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呪物化する言葉と社会──スピノザにおける「観念」の力をめぐって

人は、観念に動かされる。

「それが正しいから」「みんながそうしているから」「なんとなく怖いから」――私たちが日常において何気なく下している選択の多くは、実体のある「事・こと」よりも、実体があるかのように信じられた「観念」によって形づくられているといってよい。

いくつかの例を挙げよう。

「お金があれば幸せになれる」「あの人たちは敵だ」「学歴が人生を決める」「運命は神が定めた」「何者かになりたい」――こうした観念は、どれも何らかの具体的経験や社会的模倣に基づいた通念ではあるが、それらはしばしば因果関係を取り違えている。しかし、それでもなお信じられ、模倣され、反復されることで、人々の身体と感情を支配し、〈現実〉を編み上げてしまうのだ。

つまり、観念とは、ただの人間の思考によるものではない。それは、信じられ、共有され、感情と結びついたとき、われわれの現実を組み替えてしまうほどの「力」にさえなってしまう。

しかし、そもそも観念とは一体何だろうか? 哲学史においては伝統的に、観念とは「主観の内部に浮かぶ像」、あるいは「対象を反映した心的表象」として理解されてきた。

デカルトに始まり、ロック、ヒューム、カントに至るまで、「観念(idea)」は通常、外界の対象が心に映し出された二次的な像=再呈示として位置づけられている。この理解において、観念とは「現実そのもの」ではなく、「現実についての認識」であり、それゆえに世界から一歩引いた、受動的な性格を帯びていた。

だが、スピノザにおいてこの構図は根底から覆されている。スピノザにとって観念とは、それ自体が存在する「事物」であり、自然のうちに現れる「力」である。観念は主観の内面ではなく、世界そのものに属しているのである。

スピノザにとって観念とは、「力」としての「はたらき」であり、「産出」であり、思惟(=思考)という自然のうちに現れる〈現実〉そのものなのである。

このことを改めて解き明かした画期的な研究書が、スピノザ研究者である榮福満穂による『スピノザの観念説』(京都大学出版会)である。

スピノザにおける観念には〈事物性〉がある・・・純粋に思惟に属するものでありながら、それが物体的事物とまったく同じ仕方で「事物」として現に存在しているもの、それが「観念」なのである。私たちは、観念という心的なものもまた事物として現に存在している体系を指して、「観念の実在論」と呼ぶのである。

『スピノザの観念説』榮福満穂(京都大学出版会)

榮福の言うこの「観念の実在論」は、むしろ今日の社会にこそ、驚くべき説得力を持って響いてくる。

なぜなら、私たちが日々巻き込まれている貨幣経済、法制度、社会的価値観、差別の構造、さらには迷信的な思い込み、言霊的な思考に至るまで、いずれもが「観念」であると同時に、人間の行為や現実を拘束する「物としての力」を帯びているからである。

スピノザが観念に与えた「事物性」という視点は、こうした現代の呪物化された観念たち、すなわち、フェティッシュとしての社会構造を読み解くための理論装置となりえそうだ。

私たちは、すべての観念を十全に理解しているわけではない。

むしろ多くの場合、観念は断片的で、他者から模倣され、感情にとらわれた「非十全な観念」として現れる。このとき観念は、実体のないものを実体あるものとして崇拝させる「呪物」へと変貌する。

ここで私が「呪物」と名付けるものは、観念が、あたかもそれ自体で力を持っているように感じられ、そこに人が従属していくとき、それはすでに「フェティッシュ(呪物)」になっている、というような意味である。

マルクスが暴き出したように、貨幣とは、観念が物象化(フェティッシュ化)された最も端的な例である。一枚の紙切れが、価値の根拠を奪い、人間の欲望の座を占める──それは、観念が「事物のふりをして支配する」という、呪物的構造の本質をあらわにしている。

もちろんスピノザとマルクスは直接つながっているわけではない。しかし「事物と観念の不可分性」という視座は、商品フェティシズムの議論と構造的に響き合うと私は考える。

この観念は、初めから「呪物」であるわけではない。

観念が呪物となるには、一定のプロセスがあると見るべきだ。スピノザの哲学を手がかりにすれば、それは「非十全な観念」の形成と定着という回路である。

非十全な観念とは、スピノザの定義によれば、それが生じた原因と因果関係において十分に理解されていない観念のことを指す。つまり、自分の身体や他者、世界の出来事がどのような仕組みによって成り立っているのかを知らずに、ただ断片的な感覚や経験、他者の意見を模倣して抱かれた観念である(ただし本稿ではその射程を広げ、社会制度や文化的慣習の中で働く観念も含めて考える)。

こうした観念は、しばしば情動と結びつき、恐れや希望、怒りや愛着といった感情を通して、人間の行為に強い影響を与える。

たとえば、貨幣とは何かについて、その起源、機能、制度的裏付けを知らずに、「お金があれば何でもできる」「お金のある人は偉い」という通念を無批判的に信じたとしよう。このとき、「貨幣」という制度的対象は、もはや経済的交換の媒体ではなく、「人生の意味」「幸福の源」として、人格の内面にまで侵入することであろう。

貨幣は、本来的にはただの社会的記号であるはずなのに、それが人の価値を計る物差しとなり、やがては欲望の対象そのものとなる。観念が、観念としてではなく、物として、力として振る舞いはじめるのである。

ここでこう思う人もいるかもしれない。

非十全な観念、つまり「呪物としての観念」を生み出してしまうのは、迷信や陰謀論のようなものを容易く信じてしまうような、一定の知識や学を欠いた人たち、あるいは、自身の感情をコントロールできず、理性に基づいた判断ができない妄信的な人々こそが、それを拡散しているのではないのか、と。

だが、もしそう考えるならば、私たちはすでに一つの落とし穴に落ちている。なぜなら、そのような考えこそ、人間を「理性的な者」と「非理性的な者」に分け、前者が後者を啓蒙すべきであるという近代的啓蒙主義の残滓にほかならないからだ。

そして、こうした二元論的な思考そのものが、じつは「合理」や「学知」へのフェティッシュ=呪物化された観念を内在させているのだ。

スピノザにとって「理性」とは、個々人の生まれや知識水準とは一切関係がない。「理性」とは、いかに受動的、隷従的な感情から自由であるかどうかにかかわるのである。したがって「理性的である」とは、ある程度の教育を受けたか否かという階層的な問題ではなく、むしろ私たち誰もが陥る「想像」や「情念」による観念の歪みに、どれほど自覚的であるかという問題なのである。

たとえば、自らを理性的に判断していると自負する者が、「人生はお金がすべてではない」と自覚していたとしよう。だが、そうした意識を持っていながらも、日常の行動や選択において、無意識のうちに「お金」という観念に従ってしまう――この「知らずにそうしてしまう」という構造こそが、観念を呪物化させているのだ。

マルクスは商品物神・貨幣物神への「信仰」に関して、「知っていること」と「行っていること」の間にはねじれがあり、何が対象であるにせよ信仰とは、意識と行動の間に亀裂が生じうるということ、意識と行動とが正反対の方向を指すことがありうることを示した。さらにスラヴォイ・ジジェクは、このマルクスの記述に対して、イデオロギー的幻想は、諸個人の意識ではなく、むしろ「行っている」の方に宿るのだと指摘する(参照『〈世界史の哲学〉現代編2―アメリカというなぞ―』大澤真幸)。

重要なのは、観念の呪物化とは、「信じている/いない」という意識レベルの問題だけではないという点である。

むしろ、「信じていないのに行ってしまう」「意味があるとは思っていないが、形式として繰り返してしまう」といった、無意識的な反復や、身体化された慣習のなかにこそ、観念が物象化=フェティッシュ化される構造が深く埋め込まれている。

スピノザ的に言えば、それは「他者に倣ってしまう」「感情に突き動かされてしまう」「原因を知らずに結果だけを模倣する」といった非十全な在り方において強化され、反復され、制度化されていくということだ。

「お金がすべてではない」と理屈のうえで知っているにもかかわらず、「給料の高い仕事こそが良い仕事だ」「自分の価値は年収や地位で測られる」といった行動原理に無自覚に従ってしまうということは、その好例なのである。

あるいは、日本人は全体的に無信仰の国民であるとよく言われるが、毎年神社にお参りして神頼みはするといったような行動も、「他者に倣ってしまう」「原因を知らずに結果だけを模倣する」といったメカニズムにおいて説明できるものではないか。

このように、私たちの意識は「信仰」のようなものから距離を取っているように見えて、実のところ、身体と社会の水準ではすでに観念に従属している。すなわち、呪物化した観念とは、すでに人間の生を条件づけ、行動を編成してしまうような力=実在として機能しているのである。

こうした非十全な観念が駆動しているのは、もはや諸個人の次元にとどまらない。それは、市場、国家、メディア、教育、医療、法制度といった制度的領域に深く埋め込まれている。そこでは、「科学的であること」「客観的であること」「合理的であること」といった理念や記号が、その内実や運用を問われることなく信奉され、事実上の「呪術」として作用しているのだ。

ここで私たちは、スピノザの「観念=事物」という視座が、単なる抽象哲学にとどまらず、現代社会におけるイデオロギー的実践の分析そのものと深く通じていることに気づく。

観念とは、誰かの頭の中にあるだけではない。それは、制度のなかに、貨幣の流通のなかに、儀礼的反復のなかに、すでに現実の一部として「存在している」のである。

 *

このようにして、非十全な観念は、知らぬ間に人間の身体を通じて社会を再生産する呪術的装置となる。フェティッシュとは、信仰ではなく、反復と身体のかたちをとった「観念の力」に他ならない。

われわれの生を動かしているのは、諸個人の内面にある「意識」の次元で働く〈意思〉ではない。むしろ、無自覚に繰り返してしまっている身体的な観念こそが、人間の行動を形づくっている。

スピノザは「並行論」をとる哲学者である。

マルクスは、「知っていること」と「行っていること」の間にある「ねじれ」を指摘したが、スピノザ的に言えば、私たちの無意識としての観念は、知らずに行ってしまうという身体的行動と、しっかりとパラレル(=並行)なのである。しかし、意識下においては、人は自分がそのような観念の只中にあることを、露ほども知らない。だからこそ、「ねじれ」が生じるのだ。

冒頭にみたように、スピノザにとって「観念」と「事物」は別々のものではなく、同一の「モノ」が異なる局面として現れているにすぎないのである。

したがって、観念とは、単なる内面的表象ではなく、事物としての「はたらき」であり「力」そのものとして理解されるべきなのだ。

重要なのは、こうした制度的観念は、ネガティブな側面ばかりを見て、単なる誤謬や迷信として切り捨てられるべきものではないということである。むしろそれらは、人びとが不確かな現実に対処し、安心し、秩序に従属するための支えとして機能しているという側面もありえるということだ。

例えば、日本においては、古くから「モノに霊が宿る」「言葉に力がある」「かたちに意味がある」とされてきた。お守り、しめ縄、折り紙、言霊──それらは、延長と思惟のあいだに境界を引かず、観念と身体を一体の力として捉える日本的感性の現れである。

日本の文化には、観念が社会と身体に作用するという事実が、宗教的・儀礼的・日常的に生きていた。スピノザのいう「観念=事物」という視座は、実はこの文化的直感とも深いところで共鳴しているのではないか。

観念は、人間を惑わせると同時に、人間を守ることもあるのだ。

それによって受動的な感情ではなく、より能動的な感情が生まれるのであれば、それは非十全な観念ではなく、十全な観念と言えるだろう。

ゆえに、「呪物としての観念」それ自体を問い直すこととは、その観念が、「特級呪物」となってしまい、より強固な形で人間に取りついてしまうような事態を避けることであり、同時に、その呪縛から私たちの自由を取り戻すための試みとなるべきなのである。



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