【実話怪談?】夏の日の迷い人 ― 私の車に乗り込んできた、重さのない男。
慌しさと、猛暑で朦朧とする意識の中、…あの人は本当に存在したのだろうか?
数年前の夏に実際にあった蜃気楼のような、あいまいな記憶。
お盆の時期は、どこか空気が薄く、現実と非現実の境界が曖昧になるような気がする。
※数年前の夏の、実話の記録です。
その日は朝の空気に、かすかに潮の匂いが混じっていた気がした。
妙に静かで、音が少し遠くにあるような、そんな感じ。
墓参りと、お寺の集まりの時間が重なっていて、少し急いでいた。
エアコンを強めにかけても、車内の空気はなかなか冷えなかった。
ハンドルに触れる手のひらが、じっとりと汗ばんでいる。
時間、間に合うかな。
そんなことを考えながら、見慣れた県道を走っていたときだった。
道の端に、人影が見えた。
白いシャツに、黒いズボン。
杖をついた年配の男性が、炎天下の中をゆっくりと歩いている。
思わず、少し先で車を止めた。
バックミラー越しに見ると、その人は変わらない速度でこちらに近づいてくる。
——こんなところで?
最寄りの駅からでも、かなり距離がある。バス停も近くにない場所だ。
窓を開けると、熱気が一気に流れ込んできた。
「大丈夫ですか?」
声をかけると、その人は顔を上げた。どこか、懐かしむような表情だった。
「……ああ、すまないね」
少し掠れた声。
「この先に、海があるだろう?」
海。確かに、ある。
でも、車でもそこそこ距離がある場所だ。
「よかったら、乗りますか」
自分でも少し迷ったが、そう口にしていた。おじいさんはほんの少しだけ考えてから、頷いた。
後部座席のドアを開ける。
乗り込む気配が、やけにひっそりとしていた。
「ありがとうございます」
ドアが閉まる。バックミラーを見ると、おじいさんは静かに座っていた。どこか、汗をかいていないようにも見えた。
「海の近くに、旅館があってね」
走り出すとすぐに、そう話し始めた。
「昔は、よく来たんだ」
懐かしむような声だった。
「今もあるんですか?」
何気なく聞くと、少しだけ間があいた。
「……いや、どうだろうな」
曖昧な返事。それでも、おじいさんは続ける。
「大きな松の木があってね。その横に、白い建物があった」
聞いたことがあるような、ないような。でも、頭の中に風景は浮かんだ。
潮の匂い。少し湿った風。
車内に、そんな空気が混じった気がした。
「予約とかは……」
「していない」
はっきりと言った。
「ただ、行けばある気がしてね」
その言い方が、不思議と自然だった。まるで、“ある”ことを知っているみたいに。
しばらく、言葉が途切れる。エンジン音だけが一定に響いていた。
バックミラーをちらりと見る。おじいさんは窓の外を見ている。
その横顔が、どこか遠くを見ているように感じられた。
途中で、知り合いの店に立ち寄った。
事情を話すと、「駅の方まで送りますよ」と言ってくれた。
助かった、と思った。時間も押していたし、正直少しだけ焦っていたのだ。
「ここで大丈夫ですか?」
車を止めて、後ろを振り返る。
おじいさんは、ゆっくりと頷いた。
「ありがとう」
それだけ言って、ドアに手をかける。降りるときも、やはり音は小さかった。
ドアが閉まる。ふと、潮の匂いがした気がした。
そのまま、お寺に向かった。
少し遅れてしまったけれど、不思議と焦りはなかった。むしろ、どこか落ち着いていた。
読経の声が、静かに流れていく。
⸻
すべてが終わって、車に戻る。
ドアを開けると、むわっとした熱気が迎えた。エンジンをかける前に、何気なくバックミラーを見る。
後部座席は、空だった。
当然だ。誰もいない。
……ただ。
……全てが「重さ」、を欠いている。
僕はしばらく、そのまま動けなかった。
あの人は、確かに乗せた。会話もした。声も、表情も、覚えている。
——なのに。
さっきまでの全てが、現実味を伴っていなかった事に思いあたる。
それが、なんらかの自分の問題であるのか、それとも…。
エンジンをかける。いつもの音が、現実を引き戻す。
しかし、しばらくの間、後部座席を振り返ることはできなかった。
【あとがき】
これが数年前にあった、猛暑の日の出来事です。
実は後日、気になって仕方がなかったので、途中で立ち寄った知り合いの店主に「あのおじいさん、どうでした?」とさりげなく聞いてみたんです。
すると店主は、「ああ、あのおじいさんなら、ちゃんと駅まで車で送ったよ」との事でした。
店主によれば、おじいさんが探していたその旅館は、もう何年も前に潰れていたそうです。
ただ若い日の眩しい思い出だけを頼りに、電話も入れず、ふらっと電車に乗り、いくつもの県をまたいで、本当に来てしまった。
あんな炎天下の中、杖を突きながら、あるかどうかも分からない場所を目指して、駅から何キロも一人で歩いて…。
私はそこに、切なくも美しい「ロマン」を感じてしまうのです。
私の車に乗っていたときの、あの「重さ」のなさ。
それはおじいさんの心が、あの頃の、波の音と松の木がある美しい風景の中に、一足先に戻っていたからなのかもしれません。
そして、この数日後さらに同質な体験が重なったんです。
その「夜の訪問者」のお話は、今週の水曜日(20日)の夜にここに残そうと思います。
最終まで読んで頂き、ありがとうございました。
…では。
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