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エルサレム会議の決定──この決定は十戒への導線だった/偶像に供えて汚れた物・血・絞め殺したもの・不品行


およそ2000年前──
日本人にも重要な決定が、エルサレム会議でされました。


異邦人は、
偶像に供えて汚れた物・血・絞め殺したもの・不品行」の四つを避ければ、百以上の規定からなるモーセ律法を守らなくてもよい──

この決定には、エルサレム教会のリーダーであったヤコブの思慮深い知恵と愛ある戦略がありました。

📌この記事では──
なぜこれらの四つなのか、ヤコブの知恵と愛について考察します。



1|エルサレム会議の決定


次の一節は、エルサレム会議の決定事項を文書にしたものです。

【使徒行伝 15章28-29節】
すなわち、聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた。

それは、
偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである

これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい

以上。


エルサレム会議の決定の経緯

イエスの昇天後、異邦人に福音が広がる中で、モーセ律法を守るべきかが問題となりました。
このために開かれたのが、エルサレム会議です。

会議の中で、元パリサイ派のユダヤ人たちは「異邦人にもモーセ律法を守らせるべき」と主張しました。

このことで、使徒や長老たちが集まり激しい論争になりました。

使徒ペテロは「わたしたちユダヤ人でさえ守れなかった律法を、異邦人に負わせるべきでない」と主張し、パウロらは異邦人宣教が神のわざであることを説明しました。

そして、エルサレム教会のリーダーであったヤコブは、次のとおり発言したのです。

【使徒行伝 15章19-21節】
そこで、わたしの意見では、異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらい●●●●をかけてはいけない

ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい


古い時代から、どの町にもモーセの律法を宣べ伝える者がいて、安息日●●●ごとにそれを諸会堂で朗読するならわしであるから
」。


ヤコブは、異邦人に対するモーセ律法の扱いについて、「偶像に供えて汚れた物・不品行・絞め殺したもの・血」の四つを挙げ、これらを避ければ良しとすることを提案しました。

そして、昔からどの町でもモーセ律法が伝えられ、安息日ごとに会堂で朗読される習わしがあることから、安息日その他については特に言及しない、としたのです。

会議は、このヤコブの提案を受け入れ、異邦人はモーセ律法全体を守る必要はなく、四つの項目を避けていれば良しと決定したのです。

ところで──
唐突に現れたこれら四つの項目は、どこから来たのでしょうか。


2|四つはモーセ律法の厳選ではない


元々の議題は、モーセ律法をどうするかでした。
会議の中で、元パリサイ派たちは「異邦人にも守らせるべき」と主張し、ペテロは「異邦人に負わせるべきでない」と主張しました。

ヤコブは、双方の妥協点として、百以上の規定からなるモーセ律法をたったの四つに絞り込んだのでしょうか。


モーセ律法の厳選と言うには、無理がある

モーセ律法のうち食物規定については、この会議よりも前にペテロの夢の中にイエスが現れ、ユダヤ人が忌避していた食物であっても、異邦人のように何でも食べてよいことが示されていました(使徒10章9-16節)。

しかし、今回のこの議題(モーセ律法全体)については、イエスの助言はありません。

神から受けた律法を、人の判断で「これだけでよい」とするのは、不自然で無理があります。
また、モーセ律法自体がもはや守る必要がないのなら、四つですら残す必要はないのです。

つまり、
モーセ律法が異邦人にも普遍的かどうかという議論においては「ゼロか百か」であるはずで、人の判断で部分的に「モーセ律法から厳選」という発想自体がおかしいのです。


3|ヤコブの知恵


四つの忌避の発想には、ヤコブの念頭に十戒があったと考えられます。

ヤコブは、異邦人にも神の価値観(父の御旨)である十戒を浸透させたい思いがあったはずです。しかしながら、せっかく神に帰依している人──イエスの証しを信じている人たちに、わずらいをかけたくない思いもありました。

そして、前述のとおり、どの町でも安息日の風習が定着していることから、第四戒(安息日を覚えよ)については、特に言及しないことにしたうえで、神の価値観を四つに表したのです。


四つの忌避と十戒との対応

四つの忌避をよく見れば、以下のように、十戒への導線●●になっていることが分かります。

① 偶像に供えて汚れた物を避けること
これは第二戒(偶像崇拝するな)を想起させます。また、供え物とは礼拝そのものに関わるため、それを避けるという思いは、必然的に第一戒(真の神への専心)を意識させます。

② 不品行を避けること
これは第七戒(姦淫するな)に直結する、きわめて明白な道徳的な要求です。

③ 絞め殺したものを避けること
血抜きされていない屠畜を禁じる伝統は、命を粗末に扱わないという姿勢を求めるものであり、第六戒(殺すな)が示す「命の尊厳を守る」精神につながります。

④ 血を避けること
「血は命である」という理解は、命の源泉が神であることに基づいています(創世9章4-6節)。したがって、流血を避けることは第六戒の命の尊重に加え、命を与える第一戒の神を想起させます。


隣人愛に関する十戒の戒め

ヤコブは、安息日について──風習として定着しているため──特に言及しない方針を取りました。
同様の理由で、第五戒(父母を敬え)、第八戒(盗むな)、第九戒(偽証するな)、第十戒(むさぼるな)については、人間関係に関するもので、すでに良心によって知られているため、あえて言及する必要がないと判断したと考えられます。

このことは、パウロも次のとおり述べています。

【ローマ人への手紙 2章14-15節】
すなわち、
律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。

彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをし
て、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。


人間関係に関する戒め(隣人愛)は、「良心」に刻まれています。

現代のわたしたちも、聖書の戒めなどを知らないはずの人々が、知らないまま神の戒め(第五戒から第十戒)を守っているのを目にします。

当時のユダヤ周辺にあった異邦人社会においても、これらの戒めを──聖書の神の価値観とは知らずとも──守っていたはずです。


言及すべきと判断した戒め

ただ、異邦人社会によっては──現代においても──隣人愛が軽んじられる場面があります。
そのためヤコブは、特に第六戒(殺すな)と第七戒(姦淫するな)については、言及すべきと判断したのでしょう。


ヤコブの知恵は十戒への導線

以上のことから、次のとおり整理できます。

① 四つの忌避
 第一戒
(ほかの神々を持たない)
 第二戒(偶像を造らない)
 第六戒(人を殺さない)
 第七戒(姦淫しない)

② 安息日の風習
 第四戒
(安息日を覚えよ)

③ 良心からの隣人愛
 第五戒
(父と母を敬え)
 第八戒(盗まない)
 第九戒(偽りの証言をしない)
 第十戒(欲しがらない)

また、第三戒(神の名をむなしく担わない)についても、直接的な言及はありませんでしたが、その理由としては以下の点が考えられます。

  • 四つの忌避を心に留めるなら、自然と神の名をむなしくしない姿勢になる

  • ユダヤ教的な誤解(神の名をいっさい●●●●唱えるな)を避けた

  • 初代教会は「唱えるな」ではなく「呼び求めよ」に転換していた(使徒2章21節ローマ10章13節


4|ヤコブの知恵による戦略


ヤコブの四つの忌避は、ことさら十戒を前面に出さず、あたかも異邦人に気づかれないように(抵抗感を与えないように)、神の価値観の拡大を図ったようにも思えます。

四つの忌避を見て、すぐに十戒が根底にあると気づく人は少ないでしょう

「十戒本文=ユダヤ教」という先入観がある場合、異邦人にとっては改宗を想起してしまい、手前の段階で拒否感を生んでしまいかねません。
イエスの証しを信じたとしても──異邦人が改宗に至るには、それなりにハードルが高いのです。

ヤコブの四つの忌避のアイデアは、宗教色を消し、スムーズに異邦人へ神の価値観を広める導線として、機能していたと想像できます。


結び


ヤコブの知恵は、異邦人宣教において、厳格に十戒を意識させるよりも、なるべく煩わしいと思わせずに福音の拡大を優先させた、戦略的な判断であったと言えます。

これは、初代教会が置かれた緊張した状況──迫る終末とキリスト再臨への切迫感と異邦人伝道への焦り──を踏まえた、きわめて優れた判断だったと言えるでしょう。

また、四つだけに限定されたかのように見えるこの決定は、実は十戒への導線であり、神の価値観(父の御旨)への広がりを持っていたのです。

後に書かれたヤコブの手紙には、神の民に対して、単に信じるだけでなく行いによる(神の価値観にある)生き方について、述べられています(ヤコブ1章22節2章19-20節)。

これは、イエスの次の言葉のとおりです。

【マタイによる福音書 7章21節】
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

ヤコブは父の御旨を行い、西暦62年に処刑され殉教したとされています。


あとがき


ヤコブの知恵は、神による日本人への愛

日本の文化には、聖書を読んだことがなくても、日常生活の中でごく自然に「年長を敬い」「人も動物も物も丁寧に扱い」「家庭の和を尊び」「落し物を届け」「約束は守り」「慎ましくある」といった価値観が受け継がれています。
そして人々は、食事の時には「いただきます」と言い、悪事に対しては「バチが当たる」と言い、「お天道様は見ている」と言って、何かしら神的なものに感謝と畏れを抱いてきました。

これは、パウロが語るように、神が求めることの多くが、日本人の良心に刻まれているからでしょう。

そのうえで、イエスの証しを信じ、ヤコブが示した四つの忌避(偶像に供えて汚れた物・不品行・絞め殺したもの・血)と安息日を知るなら、聖書の中心にある「神と人との関係」に、さらに深く触れることができるでしょう。

冒頭に載せた会議の決定文書には「聖霊●●とわたしたちとは、──決めた」とありました。

エルサレム会議の決定は、実は、現代のわたしたち日本人にこそ響く、神の愛なのです。


注:日本人の多くが、イスラエル十二部族の血筋である可能性は大いにありますが、この記事では、一般的な認識として「日本人は異邦人」として展開しました。ご了承ください。


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