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柴田勝家という男——信長の弔い合戦は、5日前に終わっていた

以前、織田信長の最期がなぜか自分ごとのように悔しい、という話を書きました。

実はもう一人、同じくらい引っかかっている人がいます。

柴田勝家です。

変の翌日、彼は城を落としていました

天正10年6月2日、本能寺の変が起こります。

そのとき勝家は、北陸にいました。3月から魚津城を攻め続けていて、決着がつく寸前だったのです。

そして6月3日、魚津城は落ちました。

変の、翌日です。

しかも勝家は、信長が死んだことを知らないまま城を落としています。 知らせが届いていなかったのです。長く攻めてきた城がようやく落ちた日、彼は主君を失っていました。

弔い合戦は、別の人がやりました

その後がまた、こたえます。

上杉方は変を知って動き出しました。越中・能登の国衆を煽り、勝家の背後を脅かします。北陸方面軍の司令官として、勝家は持ち場を離れられなくなりました。

勝家がようやく近江に向けて動けたのは、6月18日。

けれど、すでに終わっていました。中国地方から引き返した羽柴秀吉が、6月13日に山崎で光秀を討っていたのです。

信長にいちばん長く仕えた男の一人が、その弔い合戦に十日ほど間に合いませんでした。

六十を過ぎてからの一年

そこから先も、うまくいきません。清洲会議のあと、秀吉との立場は逆転していきます。翌天正11年、賤ヶ岳で敗れ、北ノ庄城でお市の方とともに自害しました。

享年62と伝わります。(生年に諸説があるため、年齢も確定はしていません)

六十を過ぎてから、この一年を生きたわけです。

なぜ、この話が引っかかるのか

信長のときと同じで、私は勝家と何の関係もありません。440年前の他人です。

それなのに、この「間に合わなかった」という一点が、どうにも胸に残るのです。

この記事では、歴史の解説はしません。代わりに、なぜ自分は勝家の側に立ちたくなるのかを、自分に問いながらたどってみます。

先に言っておくと、たどっていくうちに、私は自分の見方を一度壊すことになりました。「距離のせいだった」というのは、たぶん都合のいい話だったのです。

同じように、誰かの最期が妙に気になったことのある方に、お付き合いいただけたらうれしいです。

1. 結論: 私は勝家に同情しているのではなく、言い分を借りたいのかもしれません

先に、たどり着いた結論をお伝えします。

私が柴田勝家の最期を無念に感じるのは、彼に同情しているからではなさそうです。彼の言い分を、自分のために借りたいからなのだと思います。

勝家の物語には、こういう形があります。持ち場を守っていた。だから勝負どころに立ち会えなかった。

これは、とても都合のいい形をしています。負けた理由が、能力ではなく配置になるからです。自分が悪かったのではなく、そこにいなかっただけ。

私はこの形が、たぶん好きなのです。

長く働いていると、思い当たることが出てきます。地方にいるあいだに、本社で人事が決まっていた。現場を回していたら、評価される場に呼ばれていなかった。目の前の仕事をきちんとやっていたのに、気づくと別の誰かが先に行っている。

そういうとき、「持ち場を守っていたから」と言えたら、少し楽になります。

勝家は、その言い方を歴史の側から保証してくれる人なのだと思います。だから私は、彼の側に立ちたくなる。

あなたには、こういう「借りたくなる言い分」はありませんか。

2. まず、彼がどこにいたのかを確かめます

事実のほうを整理しておきます。

天正10年(1582年)、勝家は北陸方面軍の司令官でした。3月から越中の魚津城・松倉城を攻囲しています。

6月2日未明、京都で本能寺の変が起こります。

6月3日、魚津城が落ちました。 勝家は、信長の死を知らないままこの城を落としています。

そこからが動けません。上杉方は変を知り、越中・能登の国衆を煽って動かしました。北陸方面軍の司令官が持ち場を空ければ、平定したばかりの土地が一気に崩れます。

勝家が近江に向けて動けたのは、6月18日でした。

しかしその5日前、6月13日に山崎で、羽柴秀吉が明智光秀を討っています。

中国地方から引き返した秀吉が、先に着いていました。

3. ここで、自分の見方を壊しておきます

さて、ここまでなら「距離のせいだった」で終わります。北陸は遠かった。運が悪かった。勝家は悪くない——。

けれど、正直に書きます。これは、きれいすぎる話です。

秀吉も遠かったのです。

秀吉がいたのは中国地方の備中、いまの岡山県あたりです。京都までの距離は、越中とそう変わりません。それでも彼は10日ほどで戻り、光秀を討ちました。

距離が理由なら、秀吉も間に合わないはずでした。

つまり「遠かったから」は、勝家が間に合わなかったことの説明として、十分ではありません。私が「距離のせいだ」と言いたくなるのは、そのほうが勝家をかばえるからです。

自分の見方に、こういう都合の良さが混じっていることには、気をつけたいと思います。

4. とはいえ、彼の事情も本物でした

では勝家の怠慢だったのかというと、それも違うと思います。ここは公平に見たいところです。

二人の状況には、はっきりした違いがありました。

秀吉が対していた毛利は、まだ変を知りませんでした。 だから即座に和睦できたのです。背中を気にせず引き返せました。

勝家が対していた上杉は、変を知っていました。 そのうえで、越中・能登の国衆を積極的に動かしています。背後を空ければ、平定したばかりの北陸が崩れる。引き返せる状況ではなかったわけです。

もうひとつ、北陸には雪という条件もあります。冬のあいだは動きたくても動けない土地です。

つまり、同じ「遠い」でも、中身がまったく違いました。

ここまで見ると、どちらとも言えなくなります。勝家は言い訳をしていたのでもなく、完全な不可抗力だったのでもない。その中間のどこかに、たぶん本当のところがあります。

歴史の話を読んでいて私が難しいと感じるのは、いつもここです。きれいに割り切れない。 そして割り切れないものを、人はつい割り切って語ってしまいます。

5. 「清洲会議で負けた」も、実は怪しいようです

もうひとつ、私が思い込んでいたことがありました。

清洲会議です。信長の後継を決めるあの会議で、勝家は三法師を推す秀吉に敗れた——そう覚えていました。ドラマでもよく、そういう場面になります。

ところが調べてみると、この話には後世の創作が混じっているという指摘がありました。

勝家が三法師の後継に反対して信孝を擁立した、という筋は『川角太閤記』によるもので、実際には三法師を後継とすること自体に、秀吉・勝家らのあいだで異論はなかったとみる説があるのです。

会議の結果として、勝家は北近江の3郡と長浜城を得ています。表向きは加増です。

それでも勝家と秀吉の立場は、この時点で逆転していました。

会議で言い負かされたのではなく、気づいたら位置が変わっていた。こちらのほうが、じわりときます。負けた瞬間がない負け方というのは、あるのだと思います。

なお、勝家がお市の方と結婚したのはこのあとです。清洲会議の沙汰への勝家の不満を抑える意味もあり、秀吉が動いたとされます。

6. 敵についた男が、筆頭家老になっていました

もう一つ、調べていて手が止まったことがあります。

勝家はもともと、信長の敵でした。

弘治2年(1556年)の稲生の戦いで、勝家は信長の弟・信勝の側につき、1,000人を率いて信長と戦っています。そして敗れ、降伏しました。

助かったのは、信長・信勝の生母である土田御前が強く願ったからだと伝わります。その後、信勝が再び謀反を企てたときには、勝家は信長に密告しています。

そこから二十数年をかけて、彼は北陸方面軍の司令官になり、加賀を平定し、天正8年(1580年)に織田家の筆頭家老になりました。

ここで思い出したことがあります。

その筆頭家老の座が空いたのは、佐久間信盛が追放されたからでした。

そして佐久間信盛は、稲生の戦いで信長方についた人です。

| | 稲生の戦い(1556年) | その後 |
|---|---|---|
| 佐久間信盛 | 信長方についた | 天正8年に追放され、失意のうちに死去 |
| 柴田勝家 | 信勝方についた(敵) | 佐久間の失脚により、筆頭家老へ |

敵についた男が筆頭家老になり、味方についた男が追放されました。

どちらが正しかったという話ではないと思います。ただ、あの日どちらに立ったかは、二十数年後の扱いを決めていなかったということです。

組織にいると、「あのとき正しい側についた」ことを支えにしたくなる場面があります。けれど時間は、その支えをあっさり無効にすることがあるのかもしれません。

7. 六十を過ぎてからの、最後の一年

清洲会議のあと、勝家と秀吉の差は開いていきます。

天正11年(1583年)3月、勝家は北近江に出兵し、秀吉と対峙しました。4月16日、秀吉が岐阜へ向かった隙をついて賤ヶ岳の大岩山砦を攻めます。ところが秀吉は美濃から引き返してきました。またしても、戻ってくる速さでした。

このとき前田利家の軍が戦線を離脱したことが、決定打になったとされます。

利家については、勝家が責めなかったという伝承がある一方で、事前に秀吉に通じていたとする見方もあります。現代の研究でも解釈が分かれるようです。 どちらが本当なのかを、私は判断できません。

天正11年4月24日、勝家は北ノ庄城でお市の方とともに自害しました。享年62と伝わります。ただし生年に諸説があるため、この年齢も確定はしていません。

お市の三人の娘は、城から出されました。 茶々、初、江です。

自分は残り、娘たちは出す。最後にした判断が、それでした。

8. おわりに

書きながら、ずっと考えていたことがあります。

信長の最期で悔しくなるとき、私は「あと少しだったのに」を悔しがっていました。完成の直前で断たれたことへの悔しさです。

勝家の場合は、少し違います。彼には「あと少し」がありません。間に合わなかっただけです。走ってはいたのに、着いたときには終わっていた。

そして、この形のほうが私には身近に感じられます。

「あと少し」は、才能や運の話に聞こえます。「間に合わなかった」は、段取りと配置の話です。 後者のほうが、会社で起きることに近い。

だから私は勝家に肩入れしたくなるのだと思います。彼の負け方が、自分に起こりうる負け方だからです。

そして最初に書いたとおり、そこには少しずるさもあります。「持ち場を守っていたから」という言い分は、自分をかばうのに便利だからです。

勝家がその言い訳をしたという記録は、どこにもありません。 言い訳をしたがっているのは、たぶん私のほうです。

彼は動けないなりに魚津城を落とし、動けるようになってから近江へ向かい、賤ヶ岳で戦い、最後は城で妻と死にました。娘たちは出しました。間に合わなかったことを、誰かのせいにした形跡が見当たりません。

そこがいちばん、こたえるところなのかもしれません。

あなたにも、間に合わなかった経験はありますか。そのとき、何のせいにしたでしょうか。


歴史の隅に置かれた人や、割を食った人のことを書いています。これからも続けていく予定です。面白く読んでいただけたなら、スキやフォローをいただけると励みになります。


あわせて読みたい記事

同じ「なぜ自分ごとのように感じるのか」を、信長の最期について書いた記事です。この記事と対になっています。

『織田信長の最期が、なぜか自分ごとのように悔しい』

勝家に筆頭家老の座を明け渡すことになった、佐久間信盛の話です。

『佐久間信盛という男——信長に「30年、何もしていない」と書かれた』

勝家が間に合わなかった、その本能寺の変そのものについては、光秀の動機をめぐる5つの説を整理しました。

『明智光秀はなぜ裏切ったのか——「本能寺の変」5つの説を、フェアに整理してみた』

勝家が後見に加わった清洲会議で、家督を継いだのが3歳の三法師でした。その子がその後どうなったかを追っています。

『三法師のその後——秀吉は信長の孫に、肩書きだけを与えた』



主な参考

本記事は、以下の史料・研究に基づく記述を参照しました。原典にあたれていない部分があるため、本文中では「〜と伝わる」「〜とする説がある」という形で記しています。

  • 『信長公記』

  • 『川角太閤記』(清洲会議をめぐる記述。近年は創作を含むとする指摘があります)

  • 『当代記』

  • 『寛政重修諸家譜』

柴田勝家の生年には諸説があり、享年も確定していません。清洲会議での対立の構図、および賤ヶ岳における前田利家の行動については、現在も解釈が分かれています。本文では、どちらか一方に決めない形で記しました。

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