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「宣教師は侵略の先兵」——サン・フェリペ号事件のあの失言は、本当にあったのか

こういう筋書きを、どこかで習った覚えはないでしょうか。

土佐に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の乗組員が、こう口をすべらせた。「スペインはまず宣教師を送り、信者を作り、そのあと軍隊で併合するのだ」。これを聞いた豊臣秀吉が激怒し、翌年、長崎で26人のキリシタンが処刑された——。

日本二十六聖人の殉教です。教科書にも載る有名な事件で、私も長いあいだ、この筋書きで覚えていました。

ところが、その一言を聞いた人の記録がありません

調べてみて、少し驚きました。

この発言が書かれているのは、事件から後に書かれた記録です。しかも、書いたのはその場にいなかった人でした。当時の目撃証言も、やり取りを記した文書も、いまのところ見つかっていません。

近年の研究では、「この失言が引き金だった」という説明を支持しない見方が強くなっているようです。

それでも「作り話だ」とは言い切れません

では嘘だったのか、というと、そこも決まっていません。似たようなやり取りはあっただろう、と考える研究者もいます。

この記事は、通説を暴くための記事ではありません。いま何が言えて、何が言えないのかを並べるための記事です。

この記事で書くこと

  • あの日、土佐で実際に起きたこと(日付と積荷の額まで、分かっている範囲で)

  • 問題の一言は、誰がどこに書いたのか

  • 通説が揺らいでいる4つの理由

  • では、何が引き金だったと考えられているのか

そして最後に、少し別のことを考えます。大きな出来事の原因が、あとから一つの発言に集約されて語られてしまうのは、なぜなのか。 書いているあいだ、私は会社のことを思い出していました。

400年前の話ですが、たぶん、見覚えのある形だと思います。

1. 結論: 「あの失言が引き金」とは、言いにくくなっています

先に、たどり着いたところをお伝えします。

発言そのものは、あったかもしれません。ただ、それが処刑の引き金だったという説明は、いま支持されにくくなっています。

理由は後で4つ並べますが、いちばん大きいのは単純なことです。その場を見た人の記録が、残っていないのです。

とはいえ「作り話だった」と言い切ることもできません。似たようなやり取りはあっただろう、と考える研究者もいます。決着はついていない、というのが正直なところです。

この記事は、通説を暴くためのものではありません。分かっていることと、分かっていないことを分けて置くためのものです。

2. あの日、土佐で起きたこと

感想の前に、事実を並べておきます。

| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 文禄5年8月28日(1596年10月19日) | マニラ発アカプルコ行きのスペイン船サン・フェリペ号が、台風で土佐・浦戸に漂着 |
| 漂着直後 | 国主・長宗我部元親が船を湾内へ曳航させ、座礁。船員は長浜の町に留め置かれる |
| 同時期 | 船に残っていた60万ペソ分の積荷を元親が没収。もとは100万ペソ相当を積んでいたが、嵐の中で大量に投棄されていた |
| 秋 | 抗議を受け、秀吉の奉行・増田長盛が浦戸へ派遣される。長盛は元親の友人だった |
| 同年12月8日 | 秀吉が再び禁教令を出す |
| 慶長元年12月19日(1597年2月5日) | 長崎・西坂で26人が処刑される(日本二十六聖人) |
| 1597年4月 | 修理を終えたサン・フェリペ号が浦戸を出航。5月にマニラへ帰り着く |

処刑された26人の内訳も書いておきます。フランシスコ会の宣教師3人と修道士3人、そして日本人の信徒20人。国籍で分けると、日本人20人、スペイン人4人、メキシコ人1人、ポルトガル人1人でした。

船は帰り、積荷は戻らず、人が死んだ。これがこの事件の骨格です。

3. 問題の一言は、どこに書かれているのか

さて、例の発言です。

積荷の接収を告げられた船員たちは抗議しました。そのとき水先案内人のフランシスコ・デ・オランディアが世界地図を広げ、スペインがどれほど広大な国かを示し、日本がいかに小さいかを語ったと伝わります。

長盛が「なぜスペインはそれほど広い領土を持てたのか」と問うと、返ってきたのがこの答えでした。

「スペイン国王は宣教師を世界中に送る。まず民を教化し、信徒を内側に取り込み、そのうえで兵を出して併合する」

たしかに、聞かされた側が青ざめる内容です。

ではこれは、どこに書かれているのでしょうか。スペイン商人アビラ・ヒロンが記した『日本王国記』に、イエズス会士モレホンが注釈をつけたもの、というのが出どころです。

ここが引っかかるところです。書いたのは、その場にいなかった人でした。やり取りを直接見た人の証言も、当時の文書も、いまのところ見つかっていません。

4. 通説が揺らいでいる4つの理由

① 裏づける一次史料がない

いま書いたとおりです。伝聞をたどると、当事者に行き当たらない。

② 二つの修道会が、互いに責任をなすりつけていた

これがなかなか生々しい話です。

当時の日本には、ポルトガル系のイエズス会と、スペイン系のフランシスコ会が入っていました。両者は激しく対立していて、この殉教事件のあと、どちらが原因を作ったのかをめぐって非難し合っています。 それぞれが自分に都合のよい説明を流しました。

「スペイン人の失言が招いた」という筋書きは、イエズス会側にとって都合のよい話です。逆にフランシスコ会側は、イエズス会の宣教師が秀吉の家臣に「スペイン人は海賊だ」と吹き込んだと主張しました。

どちらの記録も、そのまま鵜呑みにはしにくいわけです。

③ 罪状が「不敬」に限られていた

これは私が知って驚いた点でした。

もし秀吉が本気で「スペインは日本を侵略する気だ」と信じたのなら、裁く理由はそこになるはずです。ところが実際の罪状は、体制転覆の企てではなく、不敬でした。処罰の内容も、キリスト教を根絶やしにするというより、秀吉自身の権威を示すことに向いていたと見られています。

④ 脅威が、そもそも現実的ではなかった

当時のマカオにもマニラにも、日本を攻めるだけの兵力はありませんでした。スペイン国王フェリペ2世自身、1586年の時点で領土の拡大に消極的になり、守りに方針を移しています。

そして重要なのは、秀吉の側がそれを知っていたことです。1591年に原田孫七郎が、1593年には原田喜右衛門が、フィリピンは守りが手薄で征服しやすいと進言しています。秀吉はフィリピン総督に、服従しなければ攻めるという趣旨の国書まで送っていました。

相手の弱さを把握している人間が、その相手の「征服計画」を本気で恐れるものでしょうか。ここは意見が分かれるところだと思います。

5. では、何が引き金だったのか

決め手がない以上、ここから先は見方の問題になります。3つ並べます。

見方1: 積荷という実利

60万ペソです。折しも朝鮮への出兵で、金はいくらあっても足りませんでした。実際、没収された積荷の一部は出兵の資金に回ったと伝わります。長盛は接収を進言したとされ、賄賂を求めたという話も残っています。この見方に立つと、失言は没収の口実として使われたことになります。

見方2: 布教が、公然と目立ってきていた

1587年のバテレン追放令は、布教を禁じたものの、信仰そのものは禁じませんでした。実態としては黙認です。ところが1593年にフランシスコ会が来日すると、京都に修道院が建ち、布教は目に見える形になっていきました。黙認していたものが表に出てきたとき、権力者は面目の問題として動くことがあります。

見方3: 秀吉自身が、追い詰められていた

この年の前後を並べると、その空気が見えてきます。1595年に甥の秀次を切腹させ、一族を公開処刑にしています。翌年には伏見城が地震で倒れ、明との講和交渉も決裂しました。うまくいかないことが続いた時期でした。

研究者の見解も割れています。似たようなやり取りはあっただろうとする山本博文氏のような立場がある一方、米国の歴史学者ジョージ・エリソンは、フランシスコ会側の記述のほうが真実味があると考えつつ、それを立証することはできないと述べています。

結局、どれか一つには絞れません。 私は、複数の事情がすでに積み上がっていたところに、一言が乗ったのだろうと考えています。光秀の記事で複合要因説に一票を入れたときと、同じ読み方です。

6. なぜ、ひとつの発言のせいにされるのか

ここからは、歴史から少し離れます。

私がこの事件で本当に気になったのは、失言があったかどうかよりも、400年にわたって「あの一言が原因だった」と語り継がれてきたことのほうでした。

理由は分かる気がします。そのほうが、話として分かりやすいからです。積荷が欲しかった、面目が立たなかった、機嫌が悪かった。そういう複数の事情より、「余計なことを言った者がいた」のほうが、はるかに覚えやすい。

同じことを、私は会社でも見た気がします。

方針はもう決まっていた。それなのに、あとから「あの会議でのあの一言が決定打だった」ということになっている。 名指しされた人は、たしかに余計なことを言ったのかもしれません。ただ、その人が黙っていたら結論は変わったのか、と言われると、たぶん変わらなかった。

あなたの周りでは、どうでしたか。

決まっていた流れの責任を、たまたま口を開いた人が引き受けてしまう。あれは、けっこう残酷な形だと思うのです。土佐の海辺で地図を広げた水先案内人が、そのまま400年間その役を負わされているのを見ると、なおさらそう感じます。

7. あなたは、どう読みますか

材料は並べたつもりです。

  • 失言はあり、それが引き金だったと読む

  • 失言はあったが、没収と処刑の口実に使われただけだと読む

  • 発言自体、後から作られた説明だと読む

私は真ん中に近い読み方をしていますが、これも一つの見方にすぎません。

よければ、あなたの読み方をコメントで教えてください。 決着がついていない事件について、それぞれの読み方を持ち寄れるところが、歴史のいちばん面白いところだと思っています。


同じように、決着のついていない事件を書いています

『明智光秀はなぜ裏切ったのか——「本能寺の変」5つの説を、フェアに整理してみた』

巻き込まれて殺された人の話も書きました

『織田信澄という男——本能寺の変で、何もしていないのに殺された』

この記事を面白く読んでいただけたなら、スキやフォローをいただけると励みになります。答えの出ない歴史の話を、これからも書いていく予定です。


主な参考

本記事は、以下の史料・研究に関する記述を参照しました。原典にあたれていない部分があるため、本文中では「〜と伝わる」「〜とされる」という形で記しています。 日付・人数・金額は、複数の情報源で一致したものだけを載せ、食い違うものは省きました。

  • 『日本王国記』(ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン著/イエズス会士モレホンによる注釈)

  • 『長宗我部元親記』『土佐物語』『甫庵太閤記』(日本側の記録)

  • マティアス・デ・ランデーチョ『サン・フェリペ号遭難報告書』(セビリアのインディアス古文書館所蔵)

  • 五野井隆史『日本キリスト教史』(吉川弘文館)

  • 山本博文、ジョージ・エリソンによる、発言の史実性についての見解

なお、秀吉が置かれていた状況として挙げた出来事のうち、伏見城の倒壊と講和交渉の決裂については、情報源によって和暦と西暦の対応が食い違っていたため、日付を書かず「同じ年に」とだけ記しました。

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