『現実性の極北』における「無」の考察
・はじめに
『現実性の問題』の続編である『現実性の極北』(以下『現極』と表記)が2025年6月11日に刊行された。
読むのが楽しみ過ぎて発売日とその翌日の2日間(どちらも平日)、仕事を休んでしまったほどだ。
その影響?でここ最近の自分のXのポストは『現極』についての内容だらけになっている(苦笑)
そんな『現極』の中で、前々から関心を寄せている「無」の問題について考えたことを一通り手短にまとめようと思う。
そのため『現極』の全体像や他の問題に関心がある人にとっては、あまり面白くない内容かもしれないことを予め断っておく。
また、以下の考察は、最終的に挫折する結果になっている。
つまり、ここでの考察は失敗に終わっている。
「それなら書く必要ないじゃん!」と思われるかもしれないが、1つの記録として留めておくという意味でご理解いただきたい。
・「端的な無」について
『現極』第2章の2節「無への創造(無を志向する創造)」にて、「端的な無(実現・生起の無)」が言及されている。
円環モデルの始発点の問題として、志向されながらも実現不可能なものである「真の始源としての端的な無」により、始発点は螺旋状に落差の反復として決して閉じずに循環する。(『現極』では円環モデル(大円)の円周上にある小円として掲載されている)
また、「端的な無」は始発点だけに収まらず円環モデルのその先へも伝播する。
本節では例として「特異体」が「端的な無」の化体として紹介されている。
このように「端的な無」は、まるで呪縛のように現実性に付き纏い続ける。
以上のことをXでポストしたところ、著者である入不二はXにてその重要性を自身のXにて明記している。

https://note.com/irifuji/n/n8cefffc1d6e0
『現極』の内容全体を、この「端的な無」に焦点を合わせながら読んだ場合、私の(仮)結論としては以下の通りである。
「現実性」は「無」がないと成り立たないし、「無」は「現実性」がないと成り立たない。
「現実性」も「無」も局面が変われば両者とも変容し、純粋段階においては最高度に達する。
言語表現上、円環モデルの左半円、始発点、転回点、そして「現に」という現実性の特徴には「無」が含まざるを得ない。
・「端的な無」とは異なる無
前述のように「端的な無」は「現実性」にどこまでも付き纏う。
しかし、「現実性」に全く関与しない「無」も考えられるのではないか?
「現実性(現実の現実性)」は汎用性があるが、それすらも届くことがない「無」。
つまり、何ものにも関与せず関与されない「無」もあるのではないか?
そうした「無」をとりあえず「大無」と呼ぼう。
(個人的には『現極』での「端的な無」という表現こそが今言及している「無(大無)」 にふさわしいのではないか?と思っているが、無理やり表記を変えると混同する可能性が高いので「大無」と表記することにする)
実は「大無」と名付けたのには理由がある。
『現極』では「大過去性」と「大完了」という2つの「大◯◯」という概念が登場する。
「大過去性」は、時間性における「過去として位置付けられ・認識される以前の存在論的な過去」を表す。時相(アスペクト)の場合では、私は完了/未完了のアスペクトの二分割に、さらに「大完了(未完了へと転化しえない完了)」という概念を導入したが、「大過去性」は、それに対応する時間バージョンである。
これと同類に近いバージョンが「無」にもあると考えた上で「大無」と名付けた。
しかし、「大無」は時間性とは無関係なので「大過去性」の「無」バージョンとは言えない。
一方、「大完了」については、「大無」は何ものにも関与せず関与されないので、ある意味で大完了性があると言える。
そうした点では「大無」は「大完了」と親和性がある。
ただ、「大無」は時間性とは無関係であるにも関わらず、それは『現極』で解説している認識論的な順序と存在論的な順序の優位性の転倒を介してでないと、存在することはできない。
つまり、「大無」が存在することは後からなる(分かる)のだが、そうなることは始めからそうであって、それ以降もそうなることを宿命としている。
言い換えれば、「大無」は後から、先立っていることになる。
(とは言ったものの、「大無」の存在必然性はないとも言える可能性を残している。これについては後述する)
ちなみに『現極』ではそうした場面の典型例を「潜在性の場の産出力」にて解説している。
さて、「大無」にはこういったジレンマが残っている(残り続ける)ことは確かである。
しかし、「大無」は「端的な無」のような真の始源ではない(何ものにも関与しないのだから)。
ということは、時制・時間の継起性も一切無関係である。
(とりあえず、時制・時間の継起性をエポケーすることにしておく)
「現実性」特に「現実の現実性(「現に」という力)」は、無様相、無内包で円環モデル全体を貫通する副詞的な力が働いている。
第2章5節では、現実の現実性をアリストテレスの「不動の動者」にちなんで「現実性は、非創発の創発者である」と言っている。
一方、「大無」は、「非創発」の点は重なるが「創発者」という点は重ならない。
つまり、「大無」は「不動の不動者」「非創発の非創発者」である。
もちろん、現実性それ自体は創発するのでもないし、創発しないのでもない。
(この点は『現極』でもしっかり言及している)
なので、この段階の「創発するのでもない」という点は「大無」と変わらない。
しかし、現実の現実性は「現に」の変転を通じて創発せざるを得ない。
(そうならなくてもいいのにそうなってしまう(しまっている)。でないと入不二自身は何も書くことがなくなってしまうだろう)
一方、「大無」はそういったことは一切起こらない。
そもそも現実性のような「力」自体がない。
・何ものにも創発されず、何ものへも創発しない。
・何ものにも影響されず、何ものへも影響しない(影響を与えない)。
・何ものにも関係せず、何ものへも関係しない(関係をもたない)。
これが「大無」の特徴である。
ここまで「端的な無」とは異なる「無」として「大無」を考えてみた。
しかし、実は入不二は「大無」と限りなく近い「無」を過去の著作で言及している。
それは『現極』では登場しない「未生の無」という概念である。
以下、それについての概略を書いていきたい。
・「未生の無」とは何か?
「未生の無」という概念は『現実性の問題(以下『現問』と表記)』第9章2節(「ない」追跡の道)で言及されている。
個人的に第9章は『現問』の中で最もスリリングな内容で、「ある」の最右翼と「ない」の再左翼の考察を通して、あの有名な形而上学の問い「なぜ無いのではなく存在するのか?」という、その問いかけ自体を退ける。
そして、最終的に「存在と無」については、以下の2つに行き着くと言う。
①:単一体形成的な矛盾関係:「無いかつ存在する」「存在と無の単一体」
②:端的に無関係:「存在と無は端的に無関係」
ここまで、読んだくれた方なら「大無」が②と関連性がありそうだと分かるだろう。
そこで順番は前後するが、まずは②から始めて、その後に①を②と絡めながら話を進めよう。
入不二による②に到達するための「無」の深まりの手順を大雑把に示すと以下になる。
1:可能世界の内部と外部における「無」(ヴァン・インワーゲンの議論をベース)
2:可能世界自体の無
2−1:「無」の深度が異なるペア
2ー2:ペアの時間性への巻き込まれ
上記「2」の範囲で登場するペアは、「未来」と「過去」のペアではなく、「未来」の内に含まれる2つのペアと「過去」のうち含まれる2つのペアであることに最初は注意が必要である。
また、2-2を見ると一目瞭然だが、②「端的な無関係」は時間性が関与している。この点が「大無」との大きな違いである。
各ペアは以下の通りになる。
A:未来という時間性における「無」のペア
・A-a:存在へ転化しうる無(まだ・・ないがいつかはなる(存在する)未来のなさ)
・A-b:存在へと転化しえない無(A-aのような無でさせない未来のなさ)
B:過去という時間性における「無」のペア
・B-a:現在(実現・生起)との相対関係内にある無(もう現前しない過去だが、想起の範囲内の過去のなさ)
・B-b:現在(実現・生起)と絶対的無関係である無(一度も現前したことがない過去のなさ)
これらのペアの考察を経た上で、ようやく本題の「未生の無」が登場する。
「未生の無」は「B-b」に関わるものである。
対照的に「死後の無」という概念が登場するが、それは「A-b」に関わる。
そして入不二は「死後の無」と「未生の無」を以下のように表現する
・死後の無:無として認識されることさえない無
・未生の無:「無として認識さえることさえない無」でさえない無
つまり、未生の無は死後の“無の否定さ”さえも否定するという全てを未成立へ戻す自己抹消の極到である。
最終的に未生の無は「否定」ではなく「無関係的かつ即自的な肯定」になる。
この「無関係的かつ即自的な肯定」という点は、「大無」の特徴とピッタリ重なると言えるだろう。
入不二によると「未性の無(過去のより深い無)」と「死後の無(未来のより深い無)が現在と端的に無関係(時制間の無関係)なことが、時間推移を介して時間全体へと偏在化する。
無関係性自体はあるのだが、時間推移(なる)が加わることは、もはや必然のようである(そうなる必然性はないのだが偶然にもそうなってしまっている)
なぜそうなってしまうのか?
それは先ほどチラっと登場した「①:単一体形成的な矛盾関係」が大きく関わってくる。
単一体形成的な矛盾関係は、最右翼の「存在(ある)」である「無内包の現実(現にある)」の最大の特徴とも言える。
それは、「存在論的に(ある)」かつ「認識論的に(ない)」である(単一体形成的な矛盾を帯びている)
そのため排中律は成り立たない(退かれている)
そして、この最右翼の存在(ある)=無内包の現実(現にある)の作用域の内に、先ほどの未生の無と死後の無(最左翼の無)が働いているというのである。
つまり、たとえ最左翼の無であろうとも、「現に」という現実においての無関係ということになる。
こうして、数々の矛盾関係が無内包の現実性と一体化している点こそ、単一体形成的な矛盾関係と名を相応しいものにしている。
なお、無内包の現実性は非時間的である現実性である。
一方、すでに述べたように②で登場した端的な無関係に該当するもの(未生の無や死後の無)は、時間的である(時間性に巻き込まれてしまう)
この相反する非時間的なものと時間的なものとの無関係性であるが、それを無理やり交じりあわせて出現するのが「この今」という特異点だと入不二は言う。
以上のことを踏まえた上で、再度「大無」なるものは存在するのかについて考えていきたい。
・ジレンマそして挫折
仮に「大無」が「未生の無」と違う特徴があるとすれば、2つ挙げることができると思われる。
1つは、何度も述べているように時性に関する有無である。(大無はあらゆる時性とは一切無関係)
もう1つは、自己抹消性の有無である。
先ほど「大無」の特徴を述べたが、自己抹消性の可能性を消し去るためには加筆が必要だろう。
つまり、「自己自身に(へ)さえも」という言葉を付け加える必要がある。
・何ものにも、そして自己自身にさえも創発されず、何ものへも、そして自己自身へさえも創発しない。
・何ものにも、そして自己自身にさえも影響されず、何ものへも、そして自己自身へさえも影響しない(影響を与えない)。
・何ものにも、そして自己自身にさえも関係せず、何ものへも、そして自己自身へさえも関係しない(関係を持たない)。
注目すべきは、「自己自身に(へ)さえも」 を加えたことにより「大無」自身による矛盾関係が浮かび上がったという点である。
特に3番目の
「何ものにも、そして自己自身にさえも関係せず、何ものへも、そして自己自身へさえも関係しない。」
は顕著であるように思える。
これらの矛盾関係は前述した「無内包の現実性」の特徴である単一体形成的な矛盾関係のようでもあり、それとは違うものも含んだもののように思える。
もしそうであれば、「無内包の現実性」とは別種の最右翼の「ある」もしくは再左翼の「ない」が存在することになるかもしれない。
しかし、ここまで考えた上で仮に「大無」が存在しえたとしても、そこには決定的に挫折を被ることになる特徴を「大無」は持っていたことが判明してまう。
それは
「大無は存在しようがしまいがどちらでも良いということになってしまう」
ということである。
このことは「大無」の特徴を最初に述べた時からそうなる運命だったと言える。
(かなり前の箇所で「大無の存在必然性はないとも言える可能性を残している」と書いたが、まさにそのことをここで言及している)
なぜなら、現実性のような「力」自体もなければ、何ものからも、そして自身からも創造、影響、関係も受けない(持たない)のであれば、それは大無以外のものからしたら存在しようがしまいが何も起きないに等しい。
また、時性を持たないなら尚更そうなる(より強固に存在しようがしまいがどちらでもいい)ことになる。
そして、この「存在しようがしまいがどちらでも良い」ということに、『現極』で登場する「任意性(any-ness)」が深く関わっていることは間違いないと言える。
以上のことから、「大無」というものが存在したとしても、それは現実性と任意性から逃れられないということになる。
そして、時性との無関係性も持ち続けることによってしか存在し得ないだろう。
たとえ、端的な無のような真の始源としての無でないとしても、始発点の現実性と端的な無の落差による反復の循環のどこかの時点で生まれたor循環の全過程で生まる?ものとして存在するのかもしれない。
そしては、それは虚構の存在なのかもしれない。
非時間性を持たないのは「無内包の現実性」、つまり「現実の現実性」だけになるだろう。
いや、イデアも非時間性ではないだろうか?
違うだろう。
イデアは非時間性ではなく汎時間性だ。
果たして「現実性」と決定的に無関係性である「無」は存在するのだろうか?
・おわりに
あまりにも未熟、不十分、不徹底な考察であることは覚悟の上で、今回この記事を書いた。
現時点では挫折状態であるが、今後も長期的に「大無」のことを考えていくつもりである。
それと同時に、『現極』で登場する「端的な無」の方は、生成・創発との相補関係的な面を持つとすれば、「大無」よりかは取り組みやすい問題だと思う。(もちろん決して易しい問題ではない)
『現極』には、様々な興味深い問題とその応答が書かれている。
入不二は難解な用語や表現を用いることはないが、どう問題の核心を掴み、それをどういうアプローチで内へ内へ入り込んでいるのかを臨場感を持って哲学している。
それが自然と感じられるのが入不二の特徴とも言えるだろう。
そんな体験を少しでも味わいたいと思ったら、ぜひこの機会に『現極』を読んでみてはいかがだろうか?
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