「無力」もまた力なり
人は誰しも、生きていく中で、おのれの無力と向き合わざるを得ない時がある。無力とは文字通り、力がないこと、そのさま、のことである。
どのような時に、人はおのれの無力を感じるのだろうか。
たとえば、他者の圧倒的な才能に打ちのめされた時。思い通りに物事が進まない時。戦争や災害といった、自分一人の力ではどうにもならない現実を目の当たりにした時。そして、国家や資本といった巨大な組織の前に立たされた時などがそうではないか。
個の無力というものは、とりわけ文学において格好の題材となってきた。すぐに思い浮かぶのは、カフカの『変身』やカミュの『ペスト』などであろうか。前者では、突如として虫に変わった主人公が社会と家庭から切り離され、身動きのとれない存在として描かれる。後者では、感染症に閉ざされた街で、人々が自然の猛威に抗しきれず、ただその中で生き延びようとする姿が刻まれている。
カフカにおいては、家族でさえもが、他者=自然の驚異としての輪郭を帯びはじめる。『変身』のグレゴールにとって、両親や妹はもはや保護や慰めの存在ではなく、異形となった自分を排除し、拒絶する圧力そのものとなる。それは、身近な関係が突如として不可知で不可避な「外部」に転じる瞬間であり、無力感はそこからいっそう深まっていく。
20世紀の哲学、特にマルクスの「疎外」の概念は、資本主義社会における個の無力感を鋭く捉えている。労働者が自らの労働やその成果から切り離されることで、自己や他者とのつながりを失い、巨大なシステムの中で無力化していく。
カフカの作品にもこの「疎外」が色濃く反映されており、グレゴールの変身は、労働や社会構造の中で個が「モノ」として扱われる現実のメタファーとも言えそうだ。
太宰治の『人間失格』もまた、個の無力を生きることの葛藤として描いている。主人公は自らの居場所を社会の中で見失い、他者との関係性や自らの役割を演じることに生きづらさを感じている。この作品は、そうした生きづらさを抱える人々に強く共鳴する部分を多く含んでいるのではないだろうか。
この無力感、あるいは虚無感というものを、現代的に捉えてみる。
前回私は、「観念」が事物と同様に力を持ち、「はたらき」として現れることで、私たち自身を呪縛する強迫観念となっていることを示してみた。
つまり、観念は単なる思考やイメージではなく、私たちの行動や感情に実質的な力を及ぼし、時に逃れられない拘束となるということである。
現代人が抱く「無力感」もまた、一種の否定的な「観念」の側面として捉えることができる。その観念は、強固な呪物のように私たちを縛り、行動や思考の自由を奪ってしまうのだ。
この否定の観念としての「無力感」は、ものすごく複雑なプロセスにおいて形成されていると思われる。
まず一つは、無力感とは正反対の観念――「何者かであれ」「成功せよ」「自由であれ」といった強迫的な呪物的観念が、社会的・文化的に繰り返し強化されていることである。
メディアや教育、政治的言説において繰り返されるこうした観念が、受け取る側にとって負の受け止め方をされる場合がある。その結果、「自分は何者でもない」「自分では世界を変えられない」「自分は勝ち組になれない」といった無力感が醸成され、個人の自己認識に根付いてしまうのだ。
現代の社会システムは巨大で多層的である。その中で、たとえ「成功しろ」「自由であれ」といった観念が存在していたとしても、それが具体的にどう実現できるのか、その道筋を個人が掴むことは容易ではない。結果として、その観念が遠く手の届かない理想のように感じられ、無力感を増幅させることもあるだろう。
そしてこれらの要因があいまって、観念をより強固なものにしてしまうのが、個々人の「思い込み」であろう。自分と他者を比較したり、あるいは巨大な世界や権力と対峙するなかで、有限な個が無限のものに触れたときに生じるアフェクション――すなわち感情の反応だ。この感情は、自分の力が及ばないという印象を強め、自己肯定感や自己効力感を侵食する。
他者との比較において、私たちが無力感に陥るのは、決して個と個との比較が原因ではない。むしろそのような比較は、嫉妬や優越感といった感情を引き起こすことが多い。問題は、メディアやSNSで他者を垣間見るときに、私たちが「あの人もこの人も・・・」と無数の存在、すなわちN数と比較してしまうことである。
N数とは無限の数を意味する。有限な個が、無限なる他者=世界と比較し対峙すること自体が、そもそも「無力感」という観念を生み出してしまうのだ。
しかし考えてみれば、有限なるものが無限との比較や対峙において無力感に陥るのは、ある意味で当然の反応と言える。つまり、無力感は必ずしも現実的な力の欠如を意味しない。
それは、私たちの心が、おのれの有限性と向き合うときに生じる心理的な反応であり、むしろ私たちの存在の根源的な側面を映し出しているのではないだろうか。こうした身体的反応が、精神の側面でパラレルとなって無力感という観念を生み出しているのだ。
問題は、こうした無力感が負の側面だけに引っ張られ、呪物化、さらには「特級呪物化」(※『呪術廻戦』の用語)してしまうことである。つまり、ただの感情や観念を超え、解き放つことが極めて困難な強烈な呪縛となってしまうということだ。
一方で、この「無力感」という観念には、じつは肯定的な側面も存在する。
たとえば、こんな経験はないだろうか。
私の場合で言えば、ジャン=リュック・ゴダールの映画でもよいし、ウィリアム・フォークナーの小説でもよい、あるいはマイルス・デイヴィスの音楽でもよい。一人の人間が作り上げたとは到底思えぬような、衝撃的な作品に出会ったとき、私は「無力感」に打ちのめされる。
正直なところ、自分が情けなくなる。特に、小説家や映画監督など、「何者かであろう」と志していた時期には、彼らに追いつける気がまったくせず、「なぜ自分にはこのような才能がないのだろう」という感情に陥ってしまうのが常であった。
しかし、数日経つと、同時に次のような感情も抱いていることに気づく。「自分も何かしなければ」「自分も書かなければ」と。実はこの時、私の意識は潜在的に未来に向けて突き動かされているのである。
この時の「無力感」は、入不二哲学にならっていえば、「潜在的な志向性」そのものを宿しているのだ。
そう、「無力」というものは、ここまで見てきたように、否定的な力も肯定的な力も潜在させている。どちらに振れるかは定まっておらず、否定性も肯定性も、そしてそのいずれかになる可能性も内包している。つまり「無力」とは、端的な「無」などでは決してないのである。
そもそも「無力」という言葉自体が曖昧であり、実際にはありえない概念である。なぜなら、「無力」というものは、現実の世界において存在しえないからだ(と私は考えている)。
スピノザの哲学を引き合いに出すまでもなく、私たち人間、個人が存在している時点で、すでにその存在自体に「力」が宿っている。
生きていることそのものが「力」の具体的な表れであり、あらゆる存在において「無‐力」はありえないのである。これは「死」についても同様である。死もまた、「死」という形で生きている者や現実世界に何らかの影響を及ぼし、作用している点で、ある種の「力」を内包しているといえるからだ。
したがって、厳密には「無力」というものは存在しない(と私は考える)。しかし、「無力」という概念や言葉が表象としてある以上、私たちは「無力感」という観念を抱く。この観念は否定的にも肯定的にも転じる幅を持っている。
では、この否定的側面と肯定的側面への転換メカニズムの差異は何だろうか。
「無力感」が否定的な観念に陥る場合、多くは「私」という存在を基準に、「私はあれも持っていない、これも持っていない」と力の減算的な思考がはたらいてしまう。
一方で肯定的な観念に転じる場合も、「私」が基準ではあるが、「無力だからこそ、あれもできる、これもできる」と、加算的な思考が湧いてくるのではないだろうか。
例えば、とんでもなく衝撃的な作品に出会った後に、私に湧き起こる力とはそうした力である。つまり、「無力」であるからこそ、まだまだ学び得る力、俗に言う「伸びしろ」を自覚しうるのではないか。
ただし、これらの思考はいずれも、まだ現実化していない表象段階、すなわち可能領域におけるものである。
「私にはあれもない、これもない」かもしれないし、「私にはあれもできる、これもできる」かもしれない、という状態である。
やがて現実が追いつき、自らの力が査定される時が訪れる。その時、多くはまた「無力感」というゼロ地点に戻ってしまう。人は、この可能領域の振れ幅の中で、否定的感情と肯定的感情を行き来しながら生きているのだといえる。
結局のところ、私たちはこの感情のループを飼い馴らし、少しずつでも前に進むしかない。その際、負のループに陥る「無力感」よりも、勇気づけられる「無力感」をできるだけ育んでいくことが望ましい。
本を読んだり、映画を観たりすることの必要性は、まさにそのためにある。むろんこれは私の趣味嗜好にすぎず、それがスポーツであれ、仕事であれ、何でもよい。ただし、その領域の一流とされるものに触れ続けることが重要と思われる。
一流に触れ続けることで、今の私に「力が無い」ことを、逆に力に変えていく。否定的にも肯定的にもなりうるこの矛盾した観念を、自らのエネルギーに変え、駆動させる。
結果として、私が何者であれ、そのような一流に触れ、同じ時代を共にできている自分を誇ればよい。
そう、たとえ私自身が「無力」であっても、たとえば文学なら、その文学に突き動かされているという私のあり方もまた、その領域に「踏み込む」ことで、すでにその領域に力を与えているのである。
才能や力とは、個にのみ宿るものではなく、他者によって形作られる。そしてその力は、われわれ全体の力であるとも言えるのだ。
スピノザにならっていえば、この世界のあらゆる「力」とは、そもそもが、この世界という〈神〉の力であり、人間の喜びも悲しみも、〈神〉の喜びであり悲しみである。だからこそ、他の誰かとの比較や競争による負の呪縛からは解放され、自分自身を高めるという自由を得ていたい。できるかぎりは、喜びの方の幅に振れていたい。
そのために、私は「無力」を肯定的な力に変えるだろう。
