「「無力」もまた力なり」から何かをはじめる
今日のお昼休みに次の論稿を読んだ。
触発されるところの非常に多い論稿で真剣に(とはどういうことなのかはわからないが真剣に)読もうと思っている。今回は色々な可能性を色とりどりに確認していくことにしたい。
その方法として今回は箇条書きにした11のテーマをもとに書いていくことにしよう。そのテーマが以下だ。ちなみに上に挙げた論稿を読んでいないとわからないものもあるし、読んでいてもわからないものもあると思う。
・レヴィナスにおける「死」(『レヴィナス読本』「身代わり」)
・「潜在的な志向性」の中間性とグッチさんの間隙性(観劇性?)
・「なる可能性」と「ならない可能性」の区別の強調
・『センスの哲学』の216頁。「偶然性」の取り扱い
・千葉雅也の「閉域」と「分身」
・「特級呪物化」と「特別閉域化」(APEXの領域の縮小と「ピーン」という感じ)
・「観念」(「無力」と「無力感」)
・「赦し」と(「諦め」と)スピノザ的escalation
・「減算」と「加算」(なぜ「転換メカニズム」は「減算/加算」で語られるのか)
・なぜ文学の話や「疎外」の話は必要だったのか(導入ということ)
・「比較」における有限と無限(有限であることと自覚すること)
随時補足的なものも書くと思うがそれも未来の自分のためなので特に役に立たない可能性がある。ので、そんなものは読みたくないという人はここで戻ってもらうほうが良い。では、注意はしたので。エクスキューズの哲学、みたいなのを書いてみたいと思うときがある。めちゃくちゃたまに。
・レヴィナスにおける「死」(『レヴィナス読本』「身代わり」)
昨日、『レヴィナス読本』の「身代わり」に関する頁を読んだ。(この箇条書きの最後にそのときに書いた文章を置いておく。一応。)そこでこんな記述があった。
のちに身代わりは、最晩年のテクスト「……の代わりに死ぬこと」(『われわれのあいだで』所収)でさらなる徹底化を受ける。日常的な現存在は、他者たちと「ともに」存在し、他者の「た(/)めに」なにかをおこなう。こうした現存在の共同性は、孤独な現存在にあとから付け加わるのではなく、当の現存在を構成する不可欠の契機である。共同現存在の「ともに(mit)」や、待遇の「ために(für)」に注目したにもかかわらず、結局のところハイデガーにおいて、日常的な現存在は非本来的な「ひと」であり、その本来性を担保するのは自分の死の可能性のみであった。誰もが死をまぬがれない点で、死だけが現存在自身の固有の可能性であるというハイデガーの論理に破綻はない。しかし、私と死のあいだには絶対に飛び越えられない間隔があり、死の瞬間には、死という他なる出来事から私への跳躍が生じる。私固有の可能性であるはずの死の瞬間に私が不在であるどころか、そこに至る「死に臨む存在(Sein zum Tode)」の一切が、実際には医療や友愛への呼びかけといった他者との関係であり続けている。レヴィナスは、固有の存在や本来性を第一に捉える存在論の考え方は価値判断に基づく選択の結果だとし、自己の死よりも他者の死を優先的に憂慮する「犠牲(sacrifice)」の倫理をそれに対置している。「他者のために」という意味作用が、「存在の意味への問い」への応答として提示されるのである。
『レヴィナス読本』57-58頁
そのときはここは読まなかったし、このレヴィナス解釈が間違っているのかもわからないし、レヴィナスのハイデガー解釈が間違っているのかもわからない(多分「間違っている」と言い得るとは思う。)が、とにかくここを思い出した。以下の箇所を読んだとき。
生きていることそのものが「力」の具体的な表れであり、あらゆる存在において「無-力」はありえないのである。これは「死」についても同様である。死もまた、「死」という形で生きている者や現実世界に何らかの影響を及ぼし、作用している点で、ある種の「力」を内包しているといえるからだ。
「「無力」もまた力なり」
もちろん、レヴィナスは「死に臨む存在」の話をしているのであって、「死んだ存在(=死者?)」の話をしているわけではない。(村上靖彦が『傷の哲学、レヴィナス』のなかで「死体」について議論していたように思われる。確認してきた。「死体」について議論していたし「死者(の復活)」についても議論していた。読みたいものが増えた。読み直したいものが。)さらに言えば、私は自分が死んだら世界があるともないとも言えるしあってもなくてもどっちでもいいとも言えると思うのでわざわざこのように局限する必要があるかについても疑問が残る。ただ響き合っただけなのかもしれない。この箇所とあの箇所が。しかし、そのおかげで私の欲望は死なずに生きている。と実感できている。野暮な使い方だろうか。まあ、このエピソードは野暮だったことにしよう。
ただ、タイトルとはよく響き合うところかもしれない。この箇所は。
・「潜在的な志向性」の中間性とグッチさんの間隙性(観劇性?)
うえーい。これは長くなりそうだ。一旦飛ばす?うーん。とりあえずポイントだけ書くか。
ポイントは入不二哲学の(一つの特徴的な)態度とこの文章が私にもたらしてくれた態度、態勢が響き合っているということである。しかし違いもあって、それを中間性と間隙性という対比で捉えてみたいということがここでのポイントである。さらに言えば、グッチさんのこの論稿は一つ後のトピックでも触れるが「「無力」というものは、ここまで見てきたように、否定的な力も肯定的な力も潜在させている。どちらに振れるかは定まっておらず、否定性も肯定性も、そしてそのいずれかになる可能性も内包している。」(「「無力」もまた力なり」)という特徴的な表現(これは入不二哲学由来である、か、由来成分が強いと思う。)を人生論的に語る(語り直す)ことで非人生論的な「可能性」の在り方を開いているとも言えると思われる。
このことを確認するためにはグッチさんも論稿で使っている「潜在的な志向性」という概念の概要を確認しなくてはならない。幸いグッチさんが参考にしている(であろう)入不二の著作、『現実性の極北』には極めて詳細な索引がついていて、出てくる頁数自体はすぐわかる。しかも一つしかない。286頁だ。しかし、入不二哲学の中間性を描き出すにはここでのトピックは少し専門的過ぎるというか、そういう感じがあるので、そういう感じではないように再構成する必要があるとも思う。その「再構成」に時間がかかりそうなのである。しかしそれをしないことには「間隙性」をそれとして示すことは難しいように思われる。だから悩んでいるのだ。まだ九つもあるし。テーマが。時間は無限にはないし、普通にあまりたくさんあるわけではない。とりあえず問題も明確にできたし、今回はよしとさせてもらう。一つ前のように野暮ではなかったようだ。
ちなみに「観劇性」は予測変換で出てきてしまっただけでなんとなくつけておいただけだが、入不二が「レスリング行為/レスリングする身体」という論稿で近い話をしていたように思われるし、最近も映画『国宝』について関係がありそうな批評をしていた。のであながち的外れではないのかもしれない。
・「なる可能性」と「ならない可能性」の区別の強調
これは上で引用したグッチさんの文章をより深く理解するためには区別を強調したほうがいいのではないか、みたいな話である。少し長く引用しよう。
「無力」というものは、ここまで見てきたように、否定的な力も肯定的な力も潜在させている。どちらに振れるかは定まっておらず、否定性も肯定性も、そしてそのいずれかになる可能性も内包している。つまり「無力」とは、端的な「無」などでは決してないのである。
「「無力」もまた力なり」
ここでの「なる可能性も内包している」というのは極めて注意が必要な表現で、ただ単に「ならない可能性」を対比させて理解すれば済む話でもない。(まあ、テーマを挙げた時点ではそう思っていた節もあるが。私は。)別に「端的な「無」」(これも入不二由来の概念だろう。)の話をするかどうかは別として(私もよくわかっていないし。これに関してはラファ鉄さんという方が「大無」という概念を構築することで理解しようとしている文章がある。このテーマの最後に置いておく。)入不二哲学の(一つの)核心はここにあるし、上で話した入不二哲学の中間性がただ単に間にあることではない(「任意性」とかが関わってくるだろう。)ことを示すのにもここは重要なところであるように思われる。
ただ、核心すぎるので読み直さないと書けない気がする。とりあえずポイントは「内包している」という表現であると思う。これがただ単に「なる可能性もある」みたいなことだったら深さ、深みが足りない。「なる可能性も内包している」だからこそ深みが出て、深さを確かめることができるのだ。
・『センスの哲学』の216頁。「偶然性」の取り扱い
とりあえず引用しよう。
どうしてもそうならざるをえない問題的なものが芸術と生活にまたがって反復され、変形されていく。人が持つ問題とは、そうならざるをえなかったからこそ、「そうでなくてもよかった」という偶然性の表現でもある。問題が繰り返され、何かひとつの塊に見えてくるほどにそこから、果てしない広がりとして偶然性がまばゆく炸裂する。
『センスの哲学』216頁
私はこの箇所が好きだ。まあ、それは置いておいて、私はグッチさんの論稿の、例えば次の箇所がわからない。本来は段落ごとに一行空いているが読みにくいと思うので詰めて引用する。
たとえば、こんな経験はないだろうか。
私の場合で言えば、ジャン=リュック・ゴダールの映画でもよいし、ウィリアム・フォークナーの小説でもよい、あるいはマイルス・デイヴィスの音楽でもよい。一人の人間が作り上げたとは到底思えぬような、衝撃的な作品に出会ったとき、私は「無力感」に打ちのめされる。
正直なところ、自分が情けなくなる。特に、小説家や映画監督など、「何者かであろう」と志していた時期には、彼らに追いつける気がまったくせず、「なぜ自分にはこのような才能がないのだろう」という感情に陥ってしまうのが常であった。
しかし、数日経つと、同時に次のような感情も抱いていることに気づく。「自分も何かしなければ」「自分も書かなければ」と。実はこの時、私の意識は潜在的に未来に向けて突き動かされているのである。
「「無力」もまた力なり」
これは「無力感」の肯定的な側面の記述の冒頭なのだが、私は正直言うとこの感覚が全然ない。ただ、このような反応はしなくとも、このような反応を呼び起こすものがあることはわかる。それは「そうならざるをえなかったからこそ、「そうでなくてもよかった」という偶然性の表現」たり得ているものである。
しかし、それがなんなのか、私にはよくわからない。それは感性の問題なのではないか、そうしないとつまらないのではないか、とも思う。それを「享楽的なこだわり」(『勉強の哲学』の概念として私は身につけた。)とか、そういうものしても仕方がないのではないか別にセンス至上主義でいきたいわけではなく、ただ単にそう思う。固有名の議論に似ているかもしれない。そうなると色々なところに接続するが、ここで重要なのは入不二哲学における「固有名」の議論かもしれない。あまり知らないので展望を開いたことにとりあえずは満足しよう。(他には東浩紀とか福尾匠とかの議論も想起された。)
・千葉雅也の「閉域」と「分身」
これは最近私が考えているテーマでもあるし、上で書いた「そうならざるをえなかったからこそ、「そうでなくてもよかった」という偶然性の表現」たり得ることについての一つのアンサーでもある。が、正直話が広がりすぎるので今回は置いておこう。
三つ、ぼんぼんぼん、と私が関係があると踏んでいる文章を引用しておこう。特に説明もしないので読み飛ばしても全然良い。
蚊取り線香を焚きながら、蚊帳も吊る。その煙・匂いと半透明の壁に囲まれた領域が、テリトリーになる。夏のただでさえ特別な時間のなかに、さらに特別な閉域をつくる。夏休み、従兄弟たちと泊まって、布団にもぐって遊んだのを思い出す。閉域である夏の、そのなかの閉域で遊ぶ。
『ツイッター哲学』(河出文庫)49頁
建築から内装へ。内部の内部を作ること。複数の。仮設の。様々に区切られた内部の内部。べーコンの画面では、複数の形象が、互いに奇妙な無関心の風情で並立する。無意味に別々であるそれらは、解法なき暗号として、それゆえに、もはや暗号であるのかどうかすら分からない暗号として存在している。おそらくベーコンの無意識には、様々なイメージや言葉が、そうした解法なき暗号として─〈文字通りにそれでしかない〉装飾として──散らばっているのだろう。私たちの個々の無意識もまた、そうなのだろう。そこから意味を汲み取ろうとするのではなく、無意識におけるイメージや言葉を、内装的に、配置の工夫によって"どうにかする"という生の、性の技法が、あるのだろうか。
『意味がない無意味』45頁
この世界を「別の舞台」へ──危機の「否認」を介した上で──分身させること、「まったく同じ世界」を「再」構築するという企ては、このように与えられてしまっている世界を、いったん文字通りのままに享受し、その苦々しい作動を、「法解釈」によって最良のそれへと反転させることである。ドゥルーズによれば、「すべてが理由をもっている」というライプニッツの充足理由律は決して、すべてを支配する「輝かしい」原理ではなかった。むしろ、「原理を増殖させること、そのひとつをいつも袖からとり出して、そうして使用法を変えてしまうこと」が、ライプニッツの流儀なのである。マゾヒズム=ユーモアに徹して言うならば、充足理由律はア・プリオリな原理ではなく、弁護士のア・ポステリオリな道具であるにすぎない。この世界の《大義=理由》の収束など諦め切っているからこそ、私たちはあえて充足理由律を信じるのである。メイヤス(/)ーが主張するように、この世界は純粋たる偶然で始まったのかもしれない。だからこそ、私たちはア・ポステリオリに、世界の様々な局所について、複数の理由を"発明"するのである。思考と行為のアドホックな断面ごとに、シャープに異なる理由を発明するのである。ドゥルーズによれば、「事例が与えられているところに原理を発明する」のである。「すべてが理由をもっている」とは、この世界の細部へのフェティシズムの多様性を、「特定の形態論」の多様性を、弁護するつぶやきなのだ。
『動きすぎてはいけない』(河出文庫)450-451頁
・「特級呪物化」と「特別閉域化」(APEXの領域の縮小と「ピーン」という感じ)
さて、今日はこのテーマまでにしよう。キリもまあ、いいし。
グッチさんの論稿には「特級呪物化」という『呪術廻戦』由来の概念が出てくる。私はほとんど『呪術廻戦』を知らないのでいわゆるescalationだろうと思っている。(この「いわゆる」は誤用である。「いわゆる「いわゆる」について」みたいな文章を書きたい。竹村和子『フェミニズム』(岩波現代文庫)の序文の一節を使って。)レヴィナス的に言えば「誇張」である。(そう言えば千葉も中島から一種の「誇張」の方法を学んだと『現代思想』の「哲学のつくり方」という特集の対談で言っていた。集中力がなくなってきている。)
それと「特別閉域化」というのを対比させてみたい。APEXのチャンピオンが決まる瞬間の感じを利用して。
と言ったが、私はAPEXをしていないので正直よく知らない。霜降り明星のYouTube(霜降りチューブ)で見ただけである。さすがにその動画を探すのは面倒なので詳細までイメージを知りたい人は探してほしい。
ではこの対比でなにを考えようというのだろうか。
うーん………
もう一度該当箇所を読んでこよう。
問題は、こうした無力感が負の側面だけに引っ張られ、呪物化、さらには「特級呪物化」(※『呪術廻戦』の用語)してしまうことである。つまり、ただの感情や観念を超え、解き放つことが極めて困難な強烈な呪縛となってしまうということだ。
「「無力」もまた力なり」
うーん、ここから次のように続く。
一方で、この「無力感」という観念には、じつは肯定的な側面も存在する。
ここでの「観念」についてはまた明日考えることにして、というか、「呪物化」がそもそも「観念」の考え方の転換から生まれる概念であると思うから次の文章を読まなくてはわからないのかもしれない。
ただ、私は疲れているので今日は読まない。よく書いたほうだ。続きは以下である。短くコメントしておこう。
・「観念」(「無力」と「無力感」)
「お得」と「お得感」の関係と「無力」と「無力感」の関係はどのように同じでどのように異なるのだろうか。どのように異なり、どのように同じなのだろうか。
ぼくのいう訂正可能性の哲学は「同一性を探そうぜ」という哲学です。訂正は差異ではなく同一性を作る。だから今までの哲学と、道具立てこそ似ているけど、向いている方向が全く違う。そのせいでほとんど理解されてない(ので今後も理解されるように努力しなければいけない)のだけど。
— 東浩紀 Hiroki Azuma (@hazuma) August 4, 2025
・「赦し」と(「諦め」と)スピノザ的escalation
字数に制約がある。有限性がある。一四〇字という字数に深い意味はありませんが、そう決まっているので、その枠内でできるだけのことをする。「そうするしかない」という諦めを強いられているとも言えるし、「それだけでよい」という許しであるとも言える。毎日ッイートしているうちに、僕の研究では「有限性」が大きなテーマになっていきました。「ツイッター哲学」とは、「有限性の哲学」ということでもあります。
『ツイッター哲学』(河出文庫)8頁
スピノザにならっていえば、この世界のあらゆる「力」とは、そもそもが、この世界という〈神〉の力であり、人間の喜びも悲しみも、〈神〉の喜びであり悲しみである。だからこそ、他の誰かとの比較や競争による負の呪縛からは解放され、自分自身を高めるという自由を得ていたい。できるかぎりは、喜びの方の幅に振れていたい。
「「無力」もまた力なり」
ドゥルーズにおいて実践哲学の主柱をなすのは、スピノザ『エチカ』のニーチェ化された解釈である。『スピノザ──実践の哲学』においてドゥルーズは、道徳(morale)と倫理(éthique)を区別し、後者の優位を主張した。一方で、道徳とは、なすべきこと/なすべきでないことが善悪として超越的に決まっていると見なし、それに従うことである。他方で、倫理とは、「実験」としての生において、自己の活力を増すこと/減らすことが「良い/悪い」と内在的にわかっていくことである。スピノザ=ニーチェ=ドゥルーズは、超越的であると僭称する善悪など、結局のところ特定の政治経済的利害にもとづく歴史的構成でしかないと見切り、そんな束縛から自由になって──『荘子』で言うところの「縣解」である──、ひたすら自己充足をクライテリアとするように勧めている。これは、一見したところエゴイズムにも見えるが、そうではない。自己は、つねに諸々の他者たちと「触発」しあって共同体をなしている。自己そのものもまた、諸部分から、突きつめれば微粒子からなる共同体である。それゆえ、求められるべき自己充足とは、孤立したエゴイズムではないのであって、諸々の他者たちと互いに喜ばしく触しあう共同体を織り成すことなのである。
『意味がない無意味』276頁
私が作った(とされる)あらゆる作品がただの実験ではないということ。それはどういうことなのだろうか。作品が作品化するということ。?
— TGCH(tgch) (@ningenzenbu) August 12, 2025
セルフエンジョイメントは、エゴイズムではない。なぜなら「自分に満足する」としても、この喜びは、自分を、自分とは異なる「元素」たち、つまり他者たちの"まとまり"として観ることであるからである。自分とは、複数の他者が「縮約」された結果=効果(effet)なのである。ドゥルーズは、他者たちを自己よりも先立てる──"他者たちになるほどに、私たちはますます自己になる"。とはいえこのことは、アガンベンの感じた「根本的な音色」の半分でしかない。晩年のドゥルーズの忘れがたさとは、むしろ他者と自己のシーソーゲームを限りなく水平化してしまう、ほとんど多幸症的な口ぶりではなかろうか──"喜ばしく自己になるほどに、私たちはますます他者たちになる"のだ。他者への生成変化と「個体化」「主体化」は、識別できないまでに、縮約されるのである。
『動きすぎてはいけない』(河出文庫)75頁
・「減算」と「加算」(なぜ「転換メカニズム」は「減算/加算」で語られるのか)
・なぜ文学の話や「疎外」の話は必要だったのか(導入ということ)
「一般的には〜」と言うことの難しさ。そしてそれを回避することの難しさ。それらを大きく含めた、難しさ。「導入」の困難。
「疎外」がそれであるための条件。輪に入れないこととそれがそれであるということ。
・「比較」における有限と無限(有限であることと自覚すること)
「比較」の構造と「比較」の不可能性
私の反実仮想的傾向と入不二哲学の「円環モデル」の左右と上下。右半分/左半分と下半分/上半分。
千葉雅也の「無限」は「無際限」と「無限」を組み合わせた概念なのであり、ヤヌス的なのではないか。
急いで書いたので誤字等があるかもしれません。今回はご寛恕ください。では。
