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三法師のその後——秀吉は信長の孫に、肩書きだけを与えた

清洲会議の場面を見ると、いつも同じところで引っかかります。

抱き上げられた小さな子どもが、家督を継ぐことに決まる。大人たちが頭を下げる。場面としては、そこで終わります。

けれど、あの子はそのあと、どうなったのでしょうか。

三法師には、続きがありました

名前を織田秀信といいます。三法師は幼名です。

祖父は織田信長。父は織田信忠。天正10年(1582年)に二人が同時に死んだとき、彼は数えで3歳でした。

そして26歳で死んでいます。

関ヶ原の年、彼は西軍につきました。祖父の城だった岐阜城に籠もり、たった一日で落とされています。 助命されて高野山に送られ、5年後に山を下りた直後、和歌山の山あいで生涯を終えました。

信長の血を引く嫡孫の、これが最後です。

ずっと気になっていた問い

秀吉は、この子を織田家の当主として大切に扱ったのでしょうか。

三法師は元服のとき「秀信」と名乗ります。「秀」は、秀吉の一字です。 与えられた領地は美濃13万3千石。祖父が握っていたものと比べると、ずいぶん小さく見えます。

ここで、二つの見方が出てきます。

ひとつは、秀吉が自分の欲に負けたという見方。 主君の孫を旗として使い、用が済んだら格下げした——という読み方です。

もうひとつは、合理的な判断だったという見方。 3歳の子に天下を任せられる時代ではなかった。誰かが束ねなければ、また戦乱に戻る。だから秀吉が引き受けた——という読み方です。

あなたなら、どちらだと思うでしょうか。

この記事でやること

この記事では、三法師がどう扱われたかを年表で並べたうえで、両方の言い分をどちらにも寄せずに立てます。

そのうえで最後に、少し変わったことをしてみます。

「もし自分が秀吉の参謀だったら、この件について何を進言しただろう」 と考えてみるのです。批判するのでも擁護するのでもなく、あの立場で献策する側に立ってみる。

先に白状しておきます。この作業をしているうちに、私は自分の問いの立て方が間違っていたことに気づきました。 「欲か、合理か」という二択は、たぶん最初からずれていたのです。

そして、秀吉自身がこの問題の答えを出せなかった証拠が、16年後にはっきり残っています。

歴史の話ではありますが、書いているあいだ、私はずっと会社のことを考えていました。肩書きは渡されたのに、仕事は渡されなかった人を、何人か思い出したからです。

同じような場面を見たことのある方に、お付き合いいただけたらうれしいです。

1. 結論: 秀吉が渡さなかったのは、地位ではなく「役割」だったと思います

先に、たどり着いたところをお伝えします。

秀吉は、三法師から地位を奪ったわけではありませんでした。むしろ地位のほうは、けっこう与えています。

従三位・権中納言。「岐阜中納言」と呼ばれ、公家の一員として宮中に参内しています。祖父の居城ではないにせよ、父の本拠だった岐阜城も返されました。命も取られていません。叔父たちが死んだり改易されたりしたあと、織田家の男子で大名として残ったのは彼だけです。

では何が足りなかったのか。役割です。

彼には、豊臣政権の中でやる仕事がありませんでした。奉行でもなく、方面軍の司令官でもない。位は高いのに、動かすものがない。席次はあるのに、持ち場がない。

「欲に負けたのか、合理だったのか」という問いを立てると、この一点が見えなくなります。秀吉が奪ったものを数えていると、渡されなかったものを数え落とすからです。

あなたの周りに、こういう扱いを受けた人はいませんか。役職定年のあとの顧問。合併後に残された旧経営陣。肩書きの紙は立派で、朝の会議に呼ばれない人です。

2. まず、彼がどう扱われたかを並べます

感想の前に、事実を置いておきます。年齢は数え年です。

| 年 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 天正8年(1580) | — | 織田信忠の長子として生まれる。幼名は三法師 |
| 天正10年(1582)6月 | 3歳 | 本能寺の変。祖父・信長と父・信忠が死ぬ |
| 同年6月27日 | 3歳 | 清洲会議。織田家の家督を継ぐ。宿老4人が共同で後見する体制に |
| 同年10月 | 3歳 | 大徳寺で信長の葬儀。当主である彼は、その場にいない |
| 同年12月 | 3歳 | 叔父・信孝が岐阜城から離さず、秀吉と信雄が兵を挙げて取り戻す |
| 天正12年(1584)11月 | 5歳 | 織田家の家督は叔父・信雄のものと正式に認められる |
| 天正16年(1588) | 9歳 | 元服して「秀信」と名乗る。従四位下・侍従 |
| 文禄元年(1592) | 13歳 | 美濃13万3千石と岐阜城を与えられる |
| 文禄2年(1593) | 14歳 | 従三位・権中納言。「岐阜中納言」と呼ばれる |
| 慶長5年(1600) | 21歳 | 関ヶ原。西軍につき、岐阜城を開城 |
| 慶長10年(1605) | 26歳 | 高野山を下りた直後に死去 |

こうして並べると、上がっているのか下がっているのか分かりにくいのに気づきます。官位は上がり続けているのに、家督のほうは5歳で叔父に移っている。

この分かりにくさ自体が、この件の性格をよく表している気がします。

3. 「合理的な判断だった」と言える材料

まず、秀吉をかばう側の材料から並べます。こちらのほうが、たぶん軽く見られています。

第一に、三法師の家督相続は、秀吉が押し通したものではなさそうです。

清洲会議で秀吉が幼い三法師を抱き上げて後継に推し、柴田勝家がこれに反対して敗れた——という有名な場面があります。ところがこの筋書きは『川角太閤記』という後の時代の記録によるもので、同時代の史料と食い違うという指摘があります。

近年の研究では、三法師が家督を継ぐこと自体は信長生前の構想に沿った順当な話で、そこに異論はなかったとみられています。会議の争点は別のところにありました。幼い当主に代わって実務を回す「名代」を誰がやるかです。そして信雄と信孝が譲らず、宿老4人の合議に落ち着きました。

つまり、擁立の場面そのものが後世の脚色である可能性が高い。「秀吉が三法師を担ぎ出して利用した」という物語は、入口のところで少し怪しくなります。

第二に、当時の状況で3歳の当主に実権を渡す選択肢は、現実的ではありませんでした。

明智光秀を討った直後です。上杉・毛利・北条・長宗我部・徳川がまだ生きていて、織田の家中は分裂しかけている。ここで幼児に決裁させる仕組みを作れば、実際には誰かが代わりに決めることになり、その誰かが不透明なぶん、争いはむしろ増えたのではないでしょうか。

第三に、秀吉は彼を殺していません。

これは軽くない事実だと思います。叔父の信孝は自害させられ、叔父の信雄は改易されました。旧主家の嫡孫という、いちばん危険な血筋の持ち主を、秀吉は生かし、位を与え、城主にしています。

第四に、統治を任せてみたら、彼はできる人でした。

岐阜時代に大きな一揆や騒動の記録はありません。祖父が保護した寺院を引き続き保護し、楽市楽座を継ぎ、鵜飼いを守り、鏡島湊を築いて水運を整えています。円徳寺には、信長のものと並んで秀信の楽市楽座の制札が残っています。

キリスト教にも理解があり、ルイス・フロイスの年報には「生まれもって位が高く、大きな期待がかけられる」と報告されました。

秀吉が彼をまったく信用していなかったのなら、こういう扱いにはならない気がします。

4. 「自分の欲だった」と言える材料

では逆側です。こちらも並べます。

第一に、信長の葬儀に、当主がいませんでした。

天正10年10月、大徳寺で信長の葬儀が行われます。位牌と太刀を持って喪主を務めたのは、秀吉でした。棺を担いだのは、秀吉の養子になっていた信長の四男・羽柴秀勝です。

織田家の当主である三法師は、この場にいません。 後見人の信雄も信孝も、宿老の勝家も滝川一益も、出席していません。

主君の葬儀を、家臣の一人が主催して喪主を務めた。この一点だけ取り出すと、たしかに簒奪の匂いがします。

第二に、家督が5歳で叔父に移っています。

天正12年、小牧・長久手の戦いのあと。秀吉は織田信雄と講和し、そのときに信雄の織田家家督を正式に認めました。 三法師は安土から坂本城、京都の秀吉のもと、そしてまた坂本城へと移されています。

清洲会議で決めたはずの当主が、5歳で当主でなくなったわけです。会議の決定は、政治の都合で書き換えられました。

第三に、家格の位置づけがはっきりしています。

天正16年、後陽成天皇が聚楽第に行幸します。9歳で元服したばかりの秀信も列席しました。『聚楽亭行幸記』に「三郎侍従秀信朝臣」の名が見えます。

このときの席次は5番目でした。 前田利家、豊臣秀勝、結城秀康らに次ぐ位置です。

前田利家は、かつて織田信長の家臣でした。旧主家の嫡孫が、祖父の家臣だった人の下に座っている。 秩序が完全に入れ替わったことを、席の順番が静かに示しています。

第四に、これがいちばん効くのですが、織田の系譜そのものが組み替えられています。

秀信が岐阜13万3千石を与えられたのは、文禄元年に岐阜城主だった豊臣秀勝(秀吉の甥)が朝鮮で死んだからでした。彼はその「遺領を継ぐ」形で岐阜に入っています。 『勢州軍記』には、秀勝の養子として継承したと記されています。

ここには筋書きがあったと考えられています。信長の後継者は信雄父子ではなく、秀吉の養子になっていた羽柴秀勝(信長の四男)であり、秀信はその秀勝の後継者である——という筋書きです。

血のつながりでいえば、秀信は信長の嫡孫です。まっすぐな正統です。ところが制度の上では、その正統がいったん秀吉の養子を経由してから彼に届く形に組み替えられている。

領地を減らすより、こちらのほうがずっと深いところに手を入れています。織田の正統を、豊臣の家の中に一度くぐらせたわけです。

そして名前です。「秀信」の「秀」は、秀吉の一字。呼ばれるたびに、誰から与えられた立場なのかが確認される名前でした。

5. ここで、自分の問いの立て方を壊しておきます

さて、材料が両側に並びました。私は最初、この記事を「どちらの色が濃いか」で締めるつもりでした。

けれど、書きながら気づいたことがあります。「秀吉は三法師を大切にしなかった」と問うとき、私は暗に、大切にした人がどこかにいたと想定しているのです。

いませんでした。

叔父の信孝は、三法師を岐阜城に抱え込みました。 清洲会議では「安土城の修復が終わるまで預かる」と決まっていたのに、離さなかったのです。理由は分かりやすい。当主を手元に置いていること自体が、権力の根拠になるからです。これが秀吉に兵を挙げる口実を与え、結局は三法師を戦の火種にしました。

叔父の信雄は、家督そのものを引き取りました。 5歳の甥から、当主の座を受け取っています。

秀吉の言い分もあります。信長の葬儀について、秀吉は書状(金井文書に写しが残ります)の中で、信長の息子たちに知らせたが返事がなく、宿老たちも動かないので、「天下の外聞」を思ってやむを得ず自分で行ったと説明しています。研究者の渡邊大門さんも、この書状を根拠に「秀吉が勝手に取り仕切ったのではない」と論じています。

秀吉に言わせれば、席は空けてあったのに誰も座らなかった、ということになります。

正直に書きます。この子を正しく扱おうとした人が、そもそも見当たらないのです。

祖父も父も同じ日に死に、叔父二人は彼を旗として取り合い、家臣たちは合議という名の綱引きをしていました。秀吉が特別に冷たかったというより、誰も彼を「育てる対象」として見ていなかったというほうが近い気がします。

だから問いを立て直します。「誰の欲だったのか」ではなく、**「この子には何が用意されていなかったのか」**です。

そう置き換えると、答えは3章と4章の両方から浮かんできます。地位は用意されていました。役割が用意されていなかったのです。


ここまでで触れた史料と研究を挙げておきます。清洲会議の性格については柴裕之氏らの研究および呉座勇一氏の紹介、信長の葬儀の経緯については渡邊大門氏の論考によりました。史料は『川角太閤記』『聚楽亭行幸記』『勢州軍記』、および天正10年10月18日付の羽柴秀吉書状写(金井文書)、ルイス・フロイス『日本年報』です。原典にあたれていない部分があるため、本文では「〜と伝わる」「〜とする説がある」という形で記しています。


同じ清洲会議を、柴田勝家の側から見た記事もあります。彼はこの会議のあと秀吉と戦い、翌年に死にました。

『柴田勝家という男——信長の弔い合戦は、5日前に終わっていた』



ここから先で書いていること

無料でお読みいただけるのは、ここまでです。ここから先は、次の4つを書いています。

6. もし私が秀吉の参謀だったら、何を進言したか
批判でも擁護でもなく、天正10年の秀吉の隣に座って献策する立場で書きました。進言は3つあります。葬儀の喪主を譲ること、位ではなく役目を作ること、織田の正統を素直に通すこと。そのうえで、この進言が抱えている決定的な弱点についても、自分で書いています。

7. 16年後、秀吉は同じ問題を自分の子で解けませんでした
この記事でいちばん書きたかったところです。慶長3年、秀吉が死んだとき、残されたのは数え6歳の秀頼と、五大老・五奉行の合議でした。三法師のときと、同じ形です。 違いは結末だけでした。

8. 岐阜城は、一日で落ちました
関ヶ原で彼が受け取った誘いの条件と、城を攻めた二人の名前。そして高野山が彼を入れなかった理由を書いています。祖父の名で当主に立てられた人が、祖父の名で山に入れてもらえませんでした。

9. おわりに
なぜ人は、大切にしているつもりで席だけ用意してしまうのか。私自身が、どちら側にも回りうるという話です。

価格について

100円です。缶コーヒー1本ぶんくらいの値段にしました。

このアカウントの記事はこれまですべて無料で公開してきました。今回は、有料でも読んでいただけるものが書けたかどうかを一度確かめてみたくて、試しに値段をつけています。

無料部分だけでも読み物として終わるように書いたつもりです。続きが気になった方だけ、どうぞ。


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