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【再臨予告】イエス・キリストが「すぐに来る」と言った意味


これらのことを証しする方が仰せになる、
「しかり、わたしはすぐに来る」。
アーメン、主イエスよ、きたりませ
── ヨハネの黙示録 22章20節 ──


聖書には、キリストが再び来るという概念があります。

これは「キリスト再臨」と表現されます。
また、「すぐに来る」とあります。

冒頭のヨハネの黙示録が書かれたのは、一世紀末ごろと言われており、およそ1900年前になります。

1900年の間にキリストは、もう来たのか、まだなのか、すぐに来るとはどういうことなのか。

この記事では──
イエスは、どういう意味で「すぐに来る」と言ったのか、聖書に基づいて考察します。



1|弟子たちの再臨の認識


弟子たちは、キリストが「再び来る」ことについて、どのような認識だったのか、弟子たちの証言を見ていきます。


① ペテロ(イエスに最も信頼された一番弟子)

【ペテロの第二の手紙 3章10-12節】
しかし、主の日は盗人のように襲って来る。
その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。

このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来(パルーシア)を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。

その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。

ペテロは、主の日は、盗人のように襲うことになること、その日の到来を熱心に待ち望んでいる信者に、きよくありなさいと警告しています。

補足:
ギリシア語のパルーシアは、キリストの再臨を指す文脈で頻繁に使用されています(24回)。小黙示録と言われるマタイ24章やパウロ、ヤコブ、ペテロ、ヨハネの手紙で広く使用されています。
また、人の訪問や存在を指す場合にも用いられています。


② ヨハネ(愛された二番弟子で福音書と黙示録の著者)

【ヨハネの第一の手紙 2章28節】
そこで、子たちよ。
キリストのうちにとどまっていなさい。

それは、彼が現れる時に、確信を持ち、その来臨(パルーシア)に際して、みまえに恥じいることがないためである。

ヨハネは、キリストが現れる時のために、キリストに留まることを命じています。


③ ヤコブ(イエスの兄弟、エルサレム教会のリーダーで信仰の実践者)

【ヤコブの手紙 5章7-8節】
だから、兄弟たちよ。
主の来臨(パルーシア)の時まで耐え忍びなさい。
見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。

あなたがたも、主の来臨(パルーシア)が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。

ヤコブは、主の来臨の時まで耐え忍ぶこと、心を強くすることを命じています。


④ パウロ(イエスが見出した異邦人への伝道者で多くの手紙を記した)

【テサロニケ人への第一の手紙 4章15-16節】
わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨(パルーシア)の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。

すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。

パウロは、救い主が再び来る時について、ラッパの鳴り響く中、天から下って来るなど、具体的なイメージを記述しています。


初代教会は再臨を信じていた

このように弟子たちの手紙からは、キリスト再臨が共通認識だったことが伺えます。そして、これらの手紙が書かれた時点においては、まだ再臨していないという認識だったことが分かります。


2|認識の変化の原因


初代教会は、キリスト再臨を信じていました。弟子たちはそれが自分たちの生きている間に起こると期待し、再臨は現実的で切実な希望であったでしょう。

しかし時が経ち、イエスがなかなか戻らないことが明らかになると、人々はその意味を再解釈するようになりました。
2〜4世紀には、ギリシア哲学の影響を受けた教父たちが聖書を現実に合わせて読むようになり、再臨については「心の中にキリストが来る」など心理的な出来事として捉える傾向が出てきます。

アウグスティヌスはこれを体系化し、「神の国=教会と信仰者の中にある霊的現実」と主張しました。中世の神秘主義や、近代の合理主義的神学もこの流れを強め、再臨を内面的・心理的な出来事として解釈する立場が生まれていきました。

このようにして、「再臨=心理的な霊的体験」という理解は、時代と思想の変化の中で徐々に形成され、初代教会の具体的な期待とは異なる解釈が広まっていきました。

補足:
アウグスティヌス(AD354–430)は、カトリック教会の司教であり古代ローマの神学者でした。
彼の影響は大きく、初期キリスト教に広がっていたキリストの実在的な再臨を誤った文字通りの解釈だとして否定し、千年王国とは、キリストが霊的に支配する教会時代の象徴であるとしました。
この思想が中世カトリック教会の「公式解釈」になったことで、キリストの実在的な再臨論や終末論は、過激なものとして「異端」とされるようになりました。


再臨を信じない者が現れる

この影響は現代でも続いており、キリスト再臨を現実的なこととして受け止めない人がいます。
これはペテロによって預言されていました。

【ペテロの第二の手紙 3章3-4節】
まず次のことを知るべきである。
終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、「主の来臨(パルーシア)の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。

では、もう一度聖書に戻り、イエスはどういう意味で「また来る」と言ったのか、改めて考えてみましょう。


3|イエスが語った再臨の約束


終わりの日に「来る」のを「見る」と語る

【マルコによる福音書 13章24-26節】
その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。

そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。


「また来て」終わりの日に「裁く」と語る

【ヨハネによる福音書 12章48節】
わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。
わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。

【ヨハネによる福音書 14章3節】
そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。
わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。

初臨の日は救うために来ましたが、イエスの言葉を受け入れない人は、終わりの日に裁かれます。
イエスは用意ができたら「また来る」と述べました。


具体的な来臨を記したヨハネの黙示録

【ヨハネの黙示録 1章7節】
見よ、彼は、雲に乗ってこられる。
すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。

また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。
しかり、アァメン。

彼が来られ、すべての人が見る」とあります。霊的な感性のある人や信者だけでなく、彼を刺し通した者たちこそが彼を見て胸を打って嘆くとあります。


これらの箇所からは、初代教会がそうであったように、イエスは、実際に来ることを念頭に語っているように受け取れます。

しかし「すぐに来る」と語ったことと調和していません。
「また来る」「すぐに来る」と言ったのに、来ていない。

すぐに来る」とは、一体どういうことなのでしょう。


4|「すぐに来る」とはどういう意味か


神の計画は暗示されている

【イザヤ書 46章10節】
わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、『わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる』と。

【ペテロの第二の手紙 3章8節】
愛する者たちよ。
この一事を忘れてはならない。
主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。

創世記にある天地創造の物語は、神の計画の暗示と言われています。神の天地創造の六日の各一日は、6000年に渡る人の歴史のに対応するということです。

【創世記 2章1-4節】
こうして天と地と、その万象とが完成した。
神は第七日にその作業を終えられた。

すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。

神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

これが天地創造の由来である。

この記述を象徴的に解釈すると、神は天地万物を六日で完成し、七日目を聖とする計画だと読み取れます。

つまり、神は最初の人間アダムを創造し、神と人との関係を6000年を掛けて完成させるということです。そして、七日目がいわゆる千年王国で、この日(千年間)を祝福して聖別するということです。

💡神の七日間とは、アダムから7000年間のこと
💡終わりの日とは、六日目または七日目のこと
注:働きの終わりは六日目、一週間の終わりは七日目


キリストの初臨は四日目の最後

キリストが最初に到来したのは、アダムからちょうど4000年目でした。つまり、四日目の最後です。


三日目によみがえる

イエスは、弟子たちに神の計画をたびたび話していました。
初めは弟子たちも理解するのが難しかったようですが、最後には理解できたことでしょう。
福音書にはイエスが弟子たちに語った神の計画が書かれています。

【マタイによる福音書 17章22-23節】
彼らがガリラヤで集まっていた時、イエスは言われた、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、そして三日目によみがえるであろう」。
弟子たちは非常に心をいためた。

イエスは自身が処刑された後、「三日目によみがえる計画」であることを示しました。


📍イエスが語った三日目とは、下の図のとおり、アダムから七日目(千年王国)のことです。


キリスト初臨がアダムから四日目の最後(ちょうど4000年目)です。
イエスが地上で活動したのはアダムから五日目ですから、イエスが語った三日目とは、アダムから七日目になります。

アダムから七日目(千年王国)を王として統治するため、六日の最後、つまり磔刑から二日後(三日目の夜明け)によみがえるということです。

👉イエスが語った三日目=千年王国

💡アダムから七日目(千年王国)を統治するため、その夜明け前(六日の最後)に来る


5|聖書全体に見られる神の計画


この神の計画は、聖書全体に預言されています。
婉曲表現で書かれてあるので気づかない人も多いですが、気付けばなるほどと思うに違いありません。

以下に、七つの例を挙げてみます。


① 二千匹の豚が溺れ死ぬ(マルコ書)

【マルコによる福音書 5章1-13節】
こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
(中略)
さて、そこの山の中腹に、豚の大群が飼ってあった。霊はイエスに願って言った、「わたしどもを、豚にはいらせてください。その中へ送ってください」。
イエスがお許しになったので、けがれた霊どもは出て行って、豚の中へはいり込んだ

すると、その群れは二千匹ばかりであったが、がけから海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった

このエピソードは、ゲラサ人の地で大勢の汚れた霊に憑かれた人がおり、イエスは汚れた霊に「この人から出て行け」と命じたところ、霊は、豚の大群がいたので「豚に入らせてください」と懇願し、イエスがそれを許されたという話です。

その後、霊どもは約二千匹の豚に入り、その豚は崖から海へ駆け下り、海の中で溺れ死にました。

この話の意味を読み解きます。
聖書において豚は、汚れた獣とされます。

【レビ記 11章】
3節 獣のうち、すべてひずめの分かれたもの、すなわち、ひずめの全く切れたもの、反芻するものは、これを食べることができる。

7節 豚、これは、ひずめが分かれており、ひずめが全く切れているけれども、反芻することをしないから、あなたがたには汚れたものである。

清い獣は、①ひづめがあり、②分かれており、③反芻するものであり、これもたとえになっています。

ひづめがあるということは、肉が地(世)から離れているということで、ひづめが分かれているとは、荒野を歩める(試練に耐える)ことを表します。反芻するとは、霊的なパンである神の言葉を何度も繰り返し味わうということです。
つまり、豚は、①と②は満たすが、③を満たさないので汚れているとされています。

つまりこの話は、
「世から離れ試練の中を歩むが、神の言葉である聖書を繰り返し読まないため真理に至らない豚のような人に、汚れた霊どもが入り込むことが許されます。汚れた霊が入り込んだそのような人は群れとなり、崖を下るように堕落してしまい、世の人々に飲み込まれて溺れ、ついには神からの息が絶たれ窒息死してしまう。それは、約2000年の間に起こる」と読み取れます。


② 善きサマリア人のたとえ(ルカ書)

【ルカによる福音書 10章30-35節】
イエスが答えて言われた、
「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。
(中略)
ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。

このたとえは、イエスが律法学者との問答の際に、隣人とは誰かについて語ったものです。

この話の中で、親切な人が宿屋の主人に二デナリを渡して「足りなければ帰りがけに払います」と言って怪我人の世話を頼みました。

二デナリとありますが、一デナリは当時一日分の賃金を表します。つまり、二デナリとは二日分で、親切な人は二日後に再び来る暗示と読み取れます。


③ 三日目にわざを終える(ルカ書)

【ルカによる福音書 13章31-32節】
ちょうどその時、あるパリサイ人たちが、イエスに近寄ってきて言った、「ここから出て行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。

そこで彼らに言われた、
「あのきつねのところへ行ってこう言え、『見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終えるであろう。

今日も明日もとは、キリスト初臨後の二日間(2000年間)を表します。三日目とは、千年王国のことです。


④ 酬恩祭の犠牲(レビ記)

【レビ記 19章1-8節】
主はモーセに言われた、
「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、
『(中略)酬恩祭の犠牲を主にささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。それは、ささげた日と、その翌日とに食べ、三日目まで残ったものは、それを火で焼かなければならない。もし三日目に、少しでも食べるならば、それは忌むべきものとなって、あなたは受け入れられないであろう。
それを食べる者は、主の聖なる物を汚すので、そのとがを負わなければならない。その人は民のうちから断たれるであろう。

これはレビ記にある祭りの犠牲についての記述です。犠牲を捧げるとは、神への献身です。

あなたの献身は、神に受け入れられるように捧げなければならない。捧げた日と、その翌日に食べ、三日目に残ったものは火で焼く。三日目に少しでも残ったものは忌むべきものとなる、とあります。

捧げた日と、その翌日とは二日で2000年のことです。三日目とは千年王国です。

つまり、神へ献身は2000年のうちに行い、行わなかった者は忌むべき者であるので、火で焼かれるということでしょう。


⑤ 死体に触れた者の清め(民数記)

【民数記】
19章11-12節
すべて人の死体に触れる者は、七日のあいだ汚れる。
その人は三日目と七日目とに、この灰の水をもって身を清めなければならない。そうすれば清くなるであろう。
しかし、もし三日目と七日目とに、身を清めないならば、清くならないであろう

31章19節
そしてあなたがたは七日のあいだ宿営の外にとどまりなさい。あなたがたのうちすべて人を殺した者、およびすべて殺された者に触れた者は、あなたがた自身も、あなたがたの捕虜も共に、三日目と七日目とに身を清めなければならない

これは死体に触れた者が汚れた者とされ、その人が清められることについて書かれています。

三日目と七日目に清めなければならないとされています。
三日目はキリスト初臨から三日目で、七日目はアダムから七日目ですね。
三日目と七日目とは、千年王国です。

キリスト再臨によって、キリストにあって死んだ人々はよみがえり、朽ちない者に変えられます。


⑥ 二日後に生かし、三日目に立たせる(ホセア書)

【ホセア書 6章1-3節】
「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。

主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる
わたしたちはみ前で生きる。わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」。

これは明確に書かれていますね。
二日後に私たちを生かし、三日目に立たせられる。

この「私たち」とは、ホセア書が書かれた当時の信仰者のことでしょう。彼らは、二日後、つまりキリスト初臨から2000年後の再臨でよみがえり、三日目、つまり千年王国でキリストと共に統治することを示唆しています(コリント第一15章56-54節、黙示録20章6節)。


⑦ ノアの洪水は600年目(創世記)

【創世記】
7章6節
さて洪水が地に起った時、ノアは六百歳であった。

11章10-11節
セムの系図は次のとおりである。
セムは百歳になって洪水の二年の後にアルパクサデを生んだ。セムはアルパクサデを生んで後、五百年生きて、男子と女子を生んだ。

「ノアは六百歳」とありますが、正しくは「ノアの六百年目」です。
ノア洪水は、ノアの600年目(600歳未満)の時で、洪水を生き延びたノアの子セムは満600歳(600歳以上)まで生きました。

これも暗喩になっており、六日目に裁きがあり、裁きを生き延びた者は六日を超えて生きる暗示と取れます。
六日とは、6000年ですね。


このような千年王国(三日目・七日目)に関する暗示は、他にもあります。

神はこのように暗示的に奥義を伝えています。
このように読めない人は、聖書を文字通りに読んでその暗示が理解できず、自己都合の解釈で暗闇に迷い込んでしまうことになります。

【箴言 25章2節】
ことかくすのはかみほまれであり、こときわめるのはおうほまれである。


6|わたしはすぐに来る


イエスはすぐに来ると言ったのに、全然来ないじゃないかと言う人は、このような神の計画を知らないだけです。
知れば納得の奥義ですよね。

【ヨハネの黙示録】
3章11節
わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。

22章7節
見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである」。

22章12節
「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。

22章20節
これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。
アァメン、主イエスよ、きたりませ。

ここまでお読みになった方であれば、イエスが語られた「わたしはすぐに来る」の「すぐ」とは、二日(2000年)のことだと分かりますよね。

「わたしはすぐに来る」の「すぐ」とは、二日(2000年)のことです。


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