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【短編】 マリンエッセンスの そよ風

​ 湯上がりのような、甘いマリンエッセンスの香りが漂う、夜明け前の美しい海岸線……。



 明け方の薄暗い海岸線を僕たちは歩いていた。


 まだ月は青白く世界を照らし、温かい春の風が心地良く、薄い上着の袖を潜った。

 

 隣を歩く彼女の柔らかな表情を、月明かりが白く浮かび上がらせている。


 ​さっき出会ったばかりだとは思えない、懐かしさを感じていた。


 それは高い位置で結んだ彼女の髪が風に揺れて香る、マリンエッセンスのせいなのかもしれなかった。


 懐かしい何かを感じながら、僕はアスファルトの白いセンターラインを目で追い、歩いていた。


 つられるように彼女もセンターラインを見がちに、小さな歩幅でふらふらついてきた。 


 まだ酔いが覚めていないようで、たまに僕の腕にぶつかって、小さく笑った。


 前を歩く隼斗(はやと)と、 もう一人の彼女 ( ミューと呼ばれていた ) は、何かひそひそと話し合っていたが、


 二人は、よく後ろを振り返っては豪快に笑った。


「なあ、隼斗、どこまで行く気なんだよ。さっきからずいぶん歩いてるぜ」


 僕が言うと、隼斗が、振りかえる。


「俺も実はよくわからないんだ。噂に聞いてるだけだからさ」

「そんなの怖いよ。このまま無かったらいいのに」


 僕の隣の彼女 (栞・しおり)が言うと、ミューも後ろを振り返って笑った。


「いいじゃん、面白そうじゃん。その廃墟…」


「お前ら、大学のサークルの連中と離れちゃって大丈夫なのかよ」


 隼斗が面白半分に言う。


「大丈夫だよね。朝までに帰って合流すれば…」


隼斗と並んで前を歩くミューが振り返り、栞に問いかける。


「えーっ、知らないよ、そんなの」


少し不安げに笑いながら、隣で栞が答える。


「大体さ、あんたらがナンパするから悪いんじゃん」

 道路沿いの海は穏やかで、明け方の月の光を滑らかに反射していた。


 たまに通る車の音だけが、この幻想的な風景に現実味を添えて走り過ぎていった。


「おい、純也。ちょっといいか」


​ 隼斗が、ふいに足を止めて振り返る。


 ミューを先に歩かせると、僕の肩に手を回し、後ろに遅れるようにしてこそこそと耳元で囁いてくる。

「なあ、あっちのショートカットの、ミューだっけ。

 あいつちょっとうるさくて疲れるわ。チェンジしようぜ」


​ 面白半分にそんなことを言い出す隼斗を、僕は月光の下に見つめた。

 実を言うと、僕と隼斗は知り合ったばかりだった。


 別々の会社からこの土地へ集められた、数日間の合同研修。


 たまたま意気投合し、「今夜はナンパでも行こうぜ」というノリに流されるまま、

 気づけばこの夜明けの海岸線を歩いていた。


 同じ研修中というだけの、その場限りの関係は気軽だった。

「だけど、純也もあっちの大人しそうな子の方がタイプなんだろ?」


​ 隼斗は僕の返事も待たずに、無邪気に笑って言う。


 正直、僕には何のこだわりもなかった。

 ただ、その場だけの希薄な関係のなかで、空気を悪くするのが面倒だった。


​「……まあ、そうだね。分かったよ」

​ 僕がそう答えた時だった。


「おい、あれ、女の子たち、なんか行っちゃったぜ」


 僕たちが道端でこそこそと話し込んでいる隙に、

 二人の女の子たちは、いつの間にか国道のすぐ脇から白い砂浜の方へとふらふら歩き去っていく。


「おーい、どこ行くの?」​

 隼斗が声を上げ、僕たちは慌てて彼女たちを追いかけた。

​ 砂に足を取られながら駆け寄ると、ミューが穏やかな夜明けの海を見つめたまま、答えた。

「あ、ちょっと、海見ようと思って」


​ 他意のない、本当にただ海が見たかっただけの、透き通った声だった。


 そのまま、僕たちは誰からともなく砂浜に座り込んだ。


 寄せ返す穏やかな波の音を聞きながら、他愛ない話を交わした。


 隼斗の目論見通り、いつの間にか座る位置は入れ替わり、

 なんとなくペアが変わるような形になっていた。


​ しばらく話しているうちに、誰かがぽつりと言った。


​「……なんか、喉乾いたね」


​ 薄暗い視線の先、ぼんやりと建物のシルエットが見えた。


​「あそこに自動販売機、ありそうじゃないか?

 あの辺、少し明るくなってるしさ。ちょっとオレ、見てくるわ」


​ 僕は砂を払って立ち上がり、一人で歩き出した。


 背後からは、隼斗とミューたちが賑やかに喋っている声が遠ざかっていく。


​ 明け方の澄んだ空気を吸い込みながら歩いていると、

 しばらくして、後ろから砂を踏みしめる小さな足音が近づいてきた。


 振り返ると、栞がついてきていた。


​「あれ、どうしたの?」


​ 僕が立ち止まって訊くと、彼女は少しはにかむように笑って、僕の横に並んだ。

「ううん、なんとなく」

 自動販売機を探しながら、僕たちは二人で歩いた。


 振り返ると、遠くの砂浜で、隼斗とミューが二人きりで熱心に話し込んでいる影が見える。


​「あの二人、なんか話し込んでるね」


「本当だね。楽しそうだね」

 そんな他愛のない会話をしているうちに、


「あ、あった」と、建物の軒先にぽつんと赤い自動販売機が見つかった。


 その横には、雨ざらしの古びた木製のベンチが置かれている。


​「何がいい? オレがおごるから…」

 僕が財布を取り出しながら訊くと、彼女は少し恐縮したように、でも嬉しそうに「じゃあ、冷たいお茶で」と微笑んだ。


​ 僕たちは並んでベンチに腰掛けた。


​ 彼女は、大学のサークルのことや、今回の旅行のことなんかをぽつりぽつりと話していた。


 僕は相槌を打ちながらそれを聞いていたけれど、内容はあまり頭に残っていなかった。

 ただ、不思議な感覚だけが僕を包んでいた。


​ 隼斗やミューはフランクで接しやすかったが、どこか初対面のぎこちなさも終始付きまとっていた。


 だけど栞には、何かまた別の違和感があった。


 まるで、ずっと前にもこんなふうに二人で夜明けを待っていたことがあるような、静かな居心地の良さ。


​「……よく、ナンパとかされるの?」


​ 僕がふと訊ねると、栞は「ううん、そうでもないよ」と小さく首を振って、

 缶の冷たさを確かめるように両手で包み込んだ。

 それから、しばらくの間、言葉が途切れた。


​ 波の音が遠くで響く、じっとりとした沈黙。


 そして栞は、自分の足元を見つめながら、ボソッと呟いた。


​「ねぇ、一番怖いものって、なに?」


 栞の不意の問いかけに、僕は少し呆然とした。

「え……どうしたの? 」


「ううん。ちょっとね、うん、まあ……」

 栞は歯切れ悪く言葉を濁してから、意を決したように少し声を落とした。

「実はね、近いうちに手術をしなくちゃいけなくて」


「手術? 何それ」


​ 僕は思わず聞き返していた。


​「それ、大きな手術なの?」


「うん。もしかしたら……声が出なくなるかもしれないんだって…」


​ 栞がそこまで言った時だった。


​「なんだよお前ら! 抜け駆けしてさあ!」

 砂浜の方から、隼斗の大きな声が響いてきた。


 隼斗とミューが、僕たちのいるベンチに向かって足早に歩いてきた。


​「そーよ、栞! どうしたのよ、急にいなくなって」

 ミューも口を尖らせながら、世話しない調子で乗っかってくる。


 一瞬にして、親密な空気はかき消されていく。


 栞はすぐに普段の表情に戻り、


「ごめんごめん、喉乾いちゃって」と小さく笑った。

「もうさ、そろそろ帰んないと。大学のサークルの先輩たちも、そろそろ起き始める頃だし」


​ ミューが、今まで歩いてきた道のずっと彼方を見ながら言う。


​「ああ、そうだな。俺たちもさ、今日は研修は休みだけど、そろそろ寮の方に帰らないといけないかもしれないな」


​ 隼斗が髪をくしゃくしゃとかき回しながら同意する。


夜が明け、辺りは急速に明るくなり始めていた。



 その時だった。


​「あれ……?」

 ミューが生い茂る草木の奥を指差して叫んだ。

「あれって…、隼斗の言ってた廃墟!、あそこじゃない?」


 ほんの数十メートルの場所に、それはあった。


 海岸沿いにぽつんと建てられた、火事か何かで燃えたような、黒く煤けたコンクリートの建物だった。

「うわ、マジじゃん。行ってみようぜ」

 隼斗が面白がって声を上げる。


 ミューも「えー、やばいよ!」とはしゃぎながら後に続く。


 僕は少し躊躇ったが、結局はそのノリに抗えず、行ってみることになった。


​ 歩き出しながら、僕は隣の栞の横顔を見た。


 新しい一日の光が、容赦なく周りを照らし始めていた。


 その朝の光に照らされた彼女の顔は、

 さっきまでの幻想的な薄暗闇のなかでは見えなかった、小さな肌の荒れや、リアルな生々しさを帯びていた。


​ それは朝の光の中に立つ、一人の生きた人間の生々しさだった。


 そこには、「手術」という言葉が、不自然なほど現実的に染みこんでいた。


 そんな僕の迷いを置き去りにして、

 波の音に混じって、隼斗たちの足音がコンクリートの廃墟へと近づいていった。


 建物の中に入ると、急に辺りが薄暗くなった。


 鼻を突くのは、カビたような、湿ったコンクリートの匂いだった。


​ 奥へと歩き進むうちに、僕は何か奇妙な感覚に囚われはじめた。


 まるで急に世界の基準が変わってしまったように、体が重い。


 少し耳の奥に圧力がかかっているような、かすかな耳鳴りもあった。


 気のせいか、それともこの空間の持つ異常な気配のせいなのか。

 そんな僕の違和感を余所に、ミューと隼斗は妙に調子を合わせ、楽しそうに先を歩いていく。


 この不気味な廃墟すら、二人にとっては親密になるための格好のイベント会場のようだった。


​ 僕と栞は、言葉もなく、その後ろ姿を追うようにしてついていく。


​ ひんやりとしたコンクリートの冷たい階段を、一段、一段、ゆっくりと上っていった。

「なあ、もし本当に何かあったらどうする? 例えばさ、死体とかさ」


​ 前を行く隼斗の面白半分な声が、半壊した廃屋に籠もったように響いた。


​「きゃあ、ちょっとやめてよ!」

 ミューがわざとらしく笑いながら、隼斗の腕を小突く。


​ そのまま、僕たちは薄暗い階段をさらに上っていく。


 すぐ隣を、栞が同じ歩幅で歩いている。

 僕は前を見据えたまま、彼女の横顔をチラチラと眺めていた。

 そして、僕の頭の中には、さっきの彼女の問いが再び蘇っていた。


  一番怖いもの……。  

 それは、【 死 】 だった。



「なんか、気持ち悪いね」

 カビ臭い空気のなかで、栞が小さく呟いた。

「そうだね。ここ、元は何の建物だったんだろうね」

 僕がそう返したとき、前を歩いていた隼斗が、スマホをかざしながら振り返った。


​「なあ、せっかくだからさ、これ写真撮っとこうぜ」

 隼斗はそう言って、フラッシュをパシャパシャと光らせながら、不気味に煤けた壁や天井を撮り始めた。

「キャー、やめなよ! なんか変なもの映ってたらどうすんの?」


​ ミューがわざとらしく身をすくめて言うと、隼斗はニヤニヤしながらスマホの画面を突きつけた。

「いや、映ってたらいいじゃん、儲けもんじゃん。

 もし映ってたらさ、あとでスマホに転送してあげるから…。だからさ、メールアドレス教えてよ」

 そんな二人の、やりとりが、薄暗いコンクリートの空間に響いている。


​ 彼らの声を遠くに聞きながら、僕は目の前に広がる剥き出しの鉄骨や、煤けた壁を見つめていた。


​ この廃墟は、明らかに死んでいた。


 かつてはきっと、多くの人が行き交い、笑い声が響き、活気よく「生きていた」はずの場所なのだ。

 それが今は、完全に機能を失い、重苦しい退廃的な思念が停滞するだけの、

 もう、どこへも辿りつけない吹き溜まり、のように感じられた。


 廃墟の死を見つめているうちに、僕の意識は深層の暗闇へと落ちていった。


​ 例えば、100年後。


 今、この地球上に生きている全ての人間が、一人残らずもう生きていないんだ。

 目の前でメールアドレスをせがんでいる隼斗も、ミューも、声を失うかもしれない手術を控えた栞も、そして僕自身も。


 100年というわずかな時間の先では、全員がこの廃墟と同じように、等しくただの「死」になっている。


​ その絶対的な事実の前に、僕は激しい目眩を覚えるような錯覚に陥っていた。


 思考の海に沈みかけていた僕の袖を、栞が弱々しく引いた。


 見ると、栞の顔色は明らかに悪くなっている。

 廃墟の窓枠のない四角い穴から差す光が、彼女の青ざめた肌を痛々しく浮き彫りにしていた。


​「大丈夫? 栞ちゃん。気分悪い?」


「うん……ちょっと、胃がムカムカして……」


​ 栞は力なく微笑もうとしたが、その唇は小刻みに震えていた。

​ やがて、僕たちは建物の 3 階に到着した。


 3 階は、壁の大きな穴から朝の白々とした明かりが差し込み、散乱した床を照らし出していた。


 隼斗は足元の瓦礫を避けながら、ゆっくりと散策し始めた。

 ミューが突然、ポケットやバッグを慌ただしく探り始めた。


​「あ、嘘。私、スマホどこに置いたっけ……?」


「なんだって? 何、スマホ?」

 隼斗が振り返る。

「知らないよ。どこで最後に触った?」


 僕が訊くと、栞が青い顔のままぽつりと言った。


「もしかして……さっきの砂浜に置いてきちゃった、とか?」


「ああ、ありえる! 写真撮ろうとした時にバッグから出したかも!」

 ミューが焦った声を出す。隼斗は「マジかよ、今いいところなのにさあ」と呆れながらも、


「その辺の床に落としたんじゃないの?」と、3 階の足元をあちこち探し始めた。


​ ミューは「どうしよう、スマホ探さなくちゃ」と完全にそわそわし始め、


 栞はますます気分が悪そうに胸元を押さえている。


​「どうする、栞ちゃん。もう引き返そうか。帰ろう」


​ 僕が栞の肩を支えるようにして言った、その時だった。


​ 奥の別の部屋に入り込んでいた隼斗が突然、短い悲鳴のような声を上げた。

「……うわあああ! 死体だ!! 本当にあったよ!!」

 またいつもの悪ノリだ、と僕は思った。


 ミューもそわそわしながら、


「もう、隼斗、やめなよ。こんな時に不謹慎だよ」と吐き捨てる。


 僕も声を張った。


​「隼斗、もういいって。やめろよ」

「違う……! 違うんだよ本当に!!」


​ 部屋から飛び出してきた隼斗は、両手を前に激しく振りながら、

 見たこともないほど顔を蒼白にさせていた。


 完全に光の消えた瞳――その嘘のない「純粋な恐怖」に染まった顔を見た瞬間、僕たち全員の息が止まった。

「嘘、でしょ……?」


 ミューが吸い寄せられるように、その部屋の入り口へと恐る恐る近づいた。

 そして中を覗き込んだ瞬間、狂ったような悲鳴を上げた。

「おい、行くぞ! 逃げろ、逃げろ!!」


隼斗が叫ぶ。

 ミューはパニックになって階段へと逃げ始めた。

 取り残された僕と栞の視界にも、

 その部屋の奥、薄暗がりに横たわる「黒い塊」が嫌でも飛び込んできた。


 
 腐乱してボロ切れのようになった、異様な肉塊のシルエット。

​ 

​ その瞬間、僕の隣で、栞の小さな身体が激しく折れ曲がった。

 彼女は悲鳴すら上げなかった。ただ、ずっと喉の奥に堰き止めていた、言葉にならないすべての恐怖と、

 張り詰めた命の限界をぶちまけるように、激しく床に吐き戻した。

 その生々しい音が、僕の脳裏を殴った。

​ そこにどんな判断(あるいは思考)が挟まる余地もなかった。

 ただ、栞の痛みが、彼女の胸の苦しさが、僕自身の身体の中に濁流のように流れ込んでくる。

 ――ああ、この子は今、死を浴びているんだ。

 強烈な、暴力的な共感が僕の胃の底を突き上げた。


 耐えきれず、僕もまた、栞のすぐ隣で激しく吐き戻してしまった。

 栞は床にへたり込み、荒い呼吸を重ねる。


 パニックで取り乱しながら逃げていく隼斗たちの足音が、遠くの方で聞こえていた。

 僕は口元を拭い、小刻みに震える栞の細い肩を抱き寄せた。


「……警察に、電話しなきゃ」

 
​◇ ◇ ◇



 どうして、連絡先を聞いておかなかったのだろう……。

 それは、きっとまた会える気がしていたからだ。

 そう確信していたからだった。

 なんで、そんな夢みたいな幻想に浸っていたんだ、

 あの時……。


 そして実際、もう会える訳が無かった。


 僕はそんな事を考えながら、高速道路を降りた。

 真夏の日曜日。道は混んでいる。


  ​日々の目まぐるしい忙しさの中で、あの海での出来事は、

 いつの間にか記憶の隅へと追いやられ、忘れかけていた。

……いや、忘れたフリをしていただけだ。 

 ただの「ナンパの失敗談」みたいに薄れていくことが怖かった。


 結局、僕が彼女の入院先を突き止めたのは、半分は執念で、半分奇跡だったのかもしれない。


――ガチッとギヤを入れ、僕は車を病院の駐車場へと滑り込ませた。

 ​

 あの合同研修の夜から、すでに3ヶ月以上の月日が流れていた。


​ 季節はすっかり移り変わり、外はうだるような暑さを迎えている。

​ 車を降りると、アスファルトから立ち上る熱気が容赦なく僕を包む。


 キーをロックする高い電子音が、静かな駐車場に響いた。


​ 病院の自動ドアを抜けると、ひんやりとした冷気とともに、白く眩しいほどに明るいロビーが広がっていた。

 そこは、圧倒的に生きた現実の場所だった。


 待合室には何人もの患者が行き交い、ナースシューズを履いた看護師たちが早足で廊下を通り過ぎていく。


 そんな日常の喧騒をすり抜けながら、僕は静かに階段を上っていった。

 歩きながら、僕はあの日、あの夜明け前の海岸線での出来事を思い浮かべた。


​ 結局、あの時僕たちが見たものは、死体でも何でもない。

 僕は震える手で警察を呼ぼうとした。


 けれど、息を整えてもう一度よく確かめてみれば、

 暗がりに横たわっていたのは、ただの煤けたボロ切れの塊でしかなかった。


​ あれは、ただのゴミだった。


​ だけど……、と僕は思う。


 階段を踏みしめるたびに、あの耳鳴りのような重力が脳裏に蘇る。

 あの時、僕たちが本気で青ざめ、胃の底から激しく吐き戻した

「あの恐怖」は、いったい何だったのだろう。


 僕たちはいったい、本当は何を見たのだろう。

​ 白く無機質な病室のドアの前に立つ。


 このドアの向こうには、あのマリンエッセンスの香りを髪にまとわせていた、彼女がいる。

 僕は小さく息を吸い込み、現実の重みをその手に感じながら、ゆっくりと病室のドアノブに手をかけた。


 瞬間、心の中に、ふっとあの日のそよ風が吹き抜けた。


 明け方の、青白い月明かりに照らされた海岸線。

 あの甘い、どこか懐かしい湯上がりのような香り。

 つられるように白いセンターラインを見つめながら歩いていた彼女の、

 柔らかい表情が、鮮烈に脳裏をよぎる。


 ドアの向こうの彼女が、今、どんな姿で、どんな表情をしているのかは分からない。


 それでも――。


 もしも、彼女の声が失われていたとしても、それは少なくとも『一番目』では無いのだ。


 僕は、ゆっくりとドアをあけた。

 窓から差し込む陽射しの中で、ベッドの上の栞が、ゆっくりとこちらを振り向いた。

​ 彼女の瞳が、驚きに染まる。


 呆然としたまま、小さな唇がわずかに動いた。


​ 言葉にならない表情は、やがて、朝の光に溶けていくように優しく、とろけるような笑顔へと変わっていった。
 



【後書き】

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

このお話は、気が向いたらまた、  いつか純也と栞の「次の物語」として地続きに現れるかもしれませんし、

あるいはこれで終わりかもしれません。

置き去りの言葉を、私はこれからも救いに行きます。





【短編】真昼のパンデミック

  ​― 体温だけが、真実なのか。

【制作秘話?】― すべては、あの大女優の気まぐれだった。 

前作『真昼のパンデミック』のあの緊迫したシーンの裏側で、実はとんでもない「パンデミック」が起きていた――。


【短編】瓦礫の街 ― トンネルを抜けた瞬間、平穏なリアリティは死んだ――。

【短編】透明な空 ​― 真っ赤なコートの少女は、圧倒的な大自然の、摂理そのものだった。   


【短編】指先の鼓動 ― 神の退屈を終わらせた、小さな赤。

【短編】鉄の鳥 ― 数十年前の事故と、二度繰り返された殺意の記録。


【短編】湯けむりの向こうへ​ ― あの日、見えない誰かの声が、僕らの世界を少しだけ広げた。


【童話】『ゆうくんの羽』​ ― 夢の中で、あなたは誰かと繋がっていると感じたことはありませんか?​   





『MILKタウン』で、先日サイン会を開かせていただきました。

心温まるご縁をいただき、noteで活動されている『みどり』さんが、私の物語の世界を漫画にして描いてくださいました。
みどりさんの温かな視点に感謝を込めて、ここにご紹介させていただきます。

『MILKタウンの、お話し』



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