「普通の子に育ってほしい」と願ったすべての人へ。元教員×凸凹児父が問う、「普通」って何ですか?
「普通に学校に通ってほしい」
「普通に友達を作ってほしい」
「普通に就職してほしい」
私たちは無意識に、
「普通」を基準にして
子どもの未来を描いています。
でも、その「普通」って、
いったい何でしょうか。
誰が決めたのでしょうか。
今日はいつもと少し違う話を書きます。
ノウハウでも、声かけの翻訳でもありません。
元教員で、
発達凸凹の息子を持つ父として、
ずっと考えてきたことを
そのまま書きます。
30人のクラスに「普通の子」は一人もいなかった
特別支援学級の担任をする前、
私は通常学級も受け持っていました。
30人のクラスです。
教壇に立って分かったのは、
「普通の子」は一人もいなかった
ということです。
算数が得意で国語が苦手な子。
国語は天才的なのに体育が壊滅的な子。
友達は多いけど一人の時間がないと辛い子。
勉強は苦手だけど国や地域の名前を200近く言える子。
全員がどこかに凸凹を持っていました。
「普通」とは、
実在する子どもの姿ではありません。
統計上の「平均値」であり、
言い換えれば
「誰でもない子ども」の姿です。
私たちは、
存在しない「誰でもない子ども」を基準にして、
目の前の子どもを測っていたのです。
「普通」=「多数派」にすぎない
「普通」という言葉を分解すると、
その正体は
「多数派のやり方」です。
多数派の子が座れるから「座れるのが普通」。
多数派の子が食べられるから「食べられるのが普通」。
多数派の子が空気を読めるから「読めるのが普通」。
「普通」とは、
多数派の行動パターンに
名前をつけただけのもの。
それ自体に
「正しい」「優れている」という
意味はありません。
ただ「数が多い」だけです。
発達障害は「少数派」なのか?
ここで一つ、
考えてみてほしいことがあります。
発達障害(ASD・ADHD・LD等)のある人は
人口の約10%と言われています。
10人に1人。
この数字、
左利きの人の割合と同じです。
左利きも、人口の約10%。
かつて左利きは「矯正」の対象でした。
「右手で書きなさい」
「右手で箸を持ちなさい」
「左利きは行儀が悪い」
左利きであること自体が
「普通ではない」「直すべきもの」
とされていた時代があったのです。
今、左利きを「矯正」する人は
ほとんどいません。
左利き用のハサミなど、
左利きの人が
不便なく暮らせる社会になりつつあります。
「直すべきもの」対象から
変わっているのです。
同じことが、
発達障害にも起きつつあります。
「普通に近づけるべきもの」から
「環境を整えるべきもの」へ。
構造化も、合理的配慮も、
トリセツも、
全ては
「多数派に合わせろ」ではなく、
「その人に合った環境を作ろう」
という発想です。
「ニューロダイバーシティ」という考え方
ここで、
一つの考え方を紹介させてください。
「ニューロダイバーシティ」
という言葉があります。
これは、
ASDやADHDなどの発達特性を
「障害」や「欠陥」ではなく、
人間の脳の「バリエーション」として
捉える考え方です。
左利きが「矯正」すべきものではなく
「左利きという特性」であるように、
発達特性も
「治すべきもの」ではなく
「そういうタイプの脳」である、
という発想です。
ASD・ADHD・LD・DCDなどを
広く含めると、
何らかの発達特性がある人は
人口の10%どころではなく、
もっと多いという見方もあります。
グレーゾーンまで含めれば、
クラスの3割、4割に
何らかの凸凹がある可能性すらあります。
そうなると、
もはや「多数派」と「少数派」の
境界線自体が曖昧です。
「普通の脳」と「普通じゃない脳」が
あるのではなく、
そもそも全ての脳が違う。
脳に「普通」はない。
あるのは「多様性」だけ。
それがニューロダイバーシティの本質です。
左利きが
「矯正」の対象から
「配慮」の対象に変わったように。
発達特性も、
「治す」対象から
「環境を整える」対象へと
変わりつつあります。
構造化も、合理的配慮も、
トリセツ(サポートファイル)も、
全ては
「多数派に合わせろ」ではなく、
「一人ひとりの脳に合った環境を作ろう」
という、
ニューロダイバーシティの発想そのものなのです。
最後に
息子の診断を受けたとき、
正直に言うと、
「普通の子育てがしたかった」
と思ってしまいました。
でも気づきました。
「普通の子育て」なんて、
この世のどこにも存在しない。
全ての子育ては、
その子だけのオーダーメイドです。
「普通になれ」は、
「あなたのままではダメだ」
と言っているのと同じです。
そんなメッセージを
自分の子どもに送りたい親は
一人もいないはずです。
「普通」を手放してみてください。
すると、
「みんなと同じ」という物差しが消えて、
「この子にとって何がベストか」
が見えてきます。
「普通の子」はどこにもいません。
いるのは、
あなたの目の前にいる
「その子」だけです。
その子を、
その子のまま見ること。
それが、
私が教員時代にできなくて、
父親になってようやく気づいた、
一番大切なことです。
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