【短編】真昼のパンデミック ― 体温だけが、真実なのか。
誰もが、何らかの仮面を被ってパンデミック状態にあるこの社会。
お互いに「信じていないこと」を暗黙の了解として共有し、
ただ、互いの肌のぬくもり(体温)だけを真実として確かめ合って眠る。


都会の真昼。強い光がコンクリートを白く焼く路地裏。
「昨日見たわよ、あの、毎週のドラマ。あの俳優、いいわねえ」
品が良く、どこか小綺麗な服装をした中年の女性が、
レキロから小さな紙袋を受け取りながら、嬉しそうに言った。
レキロはその中身については一切説明しない。
「ああ、彼ですか。そうですね、最近人気ありますもんね」
レキロは小さく頷き、いつもの洗練された身のこなしで、自然に話を合わせる。
「じゃあね。どうもありがとうね」
「あ、どうもありがとうございました。またお願いします」
品の良い女性と別れ、レキロは下を向き、視線を伏せながら早足でトコトコと歩き出した。
大通りに出ると、サラリーマンたちが一様に目をこすり、誰もが
フラついていた。
その異様な光景を無視してレキロは先を急ぐ。
―― と、
ドカーン…!
背後で、激しい衝突音が響いた。
肉体が一瞬ビクッとしたが、歩みは緩めない。
(ついにここまで来たか。もう手遅れかもしれないな)
街のそこら中で悲鳴がとどろき始め、だんだんとその波が大きくなっていく。
前方で、数台の車が、
ガンガンガンッ
と連鎖的に巻き込まれる多重衝突事故が起きた。
街中に、
プーブーブー!
狂ったようなクラクションの嵐が鳴り響く。
「なんだって言うんだ」
いつも冷徹なレキロの顔に焦燥感が浮かんだ、その時だ。
「おい、レキロ!」
爆音を突き破る声。
ハッとしたレキロは振り返りざま、
懐から拳銃をブチ抜いて真っ直ぐに背後の男の眉間へと向けた。
「…おい、おい、待ってくれよ。俺だよ!」
銃口を突きつけられた小太りのメガネが、顔を引きつらせて両手を上げる。
レキロは一瞬、前を睨み、その男を凝視した。
そして、ようやく顔を緩めて笑顔になった。
「なんだお前、ずいぶん久しぶりだな」
周囲で悲鳴が響き渡り、すぐ近くでまた 、バーン!
と別の衝突音が轟く中、男はズレたメガネを直しながら怯えた声で言った。
「おいおい、レキロ……お前そんな物騒なもんどこで手に入れたんだよ」
レキロは手の平にのせたリボルバーを見つめ、鼻で笑った。
「はあ、これか。ふん、これはおもちゃだよ」
その直後だった。
パンッ!
空気を引き裂く銃声が爆発した。
小太りの男が「うーっ!」と大声を上げて派手に吹き飛び、レキロの身体にドスンと激しくぶつかる。
「おい、大丈夫か!?」
「……うっ……おい、レキロ……逃げろ」
緊迫感が絶頂に達した、その時だった。
『はい、カット――!』
拡声器を通した監督の声が響き渡った。
『はい、どうもお疲れ様でしたー! 今のオッケーでーす!』
たった今倒れたはずの男が、何事もないように立ち上がって汗を拭う。
「良いねぇ、ゆうや。最近染まってきたねぇ、お前」
監督が肩をポンポンと叩く。
「あ、ありがとうございます。お疲れ様でした」
ゆうやはレキロの仮面を外し、周囲のスタッフに丁寧に挨拶をして回った。
「良かったよ、ゆうや!」
そこへマネージャーが嬉しそうに駆け寄ってきた……。
「ゆうやさん! お疲れ様です!」
マネージャーの肩越しから、勢いよく飛び出してきたのは、同じ事務所のタレントだった。
まだ二十代前半の、まっすぐな目を輝かせた男。
「ラストのあの睨み、最高でした!
どうやったらあんな風に、一瞬で『冷徹なレキロ』に入り込めるんですか?」
無邪気で、純粋な憧れの視線。
ゆうやは、まだレキロの冷たい血が半分流れたまま、一瞬でそれを心の奥に押し込む。
口元に、いつもの優しく面倒見のいい笑みを浮かべる。
「はは、大げさだなあ。平良君の熱い視線があるから、俺も手が抜けないんだよ。ナイスアシスト」
「本当ですか!? いや、そう言ってもらえると……」
「おう、期待してるよ。お互い頑張ろうな」
平良の肩を軽く叩き、爽やかに送り出す。
――と、その時。
「いや、あのさ監督。今のシーンだけど……ちょっと納得いかないんだよな」
少し離れた機材の影から、低く、よく通る声が響いた。
さっき派手に撃ち抜かれて倒れていた、
小太りのメガネの男――映画界の誰もが頭の上がらない大物俳優の声だった。
監督の顔から一瞬で血の気が引いていくのが遠目にもわかる。
ピキリ、と。
現場の空気が一瞬で凍りつき、スタッフも、周囲の役者たちも、全員の動きが止まった。
ゆうやは、声の方をじっと見つめる。
だが、凍りついた時間は、ほんの数秒でおわった。
「さすが世界のユウヤ、先輩面も板についてきたね」
何事もなかったかのように、マネージャーが笑いかけてくる。
張り詰めた空気を覆い隠すように、周囲のスタッフも、
またバタバタと大きな音を立てて機材を動かし始めた。
「よせよ」
ゆうやもまた、いつもの苦笑いを顔に張り付け、楽屋へと歩き出した。
――と。
「まあまあ、いいじゃない。そんなに監督を困らせちゃだめよ、あなた」
ゆうやの背中に、また別の、ひどく上品で艶のある声が降ってきた。
ハッとしてゆうやが振り返ると、そこには、
路地裏でレキロから紙袋を受け取った、あの小綺麗な中年の女性が立っていた。
いや、違う。
中年女性の仮面を脱ぎ捨てた彼女は、誰もがその名を知る、日本映画界のトップに君臨し続ける大女優だった。
「だってさあ、お姉さん。今のタイミングじゃ……」
監督に食ってかかっていたあの大物俳優が、彼女の一言で、口をすぼめて黙り込む。
「ゆうや君のあの素晴らしい演技に、私たちがいつまでも甘えてちゃ悪いのよ。ねえ?」
大女優はゆうやの方を見向きもせず、
けれど現場のすべてを包み込むような圧倒的なオーラを纏って、フフ、と微笑んだ。
ゾク、とゆうやの背筋に冷たいものが走る。
あの重鎮たちが、自分のために「ただの通行人」や「ただのやられ役」を完璧に演じてのけてくれているのだ。
そして自分は「世界のユウヤ」として祭り上げられている。
ゆうやは深く一礼し、逃げるように楽屋へ歩きだした。
背中を向けた瞬間、顔からは笑顔も、苦笑いすら消え落ちるのを自覚していた。

◇夜
昼間のあの暴力的な光と騒音は消え去り、
店内は琥珀色の淡い光に包まれていた。
グラスの中の大きな丸い氷が、カランと静かな音を立てる、落ち着いた夜のバー。
奥のボックス席で、ゆうやを待っていたのは、少し艶のある、けれど落ち着いた雰囲気の女性だった。
「お疲れ様。今日の撮影、どうだった?」
彼女が微笑みながら、カクテルグラスを少し持ち上げる。
「………?!」
ゆうやは一瞬、
目の前の女が、ほんの一瞬だけ見知らぬ他人のように見えた。
「ああ、激しかったよ。最後は派手に撃たれたしね」
ゆうやは隣に座り、バーテンダーにウイスキーを注文する。
「ふふ、大変ね。
でも『真昼のパンデミック』、すごく前評判がいいみたいじゃない。
前作も本当に素敵だったし……」
ゆうやはふっと相好を崩し、グラスを傾けた。
「心配すんなって。俺は世界のユウヤだぜ」
「はいはい、世界のユウヤさん」
女性は呆れたように笑い、一気に日常の『妻』の顔に戻った。
「調子に乗ってないで、明日のゴミ出し忘れないでよ?
子供たちが実家に泊まりに行ってる今夜くらい、ゆっくり飲みたいんだから」
「わかってるよ。いつも忘れてないだろ」
「嘘ばっかり。先週も私が慌てて集積所まで走ったのよ、忘れちゃったの?」
妻は悪戯っぽく笑いながら、自分のカクテルを一口すする。
その横顔を見ながら、ゆうやはウイスキーの氷を揺らした。
どこまでが演技で、どこからが素なのか、アルコールのせいで境界が曖昧になっていく。
――その時。
不意に、視界からスーッと色が引いて、
一瞬、意識が真っ白になった。
クラクションの残響が耳の奥で爆音を上げたような気がした。
ゆうやは思わず強く目頭を押さえる。思考が急激に遠ざかった。
「……大丈夫?」
妻が覗き込むようにして、そっと顔を近づけてきた。
その目には、からかうような色は消えていた。
「きっと働きすぎよ。疲れてるのよ、あなた」
ゆうやの肩に、そっと手を添える。
「……ああ、そうかもな。ちょっと目が回っただけだ」
ゆうやは目頭から手を離し、無理に視点を合わせて微笑み返した。
「……なあ、本当に前評判いいのか?」
「ええ。エゴサの鬼の私が言うんだから間違いないわ。
みんな、あなたのあの冷たい目がゾクゾクするって」
「冷たい目、ねえ……」
二人はそれから、他愛のない、けれど静かで心地よい会話を続けた。
やがて、適度にアルコールが回り、店を出る。
タクシーの後部座席に滑り込み、夜の街のヘッドライトを窓の外に眺める。
「少し、飲みすぎたかな」
妻が小さく呟き、ゆうやの肩にそっと頭を預けた。
夜の街の灯りが、交互に彼女の横顔を照らしては闇に溶かした。
「……明日も早いの?」
「いや、明日は昼からだ」
「じゃあ、朝は少し寝坊できるね」
言葉少なに、ただお互いの体温を感じるようにタクシーの後部座席に揺られる。
どこまでも些細で、静かな日常の延長線。
玄関の鍵を開け、静まり返った我が家に入る。
子供たちのいない家は、いつもより少し広く、冷たく感じられた。
「お風呂、先入っちゃうね」
妻がそう言ってリビングの明かりを点け、寝室へと着替えを取りに向かう。
そのあとを追うように、ゆうやも静かにネクタイを緩めながら、寝室へ向かう。
寝室の静寂の中で、二人は身体を重ねた。
そこには、チープな演出も、飾りたてたエロティシズムも無かった。
長年連れ添った夫婦の、静かで、どこか美しく生々しい時間だった。
妻が先に、穏やかな寝息を立て始める。
暗闇の中、ゆうやは一人、天井を見つめていた。
肉体の奥で、昼間のあの ( プーブーブー ) というクラクションの幻聴が、
まだかすかに鳴っているような気がした。
あのレキロという男の感覚が、ずっと自分の内側に染み込んでいるのを感じる。
ゆうやはそっと目を閉じた。
ベッドのシーツが擦れる、微かな音が闇に溶けていく。
この静寂の中の自分は、一体誰なんだ……。
ゆうやは横になったまま、腕の中にいる妻の、
少し火照った肩のぬくもりを静かに感じていた。
「…なあ」
ゆうやは、腕枕をしたまま、闇の向こうへ向けてぼそっと呟いた。
「俺……本当は、レキロなのかもしれないな」
しばらくの沈黙があった。
妻の穏やかな呼吸の音が、闇の中で規則正しく刻まれている。
眠ってしまったかと思ったその時、腕の中の妻が、小さく寝返りを打った。
ゆうやの胸のあたりにそっと顔を寄せる。
他愛のない、いつものトーンで静かに呟いた。
「そんなの、私だってそうよ」
ゆうやの身体が、かすかに強張る。
「……みんなそうなのよ」
妻はそれ以上何も言わず、ただ夫の体温を確かめるように、また静かな寝息を立て始めた。




