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【創作大賞作品】魂魄貸借証文(こんぱくたいしゃくしょうもん )

魂魄貸借証文
(こんぱくたいしゃくしょうもん )

宇佐美ダイ




あらすじ

税理士・曽根崎透の自宅に、深夜、見知らぬ男が訪れる。「回収機構の者です」と名乗る男が差し出したのは「魂魄貸借証文」——前世で透が犯した罪の負債を、四十九日以内に返済せよという宣告だった。

透の前世は天保の大飢饉で米蔵を独占し、三十七人を餓死させた庄屋・善左衛門。その負債が七回の輪廻を経て、現世の透に回ってきたのだ。日ごとに身体は飢えに蝕まれ、前世の記憶が夢となって押し寄せる。

返済方法は三つ。命で返すか、全記憶を差し出すか、連帯保証人を立てるか。透は最も身近な後輩・西村の名を選びかけるが、それは善左衛門と同じ罪を繰り返すことだと気づく。

そのとき、三十七の亡者たちが現れ、透に告げる。「もう、ええ」と。透は第二の方法を選び、すべての記憶を差し出して負債を清算する。だが物語の最後、回収機構の男は西村の前に現れる。連鎖は、まだ終わっていない。






魂魄貸借証文   宇佐美ダイ


その夜、曽根崎透は、数字の海の中にいた。
確定申告。 個人事業主。 減価償却。
ダイニングテーブルの上には、領収書の束が三つ。 電卓が一つ。 飲みかけのコーヒーが一つ。
もう冷めている。
時計を見た。 午前零時を十二分過ぎていた。
透は四十二歳。 都内の中堅会計事務所に勤める税理士だった。 独身。 趣味はない。 友人は少ない。 それでも生きている。
生きている、というのは、つまり、数字を処理しているということだった。 他人の金を数え、他人の税を計算し、他人の人生の帳尻を合わせる。 それが、曽根崎透という人間の四十二年間だった。
朝、起きる。 歯を磨く。 鏡の中の自分を見ない。 見る必要がないから見ない。昨日と同じ顔がそこにあることは、わかっている。
電車に乗る。 駅から事務所まで歩く。 デスクに座る。 パソコンを開く。 数字を入力する。 昼になったら定食屋に行く。 午後、また数字を入力する。 夕方、帰る。
その繰り返しの中で、透は時おり、不思議なことを考えた。
この数字の一つ一つには、誰かの人生がある。 売上の数字の向こうに、汗を流した人間がいる。 経費の数字の向こうに、何かを買い、何かを使い、何かを消費した人間がいる。

だが、透にとっては、それはただの数字だった。
数字に温度はない。 数字に匂いはない。 数字には、感情がない。
透の人生にも、それらはなかった。
キーボードを打つ指は、四十二年分の習慣で動いている。 自分の意思とは無関係に、指が数字を拾い、桁を合わせ、答えを出す。 もう、考える必要すらない。 身体が、勝手にやってくれる。
ふと、自分の右手を見た。
人差し指の先が、わずかに硬くなっている。 ペンだこの、なれの果て。 学生の頃にできた小さな膨らみが、四半世紀かけて、皮膚の一部になっていた。
この指で、何を握ってきたのだろう。
電卓。ペン。マウス。 そして、それだけだった。
コーヒーを一口飲んだ。
冷たい。 舌の上に、苦味が薄く広がる。 それだけの味しかしない。
窓の外は暗い。 向かいのマンションの窓に、いくつかの明かりが見える。 あの明かりの一つ一つに、帰るべき場所がある人間がいる。
透のこの部屋の明かりは、誰かにとっての「帰るべき場所」だろうか。
違う。
ここは、ただ透が眠る場所だ。 帰る場所ではなく、戻る場所。 待っている人がいないのだから、帰るとは言わない。
透が税理士になったのは、二十四のときだった。 なぜこの仕事を選んだのか、もう思い出せない。 たぶん、人と話さずに済むからだった。 数字は、裏切らない。 数字は、こちらの気持ちを察してくれないかわりに、こちらを傷つけもしない。 数字とだけ向き合っていれば、人生はおおむね、平らかに過ぎていく。
平らかに。
そう、平らかに過ぎてきた。
山もなく。 谷もなく。 ただ、平らに。
そのとき。

——ピンポーン。

インターホンが鳴った。
午前零時過ぎである。 まともな訪問者が来る時間ではない。
透はコーヒーカップをテーブルに置き、立ち上がった。 玄関脇のモニターを覗いた。
男が、立っていた。
黒い背広。 白いワイシャツ。 ネクタイはしていない。 古い革の鞄を、右手に下げている。
顔。
顔が、ある。
あるのだが——
覚えられない。
見ているのに、見た端から記憶が滑り落ちていく。 鼻があったはずだ。目があったはずだ。口もあったはずだ。 だが、モニターから目を離した瞬間、もうそれがどんな顔だったか思い出せない。
もう一度モニターを見た。 男は、微動だにしていない。
カメラの正面に、まっすぐ立っている。 まるで、見られていることを知っているかのように。
いや。
見られていることを、知っている顔だった。
透は、インターホンのマイクボタンを押した。

「はい。どちら様ですか」

声が返ってきた。
「夜分に申し訳ございません」
丁寧な声だった。
 低く、柔らかく、一語一語に角がない。 役所の窓口のような声。 いや、もっと丁寧だ。 葬儀社の案内人のような声だった。
「回収機構の者でございます」
回収機構。
透は、眉をひそめた。
聞いたことのない名前だった。 税理士として、債権回収の仕組みには詳しいつもりだった。 サービサー法に基づく債権回収会社の一覧は頭に入っている。 
だが、回収機構という名は、そのどこにもない。
「何の回収ですか」
「お会いして、ご説明させていただければと存じます」
透の指が、インターホンの上で止まった。
開けるべきではない。 深夜零時過ぎに訪ねてくる人間に、ドアを開けるべきではない。
だが。
開けた。
なぜ開けたのか、透にはわからなかった。 あとになって何度も考えた。 考えても、わからなかった。
ただ、ひとつだけ言えることがある。 ボタンに指を伸ばしたとき、指先が、ひとりでに動いた。 数字を打つときと同じだ。 意思より先に、身体が動いた。 まるで、ずっと昔から、この瞬間が予約されていたかのように。
ドアチェーンは掛けたまま、ドアを細く開けた。
廊下の蛍光灯が、男の背後で白く光っている。 その光の中に、男は立っていた。
深々と、頭を下げた。
腰の角度が正確に四十五度。 一秒。 二秒。 三秒。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
その顔を、透は見た。
やはり、覚えられない。
見ているのに、認識が追いつかない。 パーツはある。配置もおかしくない。 だが、全体が像を結ばないのだ。 水面に映った顔のように、揺れている。 いや、揺れているのではない。 ずれているのだ。 何かが、ほんの少し、ずれている。
「曽根崎透様でいらっしゃいますね」
透は、頷いた。
男は、鞄を開けた。
古い革の匂いがした。 乾いた、埃っぽい、しかしどこか甘い匂い。 なめし皮の匂いの奥に、もっと古いものの気配がある。 土の匂い。 骨の匂い。
男は鞄の中から、一枚の紙を取り出した。
紙。
いや。
紙ではない。
和紙のようだが、和紙ではない。 厚い。 黄ばんでいる。 縁が不均一で、漉いたときの繊維がそのまま残っている。
男が、それを差し出した。
透は、受け取った。
受け取った瞬間。
指先が、痺れた。
電気のような痺れではない。 もっと鈍い。 もっと深い。 骨の中を、冷たいものが通り抜けていくような感覚。 指から手首へ。手首から肘へ。 それは、一瞬で消えた。
だが、痺れが抜けたあとも、指先には妙な感触が残った。 紙を持っているのに、紙を持っている気がしない。 自分の皮膚を、もう一枚の皮膚で挟んでいるような、奇妙な肌理。
透は、紙を見た。
筆文字だった。
墨の色が濃い。 一画一画が太く、力強い。 だが、文字の形に、わずかな震えがある。 書いた者の手が震えていたのか。 それとも、文字そのものが震えているのか。
書かれていたのは、こうだった。

 魂魄貸借証文 第七百二十一号
 貸主   不明  
 借主   曽根崎透(現世名)  
 元本   命 壱つ  
 利息   毎世代 記憶の断片  
 返済期限 本証文提示より四十九日

透は、笑った。
「何ですか、これ」
声に出して笑った。 こんなものは詐欺だ。 新手の霊感商法か。 壺でも売りつける気か。
「お気持ちはお察しいたします」
男は、表情を変えなかった。 いや、表情があるのかどうかすらわからない。 あの覚えられない顔の中で、何かが微かに動いた気がした。
「ですが、証文は本物でございます。返済期限は、四十九日。本日より起算いたします」
透は、紙を男に突き返した。
「帰ってください」
「承知いたしました」
男は、また深々と頭を下げた。 同じ角度。 同じ秒数。
「なお、証文はお手元に残りますので、ご確認ください」
「だから——」
透は、手の中を見た。
紙を返したはずだった。
男に突き返した。 確かに突き返した。
なのに。
紙は、透の手の中にあった。
顔を上げた。
廊下には、誰もいなかった。
ドアの外の空気が、ひやりと冷たかった。 五月の夜にしては、冷たすぎた。 まるで、誰かが今しがた、冷蔵庫の扉を開け放ったあとのような冷たさだった。


翌朝。
透は、洗面台の前に立った。
蛇口をひねる。 水が流れる。 冷たい水で顔を洗う。
タオルで顔を拭き、鏡を見た。
そして。
声が、出なかった。
左目。
左目の虹彩の色が、変わっていた。
右目は茶色。 いつもの茶色。
だが左目が。
灰色だった。
鉄のような、曇り空のような、冷たい灰色。 透はその目を見つめた。 鏡の中の左目が、透を見返していた。
見返していた。
そう感じた。
鏡に映った自分の目なのに、それが自分の目ではないような気がした。 もっと古い目。 もっと冷たい目。 何かを見てきた目。 何かを見て、なお平然としていた目。
透は、瞬きをした。
灰色の目も、瞬きをした。
当たり前だ。 鏡だ。 自分の目だ。
だが。
ほんの一瞬。 自分が瞬きをしてから、鏡の中の目が瞬きをするまで、ほんの一瞬の——
ずれ。
気のせいだ。
透はそう思おうとした。
洗面所を出て、リビングに戻った。 テーブルの上には、昨夜の領収書の束がそのまま残っている。 そしてその横に。
あの紙が、あった。

魂魄貸借証文。

夢ではなかった。
透は紙を手に取った。 痺れは、もうない。 だが、紙の温度がおかしい。 冷たくもなく、温かくもない。 体温と同じ温度。 まるで皮膚の一部のような温度。
透は紙をゴミ箱に捨てた。
シャワーを浴びようと、シャツを脱いだ。
そのとき。
背中に、違和感があった。
左の肩甲骨の下。 そこに、何かがある。
鏡の前に戻った。 背中をひねって、映した。
痣があった。
いや。
痣ではない。
傷痕だった。
古い傷痕。 刃物で切られたような、細長い傷が三本。 斜めに走っている。 治って久しい傷のように、皮膚が白く盛り上がっている。
こんな傷は、ない。
透の四十二年の人生に、刃物で切られた記憶はない。 手術の痕でもない。 昨日まで、こんなものはなかった。
透は、指で傷に触れた。
冷たかった。
周囲の皮膚より、明らかに温度が低い。 指先に伝わる冷たさが、不自然だった。 まるで、傷の下に——
氷がある。
そんな感覚だった。
透は指を離した。 指先に、かすかに湿り気が残っていた。
その湿り気を、鼻に近づけた。
匂いがした。
土の匂いだった。 雨に濡れた、冷たい土の匂い。 都会のマンションの一室で、嗅ぐはずのない匂い。
透は、洗面台で手を洗った。 石鹸を泡立て、何度も擦った。
それでも、土の匂いは、指の皺の奥に残った。
ゴミ箱を見た。
証文は、なかった。
テーブルの上を見た。
あった。
先ほど捨てたはずの紙が、テーブルの上に戻っていた。


その日から、異変が始まった。
最初は、小さなことだった。
食事の味が、薄くなった。
透は事務所の近くの定食屋で昼食を食べた。 生姜焼き定食。 いつもと同じメニュー。 いつもと同じ味の——はずだった。
味がしない。
いや、まったくしないわけではない。 遠い。 味が、遠いのだ。
舌の上に食べ物がある。 噛んでいる。 嚥下している。 だが、味覚だけが、ガラス越しのように隔てられている。
肉の繊維が歯のあいだでほどける感触はある。 タレの照りも、目には見える。 だが、その照りが舌に届かない。 砂を噛んでいるのと、変わらなかった。
透は箸を止めた。
「まずかったですか?」
定食屋の主人が声をかけた。
「いえ。大丈夫です」
透は無理に食べた。 飲み込むたびに、喉の奥が乾いていた。
水を飲んだ。
水の味もしなかった。
その日の夜。
透はスーパーで食材を買って帰った。 冷蔵庫を開けて、買ったものを入れようとした。
臭いが、した。
腐敗の臭い。
甘く、重く、粘りつくような臭い。 鼻の奥に貼りついて、離れない。 喉の奥まで降りてきて、嘔吐感を呼ぶ。
透は冷蔵庫の中を見た。
昨日買ったばかりの豚肉。 パックの中で、灰色に変色している。 ドリップが茶色く濁り、泡立っている。
卵。 殻の表面に、黒い斑点が浮いている。
キャベツ。 外側の葉が溶けている。 茶色い液体が、野菜室の底に溜まっている。
牛乳。 パックが膨らんでいる。
すべてが。
昨日買ったばかりのものが、すべて、腐っていた。
透は、思わず後ずさった。
腐敗は、内側から進んでいるように見えた。 表面はまだ形を保っているのに、奥のほうから、ぐずぐずと崩れていく。 まるで、内臓を抜かれた獣の死骸のように。
透は冷蔵庫を閉めた。
そして、気づいた。
腹が、減っている。
猛烈に、減っている。
胃が、収縮していた。 空っぽの胃が、自分自身を噛んでいるような痛み。 透は腹を押さえた。
昼に生姜焼き定食を食べた。 味は薄かったが、確かに食べた。 それなのに。
腹が、減っている。
夜になっても、何も食べられなかった。 新しく買ってきた食材を冷蔵庫に入れた。
翌朝。
それも腐っていた。
その朝、透は、自分の声で目が覚めた。
何かを喋っていた。
寝言ではない。 目が覚めた瞬間も、まだ口が動いていた。
唇が勝手に動いて、言葉を吐いていた。
知らない言葉だった。
日本語ではない。 英語でもない。 透が知っているどの言語でもない。
だが、言葉だった。 意味を持った音の連なりだった。 抑揚がある。文法がある。誰かに向けて語りかけている。
透は、自分の口が動くのを止められなかった。
十秒。 二十秒。
やがて、口が止まった。
静かになった。
透は、天井を見つめたまま、自分の口の中に残った音の感触を探った。
舌の使い方が、違う。 日本語よりも舌の奥を使う。喉が震える。
何を言っていたのか、わからない。
わからないのに、身体が覚えている。
これは、七回目の透の言葉ではない。 六回目の。あるいは五回目の。あるいはもっと前の——善左衛門の生きた時代よりさらに古い、どこかの透が使っていた言葉だ。
利息。
記憶の断片の代わりに、別の生の残滓が染み出してきている。
透は、枕元のメモ帳を手に取った。 ペンを握った。
書こうとしたのは、今の言葉を記録するためだった。
だが。
手が、別のものを書いた。
漢字だった。
見たことのない漢字だった。 旧字体よりもさらに古い。甲骨文字のような、角張った、硬い文字。
透は、その文字を知らなかった。
だが、手は知っていた。
ペンを持つ右手が、透の意思とは無関係に、四つの文字を書いた。
何と読むのかもわからない。
透は、その文字をしばらく見つめた。
やがて、メモ帳を閉じた。
見ていると、頭の奥がざわつく。
この文字を読んではいけない、という感覚が、身体の底から湧いてきた。
読めば、戻れなくなる。
そういう確信が、首の後ろの、産毛の生え際あたりに、ぴりぴりと走った。


三日目。
透は、夢を見た。
夢の中で、透は別の人間だった。
着物を着ていた。 上等な着物だった。 絹の手触り。 帯の重み。
広い座敷に座っている。 畳が新しい。 藺草の匂いが、鼻の奥に染みる。
夏の終わりだった。 障子越しに入ってくる光が、まだ強い。 だが、光の色に翳りがある。 秋の気配が、光の端に混じっている。
目の前に、台帳があった。 筆を持っている。 数字を書いている。
米の数だった。
俵の数。升の数。 膨大な量の米が、帳簿の上に記録されていた。
この男——善左衛門は、帳簿を書きながら、薄く笑っていた。
今年の収穫は悪い。 村中が知っている。 だが、善左衛門の蔵には、昨年からの備蓄がある。 三年分の米が、あの蔵の中で眠っている。
村人たちが泣きついてくるだろう。 米を分けてくれと、頭を下げてくるだろう。
善左衛門は、渡すつもりはなかった。
米は金になる。 飢饉のときの米は、平年の三倍で売れる。 藩の御用商人が買いに来る。 金が入る。 金があれば、土地が買える。 土地があれば、もっと米が採れる。
善左衛門の頭の中には、帳簿と同じ数字が並んでいた。
数字だけが、並んでいた。
村人の顔は、思い浮かばなかった。 名前も覚えていない。 ただ、田を耕す手と、年貢を納める背中。 それだけが、善左衛門にとっての村人だった。
顔のない数字。
透が、四十二年間、向き合ってきたものと、同じだった。
外。
外から、音が聞こえる。
最初は風の音だと思った。 だが、違う。
声だった。
低く、弱く、途切れ途切れの声。
透は——いや、この男は——立ち上がった。 障子を開けた。
蔵の前に、人がいた。
一人ではない。 五人。 十人。 二十人。
もっといる。
座り込んでいる者。 うずくまっている者。 倒れている者。
痩せていた。
頬がこけ、目が落ちくぼみ、鎖骨が皮膚を突き破りそうなほど浮き出ている。 子どもが母親にしがみついている。 母親の腕は、子どもの重みを支えられないほど細い。
飢えている。
この人たちは、飢えている。
匂いがした。 人間の匂いだった。 垢と土と、もっと奥にある、身体が自分自身を食い始めた者の匂い。 酸っぱい。甘い。重い。 生きているのに、腐り始めている匂い。
それは。
透のマンションの冷蔵庫から漂った、あの臭いと、同じだった。
声が聞こえた。
「庄屋さま」
しわがれた声だった。 老人の声だ。村の長老だろう。かつては太い声で祭りの音頭を取っていた男が、今は喉の奥から絞り出すように言った。

「米を」
「一握りでええ」
「子どもだけでも」

若い母親の声がした。 背中に赤子を括りつけている。 赤子は泣いていない。 泣く力が、もう残っていないのだ。

「うちの子は、三日、何も食べとりません。乳も出ません。お願いです。一掴みだけ」

声が、重なった。 何人もの声が。 何十人もの声が。
その声の波が、善左衛門の足元まで押し寄せてきた。 だが、善左衛門の足は、畳の上にしっかりと根を張っていた。 一歩も、前に出なかった。
透の中の男は、障子を閉めた。
「わしの米じゃ」
声は、低かった。 冷たかった。 帳簿の数字と同じ温度の声だった。
「一粒たりとも、渡さん」
障子が閉まった。
藺草の匂いが、透の鼻を満たした。
外から、声が聞こえていた。
子どもの泣き声が。
それが。
やがて。
消えた。
声が消えた。
泣くことすらできなくなった人間の沈黙が、蔵の周りを満たした。
善左衛門は座敷に座り直し、帳簿の続きを書いた。
筆の音だけが、部屋の中に響いていた。
しゃり。 しゃり。 しゃり。
その音は、穀物を噛む音に似ていた。
善左衛門は、その音を聞きながら、何も感じていなかった。 罪悪感もない。 ためらいもない。 ただ、数字を書く手の、規則正しい動きがあるだけだった。
透は、その「無」の中にいた。
人を見殺しにしながら、何も感じない心の中に。 自分が、いつもそこにいたことに、透は気づいてしまった。
透は目を覚ました。
身体中が汗で濡れていた。
シーツが、体温で湿っている。 だが、汗は冷たかった。 まるで井戸水を浴びたような冷たさだった。
そして。
匂いがした。
藺草の匂い。
畳の匂いが、透のマンションの部屋の中に、確かに漂っていた。
透は起き上がった。
手を見た。
右手の親指と人差し指の間に、黒い染みがあった。 墨だ。 筆を持ったときにつく、墨の染み。
洗面台に走った。 石鹸で擦った。
落ちなかった。


五日目。
透は、近所の内科を受診した。
「最近、食べても食べても満腹感がなくて。体重も急に落ちてきて」
医師は、透の身体を診た。 血液検査。尿検査。腹部エコー。
結果は、翌日出た。
「特に異常は見られませんね」
医師は言った。
「血糖値も正常範囲、甲状腺機能も問題なし。消化器系にも異常はありません」
「でも、体重が三キロも落ちたんです。たった四日で」
医師は、眼鏡の奥から透を見た。
「ストレスはありますか。睡眠はとれていますか」
「眠れてはいます。ただ、夢を——」
透は、言いかけてやめた。
前世の夢を見ます。 魂の借金を取り立てに来る男がいます。 食べ物が全部腐ります。 左目の色が変わりました。
言えるわけがなかった。
「夢を見ることが増えました」
「ストレス性のものかもしれません。しばらく様子を見て、改善しなければ、大きい病院を紹介します」
透は診察室を出た。
廊下を歩きながら、ふと、窓ガラスに映った自分の顔を見た。
左目の灰色が、朝より濃くなっている気がした。
気のせいだ。
透は、そう思おうとした。
だが。
窓ガラスの中の自分の左目が、透が目を逸らした後も、一瞬だけ——こちらを見ていた。
その夜、透はパソコンを開いた。
検索窓に、文字を打った。
「回収機構」
検索結果が表示された。 債権回収に関するページ。法律事務所の広告。サービサー法の解説記事。
どこにも、あの男の「回収機構」は出てこない。
「魂魄貸借証文」
結果はゼロだった。
一件も、ヒットしない。
透は、キーボードの上に手を置いたまま、画面を見つめた。
存在しないのだ。
この世界のどこにも、回収機構は記録されていない。 魂魄貸借証文という言葉を、誰も使っていない。 あの男の存在を証明するものが、インターネットの海のどこにもない。
だが、透の背中には三本の傷痕がある。 左目の虹彩は灰色に変わっている。 冷蔵庫の食材は毎日腐る。 証文は捨てても戻ってくる。
透は、もう一つだけ検索した。
「天保七年 丹後 飢饉 庄屋」
結果が、出た。
郷土史のページだった。個人が運営している、古い作りのウェブサイト。
透は、そのページを開いた。
文字が小さい。背景が薄い黄色。フォントが古い。
その中に、一行だけ、透の目を射抜く文章があった。

「天保七年冬より翌春にかけ、当村にて餓死者三十七名を出す。庄屋善左衛門、翌年病没」

三十七名。
善左衛門。
透は、画面の前で、長い間動けなかった。
パソコンの冷却ファンの音だけが、部屋の中で回っていた。
画面の光が、透の顔を青白く照らしていた。 その光の中で、透の左目だけが、灰色に沈んでいた。


七日目。
透は食事を受け付けなくなっていた。
食べられないのではない。 食べても、腹が満たされないのだ。
コンビニのおにぎりを食べた。 牛丼屋で大盛りを食べた。 パン屋でパンを三個買って食べた。
食べた端から、消えていく。
胃に入った食物が、溶けるように消えていく感覚。 噛んで、飲み込んで、胃に落ちた瞬間に、それが無になる。 栄養にならない。 エネルギーにならない。 ただ消える。
透の体重は、一週間で四キロ減った。
鏡の中の自分の顔が、変わっていた。 頬がこけ始めている。 目の下に隈が浮いている。 唇が乾いて、細かいひび割れが入っている。
あの夢の中の村人たちの顔に、似てきている。
透は、それに気づいた。
気づいて、吐き気がした。
吐こうとした。 だが、何も出なかった。 胃の中は、空だった。
事務所に電話をかけた。
「体調が悪いので、しばらく休みます」
電話の向こうで、西村の声が聞こえた。
「曽根崎さん、大丈夫ですか? 何か持っていきましょうか」
「いい。大丈夫だ」
「声、なんかおかしくないですか。病院行きました?」
「行った。大したことない」
嘘だった。
大したことない、というのは嘘だった。 だが、本当のことを言えるはずがなかった。
電話を切った。
西村の声が、耳に残った。
温かい声だった。
その温かさが、なぜか、透の胸を締めつけた。 温かいものに触れると、自分の冷たさが、よけいに際立つ。 善左衛門の蔵の前に立った、あの飢えた人々の温もりを、善左衛門は障子一枚で遮断した。 透も、いま、電話一本で、西村の温もりを遮断したのだった。
電話を切った後、透は台所に立った。
何か食べなければ、と思った。
冷蔵庫を開ける気にはなれない。中のものはどうせ腐っている。
透はカップ麺を棚から出した。湯を沸かした。三分待った。
蓋を開けた。
湯気が立つ。醤油の匂いがする——はずだった。
匂いがしない。
透は麺を啜った。
温かい液体が口に入る。 温度だけは感じる。 だが、味がない。 醤油でもなく、塩でもなく、ただの温い水として、喉を通過していく。
透は箸を置いた。
ふと、思った。
最後に「うまい」と感じたのは、いつだったろう。
思い出せなかった。
あの男が来る前から——ずっと前から、透の食事は作業だった。 空腹を埋めるための作業。燃料の補給。 味を楽しむという感覚を、いつの間にか忘れていた。
子どもの頃は違った。
母が作ってくれた味噌汁。 豆腐とわかめの、普通の味噌汁。 あの湯気を吸い込んだときの、鼻の奥がほどけるような安堵。
椀を両手で包んだときの、てのひらの温かさ。 ずず、と啜ったときの、舌を焼く熱さ。 それが、嫌ではなかった。
あの味を、もう一度。
透は、カップ麺を見つめた。
もう一度、と思った。
だが、もうその味は、証文の利息として徴収されているのかもしれなかった。


十四日目。
透は会社を休み続けていた。
ベッドから起き上がれなくなっていた。
目は覚めている。 意識はある。 だが、身体が動かない。
飢えだ。
身体の芯から、力が抜けていく。 筋肉が痩せ、骨が浮き、皮膚が余っている。 自分の身体が、自分の身体ではないような感覚。
天井を見ていた。
白い天井。
その白い天井に、影が見えた。
一つではない。
ぼんやりと、薄く、しかし確かに。
人の形をした影が、天井に浮かんでいた。
一人。 二人。 三人。
数え始めた。
七人。 十二人。 十九人。
増えていく。
二十五人。 三十一人。
三十七人。
三十七で、止まった。
三十七の影が、天井から透を見下ろしていた。
声が聞こえた。

「腹が減った」

一人の声ではない。 三十七の声が、重なって聞こえた。 同じ言葉を。 同じ苦しみを。

「腹が減った」 「腹が減った」 「腹が減った」

透の腹が、鳴った。
違う。
鳴ったのではない。
胃の壁が、内側から齧られていた。
三十七の歯が。 三十七の飢えが。 透の胃壁を、噛んでいた。

「ぅ——」

透は声を漏らした。
声にならない声だった。 喉が乾いている。 唾液が出ない。 舌が口蓋に張りついている。
皮膚が乾いていた。
腕の皮膚を見た。 白い粉が吹いている。 爪が変色し始めている。 黄色く、脆く、少し触っただけで欠けそうなほど薄くなっている。
腕に触れてみた。 自分の指が、自分の腕の骨を、直に握った。 そのあいだに、肉がなかった。 皮膚一枚を隔てて、指が骨を撫でていた。
これは、もう、自分の腕ではない。
髪が、枕に落ちていた。
一本や二本ではない。 束で抜けている。 黒い髪の束が、白い枕カバーの上に散らばっていた。
透は、泣こうとした。
涙が、出なかった。
身体の中に、涙になる水分すら残っていなかった。
その夜、二度目の夢を見た。
善左衛門の夢だった。
冬だった。
雪が降っている。 蔵の屋根に雪が積もっている。 白い雪の下に、米がある。 善左衛門は、それを知っている。
庭に出た。
蔵の前に、もう人はいなかった。
いや。
いた。
一人だけ、倒れていた。
老婆だった。 雪の上に、うつ伏せに倒れている。 背中に雪が薄く積もっている。 もう動かない。
善左衛門は、老婆を見下ろした。
知っている顔だった。 村の味噌を作っていた婆さんだ。 毎年秋になると、善左衛門の屋敷にも味噌を届けてくれた。 大豆と塩と麹の匂いのする、手の温かい婆さんだった。
善左衛門は、老婆のそばを通り過ぎた。
蔵の鍵を確認した。
錠前は無事だった。
善左衛門は屋敷に戻った。
歩きながら、足の裏に、雪の感触があった。 きゅ、きゅ、と雪を踏む音がした。
その音が、透の耳の中で、いつまでも鳴っていた。
春が来るまでに、あと何人死ぬのか。
善左衛門は、それを数えていた。
帳簿をつけるように。
数字を書き込むように。
一、二、三……。 死者の数を、まるで利息のように、頭の中で勘定していた。 増えれば増えるほど、米の値は上がる。 死は、善左衛門にとって、相場だった。
透は叫びたかった。 やめろ、と。蔵を開けろ、と。 米を配れ、と。
だが、声が出ない。 善左衛門の身体の中で、透の意思は何の力も持たなかった。 ただ見ていることしかできなかった。
善左衛門が見たものを。 善左衛門が見て、なお何もしなかったものを。
透は目を覚ました。
足の裏が冷たかった。
五月のマンションの部屋の中なのに、足の裏に、雪を踏んだ感触が残っていた。
布団から足を出して、見た。
足の裏に、白いものがついていた。
触れると、冷たかった。 指で取って、見た。
溶けていく。
雪だった。


二十一日目。
透は、這うようにして玄関まで移動した。
ドアを開けた。
男が、立っていた。
回収機構の男。
初めて会った夜と、まったく同じ姿だった。 同じ黒い背広。 同じ白いワイシャツ。 同じ古い革の鞄。
そして同じ、覚えられない顔。
「その後、いかがお過ごしでしょうか」
丁寧な声。 葬儀社の案内人の声。
透は、床に座り込んだまま、男を見上げた。
「助けて、くれ」
声が、掠れていた。
男は、表情を——変えたのだろうか。あの覚えられない顔の中で、何かが微かに動いた。
「お助けすることは、残念ながら、私どもの業務範囲外でございます」
「何が……起きているんだ」
「ご説明いたしましょうか」
男は、透の許可を待たずに、玄関の上がり框に腰を下ろした。
革の鞄を膝の上に置いた。 鞄を開けた。
あの匂いがした。 乾いた革。土。骨。
男は、鞄の中から薄い冊子のようなものを取り出した。 帳簿だった。 古い和綴じの帳簿。
「曽根崎透様の前世における魂魄貸借の記録でございます」
男は、帳簿を開いた。
「天保七年。西暦一八三六年。丹後国、山間の村にて」
天保。 天保の大飢饉。
透は、その単語を知っていた。 教科書で読んだ記憶がある。
「曽根崎透様の前世——当時の名は、庄屋・善左衛門と申します——は、村の米蔵を管理する立場にございました」
「知ってる」
透は言った。
「夢で、見た」
「左様でございますか。それは、記憶の返済が進んでいる証拠でございます」
男は帳簿のページをめくった。
「天保七年の凶作。村全体の収穫量は平年の三割以下。善左衛門は蔵の米を独占し、村人への分配を拒否いたしました」
男の声は、淡々としていた。 報告書を読み上げるような声だった。
「結果として、同年冬から翌春にかけて、三十七名が餓死」
三十七。
天井に浮かんでいた影の数と、同じだった。
「うち、十五歳以下の子ども——十一名」
透は、目を閉じた。
まぶたの裏に、あの夢の光景が浮かんだ。 蔵の前にうずくまる人々。 子どもにしがみつく母親。 声を上げることすらできなくなった沈黙。
「善左衛門は翌年、流行病で死去。享年五十三。しかし、三十七名分の魂魄の負債は、死によって消滅いたしません」
男は帳簿を閉じた。
「魂魄貸借証文は、輪廻を超えて有効でございます。善左衛門の魂は転生を繰り返し、七回の生を経て、現在の曽根崎透様に至ります。各世代で利息として記憶の断片が徴収されておりますが、元本——命壱つ——は未返済のままでございます」
「七回」
透は呟いた。
「七回分の利息。つまり、七回分の人生で、記憶の一部が失われているということですか」
「左様でございます。前世の記憶は通常、転生時に消去されますが、貸借証文の利息として消去される記憶は、通常の消去分とは別に徴収されます。これが累積し、現世の曽根崎透様においては、身体的症状として顕在化しております」
透は、ふと気づいた。
「あなたは、何者なんですか」
男は、帳簿を鞄に戻しながら答えた。
「回収機構の担当官でございます」
「そうじゃなくて。あなたは——人間ですか」
男の手が、一瞬止まった。
「その質問にお答えすることは、業務範囲外でございます」
男は、立ち上がった。
「そろそろ、お決めいただく時期かと存じます」
「何を」
「返済方法を」


男は、三本の指を立てた。
人差し指。中指。薬指。
その三本が、透の視界の中で、異様に大きく見えた。 指の一本一本に、重みがあった。 言葉になる前の、意味の重み。
「返済方法は、三つございます」
一本目の指——人差し指が、残った。
「第一。命で返す」
静かな声だった。
「曽根崎透様が命を絶つことで、元本の返済に充てることができます。ただし」
男は、わずかに間を置いた。
「命一つで命一つを返済いたしますので、元本は消滅いたします。しかし、三十七名分の利息——飢餓の記憶——は、来世に引き継がれます。利息は世代ごとに加算されますので、来世の曽根崎透様は、今世よりもさらに重い負債を背負うことになります」
死んでも、終わらない。
透は、その言葉の意味を噛んだ。
「第二」
中指が、残った。
「記憶で返す」
「記憶」
「曽根崎透様のすべての記憶を、返済に充てることができます。氏名、生年月日、家族の顔、職業上の知識、言語能力、人格を構成するすべての経験的記憶。それらを一括して差し出していただきます」
「それは——」
「肉体は生存いたします。心臓は動き、呼吸は続きます。しかし、中身は空になります。曽根崎透という人間は、事実上、消滅いたします」
生きたまま、死ぬ。
それが第二の選択だった。
「第三」
薬指が、残った。
男の口元が、動いた。 笑った——のだろうか。 あの覚えられない顔の中で、唇のあたりが、わずかに上がったように見えた。
「連帯保証人を、お立ていただく」
「連帯保証人」
透の声が、震えた。
「曽根崎透様の代わりに、負債を引き受ける方をご指名いただきます。その方に対して、本証文が新たに発行され、同様の四十九日が開始されます」
「その人も——同じ目に遭うということですか」
「左様でございます」
男は、三本の指を下ろした。
「以上、三つの返済方法がございます。期限は、残り二十八日。期限までにいずれの方法も選択されない場合は、第一の方法——命での返済——が自動的に執行されます」
男は、深々と頭を下げた。
「ご検討のほど、よろしくお願い申し上げます」
そして、男は消えた。
立ち去ったのではない。
消えた。
玄関の上がり框に、革の匂いだけが残っていた。


二十八日目。
透は、一日のほとんどを床に横たわって過ごしていた。
身体は枯れ木のようになっていた。 腕は細く、肋骨が一本一本数えられるほど浮き出ている。 膝の関節が、異様に大きく見える。 それは、膝が大きくなったのではなく、太腿と脛が痩せたからだった。
飢えは、もう痛みではなかった。
痛みを通り越して、存在そのものになっていた。
透という人間が、飢えそのものになっていた。
呼吸をすると、肋骨が軋む。 瞬きをすると、まぶたの裏が乾いた砂のように擦れる。 心臓が打つたびに、骨盤の中で内臓が揺れる。
夜になると、三十七の影が来た。
天井からではなく、もっと近くに来るようになっていた。
壁に。 床に。 透の身体の上に。
影が透に重なると、その影が生前に味わった飢えの記憶が、透の身体に流れ込んでくる。

ある影は、土を食べた記憶を持っていた。 老人だった。村で一番の力自慢だった男が、最後には這って庭に出て、凍った土を爪で引っ掻いた。 土を口に入れた。砂利が歯に当たった。ジャリ、と音がした。 飲み込もうとして、吐いた。 吐くものがなく、胃液だけが口から垂れた。胃液は黄色く、喉を灼いた。 最後に見たのは、自分の手だった。 こんなに細い手を、見たことがなかった。 これが自分の手だと、信じられなかった。

ある影は、若い男の記憶だった。 妻と子どもがいた。 妻が先に動けなくなった。 男は最後の藁を噛み、絞った水を妻の唇に垂らした。 藁の水は苦かった。だが妻は飲んだ。飲んで、かすかに目を開けた。 何か言おうとした。 声にならなかった。 唇が動いた。 ありがとう、と動いたように見えた。 男は泣いた。涙は出なかった。 翌朝、妻は冷たくなっていた。 男は妻の手を握ったまま、三日後に死んだ。

ある影は、十三の娘の記憶だった。 春を待っていた。 春が来れば山菜が芽吹く。それまで耐えれば——。 娘は裏山に登った。 まだ雪が残る斜面で、木の皮を剥いだ。松の内皮を噛んだ。 松脂の苦みが口いっぱいに広がった。 噛んでも噛んでも柔らかくならない。繊維が歯の間に挟まる。 それでも噛んだ。飲み込んだ。 胃が痙攣した。 娘は木の根元にうずくまった。 手のひらを見た。松脂で手が黒くなっていた。 この手で、去年の秋までは、機を織っていた。 母に教わった織り方。経糸を張って、緯糸を通す。トン、トン、と筬を打つ音。 もう一度あの音を聞きたい、と思った。 それが、最後の思考だった。 春は、あと十四日先だった。

ある影は、子どもの記憶だった。 母親の乳が出なくなった日のことを覚えていた。 乳首を吸っても何も出ない。 泣いた。 泣いても、何も出ない。 母親の腕の中で、意識が遠のいていく。 最後に感じたのは、母親の体温だった。 それだけが、温かかった。
透は、その記憶の一つ一つを、自分の身体で受け止めた。
受け止めるたびに、透の身体から何かが失われていった。
それは、苦しみだった。 だが、奇妙なことに、その苦しみの中で、透は初めて、彼らに「触れて」いた。 数字ではなく、名もなき俵の数ではなく、一人ひとりの、最後の思考に。 善左衛門が一度も見ようとしなかったものを、透は今、自分の身体で見ていた。

十一
三十日目。
インターホンが鳴った。
回収機構の男ではなかった。
「曽根崎さん! いるんでしょう!」
西村の声だった。
透は、動かなかった。 動けなかった。
「二週間も連絡取れないんですよ。電話も出ないし、メールも返さないし。心配してるんです」
ドアの向こうで、西村が何かを探る音がした。
「開いてる——」
鍵をかけ忘れていた。 いや、もう鍵をかける気力がなかったのだ。
ドアが開いた。
西村が入ってきた。
「曽根崎さ——」
声が止まった。
西村は、リビングの床に横たわっている透を見た。
見て、息を呑んだ。
「何……ですか、これ」
西村の顔が、青ざめていた。
透の身体を見ているのだ。 痩せ細り、肋骨が浮き、髪が抜け、唇がひび割れた、透の身体を。
「救急車呼びます」
「やめ、ろ」
透は、掠れた声で言った。
「病院に行っても、意味がない」
「何言ってんですか。こんな状態——」
「西村」
透は、西村の目を見た。
右目の茶色と、左目の灰色で。
西村が、後ずさった。
「目……曽根崎さん、目の色が——」
「帰れ」
透は言った。
「頼むから、帰ってくれ」
お前がここにいると。 お前の顔を見ていると。
第三を、選んでしまいそうになる。
透は、それを言わなかった。
言えるはずがなかった。 だが、それは、確かに透の中にあった。 善左衛門が蔵を守ったときと、同じ重さの「暗いもの」が。 自分が助かるために、目の前の温かい人間を、差し出してしまいたいという衝動が。
「帰れ」
もう一度言った。
西村は、しばらく立ち尽くしていた。
やがて、コンビニの袋をテーブルの上に置いた。
「おかゆと、ポカリ入れときます」
「……」
「明日も来ます」
西村は出ていった。
ドアが閉まる音がした。
足音が廊下を遠ざかっていく。 エレベーターのボタンを押す音。 扉が開く音。閉まる音。
それから、沈黙。
透は、しばらくドアの方を見ていた。
西村が置いていったコンビニの袋が、テーブルの上で白く光っている。
透は、這って近づいた。
袋を開けた。
おかゆのレトルトパック。ポカリスエットのペットボトル。 そして——缶コーヒー。微糖。
いつものやつだ。
透は、ポカリスエットを開けた。 口に含んだ。
味が、した。
薄い。遠い。だが、確かに甘い。
飲み込んだ。
胃に落ちた瞬間、消えた。
いつもと同じだ。何も残らない。
だが、透は飲み続けた。
意味がないとわかっていても。 胃に届かないとわかっていても。
西村が買ってきてくれたものだから。
それだけの理由で、透は飲んだ。
缶コーヒーは、開けなかった。
テーブルの上に置いた。
いつか飲める日が来るかもしれない。 来ないかもしれない。
透は天井を見た。
三十七の影は、その間、静かだった。
西村がいる間、影たちは動かなかった。
まるで。
西村を見ていたかのように。
静かに。
じっと。

十二
三十五日目。
透は、自分の名前を忘れかけていた。
何だったか。 そねざき。 そねざき、何だ。
とおる。
曽根崎透。
思い出すのに、三秒かかった。
記憶の断片が、利息として徴収されている。
男が言っていたことが、身体でわかった。
母の名前が出てこなくなった。
田舎の、あの家の匂いは覚えている。 味噌汁の匂い。 だが、あの味噌汁を作っていた人の名前が——
出てこない。
消えている。
透は、天井に向かって呟いた。
「おかあ——」
続きが出なかった。
四十日目。
透は、ある考えに取り憑かれていた。
第三の方法。
連帯保証人。
透は、スマートフォンを手に取った。
バッテリーが残り七パーセント。 充電する気力がなかった。
連絡先の一覧を開いた。
名前が並んでいる。
伊藤。内田。大森。加藤。
同僚の名前。 取引先の名前。 たまに飲みに行く程度の知人の名前。
友人は、少ない。
透は指でスクロールした。
西村。
西村修平。
あの日。 コンビニの袋をテーブルに置いていった西村。 「明日も来ます」と言った西村。
実際、西村はその後も三回来た。 透はそのたびに、ドアの向こうから「帰れ」と言った。 三回目に、西村は泣いていた。 「なんで助けを拒むんですか」と言った。
なんで。
それは。
お前を守るためだ。
透の指が、西村の名前の上で止まった。
止まった。
動かなかった。
透は、西村の顔を思い浮かべようとした。 笑顔の西村。居酒屋で、生ビールを持ち上げて「お疲れっすー」と笑う西村。 確定申告の繁忙期に、透の机に缶コーヒーを黙って置いていく西村。
ある夜のことを、思い出した。
繁忙期が終わった三月末。 西村に誘われて、駅前の居酒屋に入った。 二人だけの打ち上げだった。
店は混んでいた。 油の匂い。生ビールの泡。 隣の席の笑い声。 そういう、人いきれの中に、透は久しぶりに身を置いていた。
西村は三杯目のビールで、急に真面目な顔になった。
「曽根崎さんって、なんで税理士になったんですか」
「なんでって……食えるからだ」
「そうですか」
西村は、枝豆を口に放り込んだ。
「俺は、曽根崎さんに憧れたんですよ」
「俺に?」
「入社したとき、曽根崎さんが教育係だったじゃないですか。覚えてます? 俺が初めて確定申告の書類作って、めちゃくちゃ間違えて、客に怒られて」
覚えている。
「そのとき曽根崎さん、俺の代わりに客に頭下げてくれたんですよ。そのあと、俺にはなんも言わなかった。ただ、書類の直し方だけ教えてくれた」
「当たり前だ。怒っても書類は直らない」
「その言葉が、すごく嬉しかったんです」
西村は、笑った。
ジョッキを置いた手が、テーブルの上で、透の手のすぐ近くにあった。 その手は、血が通って、温かそうだった。 透は、自分の手を、無意識に膝の上に引いた。
「曽根崎さんは、数字に冷たくて、人に温かいんですよ。自分では気づいてないだろうけど」
透は、何も言えなかった。
数字に冷たくて、人に温かい。
そう言われたのは、四十二年の人生で、初めてだった。
善左衛門は、数字にも人にも冷たかった。 透は——どうだったのだろう。
あのとき、客に頭を下げたのは、なぜだったのか。 業務だからか。 それとも。
わからない。
だが、西村が、それを覚えていてくれた。 透自身が忘れていたことを。
その西村に、これを引き受けさせるのか。
この飢えを。 この苦しみを。 この三十七人分の死を。
透は、スマートフォンを閉じた。
閉じて。
また開いた。
指が、震えていた。
飢えのためではなく。 恐怖のためでもなく。
自分の中の、何か暗いものが、指を動かそうとしていた。
善左衛門。
お前も、こうだったのか。
蔵の前で飢えている三十七人を見ながら、こう考えたのか。
自分が生き延びるために。 自分のものを守るために。 他の誰かを——
透は、スマートフォンを床に置いた。
画面が暗くなった。
暗くなった画面に、透の顔が映った。 痩せこけた顔。 灰色の左目。 善左衛門の顔に、よく似ていた。

十三
四十二日目。
透は、証文を読み返していた。
何度も読んだ文面を、もう一度。
魂魄貸借証文。第七百二十一号。
七百二十一。
その数字が、急に透の中で引っかかった。

七百二十一号。

それは、これが七百二十一番目の証文であるということだ。
透だけではない。
この世界のどこかに、七百二十の別の証文が存在する。
七百二十の別の「借主」が、かつて存在した。 あるいは、今も存在している。
彼らも、同じ四十九日を過ごしたのか。 同じ三つの選択肢を突きつけられたのか。
そして——第三の方法を選んだ者が、いったい何人いたのか。
第三の方法を選んだ者がいたならば、その連帯保証人にも、新しい証文が発行される。 その連帯保証人がまた第三を選べば、また新しい証文が。
連鎖。
これは、連鎖するのだ。
一人が第三を選ぶたびに、負債は消えるのではなく、移動する。 永遠に。 誰かが第一か第二を選ぶまで。
透は、ぼんやりと考えた。
回収機構の男は、何人の「借主」を見てきたのだろう。
七百二十一人。
七百二十一人分の苦しみ。 七百二十一人分の選択。 七百二十一回、同じ台詞を言った。
「回収機構の者でございます」
他の七百二十人は、何をしたのだろう。
戦で村を焼いた武将がいたかもしれない。 嵐の夜に船を見捨てた船頭がいたかもしれない。 疫病の村を封鎖して、中の人間もろとも焼き払った役人がいたかもしれない。
あるいは。
もっと小さな罪もあったのだろうか。
一人の命を見殺しにしただけの、小さな罪。 手を差し伸べれば助けられたのに、目を逸らした。 声をかければ救えたのに、黙っていた。
それでも、証文は発行されるのだろうか。
善左衛門の罪は、三十七人分だった。 では、一人分の罪を背負った借主も、いるのだろうか。
いるのだろう、と透は思った。
なぜなら、回収機構にとっては、数の大小は関係ないからだ。
命は命だ。 一つでも三十七でも。 負債は負債だ。
あの男の丁寧さは、七百二十一回の反復によって磨かれたものなのか。 それとも——最初から、あの男にはそれしかなかったのか。
感情もなく。 表情もなく。 ただ、業務を遂行する。
善左衛門の帳簿と、同じだ。
数字を記録し、処理する。 それ以上のことは、しない。
透は、自分の人生を思った。
透もまた、四十二年間、そうやって生きてきたのではないか。
他人の金を数え、他人の税を計算し、他人の人生の帳尻を合わせる。 善左衛門が米の俵を数えたように。 回収機構の男が証文の番号を数えるように。
数字を数えることしかしなかった人間。
善左衛門は、三十七人の命を奪った。
その負債が、七回の輪廻を経て、透に回ってきた。
だが、透が第三を選べば、透の罪ではない苦しみが、透と何の関係もない人間に渡る。
それは。
善左衛門がやったことと、何が違うのか。
自分の蔵を守るために、三十七人を見殺しにした。 自分の命を守るために、誰かを犠牲にする。
同じだ。
同じことだ。
透は、証文を胸の上に置いた。
紙の重みは、ほとんどなかった。 だが、その紙に書かれた文字の重さが、透の胸を圧迫していた。

十四
四十五日目。
透は這って台所に行き、蛇口を開けた。
水が出た。
口を蛇口に近づけ、飲んだ。
冷たい水が喉を通った。
味がした。
水の味だ。
三十七日ぶりに、味がした。
透は泣いた。
涙は出なかった。 だが、泣いていた。
声も出さず、涙も流さず、ただ喉の奥で、何かが震えていた。
水を飲みながら、透は考えていた。
第一を選べば、死ぬ。 だが、来世でまた同じことが繰り返される。 永遠に逃れられない。
第二を選べば、記憶を失う。 透という人間は消える。 だが、負債は消滅する。 来世には引き継がれない。
第三を選べば、透は助かる。 だが、別の誰かが地獄を見る。
透は、蛇口を閉めた。
手の甲で口元を拭いた。
選ぶ。
選ばなければならない。
あと四日で、自動的に第一が執行される。
透は、リビングに戻った。
テーブルの上に、証文があった。
その横に、一枚の紙があった。
透が書いたものだった。 三日前に、震える手で書いたものだった。
遺書——ではない。
それは、手紙だった。
西村修平に宛てた手紙。

「西村くんへ。  
体調を崩して休んでいます。  
迷惑をかけて申し訳ない。  
引き継ぎの書類は、デスクの右端にあります。  
缶コーヒー、ありがとう。  
お前がいてくれて、よかった。  
飲みに誘ってくれて、ありがとう」

透は、その手紙を読み返した。
この手紙を残して、第二を選ぶ。
記憶をすべて差し出す。
曽根崎透という人間を消す。
それが、透の答えだった。
第一を選べば、苦しみは終わらない。 第三を選べば、善左衛門と同じ人間になる。
第二だけが、すべてを終わらせる。
透は、立ち上がった。
ふらついた。 壁に手をついた。
だが、立てた。
「もういい」
声に出して言った。
自分の声が、遠くから聞こえるように小さかった。
「もう、いい」
透は、証文を手に取った。
「選ぶ。第二を、選ぶ」
部屋の空気が、変わった。
温度が下がった。
いや、温度ではない。 密度が変わった。 空気そのものが、重くなった。
男が、いた。
いつの間にか。
リビングの隅に、あの男が立っていた。 同じ黒い背広。同じ白いワイシャツ。同じ古い革の鞄。
「第二を、ご選択でございますね」
「ああ」
「承知いたしました」
男は、鞄を開けた。
中から、一本の筆を取り出した。
古い筆だった。 穂先が黄ばんでいる。 柄は竹で、節のところが黒く変色している。
「こちらの筆で、証文の裏面に、ご署名をお願いいたします」
男は筆を差し出した。
透は、受け取った。
筆には、すでに墨がついていた。 黒い。 濃い。 だが、墨の匂いがしない。
代わりに——
鉄の匂い。
血の匂いだ。
透は、証文を裏返した。
裏面は白かった。 何も書かれていない。
透は、筆を構えた。
穂先が、紙の上に近づいた。
あと数ミリ。
そのとき。
三十七の影が、動いた。
天井から。壁から。床から。 三十七の影が、一斉に透に向かって集まってきた。
だが。
襲いかかってきたのではなかった。
影たちは、透の周りに集まり——
膝をついた。
三十七の影が、透の前に、膝をついていた。
頭を下げていた。
声が聞こえた。

「もう、ええ」
しわがれた声。 あの夢の中で、「米を」と言った声だった。 あの土を食べた老人の声。
「もう、ええんじゃ」
「あんたを恨んどったんは、ほんまや。百八十年、恨んだ。輪廻を七つまたいで恨んだ。けどな」
老人の影が、顔を上げた。
「恨むんにも、疲れたんじゃ」
別の声。 若い男の声だった。 妻を看取り、妻の手を握ったまま死んだ、あの男の声。
「あんたも苦しんだ。あんたの苦しみが、うちらに伝わってきた。同じ飢えを味わった者の苦しみは、嘘がつけん」
女の声。 子どもを抱いていた、あの母親の声。
「うちの子は死んだ。けど、あんたが代わりに死んでも、うちの子は生き返らん。あんたの記憶を奪っても、うちの子の笑い声は戻ってこん」
「選んでくれ」
子どもの声。 小さな、細い声。 母親の体温を最後に感じた、あの子の声。
「あんたが選んだもんが、あんたの答えや。うちらのことは、もうええ」
透は、筆を持ったまま、動けなかった。
声が、続いた。
「善左衛門は、米を渡さんかった。そのことは、忘れん。忘れんけど、もう怒ることはやめた」
老人の声だった。
「怒りいうのはな、腹が減るんじゃ。生きとるときも、死んでからも、恨みは腹が減る。もう、腹いっぱいじゃ。恨みで、腹いっぱいじゃ」

影たちは、ゆっくりと薄くなっていった。
一人。 また一人。
消えていった。
消えていくとき、影たちの輪郭が、ほんの一瞬、温かい色を帯びた。 飢えて死んだ者たちの、最後の、満たされた色。
最後に残ったのは、あの子どもの影だった。
小さな影が、透を見上げていた。

「おっちゃん」
子どもの声が言った。
「次に生まれてきたとき、ちゃんと飯食いや」

影が、消えた。
部屋に、透と男だけが残った。
透の頬を、何かが伝った。
涙だった。
枯れたはずの涙が、一筋だけ、流れた。
頬を伝う涙は、温かかった。 飢えて乾ききった身体の、どこにこんな温もりが残っていたのか。
透は、筆を証文の裏面に置いた。
書いた。
曽根崎 透。
三文字。
書き終えた瞬間、筆が手の中で崩れた。 灰になった。 指の間からさらさらと落ちていった。
証文が光った。
白い光。 文字が光っていた。 表の文字も、裏の透の署名も、すべてが白く光り、そして——
燃えた。
火は熱くなかった。 冷たい火だった。
紙が燃え尽きるまで、三秒。
灰すら残らなかった。
透の中で、何かが動いた。
記憶が、剥がれ始めていた。
西村の顔。 事務所の住所。 母の——名前は、もう思い出せない。 父の背中。 通った小学校の校門。 初めて作った確定申告書類。 大学の講義室の匂い。 高校の体育祭で転んだこと。 定食屋の生姜焼きの味。 冷めたコーヒーの苦み。 窓の向こうのマンションの明かり。 帰るべき場所のない夜。 数字の海。
一つ一つが、ゆっくりと——
剥がれていく。
剥がれるとき、痛みはなかった。 ただ、薄皮が一枚ずつ、風に持っていかれるような感覚。 自分が、だんだん軽くなっていく。 数字の重みも、孤独の重みも、四十二年分の冷たさも、ぜんぶ、軽くなっていく。
透は、目を閉じた。
怖くなかった。
なぜか。
怖くなかった。
あの子どもの声が、まだ耳に残っていた。

「次に生まれてきたとき、ちゃんと飯食いや」

透の唇が、動いた。
「ああ」
声にはならなかった。
けれど。
確かに。
透は、そう言った。
最後に消えた記憶は、水の味だった。
あの日、蛇口から飲んだ水。 冷たくて、透明で、何の味もない水。 三十七日ぶりに味がした、あの水。
うまかった、と透は思った。
水が、あんなにうまいものだと、知らなかった。
その記憶が消えるとき、透は微笑んでいた。

十五
西村修平は、病院の廊下を歩いていた。
リノリウムの床を、革靴の底が叩く。 消毒液の匂い。蛍光灯の白い光。
三〇四号室。
ドアを開けた。
ベッドの上に、男がいた。
目を開けていた。 天井を見ていた。
「曽根崎さん」
西村は、声をかけた。
反応はなかった。
男——曽根崎透は、天井を見つめたまま、微動だにしなかった。
目は開いている。 呼吸はしている。 心臓は動いている。
だが、そこには誰もいなかった。
医師は言った。 原因不明の重度の認知機能障害。 脳に器質的な損傷は見られない。 だが、反応がない。 名前を呼んでも、光を当てても、痛覚を刺激しても。 何も返ってこない。
透を発見したのは西村だった。 四十九日目の朝、いつものようにマンションを訪ね、床に倒れている透を見つけた。 呼吸はあった。脈もあった。 だが、透はもう透ではなかった。
西村は、ベッドの横の椅子に座った。
「曽根崎さん、来ましたよ」
返事はない。
西村は、鞄から缶コーヒーを取り出した。 ベッドサイドのテーブルに置いた。
「いつもの、微糖のやつです」
毎回置いていく。 毎回、手つかずのまま残っている。 それでも、西村は持ってくる。
テーブルの上に、缶コーヒーが三本並んでいた。 先週のと、先々週のと、今日の。 看護師が片付けてくれるのだろう。だが、西村は片付けないでくれと頼んでいた。
いつか曽根崎さんが手を伸ばすかもしれない。 いつか、この微糖のコーヒーを飲んで、「ありがとう」と言ってくれるかもしれない。
西村は、透の顔を見た。
あの夜を思い出していた。
マンションのドアが開いていて、床に倒れている透を見つけた朝。 救急車を呼んだ。 透の身体は信じられないほど軽かった。担架に乗せるとき、西村が片手で持ち上げられるほど、軽かった。
透の手を握った。 骨と皮だけの手だった。 だが、その手は温かかった。
枕元に、一通の手紙が残されていた。 西村に宛てた手紙だった。 短い手紙だった。 だが、その最後の一行を読んだとき、西村は、廊下で声を上げて泣いた。 

「お前がいてくれて、よかった」

 曽根崎透という人は、こんな言葉を、誰かに向けて書くような人ではなかった。 少なくとも、西村が知っている曽根崎は。
だから西村は、思うのだ。 あの四十九日のあいだに、曽根崎さんの中で、何かが起きたのだと。
病院に着いて、医師が言った。 極度の栄養失調と脱水。しかし、なぜこの状態になったのか説明がつかない。 冷蔵庫には食材があった。いや——あったのだが、すべて腐っていた。 部屋の中に、古い紙のようなものの燃えた跡があった。 灰すら残っていなかったが、床の一箇所だけ、妙に冷たい場所があった。
西村には、何もわからなかった。
わからなかったが、一つだけわかっていることがあった。
曽根崎さんは、助けを求めなかった。
何度訪ねても「帰れ」と言った。 電話にも出なかった。 助けを求めることができる人間だったのに、求めなかった。
それは、弱さではないと、西村は思った。
何かから、誰かを、守ろうとしていたのではないか。
西村には、それが誰なのか、わからなかった。
透は、天井を見ていた。
窓から、午後の光が差し込んでいた。 五月の光。 暖かい光。
その光の中で、透の顔は穏やかだった。
苦しそうな表情はなかった。 痩せた頬は少し赤みを取り戻し始めていた。 点滴が、透の身体に栄養を送り続けていた。
西村は立ち上がり、窓を少し開けた。
風が入ってきた。
五月の風。 緑の匂いがした。 どこかの庭から、草の匂いが運ばれてきた。
透の唇が、微かに動いた。
西村は、それに気づかなかった。
透の唇は、小さく、何かを形作っていた。
言葉。
声にはならない、ほんの微かな唇の動き。
それを読み取れる者がいたならば、こう言っていたのだとわかっただろう。

うまい。
風が、うまい。

西村は病院を出た。
夕暮れの街を歩いた。 五月の空が、赤く染まっている。
駅に向かう道。 人通りが多い。 会社帰りの人々が、家路を急いでいる。
西村は、ふと足を止めた。
何かに、気づいたからだった。
視界の端に、人影があった。
電柱の横に、男が立っていた。
黒い背広。 白いワイシャツ。 古い革の鞄。
西村は、男を見た。
男の顔を見た。
覚えられなかった。
見ているのに、見た端から記憶が滑り落ちていく。
男が、歩き出した。
西村の方に向かって。
まっすぐに。
西村は、なぜか動けなかった。
足が、止まっていた。
男が、近づいてくる。
三メートル。 二メートル。
男が、立ち止まった。
深々と、頭を下げた。
「夜分に——」
男は言いかけて、少し微笑んだ。
「いえ。まだ夕刻でございましたね」
男は、顔を上げた。
「回収機構の者でございます」
西村の手の中に、一枚の紙があった。
いつ受け取ったのか、わからなかった。
指先が、痺れた。

五月の風が、街を渡っていった。
夕焼けの色が、少しだけ、暗くなった。

(了)


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