報告した人が、消される。グループホームの闇




あの人の足を引きずる音が、今でも耳に残っている。
グループホームで介護士をしていた頃の話だ。
石山さんという利用者さんがいた。元看護師長。いつもにこにこしていて、僕の作った料理を「おいしい、おいしい」と食べてくれた。三食昼寝つきで最高よ、が口癖だった。料理に風呂、ギターにカードマジック。最初はプレッシャーの連続だったけれど、少しずつ心が通じ合ってきた。「男の裸は見たくないて? ほな手品でどないですか!」なんてやりとりができるようになった頃には、この仕事が好きになりかけていた。
だが、そんな日常は突然壊れた。
ある日、石山さんの歩き方がおかしかった。廊下を歩く足が、ズッ、ズッと引きずるような音を立てていた。体が片方に傾いている。僕はすぐに所長に報告した。「石山さんの歩き方、あれ脳梗塞ちゃいますか?」
返ってきた言葉は、こうだった。
「素人が勝手な判断をしないで。」
所長は書類の山から顔も上げなかった。いいから自分の仕事をしなさい、と。でも明らかにおかしい。体の傾きも、足の運びも。調べてみんと……と食い下がった僕に、所長は机を叩いた。
結局、石山さんは脳梗塞だった。
一分でも早く救急車を呼ぶべきだったのに、48時間も放置された。あの朗らかな石山さんは、もう歩けなくなってしまった。車椅子の上で、あの笑顔は消えていた。
激怒する家族。当然だ。
そして所長は、家族にこう言った。「介護士の彼が、すぐに私に報告しなかったせいで……!」
僕は報告した。すぐに報告した。でもそんなことは、もう誰にも届かなかった。
上司に呼ばれた。スーツの男は僕を見もせずに言った。「君はクビだ。直ちに荷物を出ていき給え。」
おかしいやろ。俺はすぐに報告したやないか。
そう叫んだ。叫んだけれど、何も変わらなかった。
荷物をまとめて門の外に出た日、空は馬鹿みたいに青かった。段ボール一つを抱えて、僕は笑った。いやはや、いやはや。泣くより先に、笑ってしまった。
正しいことを言った人間が消される場所がある。間違いを認めない人間が守られる場所がある。それは遠い世界の話ではなくて、すぐそこの、誰かが暮らしている建物の中で、今も静かに起きていることだ。
石山さん、ごめんな。
僕にできたのは、あの足音の異変に気づくことだけだった。気づいて、声を上げて、それでも届かなかった。
でも、あの時黙っていたら。見て見ぬふりをしていたら。僕は自分を許せなかっただろう。クビになったことより、そっちのほうがずっと怖い。
これは実話です。
受講生のnote
