織田信澄という男——本能寺の変で、何もしていないのに殺された
いま放送中の大河ドラマ『豊臣兄弟!』に、織田信澄という武将が出てきます。
ご存じでしょうか。私は正直なところ、名前は聞いたことがある程度でした。信長でも、光秀でも、秀吉でもない。教科書には出てきません。
けれど調べていくうちに、この人のことが頭から離れなくなりました。
信長の甥であり、光秀の娘婿
信澄は、織田信長の甥にあたります。信長の弟・信勝(信行)の子として生まれました。
そしてもう一つ、決定的な立場がありました。明智光秀の娘を妻にしていたのです。しかもこの縁組は、信長が決めたものだと伝わります。
この二つの立場が交差する場所に、天正10年6月2日がやってきます。本能寺の変です。
三日後、味方に殺された
信澄はこのとき、大坂にいました。四国へ渡る遠征軍の副将として、船出の準備をしていたところでした。
変の知らせを受けて、渡海は中止になります。そして6月5日、彼は殺されました。
討ったのは、明智軍ではありません。味方であるはずの、織田信孝と丹羽長秀の軍勢でした。 信孝は信長の子で、信澄にとっては従弟にあたる人です。
理由は、「信澄は光秀と共謀していた」という噂でした。
ところが、その証拠は見つかっていません
ここが引っかかるところです。
信澄が光秀に呼応して動いた記録は、見つかっていません。研究者の谷口克広氏も、荷担した様子はなく、光秀に助力しようとした素振りも窺えないと評価しています。
つまり彼は、何かをしたから殺されたのではなさそうなのです。
では、何が彼を殺したのでしょうか。
この記事では、織田信澄という人物の生涯をたどりながら、その問いを考えてみたいと思います。25年ほどかけて積み上げたものが、わずか三日で消えた。その三日に何があったのかを、史料が伝えるかぎりで追ってみます。
先にお断りしておくと、彼については分かっていないことが多くあります。名前の表記すら、研究者のあいだで意見が分かれているほどです。それでも、確かに言えることはいくつかあります。その線引きも含めて、お伝えできればと思います。
1. 結論: 信澄を殺したのは、彼の行動ではなかった
先に結論をお伝えします。
織田信澄が殺された理由は、彼が何をしたかではなく、彼が何であったかにあったのだと思います。
具体的には、三つです。
謀反人の子だったこと
明智光秀の娘婿だったこと
そのとき、大坂にいたこと
この三つに共通しているものがあります。どれも、本人には選べません。 どの父から生まれるか。誰と結婚させられるか。どこに配置されるか。彼が自分の意思で決めたことは、ひとつも入っていないのです。
一方で、彼が自分の力で積み上げたものは、たしかにありました。あとで詳しく見ていきますが、彼は織田一門の序列で第5位まで上りつめています。上にいたのは信長の息子たちと弟だけ、という位置です。
その積み上げが、三日で消えます。
自分で作ったものが、自分では選べなかったものに、押し流された。これが信澄の生涯だったのではないでしょうか。
2. 出発点は、最悪でした
まず、彼がどこから始めたのかを見ておきます。
信澄の父・織田信勝(信行)は、兄である信長に背いた人です。しかも一度ではありません。弘治2年(1556年)に謀反を企てて敗れ、その後も企てが露見し、永禄元年(1558年)に信長によって殺されたと『信長公記』は伝えています。
つまり信澄は、父を伯父に殺された子として残されました。当時の常識でいえば、一族の禍根になりかねない存在です。処分されてもおかしくない立場でした。
ところが、信長はそうしませんでした。信勝の子供たちは助命され、信長の命令で柴田勝家のもとで養育されたと伝わります。
ここは少し意外に感じませんか。信長といえば冷酷な人物として語られがちですが、弟の遺児は生かしています。もっとも、それが情によるものか、政治的な計算によるものかは、史料からは読み取れません。
いずれにせよ、信澄はここから始めることになりました。謀反人の子という札を背負ったまま、殺した相手の家中で生きていく。 あなたなら、この出発点から何を目指すでしょうか。
3. それでも、実力で駆け上がりました
そして信澄は、驚くほど上っていきます。
元亀2年(1571年)、浅井氏の旧臣・磯野員昌の養嗣子となります。天正3年(1575年)の越前一向一揆征伐が初陣とみられ、柴田勝家・丹羽長秀とともに戦っています。
天正6年(1578年)、養父・員昌が信長の叱責を受けて出奔すると、その所領だった高島郡がそのまま信澄に与えられました。彼はここに新しい城を築きます。大溝城です。
この城について、ひとつ皮肉な符合があります。縄張り、つまり設計を担当したのは明智光秀だと伝わるのです。のちに彼の運命を決めることになる舅が、彼の城を設計していた。当時は誰も、その意味を知りません。
その後の働きも見事なものでした。安土城の造営では、総普請奉行の丹羽長秀とともに普請奉行を務めています。天正8年(1580年)以降は大坂に常駐し、宣教師たちは彼を「大坂の司令官」と呼びました。
そして注目すべきが、一門衆における序列です。信澄は第5位でした。上にいるのは、信長の嫡男・信忠、次男・信雄、信長の弟・信包、信長の子・信孝の4人だけ。彼のすぐ後ろに続くのは、信長の弟である長益(有楽斎)と長利です。
研究者の谷口克広氏は、これを「破格の待遇」と評しています。謀反人の遺児であるという境遇は、ほとんど窺えないほどの厚遇でした。
天正9年(1581年)の京都御馬揃えでは、10騎を率いて行進しています。これは叔父の信包、従弟の信孝と同格の扱いでした。
そして天正10年(1582年)5月、信長が四国の長宗我部元親との決裂を受けて遠征軍を編成すると、信澄はその副将に選ばれます。総大将は信孝、副将は丹羽長秀・蜂屋頼隆、そして信澄。5月11日には住吉で渡海の準備に入っていました。
ここまでは、すべて彼が自分で積み上げたものです。
4. 三日で、すべてが消えました
天正10年6月2日、本能寺の変が起こります。
四国遠征軍は、翌3日に淡路へ渡る予定でした。それが急遽中止になります。
ここから先の速さが、この話のこわいところです。
噂は、変の当日にはもう動き出していました。 奈良の興福寺にいた僧・多聞院英俊は、6月2日の午後の記録に「惟任並七兵衛申合」——光秀と七兵衛(信澄)が示し合わせた、という趣旨のことを書き留めています。奈良です。京都から、その日のうちに届いている。
さらに翌3日、三河にいた松平家忠は日記に「明智日向守小田七兵衛別心か」と記しました。三河にまで、翌日には届いていたことになります。
事実かどうかの確認を待つ余裕は、どこにもありませんでした。
そして6月5日。従弟の信孝と丹羽長秀の軍勢が、信澄のいた大坂城の千貫櫓を攻撃します。信澄は防戦しましたが、丹羽家の家臣・上田重安によって討たれました。
遺体は、信孝の命令で堺の町外れに梟されたと伝わります。謀反人の汚名を着せられたままでした。
享年は25とも28とも言われ、生年に諸説あるため定まっていません。ただ、どちらであっても25年前後です。その25年ほどをかけて積み上げたものが、三日で消えました。
5. 荷担していたのでしょうか
では、彼は本当に光秀と組んでいたのでしょうか。
先ほども触れたとおり、谷口克広氏は、信澄には荷担した様子がなく、光秀に助力しようとした素振りも窺えないと評価しています。呼応して兵を動かした記録も見つかっていません。
ここで、比べてみたい人物がいます。細川忠興です。
忠興もまた、明智光秀の娘婿でした。妻は玉、のちの細川ガラシャです。同じ属性を持っていたわけです。
ところが忠興は、生き延びました。それどころか、その後も大名として続いていきます。
何が違ったのでしょうか。
まず、細川父子は光秀からの誘いをはっきり断りました。信長の喪に服すとして剃髪し、加勢を拒否したと伝わります。父・藤孝は隠居して忠興に家督を譲り、光秀の娘である玉は幽閉されました。累が及ぶのを避けたのです。
ただ、ここで見落とせないことがあります。忠興が変を知ったのも、光秀から加勢を求められたのも、変が起きた後でした。事前に知らされてはいなかったのです。信澄も同じだったとみられます。
つまり、「光秀の娘婿である」という属性だけでは、信澄の死は説明できません。 同じ属性を持つ忠興は死んでいないのですから。
では信澄には何が重なったのか。私は二つあると考えています。
ひとつは、「謀反人の子」という第二の属性です。父が信長に背いた過去は、消えていませんでした。疑う側にとっては、これ以上ないほど都合のよい材料になります。「あの父の子なら」という理屈は、証拠を必要としません。
もうひとつは、居場所です。信澄は大坂にいました。すぐ隣には、信孝と丹羽長秀の軍勢があります。丹後にいた忠興のように、距離を取って身の証を立てる時間がありませんでした。
属性が重なり、場所が悪かった。そこに噂が届いた。この三つが揃ってしまったのだと思います。
6. 「真実」は、どこまで分かっているのか
ここまで書いてきて、正直にお伝えしておきたいことがあります。
信澄については、分かっていないことがとても多いのです。
たとえば名前です。彼は「津田信澄」とも「織田信澄」とも表記されます。さらに谷口克広氏によれば、当時の文書には「信重」とあり、「信澄」と署名した文書は見られないとのことです。近年の研究では、一次史料に「津田」の名字は確認できず、一貫して「織田」を称していたとみるのが妥当だという指摘もあります。
つまり、私たちは彼の名前すら確定できていません。
人物像についても、評価が真っ二つに割れています。
宣教師ルイス・フロイスは、信澄について厳しいことを書きました。異常なほど残酷で、皆が彼を暴君とみなし、その死を望んでいた、という趣旨の記述が『日本史』にあります。
一方、奈良の多聞院英俊は、彼の死を惜しんで「一段の逸物也」と書きました。たいへん優れた人物である、という意味です。
同じ人間について、これほど評価が割れる。どちらが正しいのかを決める材料は、いまのところありません。
もうひとつ、興味深い記述があります。フロイスは、信澄を殺した信孝が、その後「勇気と信用を獲得し、河内国の有力者たちが彼を主君として認めるに至った」という趣旨のことを書いています。
これを読むと、つい先を推測したくなります。けれど、フロイスがそう書いたという事実と、信孝がそれを狙って殺したかどうかは、別の話です。史料はそこまで教えてくれません。
結局、確かに言えるのは**「荷担した証拠は見つかっていない」というところまで**です。それ以上は、まだ分かっていない。この記事のタイトルに「真実」と付けるとすれば、これが誠実な答えなのだと思います。
7. おわりに
織田信澄という人を追いかけていて、印象に残ったことがあります。
彼が積み上げたものは、まちがいなく彼の力でした。 謀反人の子という最悪の出発点から、一門の序列5位まで来た。城を任され、大坂を任され、遠征軍の副将になった。誰かに与えられただけでは、ここまで来られません。
けれど、それを崩したものは、彼の力の外にありました。 父が誰か。妻が誰の娘か。そのときどこにいたか。どれも、彼にはどうにもできないことでした。
これは400年以上前の、遠い時代の話です。命が懸かっている点で、私たちの日常とは重さが違います。
それでも、と思うのです。自分の力で積み上げてきたものが、自分では動かせない事情で揺らぐ経験は、この年代なら覚えのある方もいるのではないでしょうか。会社の方針が変わる。上の人が代わる。年齢という一点で、扱いが変わる。理不尽さの規模はまるで違いますが、構造としては、どこか似ている気がします。
信澄には、身の証を立てる時間がありませんでした。三日は、あまりに短すぎました。
もし彼にもう少し時間があったら、何かが変わったのでしょうか。それとも、噂が広まった時点で、もうどうにもならなかったのでしょうか。
答えは出ません。ただ、名前すら定まらないまま消えていったこの人のことを、少しだけ覚えておきたいと思いました。
あなたは、信澄の三日間をどう読まれたでしょうか。
歴史の隅に置かれた人物にも、光を当てていきたいと思っています。この記事を面白く読んでいただけたなら、スキやフォローをいただけると励みになります。
信澄を殺すきっかけとなった本能寺の変そのものについては、別の記事で光秀の動機をめぐる5つの説を整理しています。あわせてどうぞ。
『明智光秀はなぜ裏切ったのか——「本能寺の変」5つの説を、フェアに整理してみた』
主な参考
本記事は、以下の史料・研究に基づく記述を参照しました。原典にあたれていない部分があるため、本文中では「〜と伝わる」という形で記しています。
『信長公記』(信勝の暗殺)
『多聞院日記』(6月2日の記述、および信澄への評価)
『家忠日記』(6月3日の記述)
ルイス・フロイス『日本史』(信澄評、信孝に関する記述)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館、1995年)
大河ドラマ『豊臣兄弟!』の配役について
https://natalie.mu/eiga/news/680462
