【短編】瓦礫の街 ― トンネルを抜けた瞬間、平穏なリアリティは死んだ――。
カーテンから漏れる朝の光。チャーミングな彼女が羽織る、黄色いカーディガン。
冷たい牛乳の喉越しと、イヤフォンから流れるビートルズ。
……しかし。
――トンネルを抜けたとき、あなたの目の前にはどんな景色が広がっていますか……?

一章 死せる リアリティ
あたりには砂埃が立ち込め、見渡すかぎり砕かれたコンクリート片が散乱している。
健はハンカチを口に当てて、
自分のものではないように
震える足で、
何とか前へ走り続けていた。
元は建物やアスファルトであったのであろうモノの残骸を、
避けたり踏み越えたりしながら、ただ前へと進んだ。
道路は陥没し、倒壊したビル群からは黒い煙が空高くまで立ち登っている。
どこからかサイレンのような音が響きわたり、
遠くの方からは、機関銃の発射音が鳴り響いていた。
体中の神経が麻痺していた。
自分自身の荒い息遣いが、遠い意識の奥からずっと聞こえている。
自分は今、どこへ向かって走っているのか?
ただ生き残る可能性を探しているのだ。
しかし、心の奥のどこかでは死を覚悟していた。
前方から戦闘機が近づいてくる。
陽射しを反射して輝く小さな点は、次の瞬間には目が眩むほど巨大になり、
視界の上を、あり得ない速度で横切っていく。
鼓膜を狂わせるジェット音。
遅れてやってきた猛烈な風圧に、肺の空気をすべて搾り取られる。
視界が、歪む。
だが、通り過ぎていった戦闘機を振り返ったり、目で追ったりはしなかった。
意識の輪郭を何とか繋ぎ止めながら、ただ走り続ける。
瓦礫に混じって、血にまみれたり焦げたりした死体のようなものが転がっていたが、
もはや感情も動かず、目を避けるようにして走り続ける。
間もなく背後から激しい爆音が聞こえ、
ハッとすると同時に猛烈な風圧に吹き飛ばされた。
―― 一瞬。
身体中が、粉々に吹き飛んでしまったと感じた。
痛みさえない。
しばらく何も聞こえず、体も動かなかった。
耳鳴りの奥で、自分の心臓だけが生きているように脈打っている。
少し離れた場所で、続けて二回、同じような爆発があった。
口の中にはコンクリートの粉塵や、どこから流れてきたのかもわからない熱い血の味が混じり合っていた。
巨大な、得体の知れない生き物の吠える声が、大地を震わせる。
その声は、瓦礫と化したこの街を支配していた。
薄れる意識の中で何か熱い感情が込み上げる。
たどり着かなくてはいけないのだ……。
少し離れた場所でまた爆音が響いた。
怪物の悲鳴が激しく空気を震わせる。
戦闘機の放ったミサイルが命中したのだろう……。
二章 崩壊 前夜
健は目を覚ました。
カーテンから漏れる朝の光、遠くの高速道路を走る車の音に混じって、小鳥のさえずりが聞こえる。
ふかふかの温かい布団の中で、もう少し眠っていたかったが、朝一番の電車に乗らなければならなかった。
ベッドから降りてテレビをつける。
静かな部屋にテレビの音が流れた。
テレビの中では女性のニュースキャスターが今日の天気について話している。
今日は一日中晴れて、明後日からは寒波がやってくるのだそうだ。
冷蔵庫を開けて牛乳パックを取り出し、コップには入れず、そのまま口をつけた。
冷たい牛乳が心地よく喉を通る。
軽く深呼吸をして洗面所へ向かう。
顔を洗い、歯磨き粉を取った。
歯磨き粉はあと二、三回絞り出せば、使い切ってしまいそうだった。
歯を磨きながら何気なく鏡に映る自分を見ていた。
そこにはどこか、すかした20代半ばの男が映っている。平均的だと思った。
なぜかそれが心地よかった。
急いで服を着替える。薄い色のジーンズに黒のジャケットを羽織る。
テレビの中では女性のニュースキャスターが、年末のイベント情報について話しているようだった。
地方都市のローカル放送だ。
肩までの髪に黄色いカーディガンを羽織った彼女は、とてもチャーミングにみえた。
明るい声色の落ち着いたその声は、
朝の静かな気配と溶け合い、凛とした「生命力」のようなものを感じさせた。
それはこの瞬間にも、様々な人々がそれぞれの生活を営んでいるのだという、何かささやかな一体感のようなものだった。
様々な人々がそれぞれに、世界を回しているのだ。
財布をポケットに入れて、リモコンでテレビを消そうとした時、
緊急放送が流れた。
「……ここで緊急放送をお伝えします」
という緊迫した男性の声が空気を一転させた。
モニター越しに、キャスターの彼女の目には、かすかな怯えが見て取れた。
また地震か何かだろうと思いながら、続きを待つ。
せわしなく早口で喋る何人かの声を、スタジオのマイクが拾っていた。
少し間があって、やがて男性キャスターが話し始めた。
その内容はまるで要領を得ていなかった。
太平洋側の沖合で何か爆発のようなものがあったと、それは伝えていた。
そして、米軍が今、それを調査しているとのことだった。
その後は同じようなことを繰り返していたが、
詳しいことがわかり次第またお伝えする、とのことだった。
健は、あまり時間がないのでテレビを消して、
アパートを後にした。
階段を降りて外へ出ると、いつも通りの街の空気だった。
最寄りの駅で電車を待っている間も今朝のニュースが気にかかったが、周囲に変わった様子は何もなかった。
三章 なすがままの 終焉
ニュースキャスターの言っていた通り、窓の外は快晴だった。
電車はゆっくり動き出し、車内にはアナウンスが流れていた。
健は窓の外を見つめながら、イヤフォンで音楽を聴いていた。
イヤフォンからは、古いリバプールが流れている。
駅前の繁華街から住宅街へと、窓の外の景色がゆっくりと流れていく。
様々な人たちがそれぞれに世界を回しているんだ、と健は思った。
健は黄色いカーディガンのニュースキャスターを思い出していた。
緊急放送の後、平静を装いながらも緊張した面持ちで、事態を把握しようとしている彼女の姿だった。
あの後どうなったのだろう……。
ホームで電車を待っている間、スマホで検索してみたのだが、今朝の緊急放送の記事は全く見つからなかった。
誤報だったとしても、それはそれでネット上は大騒ぎになっているはずだった。
さっきアパートを出た時にも、通りすがった近所の人に聞いてみた。
「今朝の緊急放送を見ましたか」
「いや、知らないね」
逆に何があったのかと聞き返された。
話が長くなりそうだったので適当にその場を濁し、別れて駅へと急いだ。
───。
ふと我に返ると、車内は少し混み合ってきたみたいだ。
学生たちの姿も増えてきた。
隣の席に恰幅のいいサラリーマンが腰を下ろした。
彼は気さくそうにこっちを見ながら、
「今日は天気がいいね」と言った。
「ええ、そうですね」
健はおもむろに片方の耳のイヤフォンを取り、少し様子を伺っていたが、
恰幅のいいサラリーマンは機嫌よさそうに目を閉じて、何かの思いに耽っているようだった。
「あの」と健は思い切って口を開いた。
「今朝のニュースで、緊急速報のようなものがありましたよね」
思わず口をついていた。サラリーマンはきょとんとした顔で健を見つめ返した。
「あ、いえ……別に気にしないでください。明日から寒波が来るみたいですね」
それを聞いたサラリーマンは、ホッとしたように、
「ああ、そうらしいね」と答えた。
健は再び、イヤフォンを耳に戻す。
イヤフォンからはビートルズの「レット・イット・ビー」が流れていた。
窓の外には相変わらず、大小様々なビルや工場、あるいはアパートなどが、遠く向こうの方まで続いていた。
それらの間を縫うように、車が絶え間なく行き交っている。
そのもっと向こうには、かすかに山が見えた。
ビートルズは穏やかな曲調の中で、
「なすがままに……」と歌っていた。
なすがままに。
健はまた彼女を思い出す。
流れる景色と、レット・イット・ビーの旋律。
それらが混ざり合う中で、あの黄色いカーディガンの彼女だけが、この平穏な世界から切り離された真実のように思えた。
電車がトンネルに入り、窓の外が真っ暗になった。
「レット・イット・ビー」が最後のピアノの音を響かせて終わる。
静寂が訪れるはずのイヤフォンの向こう側から、微かなノイズが混じり始めた。
健は目を開けた。
窓に映る車内の光景は、先ほどまでと変わらない。
恰幅のいいサラリーマンは隣で眠り、学生たちは相変わらず笑い合っている。
だが、何かがおかしかった。
トンネルを抜けた瞬間、窓の外に広がっていたのは、
いつもの見慣れたビル群でも、工場地帯でもなかった。
――ゴオオオオオオオオ。
イヤフォンのノイズを掻き消して、地鳴りのような咆哮が、暗黒の向こうから大地を震わせている。
その咆哮は、健の知っているどんな生物のモノでもなかった。
その咆哮は、健の本能のずっと奥を容赦なく震わせた。
その瞬間、健は静かに理解した。
もう “世界は変わってしまった” のだ……。

あとがき
私たちが当たり前のように信じている「平穏な日常」。
トンネルを抜けたとき、主人公健が見たものは
突然の破滅だったのか、
それとも
日常と並行に流れていた、見逃していた必然だったのか……。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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……そして、宝物のようなご縁をいただいた大切な場所を、感謝を込めてご紹介させてください。
