【短編】透明な空 ― 真っ赤なコートの少女は、圧倒的な大自然の、摂理そのものだった。
彼は、終わりのない雪原の只中にいた。
自分の歩いてきた足跡が、どこまでも点々と続いている。
目印になるものは、何ひとつない。
見上げれば、晴れ渡る透明な空が、底のしれない開放感を突きつけてくる。
ここがどこなのか、まるでわからなくなっていた。
さっきから地平線に、針葉樹林の黒ずんだ緑が、かすかに滲んでいるのだが…。
それだけが、この溺れそうな青と白の無限な鮮やかさに終止符を打つ、ささやかな救いに感じられる。
だが、その距離感も、冬の陽光に透かされ、近づいているのか遠ざかっているのか判然としなかった。
ジェイは、歩を早めた。
雪を蹴立てる自分の足音だけが、静寂を切り裂いていく。
あの針葉樹林の影に触れることができれば、この浮遊するような心細さから逃れられる――
そんな確信にも似た切望が、彼を突き動かしていた。
だが、森の入り口まであと数十メートルというところで、ジェイの足が止まった。
雪原の真ん中、何も無かったはずの白銀の上に、それはあった。
針葉樹の緑よりも、空の青よりも、もっと鮮烈で、異質な色。
「……なんだ、あれは」
遠目には、雪の上に咲いた一輪の大きな花のように見えた。
いや、それは動いていた。
この凍てつく世界の中で、重力も、寒さも、そしてジェイが感じている虚無さえも――
何もかもを無にかえすように、その「影」は無邪気に跳ねていた。
ジェイはその、真っ赤なコートに身を包んだ少女から、しばらく目を離せなかった。
彼を、今の直前まで苛んできた、この雪原や空――
その「むきだしの大自然」と、彼女は親しい友達であるかのように溶け合って見えたからだ。
「……すみませーん。…道に、迷ってしまって。ここが、どこだかわかりますか…」
長い時間、言葉を発していなかったジェイの声が、冷たく乾いた空気に白く吐き出された。
少女は動きを止め、ゆっくりとジェイの方を向いた。
近くで見れば、その真っ赤なコートは少し毛羽立ち、首元にはありふれたチェック柄のマフラーが巻かれている。
頬を赤く染めた彼女は、至極まっとうな、現実的な視線を彼に向けた。
「ここ、町からずいぶん離れてますから。無理もないですよ」
彼女の口調は、驚くほどフラットだった。
ジェイの胸の内には、安心感とは別に、ひんやりとした違和感が沸き上がっていた。
(……一体、この子はこんなところで何をしているんだ?)
町から遠く離れた、何もない雪原の真ん中だ。
遊びに来るような場所でもなければ、通り抜けに使うような道でもない。
真っ赤なコートを着て、ただ一人、生命力の塊のように雪の上で跳ねていた少女。
けれど、ジェイはその疑問を言葉にはできなかった。
表情にさえ出さないよう、凍えた顔の筋肉を無理に動かして、ただの「道に迷った旅行者」を演じる。
自分自身がこの世の果てに迷い込んだような顔をしていたことを棚に上げて、彼女のプライバシーに踏み込む余裕はなかった。
「あっちの森を抜ければ、舗装された道に出ます。そのまま三分も歩けば、バス停がありますよ」
彼女は淡々と、まるで近所の雑貨屋の場所でも教えるような手軽さで、ジェイを現実の世界へと促した。
「……そうですか。ありがとうございます。助かりました」
ジェイは短く礼を言い、彼女が指し示した森の方へ向かおうと、雪に足を埋めた。
だが、数歩歩いたところで、どうしても心臓のあたりに「腑に落ちない何か」がしこりのように残った。
三分の距離にバス停がある。
そこは間違いなく現実の延長線上にある町の一部なのだ。
それなのに、背後に残してきた彼女の存在だけが、まるでこの透明な空の下にぽつんと取り残された、書きかけの物語の一節のように感じられてならない。
ジェイは、衝動に押されるようにして足を止め、もう一度だけ振り返った。
「あ……。あの。この辺りの方、なんですか」
自分でも驚くほど、ありふれた世間話だった。
少女は、また雪の上で何かを探すような動作をしかけていたが、呼びかけられて顔を上げた。
「ええ、まあ。すぐそこですから」
彼女は再び、フラットな、けれどどこか拒絶とは違う「踏み込ませない明るさ」で答えた。
「こんなに雪が深いのに、散歩……とかですか」
ジェイは、自分がひどく無粋な質問をしている自覚があった。
それでも、彼女がこの白銀の孤独を「日常」として扱っているその手触りを、もう少しだけ確かめたかったのだ。
ジェイは上着のポケットを探り、銀色の紙に包まれた粒ガムのパッケージを差し出した。
「これ……よかったら」
少女は一瞬だけ意外そうに目を見開いたが、すぐに小さく笑った。
「あ、いいんですか? ありがとうございます」
彼女は手袋を外し、赤くなった指先で器用にガムをつまみ取った。
そのまま一粒を口に放り込むと、銀紙を小さく丸めてポケットに突っ込む。
「……ん、冷たくて美味しい」
彼女が満足そうに目を細めたのを見て、ジェイの胸の奥にこびりついていた冷たい塊が、少しだけ形を崩した。
道に迷い、世界の果てに放り出されたような絶望を抱えていた男と、天気がいいからと雪原を散歩する少女。
その決定的な距離が、一粒のガムを介して、ごくありふれた「人間同士のやり取り」に塗り替えられていく。
「あっちの道、滑るから気をつけてくださいね。私、昨日そこで転んじゃって」
彼女は屈託なく笑い、自分の膝についた雪をパンパンと払った。
「……ああ、気をつけるよ」
ジェイも、自分でも驚くほど自然に、少しだけ口角を上げた。
さっきまでの、あの「溺れそうな青と白」は、もう彼を脅かしてはいなかった。
ただの、よく晴れた冬の日の景色に戻っていた。
「じゃあ。……ありがとう、助かった」
「はーい。お気をつけて」
彼女は再び、雪の上で何かを探すような、軽やかな足取りで跳ね始めた。
ジェイは今度こそ、迷いのない足取りで針葉樹林の方へと踏み出した。
口の中で弾けたミントの香りが、冬の空気をよりいっそう鮮やかに、現実のものとして感じさせていた。
針葉樹林の影を抜けると、驚くほどあっけなくアスファルトの道が現れた。
彼女の言葉通り、そこから数分も歩かないうちに、雪に埋もれかけた簡素なバス停が視界に入る。
やがてやってきたバスに乗り込み、一番後ろの席に深く腰を下ろした。
暖房の効いた車内は、外の静寂が嘘のように重苦しく、湿った空気で満ちている。
ジェイは窓の霜を指で拭い、遠ざかっていく白銀の世界を眺めた。
あの少女が言っていた「すぐそこ……」という言葉を思い出す。
だが、バスから見える景色には、人の営みを予感させる家影ひとつ見当たらなかった。
ただ、広大な白と青の境界で、真っ赤なコートの残像だけが、いつまでもジェイの網膜に焼き付いていた。
口の中に残るかすかなミントの香りが、あの場所が現実であったことを証明する唯一のしるしだった。
バスは、一定のリズムで重低音を響かせながら、白一色の世界を切り進んでいた。
車内にいるのは、ジェイの他に数人。
皆、厚いコートに身を包み、所在なげに視線を落としたり、眠りに落ちたりしている。
そこには、どこにでもある退屈で、安全な日常の風景があった。
だが、その静寂は唐突に終わった。
前方の席に座っていた一人の乗客が、窓の外を指さしたまま、凍りついたように動かなくなった。
「……あ」
喉の奥で震えるような声が漏れた直後、車内に野蛮なほどの悲鳴が響き渡った。
「あああああ! ああああああ!!」
眠っていた乗客たちが跳ね起き、車内に動揺が走る。
それは、言葉にならない剥き出しの恐怖だった。
ジェイもまた、心臓を強く掴まれたような衝撃とともに、その乗客が見つめる先――
窓の外へと目を向けた。
だが、そこには……、
さっきまでジェイが歩いていた、あの「透明な空」と雪原が広がっているだけだった。
隣の男は窓にへばりつき、歯を鳴らしながら後ずさっていた。
誰かが窓を叩き、「開けてくれ!」と叫ぶ。
運転手の手は、ハンドルの上で震えていた。
バスは雪道の上を激しく滑り、路肩に突っ込むような形で強引に停止した。
車内は、パニックと、重苦しい絶望の叫びで溢れかえっている。
だが。
「……何が、見えているんだ」
ジェイには、何も見えない。
窓を拭い、目を凝らしても、さっきまでと変わらない、どこまでも平坦で静かな白銀の世界。
そして、その上に広がる、底なしに晴れ渡った透明な空だけだ。
何もない。
一人が扉を激しく叩き、運転手が震える手でレバーを引くと、プシューという音とともに扉が開く。
それを合図に、乗客たちは雪崩を打って外へ飛び出していった。
ジェイもまた、導かれるようにバスのステップを降りた。
冷たい空気が肺に刺さる。
「ひっ、ああああ! 来るな、こっちに来るな!」
転び、雪にまみれ、それでも彼らは立ち上がって逃げていく。
彼らはただがむしゃらに走り、何度も、何度も、同じ方向を振り返る。
目を離した瞬間に自分を食い殺す「何か」が存在しているかのように。
振り返るたびに、彼らの顔からは生気が失われていく。
ジェイもまた、走り出した。
他の乗客たちと同じように、背後の「何か」を恐れるように、必死に雪を蹴立てて。
だが、ジェイが振り返っても、そこにはやはり、何もなかった。
ただ、美しすぎる空と雪原だけが広がっていた。
ジェイの喉からも、いつしか獣のような悲鳴が溢れ出していた。
荒い息が白く弾け、肺の奥が焼けるように痛む。
「何が……っ、何が起こったんですか!」
ジェイは隣を追い越していく男に、すがりつくように問いかける。
男は答えない。
血走った目で背後を見つめ、絶叫しながら走り去っていく。
「あの子は……彼女はどうなったんだ!」
狂乱する人々をかき分け、ジェイは逆方向に走り出した。
人々が「地獄」を見て逃げ出してくるその場所へ、ジェイは独り足を踏み入れる。
何度も転び、冷たい雪が顔を打ちつける。
息が切れ、視界がチカチカと火花を散らす。
それでも彼は、さっきまで彼女のいた、あの場所を目指してひた走った。
ようやく辿り着いたその場所は、不自然なほどの静寂に包まれていた。
「……君! どこにいるんだ!」
少女の姿どころか、足跡一つ残っていなかった。
背後からは、まだ遠くで乗客たちの絶叫が微かに聞こえていた。
やがて、それも風にきえる。
ジェイは、真っ白な平原の中に独り立ち尽くした。
感覚が白く霞み始めて、
重力も、寒さも、虚無さえも消えかけた頃。
はるか遠く。
空と雪の狭間で、
赤いコートが、ひらりと翻った気がした。

