佐久間信盛という男——信長に「30年、何もしていない」と書かれた
30年勤めた会社で、ある日、上司から19項目の書面を渡されたとしたら。
そこにこう書かれていたら、どう思われるでしょうか。
「この30年、お前には人に誇れるような働きが一度もなかった」
戦国時代に、実際にそういう文書を受け取った人がいます。織田信長の筆頭家老、佐久間信盛です。
信長の父の代から仕えた人でした
佐久間家は、代々織田家に仕えた家です。信盛は信長の父・信秀の時代から仕え、若い信長を支えた一人でした。
弘治2年(1556年)、信長が弟の信勝と争ったとき、信盛は信長方につきます。このとき信勝側についていたのが、柴田勝家と林秀貞です。信盛は、危ない場面で信長を選んだ側の人間でした。
その後も、桶狭間、姉川、長篠と、織田家の主要な戦にはたいてい名前が出てきます。
彼には異名がありました。「退き佐久間」です。撤退戦で殿(しんがり)を務め、軍を崩さずに引き上げる。その技術が評価されて、当時の小歌にまで謳われたと伝わります。
派手ではありません。けれど、いなければ困る人です。あなたの職場にも、そういう方がいませんか。
そして天正8年、19ヶ条が届きました
天正8年(1580年)8月。信盛は信長から、19ヶ条の折檻状を突きつけられました。信長自筆の書状です。
内容は容赦のないものでした。
成果が出ていない。明智光秀や羽柴秀吉、柴田勝家はこれだけの働きをしているのに、お前は何をしていたのか。人を育てていない。部下に加増もしていない。しかも昔の失敗まで蒸し返され、息子の落ち度まで書き並べられています。
そして最後に、二つの道が示されました。
敵を平定するか、討死するか。それができないなら、頭を丸めて高野山に行け。
信盛は高野山へ上りました。剃髪し、宗盛と名を改めます。そして天正10年(1582年)の正月、失意のうちに亡くなりました。
享年55と伝わります。
本当に、働いていなかったのでしょうか
ここが、私の引っかかったところです。
信盛のやり方は、それまでずっと評価されてきたものでした。無理をせず、被害を出さず、崩さずに持ちこたえる。「退き佐久間」という異名そのものが、その証明に見えます。
ところが天正8年になって、同じやり方が「働いていない」と断じられた。彼のほうが変わったのでしょうか。それとも、変わったのは別のものだったのでしょうか。
この記事では、佐久間信盛という人が何をして、何をしなかったのかをたどりながら、その問いを考えてみたいと思います。
先にお断りしておくと、彼は同情されるだけの人ではありません。切られた側であると同時に、人を切った側でもありました。そこも省かずに書きます。
そしてもうひとつ。この年の8月に消えたのは、信盛だけではありませんでした。
1. 結論: 変わったのは、彼ではなかったのかもしれません
先に結論をお伝えします。
佐久間信盛が切られたのは、彼の働きが落ちたからではなく、織田家が人に求めるものが変わったからではないかと私は考えています。
理由は三つです。
信盛のやり方は、それまで評価されてきたものだった。 無理をせず、軍を崩さずに持ちこたえる。その技術に「退き佐久間」という異名がついていました
天正8年の織田家は、別の型の人材を求める段階に入っていた。 新しい土地を切り取り、自分の家臣団を作って動かす。折檻状で比較された明智光秀や羽柴秀吉は、まさにその型の人です
同じ月に、ほかにも古参が消えている。 信盛一人の成績の問題だとすると、説明がつきにくくなります
同じ働きが、あるとき「安定」と呼ばれ、あるとき「停滞」と呼ばれる。その切り替わりが起きたのだと思います。
ただし、ここは正直に書いておきます。これは私の見方であって、史料が明言していることではありません。 信長がなぜ信盛を切ったのか、本人の真意を記した記録は残っていないのです。
2. 30年、彼は確かに働いていました
まず、彼が何をしてきたのかを見ておきます。
佐久間家は代々織田家に仕えた家で、信盛は信長の父・信秀の代から仕えていました。
弘治2年(1556年)、信長と弟の信勝が対立し、稲生の戦いが起こります。このとき信長方の兵は700人ほどだったと伝わります。対する信勝方は、柴田勝家と林秀貞を中心に1,700人ほど。信盛は、数で劣るほうを選んだ側にいました。
この選択は重いと思います。若い当主が兄弟に負けるかもしれない場面で、どちらに立つか。彼はそこで信長を選び、そして信長が勝ちました。
その後の戦歴も長いものです。永禄3年(1560年)の桶狭間では善照寺砦を守り、元亀元年(1570年)の姉川の戦いと志賀の陣に出陣し、天正元年(1573年)の一乗谷城の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦いにも加わっています。
そして天正4年(1576年)以降、石山本願寺攻めの総司令官を任されました。七ヶ国から与力を預かる、畿内方面の軍団長という立場です。織田家中で、これ以上ないほど重い役でした。
彼の異名「退き佐久間」は、撤退戦で殿を務める技術に由来すると伝わります。当時の小歌にまで謳われたそうです。
撤退で名を残す武将は、そう多くありません。 攻めて取った話は語られやすいけれど、崩れずに引いた話は数字になりにくい。それでも周囲は見ていて、歌にまでした。それだけの評価があったということだと思います。
派手ではないけれど、いなければ困る。あなたの職場にも、そういう方がいらっしゃるのではないでしょうか。
3. ただし、彼は切る側でもありました
ここで、省きたくない話があります。
天正3年(1575年)12月、信盛は与力だった水野信元について、信長に訴え出ました。武田方の秋山虎繁と内通し、兵糧をひそかに岩村城へ流している、という内容です。
信長は激怒し、徳川家康に信元を討つよう命じました。信元と養子の信政は誘い出されて殺されます。そして信元の居城だった刈谷城と西三河の所領は、信盛の直轄領に組み込まれました。
内通が事実だったのかどうかは、はっきりしません。ただ、結果として信盛は、告発した相手の領地を手に入れています。
この5年後、彼自身が同じように切られることになります。しかも折檻状には、その刈谷での人事のまずさが罪状として書かれていました。手に入れたものが、そのまま自分を切る材料になったわけです。
組織の中にいると、切る側と切られる側は入れ替わるのかもしれません。信盛を気の毒な人として読むだけでは、たぶん半分しか見えないのだと思います。
4. 天正8年8月、19ヶ条が届きました
天正8年(1580年)、10年におよんだ石山本願寺との戦いが終わります。閏3月に和睦が成立し、8月に本願寺は大坂を退去しました。
長い任務が、ようやく終わったところでした。
その直後です。信盛は嫡男の信栄とともに、信長から19ヶ条の折檻状を突きつけられます。信長自筆の書状でした。『信長公記』は、信長が自ら筆を執った文書は極めて珍しいと特記しています。
書かれていた内容を、今の言葉に置き換えてみます。
天王寺に5年もいながら、戦も調略もせず、世間が納得する働きが一つもない
勝ち負けの機を見極めず、いたずらに時間を費やした
明智光秀、羽柴秀吉、池田恒興はこれだけの働きをした。柴田勝家は越前を平定した
七ヶ国から与力を預けたのに、成果が出ていない
人を召し抱えず、部下に加増もせず、人事も動かさなかった
昔、朝倉との戦いで叱責されたとき、恐縮もせずに席を蹴って立った
三方ヶ原では、援軍でありながら一人の死者も出さず、平手汎秀を見殺しにした
息子の甚九郎(信栄)の罪状は、列挙しきれない
親子ともに欲深く、気むずかしく、良い人材を抱えず、物事をいい加減に処理する
そして、こう書かれていたと伝わります。
この30年、「比類なし」と言われるような働きが一度もなかった。
読んでいて、いくつか気づくことがあります。
ひとつは、同僚と並べて比べられていること。光秀、秀吉、恒興、勝家。名指しです。
もうひとつは、昔のことが蒸し返されていること。三方ヶ原は8年前、朝倉との戦いはさらに前の話です。当時それで処分されたわけではありません。それが今になって、罪状の欄に並んでいます。
そして、人を育てなかったことが繰り返し咎められています。与力に頼り、自前の家臣を増やさず、部下に加増もしなかった。これは戦の勝ち負けとは別の評価軸です。
最後の二ヶ条は、選択肢の提示でした。汚名をすすぐなら、敵を平定するか、討死するか。それができないなら、頭を丸めて高野山に隠遁し、赦しを乞え。
信盛は、後者を選びました。父子で高野山へ上り、剃髪して宗盛と号します。
その後、高野山にも居られなくなり、南へ移ったと伝わります。従う郎党は減り、熊野へ移るときには一人だけになっていたそうです。
天正10年(1582年)1月16日、紀伊で亡くなりました。享年55。 追放から、1年半ほどでした。
その5か月後に本能寺の変が起こることを、彼は知りません。
5. 消えたのは、彼だけではありませんでした
見落とせないことがあります。
この同じ月に、ほかにも古参の家臣が織田家から去っています。
一人は林秀貞。信長の養育係を務めた宿老です。理由として『信長公記』が記すのは、かつて信長が窮地にあったときに謀反を企てた、という趣旨のこと。これは24年前の稲生の戦いを指しています。
24年前です。その間ずっと、秀貞は宿老として仕えていました。
同じころ、美濃三人衆の安藤守就、そして丹羽氏勝も追放されています。
一人が切られたなら、その人の成績の話かもしれません。けれど同じ月に、古参が三人も四人もまとめて消えている。これは個人の評価というより、組織を作り替える動きだったと見るほうが自然ではないでしょうか。
実際、彼らが押さえていた場所には共通点があります。林は尾張、安藤は美濃、佐久間は近江。いずれも織田家の本拠と、京都・安土を結ぶ線の上にあります。ここを直轄地にするか、嫡男・信忠のもとに組み込むか。そういう狙いがあったのではないかという見方があります。
信盛の後、筆頭家老の座には柴田勝家が就きました。かつて稲生の戦いで、信勝方についていた人です。
6. 本当に、働いていなかったのでしょうか
では、信長の言い分は正しかったのでしょうか。
研究者の評価は、そのまま信長側に立っているわけではありません。
谷口克広氏は、本願寺攻めが膠着していたのは、力攻めで被害を出さないための戦略であり、信長もそれを了解していたはずだと指摘しています。つまり信盛は、指示された方針どおりに動いていた可能性があるということです。
池上裕子氏は、もっと構造的な見方をしています。当時の織田家には検地による定量的な把握がなく、どの家臣がどれだけの軍役を負うかという規定もなかった。そのため信長の要求は際限がなくなり、家臣の側は「どこまでやれば足りるのか」が分からない。そういう仕組みの問題があった、という指摘です。
これは、少し身につまされる話ではないでしょうか。目標が数字で決まっていない状態で、「働きが足りない」と言われる。 反論しようにも、基準がないので反論のしようがありません。
当時の人も、腑に落ちなかったようです。『佐久間軍記』は、誰かの讒言があったのではないかと疑っています。江戸時代の『寛政重修諸家譜』にいたっては、明智光秀の讒言だったと書いています。ただしこちらは典拠が示されておらず、そのまま受け取るのは難しいところです。
結局、確かなのは「信長がそう書いた」というところまでです。信盛が本当に働いていなかったのか、それとも基準のほうが動いたのか。史料はそこまで教えてくれません。
7. おわりに
嫡男の信栄は、信盛が亡くなったあとに帰参を許されました。ただし、扱いは以前とは違ったようです。織田信忠付きの一旗本であり、重臣として遇されることはなかったと伝わります。
家は残った。けれど、父が30年かけて上った場所には戻れませんでした。
これは400年以上前の、命が懸かった話です。私たちの日常とは重さがまるで違います。追放は、退職とは比べものになりません。
それでも、ひとつだけ持ち帰れるものがあるとすれば、これだと思います。
評価は、働きだけで決まるわけではないのかもしれない。
信盛は、たぶん手を抜いていません。彼のやり方は、20年以上にわたって正しいやり方でした。崩さない。損害を出さない。持ちこたえる。それで異名がつき、歌にまでなった。
ところが組織が次の段階に入ったとき、同じ働きの意味が変わりました。「崩さない人」は「動かない人」になり、「損害を出さない」は「成果が出ていない」になった。
変わったのは彼ではなく、彼を測る物差しのほうだった。 私はそう読んでいます。
長く働いていると、こういう場面に出会うことがあるのではないでしょうか。やり方を変えたわけでもないのに、ある時期から評価が変わる。上の人が代わる。方針が変わる。求められるものが、いつの間にか別のものになっている。
そのとき自分を責めてしまいがちですが、原因は自分の中だけにないこともあります。信盛の話は、そのことを教えてくれる気がします。
もっとも、彼にできたことがなかったとも思いません。人を育て、部下に報い、次の世代を作っておくこと。折檻状が繰り返し咎めていたのは、そこでした。信長の言い分がすべて理不尽だったとは、私には言い切れません。
あなたの職場では、評価の基準が変わった瞬間がありましたか。そのとき、何が起きたでしょうか。
歴史の隅に置かれた人物にも、光を当てていきたいと思っています。これからも、組織の中で割を食った人たちの話を書いていく予定です。この記事を面白く読んでいただけたなら、スキやフォローをいただけると励みになります。
同じように、自分ではどうにもできない事情で切られた人の話を書いています。あわせてどうぞ。
『織田信澄という男——本能寺の変で、何もしていないのに殺された』
折檻状で信盛と比べられた明智光秀は、この2年後に信長を討ちます。その動機については、5つの説を整理しました。
『明智光秀はなぜ裏切ったのか——「本能寺の変」5つの説を、フェアに整理してみた』
主な参考
本記事は、以下の史料・研究に基づく記述を参照しました。原典にあたれていない部分があるため、本文中では「〜と伝わる」という形で記しています。折檻状の内容は原文を引用せず、要旨を筆者の言葉で述べたものです。
『信長公記』(19ヶ条の折檻状、林秀貞の追放理由)
『佐久間軍記』(讒言をめぐる記述)
『寛政重修諸家譜』(光秀の讒言とする記述。典拠は示されていません)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館、1995年)
池上裕子『織田信長』(吉川弘文館、2012年)
なお、折檻状が突きつけられた日付は資料によって幅があるため、本文では「天正8年8月」までにとどめました。信盛の生年、および亡くなった場所(高野山か熊野か)にも諸説があります。
