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昭和雑誌列伝③アニメージュを愛した、あるアニメ狂の物語

かつてアニメは子供の娯楽の王様でした。しかし文化として更に発展させようというムーブメントが、アニメ雑誌の創刊ラッシュと言う形で現れることとなります。その旗手はクリエイターにスポットライトを当てるという編集方針を徹底したアニメージュだったのでした。
今回はアニメージュをこよなく愛したあるアニメ狂の物語と、アニメが芸術へと昇華していった時代を綴ります。


今回のOPは『太陽の牙ダグラム』
「Not even justice, I want to get truth 真実は見えるか?」


「大人は去り、若者は立ち上がる」このコピーは齢50を過ぎると身につまされますよ。せめてサマリン博士のように若者に未来を託せる大人になりたいものです。まあ実際には寄生虫デスタンみたいな奴がウヨウヨしてるんですが😁

❶あるアニメ狂の物語


一周年記念の広告

数々のアニメ雑誌の中で僕が一番思い入れがあるのがアニメージュです。昭和48年生の僕がアニメを見始めたのは1978年あたりからなのですが、奇遇にもアニメ雑誌の草分けであるアニメージュが創刊されてたのとほぼ同時期でした。連れて行ってもらった東急デパートの紀伊國屋書店で表紙を見た時「あ、アニメの雑誌があるんだ!」との強烈な印象を忘れることが出来ません。


創刊号の表紙は『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』
アニメファンの第一世代はヤマトから始まったといっても過言ではありません。


第二号の表紙もヤマトでした。当時の人気が伺えますね。


アニメに初めて作家性を持ち込んだと言われる『太陽の王子 ホルスの大冒険』

僕がアニメを特別な存在と認識したのは小学校3年生だった1982年に、美大のアニメ研究会の部長をしていたその筋の猛者との出会いがきっかけでした。通っていた絵の教室の先生の息子さんだったのですが、思春期にリアルタイムで初代『宇宙戦艦ヤマト』を視聴したガチのアニメファンの第一世代でした。
今考えると現在アオイホノオを連載しておられる島本和彦先生や、庵野秀明さんに近い世代ということになりますね。ずうずうしくもお気に入りの『わが青春のアルカディア』の録画を頼み込んだのが縁だったのですが、生涯僕のアニメの師匠とも呼べる存在でした。
師匠は自室に全てのアニメ雑誌と膨大なアニメ関連書籍を所有していました。そのすべてを読破している怪物の「偏った特別講義」を僕は全て真実と思い込んでいましたよ。


師匠が愛読していた「宇宙戦艦ヤマト全記録集 ビジュアルストーリー版」
全話オールカラーのビジュアル版という1979年発行としては破格の内容。各話ごとの作画監督の絵を堪能できます。4500円は現在では3倍ぐらいの感覚でしょうか。


40万部を超えるヒットとなり、アニメージュ創刊の引き金となった
『ロマンアルバム・宇宙戦艦ヤマト』
師匠は何冊も持っていて、一冊貰ってまだ手元にあります。


弟子のヤマトファンの端くれとして色々買い込みました。
ビデオが普及する前はアニメの映像を脳内再生するしか方法がなく、書籍だけが頼りでした。1982年8月発売の東芝V-503Dベータビデオデッキ。定価238,000円。現在だと60万位の感覚でしょうか。当時師匠が愛用していました。
「スーパーのチラシを描きまくった、全部アニパロにしてやったけど。」とのこと😁

師匠はイラストのバイトをしていたので羽振りがよく、その全てをアニメ関係の資料に注ぎ込んでいました。前回お話したようにネットのなかった時代は書籍と雑誌だけが頼りだったので、その蔵書と知識量が直結していたのです。著名な画家だったご両親の血を引くサラブレッドの腕前とあわせて、アニメ仲間からも一目置かれる存在だったそうです。(御夫婦で画家で、父親が絵の教室の先生でした。)
僕が後に足を踏み入れることになるレトロパソコンの分野もそうだったのですが、黎明期のオタク業界はこうした「人間辞めました」を地で行く狂気を孕んだ天才たちが業界の礎になっていたのでした。


1983年公開の『クラッシャージョウ』師匠の敬愛する安彦良和氏の初監督作品。キャラデザ・脚本・絵コンテ・作画監督も兼任しており、安彦氏の世界観が色濃い作品です。


アルフィン姫はその後のアニメ、ゲームの美少女像に大きな影響を与えました。


アルフィンの原画を担当した佐藤元先生のイラスト。師匠は安彦氏の重厚なタッチと元先生のアニメに最適化された簡素なタッチの両方を模写しながら、己の技量を磨いていました。

文化系部活の最大のイベントは学園祭でした。師匠はその目玉となる出し物として当時は珍しかった大判同人誌と『クラッシャージョウ』のアルフィン姫の等身大パネルを計画。とにかく人手が必要ということで、僕は弟子として夏休みに手伝いに駆り出されていました。
午前中は灼熱のアトリエでイラスト制作を手伝い、午後は師匠の解説付きで名作アニメをビデオで視聴するという、今考えるとかけがえのない時間だったと思います。大学生の師匠と小学生の僕では10近く年が離れていたのですが、師匠は僕を子供扱いせずに一人前のアニメファンと認めてくれたのが何より嬉しかったです。


映画館で見ることが出来なかった『地球へ…』もアニメ雑誌に埋もれた師匠の部屋で見せてもらいました。鑑賞後、真っ赤な夕焼けが眩しかったことを覚えています。
月刊OUTはエンタメに徹したオタク向けサブカル雑誌といった印象でした。
この号は禁断の海賊版特集

僕は手伝いの報酬として師匠の蔵書の閲覧を許可されていました。アニメ専門誌でなくサブカル誌の色彩が強かった月刊OUTなんかは気軽に貸したりしてくれたのですが、アニメージュは別格で扱いに厳命を受けていました。

😡「絶対汚すんじゃないぞ!シワがついてたらコロス!」


『惑星ロボ ダンガードA』に登場した元祖美形悪役キャラクター、トニー・ハーケン。何処かに聖闘士星矢の面影が…最前線で活躍するアニメーターたちの技量は抜きに出ていたと師匠は語っていました。

1982年の段階でアニメ雑誌は多数存在し、それぞれのジャンルの文化圏を確立していました。しかし師匠は徳間書店のアニメージュが最も権威が高く、業界関係者からも一目置かれていると力説していました。
師匠いわく『宇宙戦艦ヤマト』以前のアニメは、子供玩具を販売するためのマーケティングが最優先されていました。中には玩具CMの延長がアニメ本編だと嘯く関係者もいたそうです。これは1963年の初代『鉄腕アトム』以来、アニメの制作費が低く抑えられていたため仕方がなかった部分もあったと思います。

しかしアニメージュは「クリエイターにスポットライトを当てる」編集方針を徹底していたため、アニメファンにもようやく創作側の情報が伝わるようになってきたのです。僕も安彦良和さん、富野由悠季さん、宮崎駿さんらをアニメージュで知ることが出来ました。声優という存在を知ったのもこの頃でしたね。

これは安彦良和先生が対談で仰られていたのですが、

「漫画家はいくら若くても『先生』だが、アニメーターはちゃん付けだった。富野由悠季氏だって『とみちゃん』だ。これがメディアの世界での軽重にも繋がっているのではないか。」

戦後のサブカルはやはりマンガが先行しており、アニメは一段低く見られていたようです。これに対してアニメファンの師匠は強い憤りを感じていたのでした。(以下の動画13分辺りから)

これはゲームも全く同じだと思います。ゲーム雑誌によりクリエイターが紹介されることによって、ゲームが天才たちによって創られた「作品」であることが認知されていった流れに類似しているのではないでしょうか。


ガンダムはマーケティングの束縛から制作上多くの規制を受けていたといいます。


アニメのマーケティングは難しい問題です。ガンダムの人気が爆発した一つの要因がガンプラであったことは間違いありません。
その後富野氏が自分の作家性を押し出した作品を創るのには、まず「富野ブランド」を確立する必要があったのでした。


80年代のアニメファンで富野喜幸氏の名を知らぬものはいませんでした。それはアニメージュやアニメ雑誌の大きな功績だったと師匠は語りました。


声優という存在を認知させたのもアニメ誌の功績の一つだと思います。
彼らの演劇力がアニメの芸術性をより高めたと師匠は言ってたっけ。


どのメンバーもレジェンド過ぎてコメントしようがないです。


今回は紹介しきれませんが、アニメ音楽の魅力を教えてくれたのも師匠でした。
レコードを持ってない僕に色々テープをダビングしてくれましたよ。

師匠は芸術家らしくアニメを新世代のアートと捉えていたようです。

「アニメは絵、音楽、歌、物語、そして演技が高度に融合された総合芸術」

というのが口癖でした。多くの天才達が集って創り上げる「作品」であることに強い自負心を持っていたのです。小学生の僕はいまいちピンとこなかったのですが、その後パソコンユーザーになってゲームも全く同じ構造であることに気が付きました。そのことを報告すると

「そうか、いつか日本のゲームとアニメが世界を席巻する日が来るかもしれんな。」

と二人で笑ったことが忘れられません。


PART2 第123話「泥棒はパリで」のワンシーン

ある日いつものように師匠の家に遊びに行くと、怒声が外まで響いてきました。どうやら師匠とお父さんが揉めているようです。どうしてよいか解らず外でまごまごしていると、師匠が憤懣遣る方無い表情で飛び出してきました。僕に気がつくと師匠は気まずそうに「ちょっと一服しようや」と愛用のハイライトを取り出し、

「コイツは銭形のとっつぁんの愛用品なんだぜ。」

と紫煙をくゆせながら、ポツポツと語りはじめました。

「オヤジはな、俺に後を継いで画家になって欲しいのさ。」

「師匠はどうしたいの?」

「俺にはアニメしかねえよ。」

それは僕にではなく、自分に言い聞かせているようでした。

「だけどな、オヤジはアニメを子供の遊びだと思ってやがる。」

「僕は…よくわからないけど先生と師匠が仲良くしてほしいな。」

師匠は微笑みながら

「そうだな、いつかオヤジに解らせてやるさ。アニメが偉大な芸術だってことをな。」

真夏の日差しの中、遠くを見つめる師匠の瞳には並々ならぬ決意が漲っていました。小学生の僕でも「こういう人がプロになるんだな。」とおぼろげながら感じたことを今でも覚えています。


特集されていたのが師匠の敬愛する安彦先生でした。

1983年の秋に大学の学園祭が開催されました。幼馴染のFM7くんと連れて行って貰ったのですが、とにかくアニメファンの熱気に圧倒されました。気軽に見ていたアニメをここまで追求する人達が存在するというのが衝撃でしたね。
驚かされたのはアニメ研究会の部員全員が恐ろしく絵が上手いことでした。頼んだアニメキャラのイラストを、即興で描くという信じられないイベントをやっていたんです。上手いだけじゃなく描くのがムチャクチャ早いんですよ。僕は当時お気に入りだった『銀河漂流バイファム』のロディを描いてもらいました。確か2分ぐらいだったと思いますが、師匠いわく「芦田さんのキャラは線が少ないから描きやすいよ。」とのことでした。


『銀河漂流バイファム』は忘れ時の作品。師匠に教えてもらって似顔絵描いたなあ。


1982年07月号。『風の谷のナウシカ』は82年2月号から連載され、アニメファンの中で大きな話題になっていました。

僕とFM7くんが目を丸くして驚いていると、彼らは笑いながら

「今君らが見ているアニメを創ってる安彦良和さんや美樹本晴彦さんは俺たちの100倍上手くて早いよ。」

と答えてくれました。師匠がアニメージュを持ってくると、連載が始まっていた『風の谷のナウシカ』を見せながら

「作者は宮崎駿という人なんだが、アニメ製作と掛け持ちで描いてるらしいぜ。」

と、信じられないことを教えてくれました。

その他にも小学生の僕らには全然知らないような面白い蘊蓄を散々教えて貰った後、師匠が言った言葉が今でも忘れられません。

「君たち、今週何本アニメ見てる?」

「うーん10本、いや再放送も入れればもっとかなあ。」

「こんなことができるの、世界で日本だけらしいぞ。」

「え!そうなの?」

「米国のディズニーアニメは凄い。でも毎週放送するのなんて不可能なんだ。君たちが大好きなロボットや美少女も、日本でしか創れないアニメなんだぜ。」

この言葉に部員たちが大きく頷きます。子供心にも彼らアニメファンが

「自分たちは誇るべき日本文化の最前線にいる。」

という強い自負心を抱いていることを感じました。アニメが市民権を得ていない時代、まだ偏見のあったアニメという文化を「クールジャパン」の代表格にまで押し上げたのは、こうした名もないアニメファンの熱意にあったと思うのです。


作家性の強い『風の谷のナウシカ』よりも師匠は衝撃を受けたそうです。近い世代の庵野秀明氏らがこれだけの作品を創り上げたことに強烈な焦りを感じたのでした。

それから暫く時が経ち、僕が中学二年生になった1987年のこと…行きつけだったアニメイトでばったり師匠に再会しました。師匠は某アニメスタジオで多忙な日々を送っていました。

「今からアニメ見に行かないか。」

「行きたいけどお金が…」

「へへっ。心配するな、タダ券が山ほどあるからよ。」

「オネアミスの翼?なんか凄いつまんないって噂だけど…」

師匠は凄いおっかない目で僕を睨みつけ

「俺はもう10回は見た。見てから文句言うんだな。」

これは地雷を踏んだな…諦めて映画館に入ると、ビックリするほどガラガラだったのでした。山のようなタダ券、バンダイが鳴り物入りで制作、閑古鳥のなく映画館と、これ以上ない地雷フラグが立ちまくっていたので全く期待していなかったのですが・・・

坂本教授作曲のモノローグが永遠に続くようなオープニング曲に、ただただ圧倒されたことを覚えています。僕は残念ながら、あの時の異常な興奮を皆さんに上手くお伝えすることが出来ません。しかし今まで見てきたアニメ映画とは全く異質な作品であることは理解できました。
美少女と程遠いヒロイン、主人公に関係なく延々と続く戦闘シーン。しかし画面からほとばしる圧倒的な創り手の情熱は、全てを凌駕していたのです。


バンダイに恨みはないのですが、一時期版権もののパソコンゲームを狂ったように発売していました。出来はお察しください😅
ゴジラ・エルガイム・ガンダム・キン肉マン・仮面ライダー・マジンガ―Z・ウルトラマン・バイファム・凄すぎません?ちなみにこの中で一番面白いのがオリジナルの『サザンクロス』なのが涙を誘います。開発はハドソンだけど。
怒るエルガイム大宇宙は火の海!大都市壊滅か!ジオン軍の勝利か?と煽ってます🤣


オネアミスの翼は業界からも注目され、アニメ雑誌でも盛んに取り上げられました。


アニメージュ87年6月号で「渡辺繁 創世記のTV特撮のあの熱気をとりもどしたかった」というコラムを掲載しています。 (ファンタジーではなく)世界を厳然たるリアリティを持って描くこと、その上で『宇宙旅行』という夢を持った出来事を描き、その努力や行動を肯定的に描くことによって、現代の若者の圧倒的な支持によって受け入れられることと信じます。(企画書より)

帰りの電車の中、師匠は意外にも不機嫌そうでした。後に聞いた話では年齢の近い庵野氏らがこれだけの作品を完成させたのに、自分は駆け出しのアニメーターだったことを不甲斐なく感じていたのだそうです。

「師匠教えてよ、なぜ…」

「ん?」

僕はどうしても知りたかったのです。

「こんな凄いアニメが不人気なの?」

僕も少しだけ大人になって『王立宇宙軍 オネアミスの翼』が誰かに見てもらうために作られた「商品」ではなく、自分たちの創りたい「作品」であったことがおぼろげながらに理解できたのです。それが師匠の言っていた「芸術」であるということも。

「これは俺達の敗北なんだ。」

「はいぼく?」

「この作品が受け入れられないのは日本のアニメ文化が未成熟だからだ。だが見てろ、俺はやるぞ、死んでもやって見せる。」

おちこぼれであった主人公が奇跡を起こす…極論すればこれが王立宇宙軍の物語の全てです。師匠はその光景を自分に重ね合わせていたのでした。


その後『オネアミスの翼』は伝説となり、GAINAXの精神的な支柱として語り継がれていくことになります。ネット創世記のGAINAXのサイトにはオネアミスの翼のイラストが多数掲載されました。




❷輝いていたアニメージュの表紙


どうしてもと駄々をこねて買ってもらった『サイボーグ009』まだ漢字も読めない幼稚園生だったのに、我ながらよくやると思います。

かつて本屋さんの雑誌コーナーでひときわ輝いていたのはアニメ雑誌の表紙でした。ビデオが普及していなかった時代、お気に入りのアニメを手元においておくにはアニメ雑誌しかありませんでしたからね。大好きだったキャラが表紙を飾っていると、レジに持っていく誘惑に抗しきれませんでした。
そんな訳で特に思い出深い初期のアニメージュの表紙を時代順に紹介します。

1978年9月号『100万年地球の旅 バンダーブック』


やはり日本のアニメの始祖は手塚治虫先生だと思います。実はアニメージュは手塚先生をあまり取り上げていなかったのですが、この点師匠は「手塚先生はすでに著名な作家だったから、アニメージュは無名だったアニメクリエイターを押す方針だったのでは。」と解説していました。

1978年10月号『科学忍者隊ガッチャマン』



劇画とアメコミ、そして戦隊物の融合という日本アニメ史に残る作品。テレビアニメとして限界に近いセル画を使用した「動きの美しさ」でも有名です。
物語ではコンドルのジョーのキャラクター性が際立っており、終盤の劇的な展開では殆ど主役と言って良い扱いに。ついには表紙を飾るに至りました。(この時期はIIですが💦)

1978年11月号『キャプテン・フューチャー』




NHKの『未来少年コナン』に続く連続アニメ第二弾。ロボットアニメとは違った本格的なSFメカニックが印象的でした。SF考証も現実の科学考証を重視された作風となっています。

1978年11月号『闘将ダイモス』



この引手を構えた正拳突きのポーズが最高に決まっています。

巨大ロボットが豪快に空手でシバキまくり、相棒はアフロヘアーにサングラス、常に日本刀を背負っているというかなりイカレたな世界観でした。超電磁ロボ>超電磁マシーンときて闘将ですからね。アニマル浜口かよ!🤣しかしモチーフは『ロミオとジュリエット』というロマンティックさとのギャップが本作の魅力です。

OPは最高で、視聴中はいつも暴れないと気が済みませんでした。夕月京四郎のマネをしておばあちゃんの物差しを振り回していたら、花瓶をぶっ壊して家の外に放り出されたくらい😁ダイモスの残心を切るシーンは今見ても胸アツです。最終回のトランザーで特攻をかけるシーンが忘れられません。

1979年1月号『野球狂の詩』


野球狂、水島新司先生の最高傑作として疑わない作品。水原勇気は他の美少女キャラにはない凛々しさと可憐さが同居していました。20:00からの1時間枠という現在でも殆ど見られない野心的なアニメで、堀江美都子さんの歌う独特なOPも人気だったそうです。


毎週放送ではなく「毎週登板!水原勇気」のキャッチがいいですね。

唯一無二の左のアンダースローの美しいフォームが話題に。ファンタジックなSEと共に、女性独特の腕のしなりから宙に舞うような華麗なフィニッシュは圧巻!水島先生の世界をここまで再現したアニメーターの神業に脱帽です。この動きが1978年とは信じられませんよ。是非動画を見てください。
師匠は「現実のプロ野球というリアルな動きが提示されている以上、適当な描写ではファンは納得しない。制作現場の苦労は大きかったのでは。」との解説してくれました。


ドラマチックな背景を持つ水島ワールドキャラの極め付きが火浦健。育ての親を殺した暴力団組長に日本刀で報復し、傷害罪で服役した過去を持つという、今の少年誌では考えられないハードな設定です。しかし野球をひたすらに愛するキャラクターは、東京メッツという球団に不思議なほど溶け込んでいました。
水木一郎さんが歌う『北の狼 南の虎』はまさに昭和ド演歌の世界で、「野球狂の詩」屈指の名作をアニソンに落とし込んでくれました。ラストで生き別れになったお母さんを抱きしめるシーンは最高の名場面です。



ヤフオクから。なんで昭和の表紙はこんなに輝いてるんでしょうね。


何といぶし銀の芦田哲が表紙に、渋すぎ!『どしゃぶり逆転打』は名作でした。
スーパースターでなくとも直向きに野球を愛するメッツナインの奮闘は、今なお人の心を打ちます。


原作は僕を野球狂へいざなうきっかけになりました。この話はまたいずれ…

1979年4月号『ルパン三世 (TV第2シリーズ)』


僕はルパン三世の再放送で育った世代です。学校から帰ると何時もルパン一家の痛快な冒険劇が繰り広げられていました。しかし生放送で見たPART2と再放送のPART1では全然雰囲気が違っていました。同じ作品でも作り手によって全く違う世界が描かれることを教えてくれた作品です。
アニメージュは宮崎駿先生を猛烈に推しており、これが『風の谷のナウシカ』からスタジオジブリ設立に繋がっていくアニメの一大潮流を生み出しました。


PART1の雰囲気を色濃く残した『ルパン三世 ルパンVS複製人間』


プロモーションは大人向けの映画を意識していたようです。「アニメは子供向け」という既成概念に挑戦したこともルパン三世の功績の一つだと思います。


やはり僕はこのメンバーの声が染み付いてしまってます。


主役を張れるキャラクターが5人も揃っている反則級の作品とも言えますね。


ルパン三世はどれも名作ですが、やはり『カリオストロの城』が一番好きです。


誰にも心を許すことのない不二子の象徴たるバイク。極め付きの悪女とは言え、やはりカッコ良さでは抜きに出ていました。


、巨大な骨董品対戦車ライフル「シモノフPTRS1941」を拳銃のように振りまわす次元大介。現実ではありえないアニメ的な演出に、師匠は学ぶところが多かったそうです。


『宮崎駿・大塚康生の世界』まだ無名に近かった1982年、両名が関わってきた作品からカラー図版、設定資料、絵コンテを中心に収録し、B5判ハードカバー、318ページという密度の濃い資料集として刊行された貴重品です。アニメショップでごく少数発売され、師匠も当然持っていて自慢していました。


1985年に再版されていますが相当貴重で、現在では強烈なプレミアが付いてます。


カリオストロの城はMSXでゲーム化されていて傑作なんですよ!いつか必ず特集したいです。え、バビロンの黄金伝説?これはMSX版は忘れてください💦

1979年7月号『海のトリトン』



手塚治虫原作、ヤマトの西崎義展氏初プロデュース、富野喜幸氏初監督作品というアニメ史にとって非常に重要な作品です。劇場版が公開されたこともあるのですが、1972年という7年前の作品が2ヶ月連続で特集されたということに編集部の推しが感じられます。まだビデオが普及していなかったので、テレビ版を再編集した劇場版が公開される時代でした。
「GO! GO! トリトン」は現在でも歌い続けられる名曲ですよね。甲子園でブラスバンドの演奏を聞くとこのOPが脳裏に浮かびます。


1979年10月号『新竹取物語 1000年女王』


『銀河鉄道999』で爆発的なブームを巻き起こしていた松本アニメの総決算的な作品。映画版テレビCMの「1000年女王は、メーテルなのか?」というコピーが有名ですね。実際にはメーテルの母・プロメシュームの物語なんですけど💦


松本零士先生の描く美女の儚さと艶っぽさは神がかっていました。


映画パンフには読者から寄せられたイラストが掲載。ところがとんでもない秘密が…

原作漫画は新聞連載で、1000年女王にちなんで全1000回と豪快な企画でした。休載となる日曜版では「1000年女王ひろば」という投稿コーナーで読者からのイラストを掲載していたんですよ。これが映画パンフレットに掲載されていたので45年ぶりに見返してみたら、「とんでもないものを見つけてしまった!どうしよう⁉︎」てなネタを発見してしまいました。

真ん中らへんの投稿に「中沢数宣」というクレジットありますよね。この中沢数宣さんは高校生の時にエニックスから発売された伝説的パソコン用アドベンチャーゲーム「ザース -人工頭脳オリオンの奪還-」で原画を担当されていたんです。珍しい名前だし住所も同じなので多分間違いないと思うんだけど💦
その後ガンダムなど数々のアニメ作品でも活躍され、ゲーム雑誌にも多くのイラストを提供されています。前回の『昭和雑誌列伝②テクノポリス編』でも紹介したのでよかったら覗いてみてください。


しつこいですが、MSXユーザーにとってザースは特別な作品です。


1981年9月号『わが青春のアルカディア』


多分唯一松本零士先生のイラストがアニメージュの表紙になった号だと思います。キャプテンハーロックには想い入れがありすぎて書ききれないですよ😅こうなりたいというキャラでなく、ハーロックに認められる男になりたいと感じる唯一無二のキャラクターでした。

東映動画を代表するキャラクターデザイナー小松原一男氏の描くハーロック。
かっけえ!小松氏の描くハーロックには松本先生とはまた違った魅力があります。


これまたアニメショップでのみ販売されたハーロック資料集。師匠が持ってたなあ。

1981年11月号『うる星やつら』



1982年10月号 うる星やつらはかなりの長寿放送だったので、美少女アニメの進化を感じることが出来ました。


押井守氏劇場版アニメ初監督作品『うる星やつら オンリー・ユー』
師匠はこの映画看板を家に持ち込んで、お母さんに怒られていました。

『うる星やつら』とラムちゃんについては散々こすってきたので手短に😅やはり美少女アニメの元祖だと思います。

1982年5月号『戦闘メカ ザブングル』



スポンサーのクローバー社から発売された玩具。僕はウォーカー・ギャリアのデザインがどうしても好きになれず、ザブングルのプラモを購入した記憶があります。


ウォーカーマシンの独特のデザインも魅力でした。

西部劇をモチーフにした革新的なロボアニメで、『伝説巨神イデオン』『機動戦士ガンダム』と違って単純明快な娯楽活劇が小学生の僕にはドハマりしました。どこか浮き世離れしたアムロよりも、ハンドルとアクセルで強引にザブングルを操縦する三枚目のジロン・アモスの方が感情移入できましたよ。ガンダムとはまた違った青春群像劇の傑作だと思います。物語の結末もエルチとよりを戻すというラブロマンス的展開が、「皆殺しの富野さん」として異例で嬉しかったです。
串田アキラさんの熱唱とシンクロしたOPは神がかっており、毎週弟と熱唱して「うるさい!」と母上にラグ・ウラロばりのビンタを頂いてました😁

1982年8月号『伝説巨神イデオン』




常に師匠に服従してきた僕が、「面白さが理解できない」と唯一反逆した作品です。師匠はその神話的世界観や演出方法を絶賛しており「ガンダムよりむしろイデオンの方が富野さんの精神世界を投影している。人間の超えられない業を極限まで描き切った物語だ。」とまで語っていました。

一方僕は「あまりにも死の匂い」が濃すぎる作風が生理的に最後まで馴染めませんでした。物語も根本的に地球人とバッフ・クランが泥沼の戦いを続ける意義を見出せませんでしたよ。宇宙戦艦ヤマトのガミラス星と地球はお互いの存亡をかけた戦いなので、悲しいことですが理解できます。しかし滅びた異星人文明の遺跡を巡っての殺し合いなんて、僕だったらまっぴら御免です。

設定ではバッフ・クランも「人間」なのだそうですが、僕達はこんなにも愚かなんでしょうかね。これならサイコパスな「赤いなんちゃら」の狂った復讐心の方がよっぽどマシです。最終回は「うわあああ」と頭が真っ白になったことを覚えています。

師匠は「本当の結末は事情があって劇場版で完成したんだ。」と、わざわざビデオで接触篇と発動篇を解説付きで見せてくれたんですが、僕の認識は変わりませんでした。あのお互いが憎しみ合った末の人体破壊描写は見るのがツラすぎましたよ。ある意味爽快な『北斗の拳』などとは全く意味合いが違っていました。せめて新たな宇宙に転生した人々が、いつか融和を果たしてほしいと願うばかりです。

ただイデオンには熱狂的なファンが存在し、アニメという表現方法の限界に挑んだ名作だということに異論はありません。今考えると青年期に見れば印象が変わったかも知れませんが、子供の精神状態では受け入れ難かったのかも知れませんね。またすぎやまこういち先生作曲の『復活のイデオン』は大好きで、僕のカラオケの定番です。

1987年11月号『ベルサイユのばら』


この頃になるとアニメージュもかなりエンタメ色が強くなってきました。この号の特集は「THE美形’87ベルバラから星矢まで」
美形キャラのオリジンとしてオスカル様が登場。やはりその凛々しさは抜きに出ていました。きゃー、オスカル様ステキー😍

1989年11月号『銀河英雄伝説』


なんでオタクは男も女もパツキンに弱いのか・・・😁

元々僕は銀河英雄伝説の原作の大ファンで、田中芳樹先生の深い歴史教養をベースにした大河ドラマに感銘を受けて現在に至ります。SF小説の形を取っていますが、本質は歴史群像劇だと思います。
アニメ版が発表された時は不安でしたが、全110話のOVAという信じられない企画であの壮大な世界を完全に再現したことに感動しました。BGMにクラシックを多用した演出も秀逸でしたね。僕の高校の音楽の先生もファンで「相当音楽史に詳しいやつが選曲している。」と唸ってましたっけ。あのクオリティを維持したまま完結させたこと自体が、日本のアニメ史に残る偉業ではないでしょうか。

忘れもしない1988年にアニメ化された時は、漫研の女の子はほぼ全員ラインハルト閣下の愁いを帯びた眼差しにKOされていました。ヤン派だった僕は「あいつただのシスコンじゃねえか。」と軽口叩いたのが運の尽き、暫く誰も話してくれなくなりました。あれだけビデオをダビングしてやったのに!恩知らずのキラー・カーンかよ。あまりにもムカついて、中身を『くりいむレモン』に入れ替えてやろうと思いました😜


流石にLD版は購入できず、レンタルビデオをダビングしてました。
それを漫研の女の子たちに横流ししてあげたのに…😭


あれだけの登場人物を描ききったアニメ作品は見たことがありませんでした。軍服のデザインなどビジュアル面も素晴らしかったです。


相容れぬ哲学を持つ二人の英雄が激突する…まさに英雄たちの伝説です。
僕は今でもヤン派ですが、どちらが正しかったのか今でも自問自答することがあります


もちろんMSX版もやり込みましたよ。ただ初代はラインハルトしか選択できないんだよなあ。どんなときもMSXネタを挿入するのが僕のポリシーです。

❸魅惑の付録たち


1984年2月号付録イラストカレンダーの表紙。
アニパロの元祖、浪花 愛さんのイラストがカワイイですね。

アニメ雑誌は特別付録がお約束でした。各紙頑張って特色を出していましたね。僕は超金欠だったので、付録目当てでどうしても欲しい号だけ購入していました。そんな中で想い出の付録を紹介します。

まずは定番だったイラストカレンダー。当時の人気アニメーターのイラストボードが堪能できる人気企画でした。


いのまたむつみさんの描く『プラレス3四郎』


アニメはやっぱり桜姫を出してほしかったです。


『超時空世紀オーガス』人気だったモームちゃんの小学生姿が素敵。


1985年1月号イラストカレンダーの表紙。
麗しの着物姿ですが、細かい色彩は大変だったと思います。


『名探偵ホームズ』お蔵入り状態だった本作をアニメージュは猛プッシュ。


85年の裏表紙は浪花 愛さん


1986年1月号ふくやまけいこさんのナウシカオールスター


裏表紙はこれまたアニパロの大家、佐藤元先生


1987年1月号はあさりよしとお先生が担当


ゲーム化もされた『女神転生』


人気OVA『戦え!!イクサー1』


完全に主人公を喰っていた『マシンロボ クロノスの大逆襲』のレイナちゃん。


87年の裏表紙も浪花 愛さん

1986年は太っ腹にも年賀状カードも付録に付いてました。もったいなくて使えなかったけど。


『魔法のスターマジカルエミ』いつも一生懸命な舞ちゃんが印象的でした。


もはや伝説となった魔法少女『魔法の天使クリィミーマミ』


悲しい定めを背負っったフォウ・ムラサメ


決して美少女キャラではないですが、本当の美しさを秘めた『小公女セーラ』の全員集合。しれっと極悪人のミンチン院長が😁

アニメージュ付録のもう一つの目玉は特性トランプ。52枚のイラストや名場面が楽しめるという太っ腹な企画で、これこそもったいなくて使えなかったです。


マクロスは何と美樹本晴彦先生のイラスト52枚


『風の谷のナウシカ』は名場面を抜粋


『天空の城ラピュタ』ではなくシータトランプというのが解ってますね。


定番のカセットレーベルも

アニパロは月刊OUTが本家ですが、アニメージュも追従してました。


1982年のアニパロ


これにも豪華イラスト集が付属してました。


あまりにも可愛すぎる『おはよう! スパンク』

人気アニメは別冊特集がお約束でした。贔屓アニメの時はどうしても欲しくなりますよねえ。


超絶人気だった『魔法の天使クリィミーマミ』


この付録の目玉はこの水着ポスター。悪友のFM7くんが勉強部屋に貼ってました。
こんなのあったら勉強に集中出来ないだろ🤣


アニメージュが猛プッシュしていた。『名探偵ホームズ』


もちろん数多くのポスターも付録になりました。『あしたのジョー』は完璧ともいわれる原作を更に昇華させた、漫画原作アニメの最高峰だと思います。出﨑統さんの演出は細かい部分にも徹底されていました。
一例として『あしたのジョー2』で、ジョーとゴロマキ権藤が待ち合わせるうらぶれた居酒屋の前の繁華街のシーンで、スペースインベーダーのSEが使用されたりしています。当時のゲームセンターが、まだ反社会性を帯びていたことを念頭においた秀逸な演出だと思います。これは師匠が出﨑統氏の演出を研究していて、散々見させてもらったから気がついたんですけど😅


『あしたのジョー』を最も体現したキャラとも言える力石 徹。
その狂気を余す所なく描いた1枚


この作品は元格闘家として改めて特集したいです。

❹師匠よ永遠に…破れざる者たちへ


師匠に最後に渡したアニメージュ1995年11月号。

新世紀エヴァンゲリオンが放送開始された1995年末、僕が名古屋の大学から帰省すると師匠が入院していると母から聞かされました。慌てて病院に駆けつけると、すっかりやせ細ってしまった師匠の姿に愕然とします。それでも買ってきたアニメージュを見せると、嬉しそうに

「な、俺は庵野秀明さんは必ず時代を変えるって言ってただろ。」

と笑顔で答えてくれました。『トップをねらえ!』『ふしぎの海のナディア』は師匠の一推しで、この両作品がいかにヤマトから影響を受けたのか、かつて僕に熱く語ってくれていたのです。


実家は近所だったので、今は亡きガイナックスには特別な思いがあるのでした。


「師匠、エヴァについても解説してよ。」

「駄目だ…俺は最後まで見届けられない。」

師匠は自分の死期を悟っていたのです。

「しかし俺はアニメファンとして何も残せなかったな・・・」

そう寂しそうに呟く師匠を、僕は思わず怒鳴ってしまいました。

「バカなこと言うなよ、師匠が教えてくれたアニメの知識、僕は一生忘れないよ!」

「・・・ありがとう」

それが師匠と交わした最後の会話になりました。師匠は美大を卒業したのちあるアニメスタジオで働いていたのですが、過酷な環境に持病で体力的に続けることが出来ず、入退院を繰り返していたのです。大学時代は同人誌を出版しコミケにも積極的に参加していたようですが、体調を崩してしまってからは自宅にこもることが多くなっていました。


『トップをねらえ!』には様々な往年の作品のオマージュが盛り込まれていました。
師匠はそれを逐一解説してくれたのです。


『ふしぎの海のナディア』は「NHKだから超金かかってるぞ!録画しとけ」と師匠に脅されて、全話録画したっけ🥹自分の果たせなかった夢を、同世代の庵野さんに託していたのかもしれません。

訃報が伝えられた時、当時の僕は現実の死ということを受けいる事ができませんでした。もしアニメの神様がいるのだとしたら、なんて残酷なんだろう…そんな思いを噛み締めて葬儀に参加したことを覚えています。葬儀場にはかつてのアニメ仲間が集っていました。

「君は…あの時の坊やかい?」

「あ、お久しぶりです。」

それはかつて学園祭でお会いした、師匠の右腕だった副部長でした。

「あいつほどアニメを愛した奴はいない。」

その言葉に皆が頷きます。

副部長さんの発案で、棺には師匠がこよなく愛したアニメージュが添えられる事になりました。参列者は想い出の号を手に取り棺に添えると、静かに眠る師匠に何か語りかけていました。きっと師匠がドヤ顔で語ったうんちくについてお礼を言っていたのでしょう。花束に包まれるようにアニメに包まれながら、師匠は新たなる世界へと旅立っていったのです。


ヤフオクから。師匠の想い入れのある初期のものが選ばれました。

その二次会で泣きながらアニソンを歌いまくった帰り道、僕は自分の不甲斐なさを恥じました。絵もプログラムも一向に上達せず、かと言って努力もせずに将来の目標もない自分を…この時期ちょうど愛読していたMSXFANが休刊し、僕は実質MSXユーザーではなくなっていました。完全に「自分は何者か」という支柱を失っていたのです。

確かに師匠は形になるものを残せなかったのかも知れません。しかし「アニメを愛する」というアイデンティティを生涯貫いたのでした。


ここらへんは暗記するほど読んだって言ってたっけ。



師匠の死は僕に「自分はどの道を進むべきか」を問う大きな切っ掛けになりました。そして就職氷河期の理不尽な扱いが決定的な契機となり、格闘技に自分の本質を見出します。
この世界は本当に過酷で、50戦を超える戦いの中で僕は大した実績を残すことは出来ませんでした。しかし道は違えど師匠を超えるべく、完全燃焼したという自負があります。そして体を壊して引退した現在、今の自分に至ることになった作品たちへの想いをこうして綴っているのです。


2008年35歳の僕、一応全盛期です。アマ総合格闘技の試合前日の写真で、減量直後なので体脂肪は14%ぐらい。僕が格闘技について語らないのは、喋りすぎて色々な人に迷惑になるかも知れないからです😁


グローブを吊してしまいましたが、僕の戦いは今なお続いています。

僕は今でも忸怩たる思いがあります。それは精神的に摩耗してしまった師匠に、本当の感謝を伝えられなかったことでした。
栄光を掴んだ天才たちの影には夢破れた多くの屍が横たわっているということを、当時の未熟な自分では認識できませんでした。歴史に残る天才は、名もなき熱意ある人々からから生まれてくるのです。ほんの僅かな運やめぐり合わせで、栄光を掴み損ねた天才を僕は何人も見てきました。また僕のように根本的に才能が足りず、表舞台に上がれなかった人も数知れません。

しかし彼らは本当に敗者なのでしょうか?

黎明期の総合格闘技やパソコンを体感した僕は、多くの若者の熱気がそのジャンルを飛躍させたという実感が強くあります。そこにはコスパタイパを崇め、情熱を嗤う人々と真逆の世界がありました。

弛まぬ努力と研鑽の日々を経てその道に殉じた師匠の人生を、僕はずっと追い続けて来たような気がするのです。

齢五十を超えようやくたどり着いた真理…それは師匠はアニメの師ではなく、僕にとって人生の師であったということなのでした。

師匠は庵野さんの最高傑作を見届けることなく逝ってしまいました。



❺果てしなく続く道を皆さんと…


現在僕が持ってるのはこのあたりです。

今回はテクノポリス編の続きで、同じ徳間書店のアニメージュの特集しようと思っていたんですよ。そうしたらどうしても師匠との想い出が蘇ってしまい、こんな感じの訳のわからない投稿になってしまいました。相変わらず読みにくくてスイマセン🙇


マニア系雑誌の先駆けだった徳間書店の『月刊少年キャプテン』師匠が愛読していて、貸してもらっているうちにドはまりしていました。メジャー漫画雑誌にない独創的な作品が多く、連載陣も実力派揃いでした。


師匠に最後に差し入れた月刊少年キャプテン1995年6月号

最後はかなりエモーショナルな内容になってしまいましたが、これは僕の偽らざる心境です。noteやTwitterの迷宮を徘徊している最中、頭のおかしい「推し」をやっているフォロワーさんを発見すると、つい師匠を思い出して嬉しくなってしまいますよ。好きな物事を徹底的に追い求める姿勢は僕にとって尊敬する対象であり、自分が目指す道もまたそこにあると思うからです。

僕はこれからも自分の愛した事柄を、果てしなく追い続けていこうと思っています。そして今の自分が有るのは、素晴らしい作品と仲間たちに恵まれたことだと改めて感じたのでした。今回もこんな駄文を最後まで読んで頂いた皆様に、心より感謝したいと思います。

最後に偉大なる我が師匠に、この投稿を捧げます。

                      サイボーグMSX

僕は正直アニメ分野はド素人なので、記述で間違いがあればコメント欄でお知らせください、直ぐに修正いたします🙇‍♂️

いつもスキ💛や凍結された僕に変わってのXでの紹介ポスト、暖かいコメントなど感謝です🙇皆さんとの繋がりが次の投稿への励みになるんです🥹 


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