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明智光秀はなぜ裏切ったのか——「本能寺の変」5つの説を、フェアに整理してみた

天正10年6月2日、早朝の京都・本能寺。

主君・織田信長を囲んだのは、味方であったはずの明智光秀の軍勢でした。誰の謀反かと問う信長に、小姓の森蘭丸が「明智の軍勢のようです」と告げます。それを聞いた信長がつぶやいたと伝わるのが、あの「是非に及ばず」——。

大河ドラマや歴史番組で、一度は目にした場面ではないでしょうか。天下統一を目前にした男が、なぜ最も信頼していたはずの家臣に討たれたのか。そして光秀は、なぜ主君に刃を向けたのか。

実は、その理由は今も決着がついていません

意外に思われるかもしれませんが、光秀が信長を討った本当の動機は、専門の歴史学者が何十年と史料に向き合ってなお、はっきりとは分かっていません。

「答えが出ないなら、読んでも仕方ないのでは?」

そう感じられたでしょうか。でも、だからこそ面白い、と私は考えています。正解が決まっていないということは、私たち一人ひとりが史料の断片から自分なりの推理を組み立てられる、ということでもあるからです。

この記事では、光秀の動機として語られてきた5つの主要な説を、どれかを正解と決めつけることなく、それぞれの「強み」と「弱み」をそろえて公平に整理しました。

この記事で読めること

  • 本能寺の変で何が起きたのか、事件の骨格が短時間で整理できる

  • 動機をめぐる5つの説を、強みと弱みのセットで理解できる

  • いま歴史研究がどこまで来ているのか(近年有力な説)が分かる

  • 次に歴史番組を見るとき、「自分はこの説」と語れる一本の視点が持てる

「怨恨」「野望」「四国」「恐怖」、そして「黒幕」。名前は聞いたことがあっても、それぞれの中身と弱点まで整理できている方は、意外と少ないのではないでしょうか。

400年以上解けていない日本史最大級の謎を、ゆっくり味わってみてください。読み終えたころには、あなたの中に「自分なりの推理」が一本、生まれているかもしれません。

はじめに

この記事では、日本史最大の謎ともいわれる「本能寺の変」について、明智光秀の動機をめぐる5つの主要な説を、それぞれの強みと弱みをそろえて整理していきます。読み終えるころには、「自分はこの説が一番しっくりくる」と、あなたなりの見方を持てるようになるかもしれません。

1. 結論: 真相は、今も分かっていません

先に、いちばん大事なことをお伝えします。光秀がなぜ信長を討ったのか、その本当の理由は、今なお決着がついていません。

「なんだ、答えが出ないのか」とがっかりされたでしょうか。でも、私はここにこそ面白さがあると考えています。専門の歴史学者が何十年も史料と向き合ってなお、決定打が見つからない。だからこそ、私たち一人ひとりが史料の断片から自分なりの推理を組み立てる余地が残されているのではないでしょうか。

この記事は「正解」を押しつけるものではありません。主要な説を公平に並べたうえで、あなたが自分の推理を持つための材料をそろえることを目指しています。

2. あの日、本能寺で何が起きたのか

まず、事件の骨格を短く振り返っておきましょう。

天正10年6月2日(西暦1582年6月21日)の早朝。中国地方の毛利氏との戦いを応援するため出陣するはずだった明智光秀の軍勢が、進路を変え、京都の本能寺に滞在していた主君・織田信長を襲いました。

信長がわずかな供回りしか連れていなかったのに対し、光秀の軍勢は1万を超えていたと伝わります。異変に気づいた信長は、誰の謀反かを問い、小姓の森蘭丸が「明智の軍勢のようです」と告げたとされます。それを聞いた信長が「是非に及ばず」——やむを得ない、という意味の言葉をつぶやいたという逸話は、あまりに有名ですね。信長は寺に火を放ち、自ら命を絶ったと伝えられています。

さらに、少し離れた場所にいた嫡男・信忠も光秀の軍に囲まれ、二条御新造に移って抗戦したのちに自害しました。この信忠、じつは天正3年(1575年)に信長から家督を譲られており、このとき織田家の正式な当主はすでに信忠だったのですね。信長は隠居の身ながら実権を握り続けていた、というのが実態に近いようです。つまりこの一日で、実権を握る前当主と、家督を継いでいた当主が、同時に失われたことになります。織田家がどれほど大きな打撃を受けたか、想像してみてください。

ちなみに、光秀の言葉として広く知られる「敵は本能寺にあり」という一節は、実は後世に作られた物語の可能性が指摘されています。当時の一次史料には見当たらないとも言われ、名場面として語り継がれるうちに定着したのかもしれません。歴史の逸話には、こうした「本当かどうか分からないけれど、よくできた話」が数多く混じっています。それも含めて味わうのが、歴史を楽しむコツではないでしょうか。

3. 動機をめぐる5つの説

ここからが本題です。光秀の動機として語られてきた代表的な説を、5つ取り上げます。それぞれ「強み」と「弱み」をセットで見ていきましょう。

① 怨恨説
もっとも古くから語られ、広く知られてきた説です。信長から受けた度重なる叱責や屈辱への恨みが積み重なった、という見方ですね。徳川家康の接待役を任された光秀が、その手際をめぐって信長に面罵された、といった逸話も語り継がれています。

  • 強み: 動機として分かりやすく、人間味があり、物語として共感を呼びやすい

  • 弱み: 恨みのエピソードには後世の脚色や創作が多く、史料的な裏づけが弱いと指摘されています。江戸時代の読み物で膨らんだ話も少なくないようです

② 野望(天下取り)説
下剋上の気風が残る時代に、光秀自身が天下を狙った、という説です。

  • 強み: 実際に光秀は変のあと、朝廷への働きかけなど政権掌握の動きを見せています

  • 弱み: 事前の周到な準備の形跡が乏しく、成功の見込みが薄い賭けだったようにも見えます

③ 四国説
近年、特に注目されている説です。信長は当初、四国は長宗我部元親に任せる方針でしたが、これを転換します。元親との交渉役を務めていた光秀は面目を失い、追い詰められた、という見方です。四国征伐軍の出陣予定日が、変と同じ6月2日だったとも伝わり、この符合を重く見る研究者もいます。

  • 強み: 個人の感情ではなく、具体的な政治状況にもとづいている点が説得力を持つと評価されています。近年、関連する書状が見つかったことも、この説を後押ししていると言われます

  • 弱み: それだけで主君を討つほどの動機になるのか、という疑問も残ります

④ 恐怖(保身)説
このままでは自分もいずれ粛清される、と恐れた末の行動だった、という説です。

  • 強み: 信長は宿老の佐久間信盛らを追放しており、光秀が将来に不安を抱いても不自然ではありません

  • 弱み: 恐れていたのなら、なぜあえて最も危険な謀反という道を選んだのか、説明が難しい面があります

⑤ 黒幕説
光秀の背後で誰かが糸を引いていた、という説です。朝廷、将軍・足利義昭、羽柴秀吉、徳川家康、さらにはイエズス会まで、さまざまな名前が挙げられてきました。

  • 強み: 物語としての魅力があり、状況証拠らしきものも語られます

  • 弱み: いずれも決め手を欠き、確実な史料的証拠は見つかっていません

4. 近年の研究はどこまで来たか

では、専門家の見方は今どうなっているのでしょうか。

大きな流れとしては、壮大な黒幕による陰謀論よりも、光秀個人が置かれた政治的な状況を重視する方向に傾いているようです。とりわけ四国説は、具体性の高さから支持を集めていると言われます。

さらに近年目立つのが、「複合要因説」です。たった一つの理由で説明するのではなく、恨み・不安・政治的な行き詰まり・好機の到来といった複数の要素が重なり合って、あの瞬間に結びついたのではないか、という考え方ですね。人が大きな決断をするとき、理由が一つだけということはむしろ少ないのかもしれません。

そのうえで見逃せないのが、「好機」の存在です。あの日の信長は、天下統一を目前にしながら、京都にわずかな供回りしか連れていませんでした。すぐそばには自分の大軍がいる。どれほど動機を抱えていても、討てる状況がそろわなければ謀反は起きません。動機と好機がたまたま同じ一点で交わってしまった——そんな偶然の重なりが、歴史を動かしたのかもしれませんね。

5. 光秀を、組織で長く働いた人として見ると

ここで少し、見方を変えてみたいと思います。

四国説と恐怖説は、光秀を「戦国武将」ではなく「組織で長く働いてきた一人の人間」として見ると、急に生々しくなってくるように思うのです。

まず、光秀が何歳だったのか。実ははっきりしていません。信頼できる同時代の史料に生年の記載がなく、後世の記録から54歳とも66歳とも、69歳とも言われます。幅はありますが、少なくとも駆け出しの若手ではなかった。キャリアの終盤にさしかかった年代だった可能性が高いようです。

その光秀が置かれていた状況を、いまの言葉に置き換えてみます。

  • 長く担当してきた四国との交渉が、上の方針転換で白紙になった(四国説)

  • 長年仕えてきた先輩が、成果が出ていないという理由で追放された(恐怖説)

後者は、佐久間信盛のことです。石山本願寺との戦いで5年在陣しながら戦果がない、といった内容の書状を突きつけられ、織田家を追われました。天正8年(1580年)、本能寺の変のわずか2年前の出来事です。高野山に上り、そのまま亡くなっています。

自分が長く担ってきた仕事が、上の判断ひとつで無くなる。長く貢献してきた先輩が、実績が足りないと言われて去っていく。そして自分も、その先輩と同じ年代に差しかかっている。

——これは、400年前だけの話でしょうか。

役職定年、配置転換、事業の見直し。呼び名は違っても、似た形のことが起きるのを見てきた方は、少なくないのではないでしょうか。あなたの職場では、どうだったでしょう。

もちろん、だから光秀の行動が正しかった、という話ではありません。謀反は謀反です。ただ、「面目を失う」「次は自分かもしれない」という感覚だけは、時代を越えて分かる気がするのです。

そう考えると、説の選び方にも自分が出るのかもしれません。20代のころにこの5つを読んでいたら、私はおそらく怨恨説か黒幕説を選んでいたと思います。物語として面白いからです。いまは違います。

私は、複合要因説に一票を入れます。 恨みも、不安も、行き詰まりも、どれか一つだけでは足りない。けれど積み重なったところに、たまたま好機が来てしまった。人が大きな決断をするときは、だいたいそういうものではないでしょうか。

6. あなたはどの説だと思いますか?

5つの説を並べてきましたが、いかがだったでしょうか。

  • 怨恨説の人間味に共感する方

  • 四国説の具体性に納得する方

  • 複合要因説こそ現実的だと感じる方

どの見方にも、うなずける点と引っかかる点があります。そして今のところ、それを最終的に裁く「正解」は存在しません。

だからこそ、この謎は400年以上ものあいだ、人々を惹きつけ続けてきたのではないでしょうか。次に大河ドラマや歴史番組で本能寺の変を見るとき、ぜひ「自分はこの説」という一本の推理を胸に眺めてみてください。きっと、これまでとは違った景色が見えてくるはずです。

よければ、あなたの一票をコメントで教えてください。 「私は四国説」「いや、やはり怨恨説」——理由まで添えていただけたら、なおうれしいです。同じ史料を見ても選ぶ説が分かれるところに、この事件の面白さがあると思っています。

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この事件については、別の角度からも書いています。

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