「意味がない無意味──あるいは自明性の過剰」を読み直す/読む/読んでいる/読んでいた
なんとなく、久しぶりに、『意味がない無意味』のはじめの論稿(「意味がない無意味──あるいは自明性の過剰」)を読んでみたい。なぜこんなことになったのか、それはいくらかは知られている。私に。しかし、それはいくらか知られていない。誰かに。
私は、子供の頃からずっと、無意味に惹きつけられてきた。
意味を言おうとする努力が無駄であるような局面があるのだと主張する。無意味であることの権利を擁護する。私は、無意味の側に立つ弁護士であろうとしてきた。おそらくその職務こそが、自分の享楽の核心なのだった。いや、むしろ反対に、ただたんに享楽されるだけのもの、享楽にただ内在しているもの、それこそが無意味なものなのだ。
小学校の五年か六年のときに、架空の人物に手紙を書くというコンクールで賞をもらったととがある。私はシャーロック・ホームズに手紙を書いた。その題は、記憶が確かならば、「現代的犯罪の真相」というものだった。
現代では、動機のない犯罪がよく起きているのです。ホームズさんの天才的推理でも動機を見つけられない犯罪があるのです。なぜなら動機は、ないのですから。なぜなのかを推理しても無駄な犯罪があるのです。ただたんにそれを行った、というだけの犯罪なのです。
そこには、無意味な享楽があるのです──とまでは書かなかったが。
9頁
どれだけ時間をかけてもいい。どれだけ立ち止まってもいい。どれだけ長く引用してもいい。どれだけ長く書いてもいい。
哲学者は子どもの頃からそうなのか。いや、子どもであることを続けられる、しかも「子どもであることを続ける」ではなく「子どもであり続ける」ような、そんな人が哲学者になれるのだろうか。そうであるとするならば、私はたぶん、青年になるのと同時に哲学を始めた。
千葉雅也のものはいくつか読んできた。というか、小説以外はほとんど読んできた。彼は確かに「弁護士」である(博士論文の書籍化である『動きすぎてはいけない』でも最後のあたりで「弁護士」の話をしていたはずである。)が、それは私の感覚とは違う。彼はもっと、スナップショッター(スナップショットを撮る人)である。小泉義之も『ツイッター哲学』(河出文庫)の解説でそのようなことを言っていた。はずである。
子どもの頃の作文は読めたものじゃない。私は作文で結構、いろいろなものを得てきた。が、それを読み返してみると、それは傑作であるようには思えない。いや、そういった経験が一回あって、それ以来不思議な気がする。過去、私が一生懸命書いた、それが面白かったり面白くなかったりすることが。
「とまでは書かなかった」が溜まっていく。それは千葉も私も、そして人間ならたぶん、ほとんどの人がそうだろう。しかし、ちゃんと書き損ねられるのか。私は。そんなことを思う。
私は正直、過去のことをほとんど覚えていない。抑圧だと、否認だと言われるかもしれないが、それだとしても覚えていないのだからどうしようもない。
共感の外部──我々が(また、事物一般が)別々に分離された状態、あるいは無関係について、私は何かを考えている。
10頁
このペースだとどこまでも行けない。そんなことはわかるが、大事な話はどれだけ時間をかけてもいい。そんな話はしていない。
この「無関係」についての思索について、入不二基義がこんな訓言を残している。私は千葉のことを思うたびに入不二のことを思い出し、入不二のことを思うたびに千葉のことを思い出す。別に必然性はない。ただ単に近くにあっただけ。それはそうである。『荘子の哲学』で展開された、荘子のある文章に対するある解釈、名前は忘れた。近接性。ただ単に近接していること、みたいなこと。『荘子の哲学』を書いたのは千葉雅也の師匠(の一人)である中島隆博である。
「無関係を想うことで無関係という関係になってしまうという私たちの無力を想え」
『足の裏に影はあるか?ないか?』42頁
引用の仕方がわからないわけではない。「」付きで引用する必要があるのだ。
ところで、このように書くとまるで、入不二と千葉が同じようなことを考えているように見えるかもしれない。しかし、そうではない。とも言える。私は引き合わせているのだ。「同じようなことを考えているように見える」ところを。なぜ?さあ?「動機」はないからね。作れるけれど。「犯罪」ではないから「動機」は求められていないか。いや、そうだからこそ逆にさらに求められているのかもしれない。
閉じられた部屋。家。秘密。どこかの戦場に点在する、コンクリートでできた半球形のトーチカ。ラップをぐるぐるに巻きつけられて冷凍された肉。
……そのようなイメージは、しかし、当初からあったものではない。私は、無意味と意味がいかなる関係を持つのか/持たないのかをフランス現代思想を通して考えてきた結果、どうやら、そのような閉じられたものとしての無意味に関心を持っているらしいとわかってきた。
『意味がない無意味』10頁
いろいろなものに、いろいろな仕方で触れなくてはならない。触れるのがこわいものにも。例えば私はクリフォード・ブラウンがこわい。
興味や関心も使われる。賦活のために。すべては賦活のために。そんなビジョンがあるような、ないような。私に。
目の前のトマトは「有限に有意味なもの」として現れている。だが、それは同時に「無限に意味が過剰なもの」、つまり「無限に多義的なもの」でもある。そして「無限に多義的」というのは、」我々には思考不可能な状態、意味が"わからない"状態なので、要は、無意味なのである。それは、あらゆる雑音が同時に鳴っているホワイトノイズのような状態だ。
11頁
私は「目の前のトマト」の「目の前に」が限定に見える。つまり、ここで語られていることも有限化の結果として可能になっているのだ。私たちはわざわざちょうどいいあんばいの問題を語るのだ。「私たち」は人間なのか、哲学者なのか、それはわからない。いや、私はこのことに昔から関心があった、とはまだ言えない。覚えていないから。思い出せないから。「思い出は忘れないものよ。思い出せないだけで。」みたいなことを湯婆婆が言っていたが、あれは無意識の領域を示しているのだろうか。それだけなのだろうか。
「ああ見えて子持ちで家建てた努力家」(C.O.S.A.)
私はなぜこういう引用をするんだろうか。簡単に言えばいつも音楽を聴きながらいろいろなことをしているからなのだが、それは本質的なアンサーではないだろう。たぶん。
同じ場所が、同時に穴であり、蓋でもある。意味を発生させる何かが、意味を遮断する何かにすり替わる。意味を遮断する何かが、意味を発生させる何かにすり替わる。我々の日常ではそうしたすり替わりが起きているのかもしれない……おそらくは偶然的に。
12頁
この「すり替わり」が、「起きている」。そしてそれに気がつくことはできても、それをどうすることもできない。「偶然」。こういう、冗長さに「ボリューム」(©️『センスの哲学』)は宿る。人生は担保されている。
充電がなくなってきた。本を読みながら充電はできない。ある事情で。しかし充電はしなければならない。
「CoolでStrong」(C.O.S.A.)
誰でも言ってそうなことが何度も言われる。当たり前だが。類似、いやもはや同一と差異。類似と同一に隙間を開ける。隙間を開ける、というのは入不二のスタイル、の少なくともある面、局面。
メモせずに読む。ことにする。とりあえず。
21頁まで、第4節の前まで読んだ。お腹が空いた。ご飯食べよう。「多義性」と「任意性」(©️『現実性の極北』)の違いを考えなくてはならないと思った。「現実」と「現実界」の違いという東浩紀の区別(と千葉が言っているもの)も入不二との関係で着目したい。(『現実性の極北』は入不二が書いた本である。)
ご飯を食べたら頑張って読もう。好きな箇所を一つだけ引用しておこう。
ここでの「身体」という言葉は、広い意味で受け取ってもらいたい。英語のbodyには広い意味がある。最初にイメージされるのは、人間や動物の「からだ」だろう。だがbodyは、「物体」「物質」でもある──自転車や火星や素粒子のような。また、ある学校の学生全員といった「集まり」を意味することもある。さらに私は、空想のイメージや、絵画に描かれた「形態」を、何であれ(/)bodyであると捉える(どんなに抽象的な形態でもbodyである)。音楽においても、メロディーはbodyであり、反復されるリズムもbodyである。
13-14頁
では、お昼ご飯を食べます。
呂布カルマというラッパーの『CALM DOWN』という曲に「踊りながら歌うのはもうやめなよ」という歌詞がある。そして、宅録ラッパーBSTという人がそれをリアクションしている動画がある。そのことをなんとなく思い出して、私はご飯を食べることをし、本を読むことをし、爪を切ることをし、本を読むことをし、洗い物をした。かたまったお米をふやかすために水を溜めた茶碗はまだ残っているが。
読み終えた。一応。一応。
なにを書こうか。書けることはいくつかあるのだが、とりあえず『眼がスクリーンになるとき』(河出文庫)の「補遺 ドゥルーズの「減算と縮約」(239-251頁)を読もう。ある程度知っている人なら「書けること」の一つ、もしくはいくつかに見当はついたのではないだろうか。
忘れそうなのでもう一つだけキーワードを。否定神学的なXに任意のものを代入することが可能であるということ。「裸」であることと「身体(=形態)」があること。二つになってしまった。これは千葉雅也と入不二基義の話である。
読んだ。よくわかんなかった。にこにこ。
もう一度読もうかな。今度は寝転んで。
なるほど。さっきよりはわかった。大事なところを引用しておこう。
ドゥルーズが≪イメージ=運動≫を「流れ-物質」と、そして「普遍的=宇宙的変動」とパラフレーズしていたことを思い出そう。これは『物質と記憶』における「イメージ」と『創造的進化』における「持続する宇宙」の短絡によって導き出された。そしてこの短絡は「見たまま(リテラル)」というレベルを根底的なものとすることによって端を発している。見たままの(リテラルな)イメージ、「隠喩なしの十全なイメージ」。ドゥルーズは、"縮約だけでなく引き算をも議論の埒外に置くことができる"と考えているのだろうか。
『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』(河出文庫)247頁
ここである。あと、これを理解するために、つまり端的に言えば、入不二基義と千葉雅也に福尾匠を参入させるために次のことも確認しておく必要がある。
われわれがまさにベルクソン的な「常識」として見たように、彼のイメージ論あるいは知覚論は「われわれにとって(pour nous)」と「それ自体において(en soi)」を分離することなく連続的なものとして考えることを可能にしていた。われわれは、物質からこうむる作用のうち関心を引かないものをたんに「引き算=減算(soustraction)」しているのであり、物質それ自体と知覚のあいだには「より多い/より少ない」の関係だけがある。その引き算自体がわれわれである限りにおいて、われわれ(/)はやはり物質の表面に滑り込んでいる。
同上、240-241頁
ついでに千葉雅也の「大事なところ」も引用しておこう。
身体によって、無限の多義性からの「減算」が起こり、意味が有限化される。
『意味がない無意味』22頁
ここには注(8)がついていて、このように書かれている。
(8) この「減算」概念については、カンタン・メイヤスー「減算と縮約──ドゥルーズ、内在、『物質と記憶』」岡嶋隆佑訳、カンタン・メイヤスー『亡霊のジレンマ──思弁的唯物論の展開』岡嶋隆佑・熊谷謙介・黒木萬代・神保夏子訳、青土社、二〇一八年。
38頁
ここで挙げられている「減算と縮約」を読んでいるのが「補遺 ドゥルーズの「減算と縮約」である。もちろんそれはドゥルーズの『シネマ』を読むためになされている。それはそうなのだが、私はとりあえず『動きすぎてはいけない』(河出文庫)の150-159頁を読みたい。それは次のように書かれているからである。傍注46。
46 ドゥルーズの『シネマ』以外の著作、とりわけ『差異と反復』および『哲学とは何か』において「縮約」は重要な概念である。これについては千葉雅也『動きすぎてはいけない』(一五〇-一五九頁)および小倉拓也「ジル・ドゥルーズの哲学における意味と感覚の理論についての人間学的研究」(第一章、第八章)を参照。
『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』(河出文庫) 245頁
小倉のものを読む用意はいまないので『動きすぎてはいけない』を読む。その前に一旦休憩しよう。正直いまからするのは「縮約」の軽い勉強であり、「ドゥルーズは、"縮約だけでなく引き算をも議論の埒外に置くことができる"と考えているのだろうか。」の「をも」がなんであるかを理解するためにそれはなされる。予定である。ちなみに現時点での感じとしては入不二の「減算」(書いてなかったと思うが、入不二も「減算」をキーワードとしている。ベルクソンやドゥルーズ、メイヤスーや千葉雅也のルートではないルートで。)と千葉雅也の「減算」の解釈を福尾匠の力を借りて対比させてみたい、という感じがある。上で任意性について、「裸」や「身体(=形態)」について言ったことはそこからある程度進めば出てくる話題である。たぶん。
とりあえず休憩させてもらおう。
お茶碗を洗った。するっと洗えた。
いろいろなものが到来する。それらにできるかぎり応対(≒歓待≒対応)するためにとりあえずこの箇所(150-159頁)を読むことで得られる「縮約」のポイントを端的に言い表した箇所を引用しよう。到来が多すぎて、私はショートしそうである。さっさと引用しよう。
先の「チック・タック」の例のごとく、要素をくっつけ、総合すること(単音の列からメロディが生じるように)が、ベルクソンにおいて縮約である。これをドゥルーズは、ヒューム的な習慣形成に等しいと考えている。ドゥルーズの言説は、いわば、"ベルクソン的な縮約とヒューム的な習慣を縮約している"ことになる。
『動きすぎてはいけない』(河出文庫)152頁
この「と」において、「ベルクソン的な縮約」と「ヒューム的な習慣」はそれぞれ強調され、よりラディカルなものになっていく。そのポイントはその「ドゥルーズの言説」が「習慣化=縮約」として概念化されている(「習慣」に「化」が付けられることで「縮約」を二重化している。逆に言えば「習慣」は「縮約化=習慣」というふうに二重化されていない。もちろんこれは言いがかりであると言えばそうだが、別に悪い言いがかりではないだろう。)こと、そしてそれを「ドゥルーズは「観想」と言い換えている。」(同上、153頁)らしいことである。
さまざまなものが去来している。一旦落ち着くために引用をしよう。落ち着こう。落ち着くことに落ち着こう。
不思議なことに、引き算モデルの構築を始めたあとのメイヤスーはドゥルーズとまったく異なる道筋をたどりながら、カオスへの晒されと内への閉じこもりという「ふたつの死」とそのあいだで「思考すること」というほとんど同一のモチーフに直面して論文を閉じている。内在と思考の致死的な関係。次章でわれわれが見るのはこの関係を生き延びるための根拠だ。
『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』250頁
「次章」に私たちは行かない。私は休む。休む。
久しぶりに息があがっている。本を読んで。
左手の甲に小さなぶつぶつ、つぶつぶ、小さな水膨れみたいなものがある。あんまり気にしたことがなかった(たまにできることがあるが気にしたことがあまりなかった)が、これはなんなのだろう。コーヒーを飲もう。
お腹が空いてきた。ご飯食べたのに。
手が気になる。気にしたことがなかったからいつもよりもひどいのかがわからない。まあ、わかっても別に、意味はないけれど。
落ち着いてきた。引用だけをしよう。とりあえずそういう方針にしよう。アルバムも変えよう。ここまでずっと、イヤホンを外しているとき以外は『Somewhere』というアルバムを聴いていたがこれからは『なかいま』というアルバムを聴く。
『動きすぎてはいけない』の「序──切断論」の最後のあたりから。
セルフエンジョイメントは、エゴイズムではない。なぜなら「自分に満足する」としても、この喜びは、自分を、自分とは異なる「元素」たち、つまり他者たちの"まとまり"として観ることであるからである。自分とは、複数の他者が「縮約」された結果=効果(effer)なのである。ドゥルーズは、他者たちを自己よりも先立てる──"他者たちになるほどに、私たちはますます自己になる"。とはいえこのことは、アガンベンの感じた「根本的な音色」の半分でしかない。晩年のドゥルーズの忘れがたさとは、むしろ他者と自己のシーソーゲームを限りなく水平化してしまう、ほとんど多幸症的な口ぶりではなかろうか──"喜ばしく自己になるほどに、私たちはますます他者たちになる"のだ。他者への生成変化と「個体化」「主体化」は、識別できないまでに、縮約されるのである。
『動きすぎてはいけない』(河出文庫)75頁
私はこの「セルフエンジョイメント」の感覚がなんとなく、そしてよくわかる。
生成変化論のレトリックでは、なぜ、具体的な名辞を残しているのか?
それは、生成変化するプロセスの"具体的な複数性"を肯定するためである。一方で、諸々の生成変化は、実はすべて、知覚しえぬものへの生成変化なのであった。しかしこのことは、究極の=単一の知覚しえぬもの、まったく区別のない万物斉同としてのX(大文字の)へと、収斂すること"ではない"。諸々の生成変化において、諸々の名辞は、(/)匿名化=脱規定化されるにしても、それらの複数性は失われないのである。これは、次のように説明できる。「女性」「犬」「ネズミ」は、匿名化によって単一のXに収斂されるのではなく、x、y、z……へというふうに、"別々に匿名化される"。
『動きすぎてはいけない』(河出文庫)84-85頁
次は入不二から。
少し長い引用になってしまった。まあ、いい。
大人の言う「会う可能性がある離別と、会う可能性がない死別とは異なる」にしても、子どもの言う「離別も死別も、会う可能性はいくらでもある(考えられる)から、両者はその点でも同じ」にしても、同様の区別・区分に依拠している。大人と子どもが共有している区別・区分の一つは、「会う/会わない」や「可能性のある/ない」という「肯定/否定」の区別・区分であり、もう一つは、「飛(/)行機で会いに行く/幽霊列車で会いに行く」を一例とする「可能性の記述A/記述Bの(さらにはA・B・C・D……どうしの)」区別である。右半円(可能性の領域)は、この二種類の区別・区分──肯定/否定と、諸記述A・B・C・D……による区別・区分──によって構成されている。
しかし、潜在性の場では、どちらの区別・区分も潜在したままである。それらの差異は潰れて一つに重なって、ベタの内に塗り込められる。ちょうど、諸々の特定有限色の区別・区分が、潜在無限色(黒や白)の内に沈み込んでしまっているのと同様に。
ということは、大人に対する子どもの反論(離別と死別の峻別に対しての対抗)は、潜在性の場に依拠するならば、次のように修正されなければならない。修正ポイントは、「否定(的事実)」と「可能性」に依拠していた元々の反論が、「潜在(性)」に依拠した別の反論へと変わるという点にある。
たしかに、子どもの初発の主張は、「否定(的事実)」に基づいているように見えた。離別であれ死別であれ、「現に会って"いない"」という現実には何の違いもないという点に、子どもは注目していたからである。
しかし、子どもの「現に会って"いない"」は、たとえ「ない」という否定形を含んではいても、「否定(的事実)」を表しているのではない。その否定形は、「現に会って"いない"」に含まれる潜在態──"現に潜在している肯定"──を表しているし、そうでなければならない。「会って"いない"」という潜在態(肯定)とは何だろうか? 表面上の「否定」が、ほんとうは「潜在的な肯定」であるという点を考える必要がある。
潜在性の場であるから、「現に会って"いない"」という否定は、「会う/会わない」の「スラッシュ(区別・区分)そのものへの否定として考えるべきなのである。つまり、「会う」でもなく、「会わな(/)い」でもない、という両否定(区別・区分のキャンセル)であり、区別・区分がキャンセルされることによって、元々の区別・区分が一つに潰れて(会うと会わないは重なり合い)、区別・区分を可能性のまま共に内包した潜在的な肯定になる。子どもの「現に会って"いない"」ことの強調は、「会う/会わない」の区別・区分自体が立ち上がっていない現実、それ以前の肯定的な現実を、表そうとしている(と考えるべきである)。
ということは、子どもが(大人に対して)言いたかったのは、離別と死別をいったんは区別・区分したうえで、それでも両者は、「会っていない」という否定的事実においては同じである、という主張【区別のある同一性】ではない。そうではなくて、離別と死別は、現実的肯定性においては、すなわち現に働いている潜在性においては、そもそも"区別(区分)自体が"現実的には「無い」ということだったのである。
それでもなお、離別と死別を「峻別したい(するべき)」という側の力が持ち込まれ続けるとすれば」(持ち込まれ続けるだろうが)、その力は、野生の「現実(性)」からではなく、(現実性の)飼い慣らしの必要(否定や記述による区別・区分)から生じる。野生の現実(性)の「強さ」ではなくて、飼い慣らされた現実の「弱さ」こそが、「離別と死別」の、さらには「生と死」の峻別(への傾き)をもたらしている。「弱められてしまった」現実こそが、生と死、離別と死別の峻別を欲しているのである。(/)
エピソードの子どもの眼目は、「強い」現実(性)の観点を、大人の側から奪還する(守る)ことであった。それにもかかわらず、エピソードの子どもは、大人側の「可能性」の観点に絡め取られてしまったがゆえに、当初の「現実(性)」の強さを維持し損なった。この点に、問題が含まれていたのである。要するに、子どもも大人になってしまう。これが、前著『現実性の問題』の全体の考察を踏まえて、振り返ったときの「伏線回収」である。以上の「伏線回収」は、老人になった「私」が、子ども時代の「私」に向けて/について語っている話のようなものだと受け取っていただきたい。大人の世界観に着地せず、もっともっと遠ざかれ! 現実性の力に乗って。
『現実性の極北』59-62頁
「子ども」とか「大人」とか、「老人」とかはまあ、とりあえず無視してもらって、もしくは無視しにくい人はそれぞれの段階につけられた名前であると考えてもらって、事柄自体を考えてほしい。ちなみにこの「無視」ができるのか、みたいな話を千葉はしているとも言える。ちなみに「表面上の「否定」が、ほんとうは「潜在的な肯定」であるという点を考える必要がある。」というところに注(1)がついていて、そこには以下のように書かれている。
(1) もちろん、「会っていない」という否定が、そのままで「会う(会っている)」という肯定とイコールであるなどと言っているのではない。また、「会っていない」際に実はやっているはずの何らかの行為──食事をする・読書をする・寝る……等々──を、裏側の肯定として表していると言いたいのでもない。その種の「肯定」はすべて、可能性の領域内で働く「顕在的な肯定」にすぎないので、ここ(潜在性の場)では的外れである。
『現実性の極北』61頁
さて、『意味がない無意味』に帰ってみよう。
『動きすぎてはいけない』以来、次第にはっきりしてきたのは、私は、ドゥルーズにおいて必ずしも明確でなかった現実性の本質に考察を集中させているということだ。ドゥルーズは主著『差異と反復』で、「潜在的なものの現実化」を論じた。そこでは、潜在性にプライオリティがあった──実在的なのは潜在性であり、現実性はそこから派生する次元である。これに対して、私は逆に、現実性の側に"もうひとつの原理性"を認められないかと考えるようになった。
現実的つまり行為的な世界が生じるには、潜在性の他者が必要ではないのか。絶対的な他者としての現実性が。身体の存在理由は、潜在性のうちにはない。身体の発生は、潜在的に準備されているのではない。身体は外部から発生する。おそらくは無から。いやむしろ無とは、具体的な諸身体はそのものではないのか──というトートロジー<中略>。
ドゥルーズの構図を反転させる。ドゥルーズにおいては、潜在性の肯定が存在論の極致であり、潜在性のプライオリティの下で、潜在性と現実性の相関が成り立っている。私はそれとは反対に、現実へと向かう。存在論のもうひとつの極致としての現実。ただたんなる現実、そうであるからそうだ、ということ。そのようにトートロジーとして言われるしかない状態が、潜在性の干上がり、「ポテンシャルレス」の状態である。
ドゥルーズにおける潜在性と現実性という対は、アリストテレスの「デュナミス」(可能態)と「エネルゲイア」(現実態)につながる。私の問いは、エネルゲイア、現実態の方に向けられている。あるいは、完全に可能態が現実化された状態、「エンテレケイア」(完全現実態。さらに言えば、(/)現実態の極致、もはやデュナミス、可能態に依存しない状態について私は考えている──「純粋現実態」である(それがトマス・アクィナスにおいては「神」だった)。ポテンシャルレスな現実態、すなわち純粋現実態。<意味がない無意味>としての身体=形態とはそれである。純粋現実態とは、有限な存在=行為する存在である。
ただたんなる現実、そうであるからそうだ、というトートロジーの閉城。意味がなく無意味な二度塗り。トートロジーが真なのは自明だが、まさにその自明性が、存在するということの過剰さ、存在の盛り上がりなのだとしたら。自明性の過剰、意味がなく無意味な分身の存在。
私はこれまで、分身のことばかり書いてきた。
ただたんに、もうひとりの誰かがいる、ということを。その驚きを。
『意味がない無意味』36-37頁
まだまだ引用の連鎖は思いつくが、少しだけ私が書こう。テーマは「匂い」について、である。流れを汲めば「分身」について、である。そして世の中、いや、私が暮らしているところで使われている洗剤(センザイ!)が有限であることについて、である。ひとまずトイレに行かせてもらおう。
ちょうど一周しそう。アルバムが。
この文章のタイトルを決めた。「「意味がない無意味──あるいは自明性の過剰」を読み直す/読む/読んでいる/読んでいた」にしよう。
さて、トイレが終わったので話を始めよう。
話を振られると緊張するなあ。
匂い。街中で突然、誰かの匂いがすることがある。その誰かを思い出そうとすると同時に私はその人を目で追う。しかし、その人は(おそらく)知らない人であり、思い出されていた誰かが誰なのか分からず、分からないまま、それが終わる。そしてそれが忘れられる。何度も忘却を繰り返したあと、私は突然思った。「ああ、この世には有限個の洗剤しかないのだ。」と。そして、このようなことをこのように書いたとき私は思った。「ああ、私は洗剤の名前をほとんど知らない。」と。そして私は思った。「私はどんな匂いをしているのか、それすら知らない。」と。
美しいものを買うのではなく買われた何かを美しいものであることにする。
一つ前の段落は無視してください。
二つ前の段落も?
なんかひと段落してしまったなあ。
ああ、とりあえず次の箇所を引用して責務は終えたことにしよう。また、未来の私にこれを読んでもらおう。頼みますよー。
と思ったが、いろいろ問題があったので次の入不二先生のnoteを読んでください。「否定神学的なXに任意のものを代入することが可能であるということ。「裸」であることと「身体(=形態)」があること。」に関係があるnoteです。
https://note.com/irifuji/n/n259f34fb00cd?sub_rt=share_pw
一旦休憩。もう終わりである可能性がある休憩。
かわいそう(というのは正しい感情かはわからないが、とりあえずそう思っておこう)なのでポイントになりそうなところを引用しておこう。やっと「減算」に帰ってきた。六つの塊すべて引用である。
「この私」が「任意の(誰でもよい)私」でもあることは、「転落」や「読み換え」や「変質」といった、「距離(隙間)」のある関係なのではなくて、表裏一体の分離不可能な関係である。 「この私」が「任意の(誰でもよい)私」でもなければならない、のである。両者のあいだに「距離(隙間)」はない、のでなければならない。
そうでないと、「この私」は「かけがえのない特定の人物」のことになってしまい、特異性ではなく、固有名的な固有性(かけがえのなさ、唯一無二性)へと「転落」してしまう。かけがえのなさ、唯一無二性は、特異性ではない。
「転落」は、「特異かつ任意」→「特定」で生じているのであって、「特異」→「特定」で生じているのではない。
固有性(かけがえのなさ)/特異性(これ性)の違いを、着せ替え可能性/脱がせ可能性の違いでアナロジカルに使って考えるやり方は、なかなかうまく行っていると思うのですが、どうでしょう。
この文章(第2章最後部への修正置き換え文)の内容は、第6章「<>についての減算的解釈──独在性から現実性へ」とも呼応しています。
「これ性 特異性/any-ness任意性」の表裏一体性を、「<私>/≪私≫/「私」」の階差のようには考えないという点が、「減算的解釈」に相当します。
そろそろ終わります。次の予定もありますから。「減算的解釈」と「減算」は違うと言えば違います。というか、そうやって誤魔化せないくらい違うとも言えます。なので雑だったかもしれません。連想が。
「匂い」は「服」だけからするわけではないでしょう。「分身」は「服」を着ているのでしょうか。「分身」は「裸」ではないのでしょうか。「分身」が増えてくると、本体はどうなっていくのでしょうか。「身体=形態」がなければ、「匂い」の集まりは「本体」である誰かの「匂い」として、つまり「誰々さんの匂い」になっていくのでしょうか。では、「誰々さん」が忘れられるとしたら?思い出せないとしたら?いや、忘れたいのだとしたら?思い出したくないのだとしたら?そもそも、洗剤と「匂い」がくっつけば、こんな話はしなくてもいいのかもしれません。
片付けて、次の予定に向かおう。楽しかった。
