど、すっかり気弱になっている。
手を握って、そのぬくもりと握力の弱さを感じた。
それでも、ちゃんと握り返してくれる。
「あたまが冴えているひとは、脳外科にはいけないよ」
と、笑って言ってみたら、
「算数テストは100点で、誰よりも早い」
という自慢話がまたはじまった。
確かに歩行器を使って歩く歩幅も狭く、歩きかたもおぼつかない。
目の前にあった時計にも気づかないほど、視界も悪いのだろう。
わたしを見たときの認識の遅さは、わたしをさみしい気持ちにさせる。
けれど、彼女の言葉にいちいち動揺するほど、わたしもやわじゃなくなってきた。
それよりも、もっと嬉しい報告があるんじゃないかと、そわそわして待つけれど、なかなか本人から、うなぎの話題がでない。
喜びの声を聞きたい。
我慢できなくなって、こちらからうなぎの話をふってみたら、
「は?食べてないよ」
と真顔で驚いている。
その驚きっぷりに、こちらが驚いた。
いやいや、差し入れしたよ。長いやつ。ボケた?
それとも、細かく刻まれて、姿がわからなくなった?
ウキウキして、感想を待っていたのだけれど、物足りない結末となった。
あとから、施設の方に事情を聞くと、うなぎは大きかったので、複数回にわけて、食べさせたという。
「『うなぎですよ』といってだしたら、『うなぎ~』といっていたけれど…」
とのこと。
その「うなぎ」って言葉に、どんな気持ちがのっていたのかまでは、わからなかった。
小さくほぐされて、うなぎに見えず「ホントにうなぎ?」って疑問形だったのかもしれないし、食べられるという感動だったのかもしれない。
知る由もない。
まるまる1匹の大きな姿は、見れなかったかもしれないけれど、ほら、ちゃんと食べてるじゃないかと笑える。
しかも、「うなぎ」って言葉を発しているから、自分でも認識したはず。
あんなに切望していたのに、すっかり忘れてしまうなんて。
ここまで見事なすっとぼけを見せられると、もう主演女優賞だ。
あっぱれとしかいいようがない。
実は、これまで「認知症」とはっきり言われたことがない。
「年相応の認知力」といわれても、どこまでが信用できるのか、どこからが聞き流していいことなのかわからず、ずっともやもやしていたのだ。
でも、もうこれほどまでに、すっぽり記憶が抜け落ちるんだとわかったら、わたしもストンと開き直れる。
これからは、あまり真に受けなくていいんだって、余裕も生まれる。
施設をでると、雨はあがっていた。
雨上がりの空気は澄んでいて、空も明るく心もふっと軽くなった。
新しいステージは、優しい光に満ちている気がした。
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