『レヴィナス読本』でエクササイズ

『レヴィナス読本』という本がある。この本は大きく分けて四部構成になっている。第Ⅰ部来歴、第Ⅱ部基本概念・基本事項、第Ⅲ部著作解題、第Ⅳ部開かれるレヴィナス。今回は第Ⅱ部からとりあえずいま最も興味がある項目、概念を選んでその箇所を読み、何か考えたいと思う。

では選んでくる。

とは言っても「選ぶ」というのは全体を見せないとよくわからないだろう。しかし全体を写すのは面倒だ。だから中間的な全体を作りたいと思う。一次選考を行うということである。では選んでくる。

女性的なもの
無限、無限の観念

繁殖性
身代わり
傷つきやすさ/可傷性

時間(隔時性)

選んだ。どれにしようか。理由がある程度明確なものは省こう。「女性的なもの」は最近(ポスト構造主義)フェミニズムに興味があるからだろう。省く。「無限、無限の観念」は千葉雅也の「有限化」の哲学において「無限」が矛盾した役割を担っているように見えることに興味があるからだろう。省く。「顔」はさっきルッキズムについての文章(『哲学の問い』13章)を読んだからだろう。省く。「傷つきやすさ/可傷性」は『傷を愛せるか』(ちくま文庫)のあるエッセイ(タイトルは忘れた。)で「ヴァルネラビリティ」という概念を知って、それ以来たまに思い出すからだろう。省く。「時間(隔時性)」は最近、名前は忘れたがレヴィナスの時間論に焦点を当てた本が出たからだろう。省く。

ということで残ったのは「繁殖性」「身代わり」「神」である。まあ、「身代わり」にしようかな。一番理由をつけにくそうだから。では読んでくる。

うーん、難しいなあ。難しかったなあ。

最後の一文はこんな感じだ。

『存在の彼方へ』の第四章のエピグラフに掲げられた「私が私であるとき、私は君である」というツェランの詩句も示すように、こうした自己同一性の破裂において、逆説的に、誰も私の代わりに身代わりになることはできないという私の「唯一性(unicité)」が生まれるのである。
『レヴィナス読本』58頁

よくわからないだろう?しかしまあ、私は結構(ここでの言い方で言えば)「自己同一性」を疑っているというか、疑ってすらいないくらいに実感していないから、ツェランの詩句は「たしかに。今とは違う「私」は「他人」的だもんな。」と思って理解しようとすることができるとは思う。ただ、「他人」と「君」は違うし、そもそも「私」は「君」との対比でしか存在しないのではないか、とか、「今」も同じような仕方でしか存在しないのではないか、とか思うので、それを手がかりにすればわかるのかもしれない。

それにしても「誰も私の代わりに身代わりになることはできないという私の「唯一性(unicité)」が生まれる」というのは極めてヒーロー的な、ヒロイン的な、そんな感じがする。レヴィナスの哲学は良い意味でも悪い意味でも「ヒーローの哲学」だという感じがする。そう解釈されるのは嫌かもしれないが、そういう感じがすることは事実である。

もう一度読もう。ちなみに私が最も「あ、面白そう。」と思ったのは次の箇所である。もう一度読んでもそれが変わらなかったらここを読んで今日は終わりにしたい。

「他者のための一者」において、一者は他者との「関係」の項であると同時に、その自己性がすでに他者を意味しているために、「関係」そのものでもある。「近さ」は一者と他者という二項間の固定された関係ではなく、「ますます近く」という止むことのない運動であり、たえず他なるものの貫入を被り続ける主体は、自己の瀬戸際に追い立てられ、自己の核にまで縮減されて破裂する。
同上、57頁

では読んでくる。

うーん、さっきよりはわかった感じがする。なんとなくの感じを言っておけば、私は「自己同一性」を疑うことすらないくらいに実感していないからそもそも「自己同一性」を打ち立てることが面倒なことで、こう言ってよければ「身代わり」的なことであると考えている。いや、感じている。どうして未来の私のために今の私が何かをしなくてはならないのか、と思っている。簡単に言えば。過去の私に対しても。しかしレヴィナスは「自己同一性」を前提にした上でそのようなことを考えている。より強迫的、倫理的に。そんな感じがする。

だから私は思うわけである。その「自己同一性」へのこだわりはなんなのか?と。「自己同一性の破裂」とか、「たえず他なるものの貫入を被り続ける主体は、自己の瀬戸際に追い立てられ、自己の核にまで縮減されて破裂する」とか、そういうことがわざわざ言われる必要がよくわからない、と。

いや、見方を変えればレヴィナス自身も私のように感じていて、それでも「自己同一性」を求める何かがあると思っていて、それに抗しようとしているのかもしれない。

ここでヒントになるのは次の箇所かもしれない。

レヴィナスにおける身代わりは、極限まで自己を他者に暴露する「他者のための一者(l'un-pour-l'autre)」という形式をもつ。これは「記号(signe)」に典型的にみられる構造である。たとえば「口」は、四本の線が四角く組み合わさったインクの染みにすぎないが、文字記号として捉えた場合、生物が食物を取り入れたり発声するための器官を意味する。このように記号はそれ自体がなにかでありつつも、自分とは別のものを代わりに意味するのである。一つの文字をじっと見つめていると、文字そのものの外観が際立って異様に見え始めることがあるが、そうした日常的な経験からもわかるように、他のものを意味するという記号の役割が最大限に発揮されるのは、記号がそれ自体としては認識されなくなるまでに、自らの自己同一性を喪失するときである。
同上、57頁

すぐ後には「自己でありながら他者を意味するというこうした記号の構造を、レヴィナスは主体性にも認める」(同上、57頁)と言われている。

うーん、なんだかよくわからないんだよなあ。うーん。

別にレヴィナス的なレトリック、「誇張」がよくわからないわけではない。それで言うと「なぜ『誇張』しているのかがわからない」のである。

いや、それも違うか。

うーん………

うーん、「記号」の「構造」が「主体性」の「構造」となり、そして「唯一性」の「構造」になっていくとして、その場合「他のものを意味するという記号の役割が最大限に発揮されるのは、記号がそれ自体としては認識されなくなるまでに、自らの自己同一性を喪失するときである。」というのはなにを示唆するのだろうか。

なんというか、多義的になって一義的になって、一義的になって多義的になって、みたいな、呼吸みたいなリズムがあるとして、「多義的」の極致が「破裂」にあるとすれば、「一義的」の極致はどこにあるのだろうか。「破裂」だろうか。「破裂」は複数起こるわけではないから。そうなのだろうか。

うーん、よくわかんないなあ。ここまでを読んでよくわからなかったら今日は我慢して終わろう。

読んできた。なんとなく整理されていく感じはあったが、それを書くにはまだ時間が必要そうだ。ポイントはおそらく「自己同一性の破裂において、逆説的に、誰も私の代わりに身代わりになることはできないという私の「唯一性(unicité)」が生まれるのである。」の「逆説的に」がどういうことを指しているのかである。

「口」という「四本の線が四角く組み合わさったインクの染みにすぎない」ものが「生物が食物を取り入れたり発声するための器官を意味する」というとき、その「口」に「唯一性」は宿るのだろうか。宿らないのだろうか。宿らないとすればなぜなのだろうか。「意味する」ことが「記号」であることであるとするならば、「身代わり」になるということが「主体」であるということにはならないのだろうか。このアナロジーがアナロジーに過ぎないとするならば、それはどういう要件からそうなのだろうか。

難しいなあ。おそらく、私はここでも見られるハイデガーとレヴィナスという関係がよくわかっていないのだろう。おそらく。困ったことだ。今回は終わろう。

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