【短編】どんくさい銀 ― 物語を忘れてしまった大人たちへ…。
大人になると、物語は消えていく。
……本当に、そうだろうか。
不器用なUMA(未確認生物)と、同じように不器用に生きる大人たちの短編小説。
1
ユウタは、祖父の法事に向かうため、一人で車を走らせていた。
夕闇に沈み始めた田舎道。窓を開けると、湿った草の匂いが流れ込む。
その時だった。
視界の端で、何かが跳ねた。
銀色の、細長い影。
ガードレールの向こうへ飛び去った。
「……嘘だろ」
息を飲んで、つぶやいた。
――まだ、いたのか。
慌ててバックミラーを覗き込んだ。
だがアスファルトの黒がどこまでも続くばかりだ。
――見間違いじゃない。
あの不自然に細長い曲線と、重力を無視したような、ぶよんとした跳躍。
あいつは、ずっとあそこにいたのか。
それとも、今日この日に合わせて、俺を待ち構えていたのか。
考えを振り払うようにハンドルを切り、見覚えのある古い石垣の角を曲がる。
やがて、闇の向こうにぼんやりと、見覚えのある門が見えた。
2
静寂が降りる中、玄関先に一人の青年が立っている。
ふたつ上のいとこだ。
古びた玄関の引き戸から漏れる電球の光が、いとこの礼服の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
「久しぶりだな、ユウタ。……一人で運転してきたのか。大変だっただろ」
いとこの声は、記憶よりも少し低くなっていた。
周囲は、夜の帳が降りる寸前の独特な静けさに包まれている。
遠くで鳴く虫の声も、今は妙にこもって聞こえる。
線香の香りがかすかに、玄関先にまで漂ってきていた。
3
仕事着のまま、慌ててお焼香を済ませる。線香の煙が目に沁みた。
「おう、ユウタ。仕事お疲れさん。座れ座れ」
叔父たちが赤ら顔で声をかけてくる。
座敷にはビール瓶や大皿料理が並び、親戚たちの笑い声が天井の低い和室に反響していた。
ユウタは勧められるままに腰を下ろしたが、さっきの道中で見た「銀色の影」が脳裏から離れない。
「……仕事、忙しいのか?」
ふと横を見ると、いとこの陽介が静かにビールを注いでくれた。
「ああ。……まあ、なんとか。……それより、さっきの道、街灯のとこ……」
ユウタが言いかけると、いとこの手がピタリと止まった。
周りの親戚たちは、昔話や世間話に夢中で、二人の小さな会話には誰も耳を貸していない。
「……見たのか」
いとこが声を潜めて呟く。
「……ああ。銀色の、細長いやつ。一匹だけだったけど、相変わらずちょっとどんくさそうに跳ねてた」
ユウタが言うと、いとこは小さく、でも深く息を吐いた。
「やっぱりな。俺もさっき、買い出しの帰りに見たんだ。……三匹いたうちの、あいつだけだろ?
後の二匹はどこに行ったのか知らないけど、あいつだけはずっとあそこに居着いてるみたいなんだ」
陽介はコップのビールを一口飲み、震える声で続けた。
「なあ、ユウタ。あれ、やっぱり幽霊とかじゃないよな。
あんなにツルツルしてて、銀色で……。
子供の頃、俺たちの後をぴょんぴょんついてきた、あの時と同じ『生き物』だよな」
ユウタは、陽介から視線を反らせ、ため息をつく。
「……おい、ユウタ! ぼーっとしてないで飲めよ」
不意に、正面に座る叔父がビール瓶を突き出してきた。
「しかし、見ないうちに大きくなったもんだな。
覚えてるか? 夏休みに遊びに来るたび、陽介と二人で泥だらけになって裏山やら川やら駆け回ってたじゃないか」
「ああ……そうですね。懐かしいです」
ユウタは曖昧に頷いた。
「今日は泊まっていくんだろう? 陽介の部屋に布団敷かせてやるから…」
叔父は上機嫌に、空いたコップにビールを注ぐ。
「ああ。……はい、明日は休みを取ってあるんで。お言葉に甘えさせてもらいます」
ユウタが答えると叔父は、「そうかそうか、それがいい!」と、自分のことのように嬉しそうに隣の親戚と肩を組んだ。
「久しぶりに兄弟みたいにゆっくり話せばいい。昔みたいにな」
陽介は黙って、ユウタのコップにビールを注ぎ足した。
「……そうだな。ゆっくり話そう。……あいつのこととか」
最後の一言は、叔父たちの笑い声にかき消されて、ユウタの耳にだけ届いた。
4
陽介の部屋に並べられた二つの布団。
部屋の隅にある古い木製の机や、色褪せたポスターが、嫌でも子供の頃の記憶を呼び起こす。
本棚には、かつて陽介が狂ったように何かを書き殴っていた、何冊もの大学ノートが、今も捨てられずに並んでいた。
「……陽介。さっきの、本気で言ってるのか」
ユウタは天井を見つめたまま、低く言った。
「ああ。俺は何度も見た。中学生の時も、高校の部活の帰りも。あいつは一匹で、いつもあそこにいた」
陽介の声には、確信があった。
でも、それがユウタの胸をざわつかせる。
「……もういいよ、そういうのは」
ユウタは吐き捨てるように言った。
それは、高校生の頃、法事で顔を合わせた時に二人が決裂した時の言葉と同じだった。
当時、何度も「見た」と繰り返す陽介に、ユウタは耐えられなくなって叫んだのだ。
『あんなの、ただの目の錯覚だよ! 子供だったから、光の反射か何かを勘違いしただけだ。いつまでそんな子供じみたこと言ってんだよ!』
あの日以来、二人の連絡は途絶えた。
「……錯覚じゃなかったんだろ。ユウタ」
陽介の静かな声が、暗闇に響く。
「お前も、さっき見たから、あんなに顔色を変えてここに来たんだろ」
その指摘は、図星だった。
逃げ場を失ったユウタの視線が、あの本棚の、背表紙の擦り切れた大学ノートへ向かう。
「もう、良いじゃないか。書くのをやめた理由、まだ引きずってるんだろ」
陽介の呼吸が、一瞬、止まったのがわかる。
並んだ布団のわずかな隙間に、取り返しのつかない沈黙が横たわる。
陽介の、拒絶か、あるいは絶望か。
その沈黙の重みにユウタが息苦しさを感じ始めた、その時。
「おーい、二人とも。お風呂沸いたわよ。どっちから入るの?」
襖の向こうから、緊張感のないおばさんの声が響いた。
廊下をスリッパでパタパタと歩く音と、台所の方から聞こえるテレビの音が、一瞬にして二人の間の「異様な空気」を日常へと引きずり戻した。
「……陽介から入りなよ。俺、まだお腹いっぱいだし」
ユウタは顔を背けたまま、寝返りを打って背中を向けた。
陽介はすぐには答えず、ただ小さく「……ああ」とだけ漏らして、重い腰を上げた。
5
陽介が出ていったあとの、静まり返った部屋。
ユウタは腕を額に乗せ、目を閉じた。
記憶の中で、湿った草の匂いと線香の香りが混ざり合い、意識を遠い底へと連れていった。
幼少の追憶
足の裏に、まだアスファルトの熱が残る夕方だった。
買い物袋の取っ手が指に食い込んで、痛い。
前を歩く大人たちの背中は遠くて、サンダルのパタパタいう音だけが、高い壁に囲まれた路地裏に響いていた。
ふと、後ろが気になった。
誰かが、ついてきている。
振り返った瞬間、銀色が視界を横切った。
音がない。
ツルツルした、細長い、銀色の何か…?
大人の 3倍はある、背の高い二つの影が、僕らの真横をすり抜けていく。
陽介の肩と、自分の肩の間。
狭い隙間を、冷たい風みたいに、しなりながら通り過ぎた。
「……あ」
声が出なかった。
前を歩くおじさんたちは、何も気づかない。
すぐそばを巨大な銀色が跳ねているのに、笑いながら歩き続けている。
最後にもうひとつ、他の二匹よりも、極端に小さな影がやってきた。
そいつは前の二匹に置いていかれそうで、必死だった。
角を曲がる時、壁にぶつかりそうになって、ぶよんと体をしならせる。
一生懸命に跳ねるたび、夕焼けを弾いて銀色がまぶしく光った。
最後の一匹が角に消えたあと、そこには古いブロック塀の影があるだけだった。
荷物の重さも、指の痛みも、全部忘れて立ち竦んだ。
陽介を見た。
陽介も、こっちを見ていた。
「……見たか、今の」
陽介と顔を見合わせ、二人で息を呑んだ。
それからはもう、その後の花火のことなんて頭から消えていた。
次の日から、二人は毎日、山や川を駆けずり回った。
あの銀色の、小さくて、どんくさい一匹を、もう一度見つけるために。
だが、見つからなかった。
結局、ユウタがそれを見たのは、人生であの夏の一度きりだった。
だが、陽介は違った。
その後も陽介は、自分たちだけの秘密の物語を、必死に言葉にして残そうとしていた。
誰も信じてくれなくても、たった一人の理解者であるはずのユウタに「目の錯覚だ」と切り捨てられるその日まで、孤独にペンを握り続けていたのだ。
ユウタの視線が、本棚の擦り切れた大学ノートへ戻る。
あの時、自分は何を壊したのだろう。
(あいつが書くのをやめたのは、俺が物語を殺してしまったからだ……)
――なのに。
今日、この法事の日に。
十何年ぶりに、あいつはまた俺の前に現れた。
あの時と同じ、無音のまま、どんくさそうに跳ねて…。
6
脱衣所の引き戸が荒く開く音がして、陽介が部屋に戻ってきた。
石鹸の匂いが、湿った夜の空気を一瞬だけ塗り替える。
ユウタは布団に背を向けたまま、わざとらしく大きなため息をついた。
陽介は何も言わず、自分の布団に入り、パチンと電球の紐を引いた。
暗闇が落ちる。
沈黙がしばらく続いたあと、ユウタが寝返りを打ち、天井に向かってぼそりと言った。
「……おい、陽介」
「……なんだよ」
「今から、見つけに行かないか」
隣で、陽介が息を呑む気配がした。ガサリと布団が鳴り、陽介が身を起こす。
「……何を、だよ」
「決まってるだろ。あの、どんくさいやつだよ」
ユウタは起き上がり、暗闇の中でいとこの顔を睨みつけた。
「……俺は一回しか見てないんだ。あんなのが幻覚じゃなくて本当にいるってんなら、もう一回確かめなきゃ気が済まない」
陽介は驚いたように目を見開いていたが、やがて、その口元が微かに緩んだ。
「……そうだな。あいつ、まだあのガードレールの近くにいるはずだ」
二人は物音を立てないように立ち上がり、パジャマの上に上着を羽織った。
忍び足で階段を下り、玄関の引き戸をそっと開ける。
しかし、外へ踏み出そうとしたその背中に、鋭い声が飛んだ。
「ちょっと、二人とも。こんな時間にどこへ行くの?」
振り返ると、廊下の奥で懐中電灯を持ったおばさんが、不審そうな顔で立っていた。
「……カブトムシだよ。
急に二人で、あの頃みたいに捕りに行きたくなってさ」
陽介の咄嗟の嘘に、おばさんは呆れたように肩をすくめた。
「いい年して、全く……。あんまり遅くなるんじゃないわよ。明日は法事の本番なんだから」
背後で玄関の戸が閉まる。二人は、懐中電灯の細い光を頼りに、夜の田舎道を歩き出した。
街灯の間隔が広く、一つ灯りを通り過ぎるたびに、深い闇が二人を包み込んだ。
「……で、お前。東京の方はどうなんだよ」
前を歩く陽介が、振り返らずに尋ねてきた。
「……どうって。別に、普通だよ」
「普通ってことはないだろ」
「……とにかく、忙しいんだ。朝から晩まで数字とメールに追われて、空が何色だったかも思い出せないくらい。
……お前が言うような『物語』なんて、あっちには一欠片も落ちてないよ」
自嘲気味に笑うユウタの言葉に、陽介は何も言わなかった。
都会での乾いた生活。
それを「現実」と呼んで自分を納得させてきたユウタにとって、この土地の湿った闇は、忘れかけていた何かを無理やり引きずり出すような、嫌な心地よさがあった。
「着いたぞ」
陽介が足を止める。
そこは、ユウタがさっき車で通り過ぎた、あのガードレールだった。
二人は無言で懐中電灯を向け、暗がりの向こうを照らした。
だが、そこにはシダの葉が夜風に揺れているだけで、銀色の影も、跳ねる音も、何ひとつとして存在しなかった。
ただ、不気味なほどの静寂が広がっているだけだ…。
「……やっぱり、いないな」
ユウタはガードレールの錆びた冷たさを背中に感じながら、力なく吐き出した。
あれだけ激しく波打っていた心臓が、今はひどく静かだ。いないと分かると、今度は言いようのない喪失感が込み上げてくる。
「……陽介。俺さ」
懐中電灯のスイッチを切り、ユウタは暗闇に視線を投げた。
「さっきはあんなこと言ったけど。……本当は、見つけたいんだよ。あいつを」
隣で陽介が意外そうに顔を向けるのがわかった。
「……一度きりの幻影じゃなくて、本当にあいつが生きてるって、もう一度信じたいんだ。
そうじゃないと、俺がこっちに置いていったものが、全部無駄だったみたいで」
忙しさに追いかけられ、夢を見ることを忘れた向こうの生活。
もし「あいつ」が実在するなら、自分の心の中に残っていたわずかな熱も、間違いじゃなかったと思える気がした。
陽介はしばらく黙っていたが、やがて、懐かしいような声を漏らした。
「……そうだな。俺も、あいつを見てる時だけは、自分が何者でもないことを忘れられたんだ」
二人の間に、不思議と穏やかな時間が流れる。
ふと、ユウタが思い出したように小さく笑った。
「なあ……。それにしても、あいつ、本当にどんくさかったよな。三匹の中で一匹だけ、壁にぶつかりそうになってさ」
「ああ、あの必死に追いかけてたやつな。段差でちょっと躓いてたろ」
「……どんくさくて、面白かったな、あいつ」
二人の笑い声が、夜の静寂に低く響いた。
子供の頃に戻ったような、無邪気で、でも少しだけ切ない笑い。
7
翌日の法事は、昨日までの騒がしさが嘘のように淡々と過ぎていった。
読経の響く中、ユウタは何度も、陽介と並んで座る自分の影を見つめていた。
あの銀色の生き物は現れなかったが、二人の間には、昨日までのような刺々しい空気はもうなかった。
夕方。帰路に就くため、ユウタは車のエンジンをかけた。
見送りに外へ出てきた陽介が、運転席の窓越しに少し照れくさそうに口を開く。
「……ユウタ。俺、もう一度やってみようと思う」
「何をだよ」
「書くことだよ。……あいつを見てるのが俺一人じゃないって分かったら、なんか、乗り越えられるような気がしてきたんだ。
家業をやりながらでも、自分にしか書けないものが、まだある気がしてさ」
陽介の瞳には、昨夜の暗がりでは見えなかった、静かな光が宿っていた。
ユウタは少し驚き、それから今日一番の、嘘のない笑みを浮かべた。
「……そうか。楽しみにしてるよ。……俺も、明日からまた、なんとかやってみるよ」
軽く手を振り、車を出す。
バックミラーの中で、陽介の姿が少しずつ小さくなっていく。
やがて、車はあのガードレールのカーブに差し掛かった。
ユウタは無意識にスピードを緩め、視線を走らせる。
――その時だった。
西日に照らされたシダの葉の影から、
銀色の何かが、ふわりと高く跳ねた。
昨日の夜よりもずっと鮮やかに。
相変わらず、どこか不器用な軌道を描いて。
「……っ」
ブレーキを踏みそうになったが、ユウタはそのまま真っ直ぐ前を見据え、アクセルを踏み込んだ。
もう、確かめる必要はなかった。
あのどんくさいやつは、これからもここにいる。
視界の端に焼き付いた銀色の残像を、大切に胸の奥へとしまい込み、ユウタは夕暮れのハイウェイへと車を走らせた。
あとがき
「どんくさい銀」は、
私たちがどこかに置き去りにしてきてしまった夢や、
純粋さの象徴なのかもしれません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
