自分を愛するように隣人を愛す──第二の戒め
すべての戒めの中で
どれが第一のものですか
イエスがモーセ律法から厳選した戒め
下の聖書箇所は、ユダヤの律法学者が「すべての戒めの中でどれが第一のものですか」と尋ね、それに対して、イエスが答えた場面です。
【マルコの福音書 12章28-31節】
ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、
「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。
イエスは答えられた、
「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。
そこで、この律法学者はイエスに言った、
「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。
イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、
「あなたは神の国から遠くない」。
それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。
イエスは、質問者がモーセ律法に詳しい律法学者であることから、モーセ律法の中から、まず第一の戒めを述べました。
それが、申命記6章4-5節の
「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。」です。
そして、聞かれていなかったにもかかわらず、第二の戒めを述べたのです。
それが、レビ記19章18節の
「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。」でした。
このやり取りから、イエスの念頭には、十戒があったと思われます。
十戒から第一のものを選ぶのではなく、十戒のうちの第一戒から第四戒を「第一の戒め」として、そして、第五戒から第十戒を「第二の戒め」として、モーセ律法を引用し要約して見せたのです。
なんて粋なことをするのでしょうか(笑)
この答えに柔和な律法学者は感嘆し、「仰せのとおりです。それらは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」と応じました。
これに対しイエスは、「あなたは神の国に遠くない」と言ったのです。
💡イエスが言った「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」は、十戒の第五戒から第十戒の要約です。
📍十戒の第五戒から第十戒の重要性については、下の記事をご覧ください。
📌この記事では──
「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」について、詳しく見ていきます。
1. 「自分を愛する」とはどういう意味か
「自分を愛する」という表現は、やや誤解を生むかもしれません。
この場合の「自分を愛する」とは、「自分を好きになる」とか「自分を褒める」といった心理学的な自己肯定の話ではありません。
もっと根源的な、誰もが生まれつき自分を守り、養い、生き延びようとする自然な欲求を前提にしています。
【ピリピ人への手紙 2章21節】
人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。
【マタイによる福音書 6章31-32節】
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。
あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
「自分を愛する」とは、腹が減れば食べ、渇けば飲み、暑ければ涼み、寒ければ着る、疲れたら休み、眠ければ寝る、面倒くさければサボる、ラクしたければ工夫する、自己防衛のために嘘をつく、といった自分を守る自然な感情や行動や態度を指します。
人は無意識ながら自分自身を愛し、自分の必要を満たすように愛をもって自分自身の世話をしており、そういった自然の感情や行動や態度を「自分を愛する」と言っています。
つまりこれは、「自分の性格や外見や能力や過去や未来が、好きか嫌いか」と言ったことではありません。
したがって、「わたしは自分のことが愛せない(好きになれない)から、隣人を自分のように愛せない」というのは間違いであり、ここでの「自分への愛」とは、好き嫌いの話ではなく、自然な自己への関心や配慮を前提にしているのです。
💡「自分を愛する」とは、自分を守る自然な感情や行動や態度を指します
【エペソ人への手紙 5章29節】
自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。
かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。
人は誰でも、それぞれの状況や境遇によっては死にたくなる時があるかもしれません。しかし、そうであっても、本心では(無意識のうちに)自分を死なせず、どうにか生かそうとするものです。
2. 「隣人」とは誰か
一世紀当時のユダヤ人社会では、「隣人」とは基本的に同胞のユダヤ人を指すと理解されがちでした。特に、ユダヤ人は宗教的な理由からサマリア人を毛嫌いし、付き合いをしませんでした(ヨハネ4章9節)。
このような事情がある中で、イエスは、隣人について次のとおり説きました。
善きサマリヤ人のたとえ
【ルカによる福音書 10章29-37節】
すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。
イエスが答えて言われた、
「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。
するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。
同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。
ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。
そこでイエスは言われた、
「あなたも行って同じようにしなさい」。
これはイエスが語ったたとえ話ですが、当時の実情に即したものでした。
このサマリヤ人は、ユダヤ人から関わりたくない相手だと思われていることを、当然知っています。
ところが、このサマリア人は、強盗に襲われたユダヤ人を見て「気の毒に思った」だけでなく、嫌がられる事情がある中で、近寄って声を掛け、手当をし、世話をし、費用まで払いました。
強盗に襲われた人にとっては──同胞であり、聖職者である祭司や律法知識に長けたレビ人ではなく──毛嫌いされ、関わりたくないサマリア人であるこの人が、隣人なのです。
イエスは、この善良なサマリア人のたとえを通して「隣人」とは誰かを説きました。
そして、この質問をしたユダヤの律法学者にとって、サマリア人を隣人として愛することなど考えもしなかったところに、困っている相手がどんな人であっても、あなたも同じように親切にしなさいと言ったのです。
敵を愛し、迫害する者のために祈れ
またイエスは、山上の説教で弟子や群衆に次のように語りました。
【マタイによる福音書 5章43-47節】
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。
敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。
天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
ここでイエスは、同胞意識の強さから生じた「敵(異邦人)を憎め」というラビ的伝承を否定し、「敵(非信者)を愛し、迫害する者のために祈れ」と言いました。
この場合の「愛し」も、好きになれと言っているのではありません。敵とされる人であっても、もし目の前で飢え渇いている(困っている)なら、自分のこととして親切にせよということです。
それは、天の父が悪い者の上にも太陽を昇らせ、雨を降らしてくれるからです。わたしたちも、それを享受しています。
自分にとって必要な人、世話になっている人、得になる人だけに、親切にするのではなく、誰であっても(迫害する者でさえも)隣人であり愛の対象であることを教えているのです。
💡誰であっても隣人であり愛の対象です
3. 聖書の愛は「感情」より「行動」
愛は行動で示すもの
【マタイによる福音書 25章34-36節】
そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、
『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
人は、腹が減ったら何かを食べ、のどが乾いたら何かを飲み、寝るところを確保し、裸のままおらず、病気の時は休み、心労の時は自分自身を心配します。
このように、すべての人が自分自身の身体的、精神的、霊的な事柄に関心があるはずです。
イエスは、人が自分自身に関心を持つように、隣人に対しても関心を持ち、その関心を「感情」から「行動」に移すことを手本として示しました。
食べさせ、必要を満たす(マルコ6章39-44節)
癒す、回復させる(マルコ1章40-42節)
社会的に拒まれた人を受け入れる(マタイ9章12-13節)
恐れる人に慰めと平安を与える(マルコ4章37-39節)
敵や裏切り者をも赦す(ルカ23章34節)
罪を赦し、和解を与える(マルコ2章5節)
交わり、仕える(ヨハネ13章2-10節)
自己犠牲の十字架(マルコ15章)
隣人愛とは「相手の必要を満たす行動」であり、抽象的な感情や思いやりの先にある「実践」だと示しました。
イエスの弟子たちも、次のように書いています。
【ヨハネの第一の手紙 3章17-18節】
世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。
子たちよ。
わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。
【ヤコブの手紙 2章14-17節】
わたしの兄弟たちよ。
ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。
信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。
4. 聖書における「愛」と「犠牲」
愛とは自己犠牲だ、といった表現を耳にしたことはないでしょうか。
確かに、イエスは「自分のいのちを捨てるほどの愛」を示しました。また、友のために命を捨てる以上の愛はないとの発言もあります(ヨハネ15章13節)。
しかし、イエスが示したその愛は、強いられた犠牲ではなく、自由意志からの自己献身でした(ヨハネ10章18節)。
つまり、聖書が語る愛は、「強いられる」ことでも「風潮に流される」ことでもありません。自分の意志によって、自分の益と隣人の益とを両立させるものと言えます。
隣人愛と自己犠牲の区別
隣人愛の基本:相手を自分のように関心を持ち大切に扱うこと。極論を言えば、好きになる必要はない。困っている人がいたら好き嫌いに関係なく親切にすること。相手の必要を満たすこと。必要を超えてまで(おせっかい・過保護)することはない。
自己犠牲的愛:特殊な場面で現れる最も深い愛の形(親が子を守る、危険な場での人命救助、殉教、イエスの十字架)。しかし、それが常に隣人愛を表すものではなく、むしろ例外的な愛の表現と言える。自己犠牲的な愛はイエスに見られる究極の姿であり、常に求められる模範ではなく、時によって人に臨む「愛の極み」と理解すべきだろう。
愛を語るパウロのバランス
自己愛と隣人愛と自己犠牲とのバランスについて、参考になる聖書箇所を見てみましょう。
【ピリピ人への手紙 2章4節】
おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。
自分のことを正当に大切にすることは当然のことです。むしろ、それがなければ「自分を愛するように隣人を愛す」ことは出来ないでしょう。
そのうえで、「自分を愛する」のと同じように隣人のことも配慮しなさいということです。すべて自分を捨てて、隣人のために犠牲になりなさいということではありません。
これは程度の問題ですが、自己愛と隣人愛と自己犠牲とのバランスが存在し、どれかに極端に傾きすぎるのは、愛の本質ではないということでしょう。
【ガラテヤ人への手紙 6章】
2節 互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。
5節 人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。
「互いに重荷を負い合いなさい」と言ったすぐ後で、「それぞれ自分自身の重荷を負うべき」とも言っており、隣人の重荷をすべて自己犠牲的に背負うことを求めているのではありません。
それぞれが自分の重荷を負うことが前提でありながら、愛をもって互いに重荷を負い合う(助け合う)ことが薦められています。
ここにも、自己愛と隣人愛と自己犠牲との健全なバランスがあります。
そして、
パウロは愛を次のように表現しました。
【コリント人への第一の手紙 13章4-7節】
愛は寛容であり、愛は情深い。
また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない。
不作法をしない、自分の利益を求めない、
いらだたない、恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、
すべてを望み、すべてを耐える。
このように多くの言葉を駆使して語られた「愛の説明」の箇所に、自分を犠牲(マイナス)にすることは一切語られていません。
また、次のように言いました。
【使徒行伝 20章35節】
わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。
受けるより与える方が幸い
隣人愛は、自分を犠牲(マイナス)にして成り立つという解釈は、人に不可能な負担を強いたり、ストイックな自己陶酔からの律法主義に陥る危険性があります。
隣人愛の本質は、自分を犠牲にすることではなく、神から愛された自分を大切にしつつ、その同じ配慮を隣人に広げることです。
神は犠牲を喜ばない
【エレミヤ書 7章22節】
それはあなたがたの先祖をエジプトの地から導き出した日に、わたしは燔祭と犠牲とについて彼らに語ったこともなく、また命じたこともないからである。
【ホセア書 6書6節】
わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。
燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。
これらの箇所で、神自身は「犠牲について語ったことも、命じたこともなく、犠牲を喜ばない」と言っています。
自己犠牲的な愛は、時には美しく見え、そのように示すことを暗に、またはあからさまに求められることがあるかもしれません。そのようなときに、果たせない(出来ない)ことで自己嫌悪に陥る人もいます。
しかし、聖書が言っている隣人愛とは、そのようなものではありません。そもそも、神は犠牲を喜ばないと書いてあるのです。
「受けるより与える方が幸い」と言われる隣人愛が、自己を犠牲にしているという感覚で行っているのであれば、それは、愛ではなく、単なる律法遵守(義務感や自己陶酔)として行っているのかもしれません。
💡隣人愛とは──自己犠牲的なものではなく──人にしてもらいたいと思うことを、人にもすることです(マタイ7章12節)
さいごに
腹が減れば何かを食べ、のどが渇けば何かを飲むように、隣人がそのような状態にあるのなら、相手が誰であれ、何かを食べさせ、何かを飲ませる。そのような行為が、自分を愛するように隣人を愛すことです。
これには、霊的な飢えや渇きも含まれます。
強制感や義務感や犠牲的な思いからではなく、それぞれが自分の良心に従って、出来ることを・出来るときに・出来るだけ、実践するのがいいと思います(ルカ21章1-4節、コリント第一10章13節)。
出来ていると思う人は、出来ていると思い過ぎず、出来ていないと思う人は、出来ていないと思い過ぎず、そして、隣人への愛に関しては、人の物差しでは計り知れないので、互いに裁かないのが賢明かと思います(ルカ18章9-14節)。
【マタイによる福音書 7章1-5節】
人をさばくな。
自分がさばかれないためである。
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
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