昭和のお正月雑誌特集①パソコン、アニメ何でも来い!
皆さんは子供の時お正月どうしてましたか?僕は速攻お年玉でMSXのゲームを購入。まごまごしてると母上様にローンの返済で使われてしまう恐れがあるからです。特番のTVアニメを見ながらゲーム三昧の三が日。合間にゲーセンは正月から開いているので、そこでゲーム仲間と新年の挨拶を済ませ、8日のパソコン雑誌の購入で幕を閉じるという感じでした。
実は1月号の雑誌は前年の12月に発売されているのですが、年末商戦もあって特集が1年で最も充実していて見ごたえがありました。今回は80年代の各種雑誌を眺め読みしながら、あの懐かしい時代にタイムスリップしましょう。
それでは2026年、サイボーグMSX劇場の開幕です!

改めまして明けましておめでとうございます🎉今年もよろしくお願いします🙇♂️皆さんにとって素晴らしい一年になりますように、心から祈っています。
今年もトップはめぞん一刻の響子さんに登場して貰いました。

年賀状もワープロに移行していた時期ですね。そんなわけで高橋名人に年賀状を出してはどうでしょう(ホントに出しちゃダメですよ😅)実はハドソンはワープロなどビジネスソフトも出していたんですよ。

PlayStationとのゲーム機最終戦争の決戦兵器としてセガが投入したせがた三四郎。カジュアルにゲームを遊ぶという、PSと真逆の方向に全力疾走した漢です。
『真面目に遊ばぬ奴らには 体で覚えさせるぞ』
それはセガサターン敗北確定への道でしたが、彼のゲームへの想いは機種を問わず全ゲーマーの心に響いたのでした。2026年僕も負けずに熱い投稿しますよ!
❶恒例のお年玉企画

1月号の目玉はお年玉の特別付録でした。各誌で特色を出していましたね。パソコン雑誌の定番はフロッピーディスクのラベルシール。僕は1986年までFDDの無いMSX1を使用していたので、超絶羨ましかったです。

うる星やつら、めぞん一刻など高橋留美子先生キャラCGのフロッピーディスクラベルで~す。ちゃんと5インチ版と3.5インチ版もあるので印刷して使ってね😉
これは元々投稿CGなのですが、今見てもレベル高いですね。しかし考えてみると、自社の版権を利用した投稿CGはプロに発注する必要がないので経費はタダ同然だったはずです。小学館は商売が上手いなあ。
もう一つはカセットレーベル。80年代を通じてカセットテープは音楽の主流媒体でした。1989年ですと投稿CGも8ビット御三家、MSX2、X68Kと機種も多彩です。しかし見事に美少女CGばっかりですね。


今でも「Final Take Off」を聞くとテンションMAXです!
CGだけでなくオリジナルイラストのカセットレーベルも定番でした。80年代中期ごろからゲームミュージックが独立した音楽として認めされ始め、アルバムなども多数発売されました。しかし万年金欠のゲーム少年たちに3000円はキツイ出費。当時流行っていたレンタル屋さんでもGMは殆ど置かれてなかったんですよ。ですから仲間同士で別タイトルを購入し、ダビングしてもらうのがお約束でした。これは僕が当時死ぬ思いして購入した忘れじのアルバムです。え、MSXのタイトルがないじゃないかって?MSXのゲームは自分で実機録音していたんです。MSXどころかゲームの上手い奴に頼んでゲーセンで録音したこともありました。この話はまたいずれ…



しかし市販のテープに手書きのラベルだと「パチモン」感がアリアリで、雑誌の切り抜きを流用したり、絵の上手い奴はイラストを描いてオリジナルのラベルを作っていました。そんな中でこういった雑誌の付録は嬉しかったですね。



1月号は付属のカレンダーも楽しみでした。80年代後半になるとパソコンゲームもビジュアルが進化し、今見ても素晴らしいイラストが多数使用されました。
❷パソコン少年の友ログイン

「コンピューターでしまいにゃ笑うぞ‼️」

80年代は様々なパソコン雑誌が鎬を削りましたが、僕はログイン派でした。
ビジュアル面ではウィザードリィの末弥純先生とザナドゥの横山宏先生の超強力二枚看板が誌面を牽引。今考えるとこのお二人がイラストを提供してるなんて贅沢過ぎる構成です。


充実した連載もログインの魅力でした。当時アスキー編集部は業界人の総本山という雰囲気があり、その豊富な人脈から各方面の巨匠が筆を振るっていました。安田均先生や堀井雄二先生からゲームの本質について、鹿野司 先生からは科学の可能性について学ぶことが出来ました。いつかログインの想い出については特集したいですね。




この時期はまだパソコンゲーム文化もまだ成熟途中で、限られた能力のPCでどう楽しむのかに主眼が置かれた紙面構成でした。ゲームもパソコンにはまだ不向きだったアクションが中心で、アドベンチャーゲームがようやく注目され始めた時期だったと思います。

個人制作の作品が商業化されるという、パソコンゲーム創世記最後の風景がこの時期でした。糸井重里氏や小林 克也氏、そして科学分野のご意見番だった小松左京先生が選考委員を務められています。余談ですが、小松左京先生は日本の科学分野の発展に多大な貢献をされた、手塚治虫先生と並ぶ偉大な文化人だと思います。MSXのゲームの原作もされてますしね。

ちなみにこの『青い宇宙の冒険』はミニゲーム主体のアドベンチャーゲームなんですが、セリフがいちいち
「むっ、したのうえでおどるようなこのこし、みごとだ」
とか美味しんぼ臭かったり、
「このよで3ばんめにおそろしいおとこの まのては、もうそこまできているぞ!」
とか快傑ズバットのパロディみたいなOPとか、悪ノリ全開のバカゲーになっております。極めつけはOPの曲が素晴らしいのですが、よくよく聞いてみるとサビがT-SQUAREの『OMENS OF LOVE』に激似。いいのかよ!🤣





この一年間でパソコンゲームは急速に進化し、そのポテンシャルを最大限に引き出すRPGやAVGが主流となっていきました。ゲーム音楽が注目されてきたのもこの時期で、その最先端のFM音源に着目している点は流石ですね。その後大きなムーブメントとなるコンストラクション、いわゆるツクール系の記事も掲載されています。手軽にゲームを創作できるツクール文化を定着させたログインの功績は非常に大きかったと思います。
ゲームではその後世界を席巻することになる日本独自のゲームジャンル、アクションRPGの元祖ハイドライド、ドラゴンスレイヤーが登場しています。




個人的な意見ですが、パソコンゲームの最盛期はこの時期ではないかと思っています。アーケードゲームでアウトランが特集されているように、ゲーセンや家庭用ゲームも名作が目白押しでしたが、パソコンゲームにはそれに勝るとも劣らない魅力があったのでした。ゲーセン、家庭用、パソコンが独自のゲーム文化を発展させ、しのぎを削っていたこの時期はレトロゲーム黄金時代とも言って良いのではないでしょうか。その後そのパワーバランスが少しずつ崩れていく過程は、僕のこれからの投稿で綴れたらと思っています。
パソコン通信がいよいよ実用化され、ホビーパソコンの決定版であるX68Kの登場と、エキサイティングなニュースが目白押しの87年お正月だったことを覚えています。パソコンゲームの未来は明るい!と確信していたんですが・・・
ゲームでは家庭用ゲーム機では不可能な本格的RPGとともに、その後のパソコンゲームの主力となるシュミレーションゲームの代名詞、大戦略や三國志が登場しています。

1987年1月号の発売は86年の12月8日で、実質86年の年末商戦の広告が満載でした。その中でもひときわ目を引いたのは廉価版MSX2の決定版パナソニックFS-A1。ついに本格的なパソコンが2万円台で購入できる新世代に突入しようとしていました。僕はMSX勢力拡大をもくろんでいた時期で、松下の営業マン張りにファミコン連中に猛烈に売り込みをかけていました。
❸子供の為のPC雑誌・MSXマガジン


当然MSXユーザーとして公式雑誌のMSXマガジンも愛読していました。毎月8日はお小遣いを握りしめて本屋に突撃し、ログインとMSXマガジンを即購入。その後店員さんに睨まれるまで、他のパソコン雑誌やゲーム雑誌、アニメ雑誌を心ゆくまで立ち読みするのでした。


本棚を調べてみると、僕が購入したのは1985年1月号からのようです。しかし初期のMSXマガジンは少年科学雑誌という編集方針を強く打ち出していたので、公営の図書館などでも置かれていました。僕はナイコン時代からもMSX欲しさで愛読していましたよ。図書館ではすぐに貸し出しになってしまうほど子供たちに人気で、ここからMSXやパソコンへの道に進んだ人達も多かったと思います。
この1984年1月号では「MSX元年」というコピーがあるように、83年末の発売から実質のMSXデビューの年でした。紙面構成も各メーカーから発売されたMSXの紹介や、「パソコンって何ができるの?」といった子供向けの内容でした。同時期のパソコン雑誌はパソコンの知識を持っているマニア向けのものが多かったですから、子供向けに特化したMSXマガジンは貴重な存在でした。



今振り返ってみると初期のMSXは、西和彦先生が提唱した「8ビットPCの世界統一規格」という、壮大な社会実験のテストケースだったように思います。低性能のMSXで何ができるのか、ユーザーもメーカーも皆手探りの繰り返しでした。その後花開いた企画もあれば、すぐに撤退する羽目になった「とんだ一杯食わせ者」も混在していたのです。しかしその公開の場所として、公式雑誌のMSXマガジンの存在は非常に大きかったのではないでしょうか。MSXの最大の魅力は実務能力ではなく、あくまで未来への希望だったのですから。
ゲームに関してはアクションゲームと、他機種から移植されたテープ版のAVGが中心で、MSX独自のゲーム文化が発展するにはもう少し時間がかかりました。
この時期は毎月のように新機種が発売されていて、その紹介も楽しみでしたね。昨年のMSX総選挙・本体編にて第8位となったHB-101(ソニー)が紹介されています。
スタイリッシュMSXの筆頭格で、パソコンはシャープな直線で構成されるという常識を覆し、欧州スポーツカーを思わせる優雅な曲線デザインを採用。カラーバリエーションとしてレッド・ブラック・アイボリーの3種類が用意されていました。僕は断然赤を推しますね。仲間内ではフェラーリMSXと呼ばれていました。




MSX2が発売され、いよいよ入門用パソコンとしてだけでなく本格的な運用も可能となってきた時期です。ワープロにFM音源、すがやみつる先生のパソコン通信特集と「MSXも他のパソコンに負けないぞ!」と大興奮していました。
ゲームでは念願のハイドライドが移植され、コナミもヒット作品を連発。アウトロイドのようなMSXオリジナルタイトル(と言わせてください💦)やザースのような神移植と賑わいを見せ始めていました。
この時期は大容量メモリとまだ高額だったFDDを搭載した高級機MSX2が次々と発売されていました。その頂点とも言える豪華絢爛MSX2・松下FS-5500が紹介されています。トラックボールを標準搭載したデザインはインパクト抜群でした。




前述した通り1987年1月号の発売は86年の12月8日で、最大のビックニュースは3万円を切る廉価版MSX2の発売でした。フルセット30万円以上が当たり前だったパソコンというホビーが、小中学生にも手軽に味わえる新世代に突入しようとしていたのです。
MSXの用途もかなり集約され、ゲーム制作プログラミングやパソコン通信、そしてゲーム攻略と編集方針も徐々に変化していきました。この流れはもう一つの専門誌、MSXFANが産まれる原動力になったと思います。
ゲームでは念願のメガロムが実用化され、その第一弾としてグラディウスが発売。以降コナミの無双状態が長くMSXを支えていくことになります。魅力的なオリジナル作品も増え始め、ゲームユーザーからもMSXが注目されるようになってきました。


廉価版MSX2の決定版パナソニックFS-A1のライバル機種だったソニーHB-F1。広告では、本体よりもゲームロボットに扮するイメージキャラクター、ガルフォースのラビィちゃんの方が目立っていました。ガルフォースに関しては40周年にあたる今年、絶対に特集しますよ!




フロッピーディスクドライブ搭載の低価格MSX2が発売され、MSXは一つの完成形に達したと言える年でした。FDDの搭載はゲーム制作に加え、本格的CGや作曲など、創作ツールとしてのMSXの使用を加速させていきます。ライバルのMSXFANがそれらに絞った紙面構成だったのと対象的に、MSXマガジンはあくまでMSXの可能性を追求した「科学情報誌」としてのテイストを捨てませんでした。以前紹介したCD-ROM搭載型のプロトタイプMSX特集などはその好例と言えます。
今読み返すと読み物として非常に面白いのですが、残念ながら時代のスピードはそれを許してくれなかったのでした。1988年6月号からのリニューアル以後のMSXマガジンは全く別雑誌と言って良いので、この想い出はまた別の機会に語らせてください。
ゲームでは最終兵器SCCを引っ提げて救世主の如く現れたグラディウス2を筆頭に、F1スピリット、ガリウスの迷宮、ドラスレファミリー、メタルギアなどMSXでしかプレイできないオリジナルタイトルが目白押し。MSXゲームの黄金期を迎えていました。ここらへんは『MSX総選挙・ゲーム編 TOP10』として特集しましたので、よろしければ覗いてみてください。


この時期になると松下とソニーの2強体制となり、他社メーカーの個性的なMSXは発売されなくなってききました。しかしその最後の恐竜のような存在が、このモデム内蔵型MSX2テレコムステーション「ML-TS2H」なんです。ど~ですかこの電話機と一体型のデザイン、最高ですよ!
パパが三菱の偉いさんだったレタスくん(愛称LetusというML-F110が愛機)によると、何でも株式の電話注文用として開発されたとか。つまりパソコン通信で株価をリアルタイムで見て、電話で注文するというスタイルです。いや~昭和でバブリーな香りがしますねえ。ちなみに当時は珍しい第2水準の漢字ROMを搭載、これは株式の銘柄を表示するのに必須だったからでしょう。そのくせFDDはついていません。なぜなら株式相場のページしか閲覧しないから、電話帳データ記録用として8kbytesのバッテリバックアップRAMで十分という割り切った仕様でした。最後に僕のMSXマガジンの特集はコチラ。
❹早すぎたゲームセンター情報誌AMlife

あのきらめきは生涯忘れないでしょう。
1983年の小学生にとってゲームセンターは憧れの存在でした。『ゲームセンターあらし』が大ヒットし、素晴らしいゲームが山のようにきらめいているというイメージ。しかし「誰もみな行きたがるが、あまりに遠い」と謳われたガンダーラのような存在だったのです。不良の巣窟と恐れられ、万が一大人に見つかれば説教を喰らうことも珍しくなかったのでした。しかも僕の通っていた小学校では公然とゲームセンター禁止令が出されており、加えて密告制度を奨励する始末。北朝鮮かよ!



確かに当時のゲーセンはリーゼントで目つきの悪いヤンキー、イライラしているサラリーマン、巡回中の警察官と凶悪な怪物がたむろする地下迷宮さながら。暗い・汚い・怖いと三拍子そろった3K環境に加えて、煙草の煙でむせ返るゲーセンへの狭い階段を降りる勇気は中々ありませんでした。僕が悪友FM7君とタイムギャル目当てに、この冒険に挑戦したのは小学6年生の1985年でした。この時の想い出はコチラ
1983年に『ゲームセンターあらし』の連載が終了すると、ゲーセンの情報を入手する方法は殆ど無くなってしまいました。僅かにマイコンBASICマガジンの別冊付録「スーパーソフトマガジン」があったくらいです。ちなみこれは当時本屋さんから聞いたのですが、プログラム投稿誌のベーマガ本誌には目もくれず、スーパーソフトマガジンだけを万引きする不届き物が跡を絶たなかったそうですね。あ、僕はたまにですがちゃんと買ってましたよ!ただ立ち読みしてると店員さんに相当マークされていたので、甚大な被害があった模様です。



そのような中で日本初のアーケード専門誌とも言える『アミューズメントライフAMlife』が1983年1月に創刊されました。もっとも名前の通り、パソコン、家庭用ゲーム機、電子ゲーム、遊園地、映画といった広範なアミューズメント、総合娯楽情報誌という感じでしたが。この雑誌はネット上にも情報が少なく、ウィキペディアにも単独の項目がないどころか「ゲーム雑誌WIKI」の歴史にも記述がないという不遇の扱い。しかしながら日本のゲーム文化史において極めて貴重な資料だと思います。







BGMがノリノリで面白いよ!



野心的な試みだったアミューズメントライフ誌ですが、約2年の1984年の10月号を持って休刊してしまいます。アーケードゲームの紹介や攻略といったゲーセン文化がまだ未発達だったことや、同時期のベーマガが350円に対して550円と比較的高価だったことも不利だったのかもしれません。しかしゲーセンのハイスコア掲載や、うる星あんず氏の高度な攻略記事、メーカーへのインタビューなど、その後定番となるゲーム雑誌のひな型となった意義は大きいと思います。アーケードゲーム専門誌の魂は2年後の1986年4月創刊『ゲーメスト』に引き継がれていったのでした。


僕のLDゲーム特集はコチラ。






格闘ゲーム全盛の頃は、ゲームでもリング上でもひたすら殴り合ってました。
❺セガ信者の熱狂を生み出したBeep

「爆発!セガパワー」の煽りが最高です。
全国800万人のセガ信者の皆さんにとって、忘れ得ぬ雑誌がBeepでしょう。その後『BEEP!メガドライブ』としてメガドライバーの聖典となった同誌ですが、創刊当初は“ゲーム総合誌”の先駆けとなった、何でもありという感じの誌面構成でした。当時は貴重だったゲーセンやテーブルトークRPGの記事もあり、コンセプトとしては前述のアミューズメントライフ誌の後継と言っても良いかもしれません。
僕も当時はパソコンゲームの記事や、ファンタジーRPGの基礎知識を解説した「RPG幻想辞典」を目当てに購入していました。伝説のイラストレーターNikovさんはゲームブック専門誌『ウォーロック』でも活躍されていましたね。





風向きが変わってきたのは1986年の末頃からで、ファミコンのライバル機だったセガ・マークⅢを中心としたセガ特集が定期的に掲載されるようになっていきます。僕はこの頃ソフトバンクとセガが提携を始めたのだと思い込んでましたよ。実際は当時の編集長が「小規模の『Beep』では、大手の雑誌の情報力には対抗できない」と判断し、敢えてマイナーなセガ・マークⅢをプッシュすることを決断したのが真相だそうです。

以前海外のセガコミュニティで「90年代のセガは正気じゃなかった」と投稿されたのを見ましたが、80年代も十分狂ってました。この頃のBeepはやたらと大本営発表的な、記事の煽りが尋常じゃあなかったんです。
😱「セガ人よ!舞え!踊れ!無敵のセガソフトの大群が押し寄せてくるぞ!狂喜乱舞のセガカーニバル」
いったい何が始まるんです?🤣
僕や悪友のFM7くんはゲラゲラ笑いながら誌面を眺めてたんですが、この狂気に洗脳される若者も少なくありませんでした。何と僕の弟がMSX帝国を裏切ってセガ・マスターシステムを購入、日に日にサイボーグ・マークIIIに改造されていくのをリアルタイムで見るハメになるのでした。兄弟そろって別の修羅の道に・・・その為我が家にはセガハードが異常に充実していたのですが、セガマニアの弟とは愛機をめぐってしょっちゅうケンカしていましたよ。その為このセガネタの投稿もちょっと挑発的な内容ですが、ジョークだと思ってご容赦ください🙇♂️


通称セガ人(びと)と呼ばれるセガマニアの部屋のイラスト。もうセガユーザーは人種なのかよ!🤣「今日はセガ曜日」とか、いちいち語感が狂っています。

真面目にお話しすると、Beepは初代編集長、豊田素行氏の「ゲームを文化として愉しむ」という編集哲学により、ライターの個性を前面に推しだす誌面構成が徹底されていました。極めてエモーショナルな、ライターの叫びとも取れるゲーム記事の数々。それは確かに偏ってはいましたが、読者ゲーマーたちの心を震わす「何か」があったように思うのです。伝説的ライターTAKE ON!こと、たけおんさんの熱いレビューは毎回僕も楽しみにしていました。またゲームクリエイターのインタビュー記事も充実しており、僕の忘れじのソフトである『魔法使いウィズ』『ガルフォース』の作者、楠本裕樹氏を知ったのもBeepの特集でした。


実は1986年12月31日に、SEGAと任天堂がお互いの威信をかけた大一番、セガ・マークⅢ対ファミコンの紅白ゲーム合戦が行われていたんですよ!マリオとアレクの宣誓です。しかしファミコンが有利すぎるんじゃないかなあ😁セガにMSXが助っ人すればいい勝負に。
🥷「なんと ひきょう きわまりない! せっしゃも すけだち いたす」

この僕のⅩ投稿にTAKE ON!(たけおん)さんから直々にコメントを頂けたんです。確かに待望のセガ・マークⅢ版スペースハリアーの発売で盛り上がってきた頃でしたね。当時の貴重なお話を伺うことが出来ました。

そんな訳で僕はMSXユーザーのくせに、かなりのマークⅢタイトルを攻略しています。味のあるいいゲームが多かったですね。初代『ファンタシースター』はハマったなあ、音楽が抜群にいいんですよ。3Dダンジョンが超絶面倒だけど😅
他にもマークⅢ版『怒』とも言える『阿修羅』も隠れた名作でした。哀愁を帯びたBGMが耳に残ります。悔しいけれどMSX版『戦場の狼』の256倍出来が良いです。



❻貴重な大手出版PC雑誌ポプコム








そんな訳ねーだろ😁
1983年5月に創刊という老舗パソコン雑誌で、小学館と言う大手出版社が発行しているという点が逆にパソコン雑誌として珍しい存在でした。当時最も勢いのあったログイン誌のライバル的存在だった印象です。前述したように僕はログイン派で、美少女ゲームファンのFM7くんにテクノポリスを貸してもらい、たまにベーマガを買うという感じであまり縁がなかったのですが、付録のオリジナルカセットレーベルはメチャ羨ましかったです。ポプコムと言うと小学館の版権パワーを最大限に利用した、高橋留美子先生の美少女キャラを独占したイメージが強いのですが、このネタは徹底的に昨年やりましたので、よろしければ覗いてください。




柳柊二氏の重厚な挿絵は昭和を連想させます。


表紙は有名人のCGで、この月は麗しの本田 美奈子ちゃん



以前僕のⅩアカウントが健在だった時、昭和を代表する挿絵作家である杉山新一氏の親族の方から「私たちもこのイラストは見たことがない」とコメントを頂きました。当時珍しかったファンタジー系のイラストで、資料も少ない中苦労して描きあげたのではないかということでした。昭和の雑誌が多くの偉大なクリエイター達によって創られていたことを考えさせられたエピソードです。


❼アニメ界の無法者『月刊OUT』

MSXユーザーのプライドを捨て?昨年禁断のアニメ投稿に踏み切った僕ですが、思った以上に黎明期のパソコンが、アニメからの影響を受けていることに気が付きました。今考えてみるとオフ会でお会いしたパソコンユーザーは、殆ど熱狂的なアニメファンでしたよ。僕はアニメはド素人なのですが、小学生の時に美大のアニメ研究会の部長をしていた近所のお兄さんに弟子入し、そのディープすぎる世界を教えてもらうことが出来ました。


現在ではクールジャパンの二大巨頭と言えるアニメとゲームですが、オタク文化としては圧倒的にアニメが先行していました。僕が弟子入した1982年の段階でアニメ雑誌や専門書籍多数存在し、それぞれのジャンルの文化圏を確立していました。あくまで師匠の解説ですが、徳間書店のアニメージュが最も権威が高く、業界関係者からも一目置かれていたそうです。師匠は自室に全てのアニメ雑誌や膨大な書籍をストックしていたので、夏休みに学園祭の手伝いをしながら1日中アニメ雑誌を眺めてました。

そのコレクションの中で異彩を放っていたのが『月刊OUT』僕が「なんだかこの雑誌だけ雰囲気が違うね」というと、師匠がニヤニヤしながら伝説の●ードピンナップイラスト「悩ましのアルテイシア」を見せてくれましたよ🤣

月刊OUTは純粋なアニメ雑誌ではなく、サブカルチャー系の中でアニメをメインに扱うという編集方針だったんですね。特撮やアイドル、SFやパソコンゲームまで網羅していました。今で言うオタク総合誌の走りなのかもしれません。アニメパロディ通称「アニパロ」を強烈に推していたのも特徴で、このアニパロは同人誌文化へと発展。その後のコミケ開催の大きな原動力となったと師匠は述べていました。
月刊OUTはサブカル誌としての生命線である実力派ライターにも恵まれていて、読み物としてもコラムが充実していました。僕は堀井雄二先生の「ゆう坊のでたとこまかせ」が大好きでした。今考えるとよくゲーム制作と両立させていたなと思います。堀井先生のパソコンゲーム特集はコチラ。





これは月刊OUTに限らないのですが、当時のアニメ雑誌は豪華なカラーイラストが目玉の一つでした。一枚で限りなくイマジネーションが膨らむ珠玉の作品ばかりです。






❽いつか涅槃に漂う、その時まで…



三ヶ日に親族が入居している施設にご挨拶に行くと、童謡を歌い続けるある車椅子の御婦人が出迎えてくれました。どうやら僕達夫婦を、自分のお父さんとお母さんに間違えているようです。職員さんに聞くと、このおばあさんは涅槃に漂いながら、楽しかった子どもの頃の話をずっとしているのだそうです。
ちばてつや先生と同世代の方で、苦労して満州から引き上げてきたのだとか。その後の長い人生の中で、きっと色々なことがあったのでしょう。しかし最後の残ったのは、一番楽しかった子ども時代の記憶だったのです。
「おとうちゃん、わたしななちゃんとお花摘みにいったんよ。綺麗だったわあ。」
そうお友だちとの想い出を嬉しそうに教えてくれるおばあちゃんを、子供のいない僕は思わず抱きしめてしまいました。
帰りの車の中で、僕はずっとその笑顔を忘れる事ができませんでした。自分も同じ悟りを迎える時、果たしてあの笑顔を浮かべることができるのだろうかと…子供の時の楽しかった記憶、その大切さをおばあちゃんは僕に教えてくれたんです。

元々僕のnoteは「今の自分に至ることになった作品達」への感謝が大きな原動力でした。しかしいつの間にか自分の記憶が曖昧になる前に、楽しかった想い出を形にして残しておきたいという気持ちが大きくなってきたんです。そして同じ「あの時代」を生きている貴方たちに、この願いを届けることができたら…そんなことを改めて思った次第です。


ちょっとカッコつけてみましたが、昨年の投稿を全部読み返したんですよ。そうしたら「幾らなんでも長すぎんだろ。」と猛反省して今年一発目の投稿に取り組んだのに、見事にこのザマですよ。一応プロットを作成してから執筆してるんですが、書いてるうちに次々とネタが浮かび上がってきてしまうんです。そんな訳で次回はこの後編ということになります。なんと、これでも半分原稿を削ってるんです!
僕は現役時代は激闘型のファイターだったので、ただでさえパンチドランカーを疑われていたのに、人間の脳の構造は本当に不思議ですね~。
ともあれ今回も長文お付き合い、本当にありがとうございました。2026年もよろしくお願いいたします。
サイボーグMSX
