⚪️掌編小説|蜜柑堂書店 第九話
第八話からの続き
「蜜柑がどこにもないのよ」とその女の人は言った。
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まだ五月だというのに連日の夏日が初夏の到来を証拠立てている。朝晩はまだ寒さが残るとはいえ、こうして季節感を揺さぶられながら短い雨季を挟んで不意に盛夏となるのだろう。
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「でもほらここなら、一年中、蜜柑が咲いてるし、絶対あるだろうと思って来たの」
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その女の人が日傘を畳んでくるくると巻きながら姿を見せたとき、ぼくは蜜柑さんが髪をバッサリ切ったのかと思った。心臓が止まるほど驚いた。
蜜柑さんより少し幼い顔立ちと、パキッとした短めのボブカット、薄いピンク色の丸い肩、前見頃にシャーリングのある胸の開いたノースリーブ、これがもし蜜柑さんならぼくは死んでいただろう。
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まるで違うのにどこか似ている。
匂いだろうか。
蜜柑さんは柑橘系の香水だけれど、この人は、フローラル、鈴蘭かな、グリーンノート、サンダルウッド、柑橘以外のフルーツ……
「芥川」とその人は言った。
芥川、さん?
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世界中、どこを探しても『蜜柑』がないという。芥川龍之介の短編『蜜柑』のことらしい。
そんな大袈裟な。
それを収録した短編集はもとより、掲載誌、小冊子に至るまで、およそ紙媒体として印刷されたその小説を、どうしても手に入れることが出来ないと言う。
とても困っているの、とその人は言った。
どれほどの熱量で探しているのか分からないが、とにかくこうしてこの書店に辿り着いたのだ。蜜柑が咲こうが咲くまいがうちにはあるだろう。
ない。
「えー、どうなっちゃってるの、ここにもないなんて!」
うちだけじゃない。他の大型書店、取次、ネット書店、どこの在庫を探しても確かになかった。芥川の『蜜柑』が消えてしまった。
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「電子書籍じゃダメなんですか?」
試しに訊いてみただけだ。それなのにあなた何言ってんのみたいな顔をされた。いや訊いてみただけじゃん、とぼくは思った。
「紙で欲しいのよ」
蜜柑さんの不在時に限って、こういう人が来るんだよな。
「どうしてそんなに、欲しいのか訊いても良いですか?」
「大した理由じゃないのだけど」とその人は言った。
「子供の頃に読んだのを覚えてて、それが今のわたしにどうしても必要な気がして、なんとなくね、とにかくそれを確かめるためにもう一度読んでみたいのよ。そういうの、分かるでしょ?」
分かる。それが芥川の『蜜柑』だというのは少し意外だけれど、分かる。紙で欲しいのも分かる。だから、分かったよ、電子書籍とは二度と言うまい。
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「少し時間ありますか?」
「なくはないけど?」
「芥川はパブリックドメインに入ってるんです。良かったら印刷して差し上げます」
「ほんと?」
「ええ、あちらの読書スペースでお待ちいただければ」
「ありがとう、そうしてもらえるとすごく、嬉しい」
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普段なら「日傘の女」か「芥川女」とでも名付けるところだ。
ぼくはトレーに来客用の冷たい緑茶を乗せてその人の席に持って行った。
公開されている『蜜柑』のテキストをダウンロードして、簡易的に製本してあげようとも思ったけれど、いかんせん文字数が少なすぎる。そこでB4ヨコの用紙に400文字ずつ、20文字×20行で印刷することにした。
それはたった九枚の作品だった。
***
ぼくが『蜜柑』を届けるとその人は「おっ」と言った。
「この体裁で読むと、うん、作者がペンを走らせる音まで聴こえるようだね」
素敵な感性だ。
「とにかくありがとう」
「どういたしまして」
「どうしてアオイちゃんが君を採用したか分かる気がする」
「アオイちゃん?」
「蜜柑さん、だっけ?」
顔が溶けそうなほど熱い。
「ミドリが来たって言っといてくれる?」
「あわわわ」
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行ってしまった。
まるで初夏のような呆気なさで、くるりと言うかひらりと言うか、清々しい香りだけを残して消えてしまった。
あるいは退屈な店番に飽きたぼくの微睡が呼び寄せた、それは白昼夢かもしれず、これを馬鹿正直に報告しようものなら、ミドリ、さあ誰かしらなんてことになりはしないだろうか。
蜜柑さんが戻るまでにはまだ時間がある。ダウンロードした『蜜柑』でも読みながら一先ず落ち着くとしよう。
それか、いや、そうだな、同じものをもう一部印刷して、芥川が走らせるペンの音にでも耳を傾けてみるか。それがおそらく今日という日に相応しい読み方に違いない。そんな気がした。
蜜柑
或曇った冬の日暮である。私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下して、ぼんやり発車の笛を待っていた。とうに電燈のついた客車の中には、珍らしく私の外に一人も乗客はいなかった。外を覗くと、うす暗いプラットフォオムにも、今日は珍しく見送りの人影さえ跡を絶って、唯、檻に入れられた小犬が一匹、時々悲しそうに、吠え立てていた。これらはその時の私の心もちと、不思議な位似つかわしい景色だった。私の頭の中には云いようのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のようなどんよりした影を落していた。私は外套のポッケットへじっと両手をつっこんだまま、そこにはいっている夕刊を出して見ようと云う元気さえ起らなかった。
が、やがて発車の笛が鳴った。私はかすかな心の寛ぎを感じながら、後の窓枠へ頭をもたせて、眼の前の停車場がずるずると後ずさ
りを始めるのを待つともなく待ちかまえていた。ところがそれよりも先にけたたましい日和下駄の音が、改札口の方から聞え出したと思うと、間もなく車掌の何か云い罵る声と共に、私の乗っている二等室の戸ががらりと開いて、十三四の小娘が一人、慌しく中へはいって来た、と同時に一つずしりと揺れて、徐に汽車は動き出した。一本ずつ眼をくぎって行くプラットフォオムの柱、置き忘れたような運水車、それから車内の誰かに祝儀の礼を云っている赤帽——そう云うすべては、窓へ吹きつける煤煙の中に、未練がましく後へ倒れて行った。私は漸くほっとした心もちになって、巻煙草に火をつけながら、始めて懶い睚をあげて、前の席に腰を下していた小娘の顔を一瞥した。
それは油気のない髪をひっつめの銀杏返しに結って、横なでの痕のある皸だらけの両頬を気持の悪い程赤く火照らせた、如何にも田舎者らしい娘だった。しかも垢じみた萌黄色
の毛糸の襟巻がだらりと垂れ下った膝の上には、大きな風呂敷包みがあった。その又包みを抱いた霜焼けの手の中には、三等の赤切符が大事そうにしっかり握られていた。私はこの小娘の下品な顔だちを好まなかった。それから彼女の服装が不潔なのもやはり不快だった。最後にその二等と三等との区別さえも弁えない愚鈍な心が腹立たしかった。だから巻煙草に火をつけた私は、一つにはこの小娘の存在を忘れたいと云う心もちもあって、今度はポッケットの夕刊を漫然と膝の上へひろげて見た。するとその時夕刊の紙面に落ちていた外光が、突然電燈の光に変って、刷の悪い何欄かの活字が意外な位鮮に私の眼の前へ浮んで来た。云うまでもなく汽車は今、横須賀線に多い隧道の最初のそれへはいったのである。
しかしその電燈の光に照らされた夕刊の紙面を見渡しても、やはり私の憂鬱を慰むべく、世間は余りに平凡な出来事ばかりで持ち切っ
ていた。講和問題、新婦新郎、涜職事件、死亡広告——私は隧道へはいった一瞬間、汽車の走っている方向が逆になったような錯覚を感じながら、それらの索漠とした記事から記事へ殆機械的に眼を通した。が、その間も勿論あの小娘が、あたかも卑俗な現実を人間にしたような面持ちで、私の前に坐っている事を絶えず意識せずにはいられなかった。この隧道の中の汽車と、この田舎者の小娘と、そうして又この平凡な記事に埋っている夕刊と、——これが象徴でなくて何であろう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であろう。私は一切がくだらなくなって、読みかけた夕刊を抛り出すと、又窓枠に頭を靠せながら、死んだように眼をつぶって、うつらうつらし始めた。
それから幾分か過ぎた後であった。ふと何かに脅されたような心もちがして、思わずあたりを見まわすと、何時の間にか例の小娘が、向う側から席を私の隣へ移して、頻に窓を開
けようとしている。が、重い硝子戸は中々思うようにあがらないらしい。あの皸だらけの頬は愈赤くなって、時々鼻洟をすすりこむ音が、小さな息の切れる声と一しょに、せわしなく耳へはいって来る。これは勿論私にも、幾分ながら同情を惹くに足るものには相違なかった。しかし汽車が今将に隧道の口へさしかかろうとしている事は、暮色の中に枯草ばかり明い両側の山腹が、間近く窓側に迫って来たのでも、すぐに合点の行く事であった。にも関らずこの小娘は、わざわざしめてある窓の戸を下そうとする、——その理由が私には呑みこめなかった。いや、それが私には、単にこの小娘の気まぐれだとしか考えられなかった。だから私は腹の底に依然として険しい感情を蓄えながら、あの霜焼けの手が硝子戸を擡げようとして悪戦苦闘する容子を、まるでそれが永久に成功しない事でも祈るような冷酷な眼で眺めていた。すると間もなく凄じい音をはためかせて、汽車が隧道へなだれ
こむと同時に、小娘の開けようとした硝子戸は、とうとうばたりと下へ落ちた。そうしてその四角な穴の中から、煤を溶したようなどす黒い空気が、俄に息苦しい煙になって、濛々と車内へ漲り出した。元来咽喉を害していた私は、手巾を顔に当てる暇さえなく、この煙を満面に浴びせられたおかげで、殆息もつけない程咳きこまなければならなかった。が、小娘は私に頓着する気色も見えず、窓から外へ首をのばして、闇を吹く風に銀杏返しの鬢の毛を戦がせながら、じっと汽車の進む方向を見やっている。その姿を煤煙と電燈の光との中に眺めた時、もう窓の外が見る見る明くなって、そこから土の匂や枯草の匂や水の匂が冷かに流れこんで来なかったなら、漸咳きやんだ私は、この見知らない小娘を頭ごなしに叱りつけてでも、又元の通り窓の戸をしめさせたのに相違なかったのである。
しかし汽車はその時分には、もう安々と隧道を辷りぬけて、枯草の山と山との間に挟ま
れた、或貧しい町はずれの踏切りに通りかかっていた。踏切りの近くには、いずれも見すぼらしい藁屋根や瓦屋根がごみごみと狭苦しく建てこで、踏切り番が振るのであろう、唯一旒のうす白い旗が懶げに暮色を揺っていた。やっと隧道を出たと思う——その時その蕭索とした踏切りの柵の向うに、私は頬の赤い三人の男の子が、目白押しに並んで立っているのを見た。彼等は皆、この曇天に押しすくめられたかと思う程、揃って背が低かった。そうして又この町はずれの陰惨たる風物と同じような色の着物を着ていた。それが汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一斉に手を挙げるが早いか、いたいけな喉を高く反らせて、何とも意味の分らない喊声を一生懸命に迸らせた。するとその瞬間である。窓から半身を乗り出していた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振ったと思うと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まっている蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送った子供た
ちの上へばらばらと空から降って来た。私は思わず息を呑んだ。そうして刹那に一切を了解した。小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴こうとしている小娘は、その懐に蔵していた幾顆の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。
暮色を帯びた町はずれの踏切りと、小鳥のように声を挙げた三人の子供たちと、そうしてその上に乱落する鮮な蜜柑の色と——すべては汽車の窓の外に、瞬く暇もなく通り過ぎた。が、私の心の上には、切ない程はっきりと、この光景が焼きつけられた。そうしてそこから、或得体の知れない朗な心もちが湧き上って来るのを意識した。私は昂然と頭を挙げて、まるで別人を見るようにあの小娘を注視した。小娘は何時かもう私の前の席に返って、相不変皸だらけの頬を萌黄色の毛糸の襟巻に埋めながら、大きな風呂敷包みを抱えた手に、しっかりと三等切符を握っている。…………
私はこの時始めて、云いようのない疲労と倦怠とを、そうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。
(第十話に続く)
*見出し画像は@羽さんの作品です。
*関連エピソード:第四話
*本作は『文化人類学入門』とのクロスオーバー作品です。
