【書評】ミヒャエル・エンデ『モモ』――奪われた時間と、誰かと生きるための余白
はじめに 時間を節約するほど、なぜ時間がなくなるのか
私たちは、時間を節約するための道具に囲まれています。連絡も移動も仕事も速くなりました。それでも、「時間がない」という感覚は消えません。空いたはずの時間には別の予定が入り、休むことさえ、次に動くための準備へ変わります。
ミヒャエル・エンデの『モモ』は、灰色の男たちに奪われた時間を、一人の少女が取り戻す物語です。児童文学らしい冒険と幻想に満ちていますが、大人になって読み返すと、その問いはむしろ身近に感じられます。時間とは、どれほど多く持っているかで決まるものなのか。それとも、誰と、どのように生きたかによって、初めて自分の時間になるものなのか。
『モモ』が描くのは、単純な「ゆっくり生きよう」という教訓ではありません。作品が見つめるのは、効率や成長が生活の唯一の尺度となり、目の前の時間が、いつか訪れるはずの未来へ差し出されていく過程です。
その問いは、町外れに残された古い円形劇場と、そこへ現れた一人の少女から始まります。

第一章 円形劇場に現れた少女
町の外れに、古い円形劇場の廃墟があります。かつて人々が集い、芝居や物語を楽しんだ場所ですが、物語が始まる頃には役目を失い、町の発展から取り残されています。そこへ、いつの間にか一人の少女が住みつきます。
少女の名前はモモ。年齢も、生まれた場所も、家族のこともよく分かりません。大きすぎる上着をまとい、持ち物もほとんどありません。町の人々は、彼女を施設へ入れることも考えますが、モモは円形劇場で暮らしたいと望みます。やがて人々は、食べ物や家具を持ち寄り、彼女の生活を支えるようになります。
モモのもとには、さまざまな人が集まります。道路掃除夫のベッポは、口数こそ少ないものの、物事を急いで決めつけず、自分のなかでじっくり考える人です。ジジは、円形劇場を訪れる観光客に、事実とも作り話ともつかない物語を語って暮らしています。料理店を営むニノや、左官屋のニコラ、町の子どもたちも、いつしか円形劇場の常連になります。
モモには、人に誇れるような知識や技能があるわけではありません。けれども、彼女には人の話を聞く力があります。それは、相手に適切な助言を与えたり、問題を手早く解決したりする聞き方ではありません。モモは、その人が自分でも気づいていなかった言葉へたどり着くまで、急かさずに耳を傾けます。
彼女に話していると、争っていた者たちは、自分たちで和解の糸口を見つけます。迷っていた人は、本当は何を望んでいたのかに気づきます。ジジのなかからは、本人さえ予想していなかった物語が生まれます。モモが答えを与えるのではありません。モモと過ごす時間のなかで、人々が自分自身の声を取り戻していくのです。
子どもたちの遊びも同じです。高価な玩具も決められた遊び方もないのに、モモが一緒にいると、廃墟は大海原や未知の国へ姿を変えます。子どもたちは、その場の言葉と想像力から、まだ存在しなかった世界を作り出します。
円形劇場は、町の外にある完全な理想郷ではありません。人々は仕事や家庭を持ちながら、ここでは一つの役割だけに閉じ込められません。ニノは店主であると同時に友人であり、ベッポは労働者であると同時に、自分の速度で世界を考える人です。ジジもまた、語り手である前に、話を聞いてもらう一人の人間でいられます。
円形劇場に流れているのは、何も生み出さない空白の時間ではありません。役に立つかどうかでは測れない時間が、人と人とのあいだに新しいものを生み出していく時間です。

第二章 灰色の男たちと、時間の花
やがて町に、灰色の服を着た男たちが現れます。彼らは時間貯蓄銀行の代理人を名乗り、人々に時間の節約を勧めます。
灰色の男たちが目をつけるのは、人々が誰かのために使っている時間です。客と世間話をすること。年老いた家族を訪ねること。友人と過ごすこと。歌をうたうこと。窓辺でぼんやりすること。彼らはそうした時間を一つひとつ計算し、それを節約すれば、将来のために莫大な時間を貯められると説きます。
床屋のフージーは、その勧誘を受けた代表的な人物です。灰色の男は、彼がこれまでどれほど多くの時間を浪費してきたかを数字で示します。フージーは、自分が大切にしてきた時間を無駄だと思い始め、客との会話を減らし、仕事を速め、身近な人々に向けていた時間を切り詰めていきます。
ところが、節約したはずの時間は、彼のもとには残りません。以前より多く働き、以前より多くの客をこなしているのに、毎日はますます忙しくなります。彼は将来のために現在を急ぎ続けますが、その将来が訪れる気配はありません。時間を貯めるほど時間がなくなるという逆転が、やがて町全体へ広がっていきます。
モモの友人たちも変わります。ジジは才能を認められ、有名な物語作家になります。しかし、人気を維持するために求められる物語を作り続けるうち、自分が本当に語りたいものを見失っていきます。夢がかなったはずなのに、夢を生きる時間がなくなっていくのです。
ニノの料理店も、人が食事と会話を楽しむ場所から、客を素早くさばく店へ変わります。ニノは客を急かすようになりますが、彼自身もまた、より多くの客を処理しなければならないという圧力に急かされています。
ベッポは、長い道路を掃くとき、道のすべてを一度に考えません。ひと掃きし、ひと呼吸し、また次のひと掃きへ進みます。遠い終点ばかりを見れば、仕事の長さに押しつぶされてしまうからです。しかし灰色の男たちは、そんなベッポの誠実ささえ利用します。モモが捕らえられたと思い込まされた彼は、彼女を救うために終わりの見えない労働を引き受けます。
灰色の男たちは、人間の弱さだけでなく、友情や責任感、夢にも入り込みます。人々が忙しくなるにつれ、円形劇場からは人影が消えていきます。建物は残っていても、そこへ通じる時間が失われるのです。
孤立したモモの前に、不思議な亀カシオペイアが現れます。甲羅に短い言葉を浮かべ、少し先の未来を知る亀です。モモは彼女に導かれ、マイスター・ホラの住む「どこにもない家」へ向かいます。
マイスター・ホラは、人間一人ひとりに時間を分け与え、その人だけの時間が心に咲くのを見守る、不思議な存在です。
ホラのもとで、モモは時間の秘密を目にします。暗闇のなかで一輪の花が咲き、やがてしぼむと、また新しい花が開いていく。そこには、言葉にできない音楽が響いています。一人ひとりに与えられた時間は、同じ単位が並ぶものではなく、その人にしか生きられない一度きりの花なのです。
モモはホラに、彼が時間そのものなのか、あるいは死なのかと問いかけます。作品は、その問いに分かりやすい答えを与えません。けれども、ホラのもとでは、時間を生きることと、死を知ることが切り離せないものとして語られます。
やがてホラは時間を止め、モモは一輪の時間の花を携えて、奪われた時間を取り戻しに向かいます。新たな時間を得られなくなった灰色の男たちは、残された葉巻を奪い合い、自滅していきます。モモは貯蔵庫へたどり着き、閉じ込められていた時間を解放します。
町に時間が戻ると、人々は再び立ち止まり、話し、抱き合い、子どもたちは遊び始めます。物語は、失われた昔へ戻るのではなく、いまの生活をもう一度生き直すところへ帰ってきます。

第三章 灰色の男たちは、何を盗んだのか
灰色の男たちが盗んだものを、単なる余暇と考えると、『モモ』の問いは少し浅くなります。
彼らに支配された人々は、何もしなくなるわけではありません。むしろ以前より多く働きます。フージーは多くの客の髪を切り、ジジは多くの物語を作り、ニノは多くの客を迎えます。活動量は増えているのに、その時間が本人の生から離れていくのです。
時間貯蓄銀行は、いま節約した時間が将来返ってくると約束します。しかし、時間は貨幣のように保存できません。誰かの話を聞かなかった時間も、子どもと遊ばなかった午後も、後からまとめて取り戻すことはできません。
時間は、使えば減る財産ではなく、使うことによって初めて形になるものです。
灰色の男たちは、この性質を逆転させます。時間を生きるものではなく、蓄えるものだと思わせるのです。現在の時間は将来へ投資され、いま目の前にいる人よりも、いつか手に入るはずの豊かな生活が優先されます。けれども、その未来は決して到来しません。時間を貯めるためには、さらに効率よく働かなければならず、効率が上がれば、さらに多くの仕事を引き受けることになるからです。
ここには、資本主義社会が持つ一つの逆説が描かれています。
本来、効率化は人間を労働から解放するはずです。しかし実際には、空いた時間は新しい仕事で埋められ、便利になるほど速い応答と多くの成果を求められます。
『モモ』が鋭いのは、灰色の男たちを単純な悪い経営者として描いていないことです。彼らは、効率、成長、蓄積が自己目的化した仕組みそのものに近い存在です。誰か一人を倒せば終わるのではなく、人々が同じ価値を信じ、自分で自分を急かすようになったとき、その支配は完成します。
灰色の男たちが吸う葉巻も、その構造をよく表しています。人々の心に咲いていた時間の花は、摘み取られ、乾燥され、彼らを生かす燃料へ変わります。生きた時間が人間から切り離され、蓄積されたものが、逆に人間の生活を支配するのです。

第四章 自分で自分を急かす社会
灰色の男たちの言葉は、強制というより説得のかたちで人々へ入り込みます。
時間は大切にしたほうがよい。将来へ備えたほうがよい。仕事は効率よく進めたほうがよい。どれも、それだけを取り出せば間違いとは言えません。だからこそ、人々は自分の意志で灰色の男たちに従っていると思い込みます。
現代の私たちにも、似た感覚があります。
予定がないと時間を無駄にしているように感じ、休んでいると誰かに遅れるようで不安になる。趣味にも成果を求め、読書や運動さえ自己投資として意味づけたくなります。
もちろん、努力や成長が悪いわけではありません。問題は、それらが生活のあらゆる時間を評価する唯一の基準になることです。
ジジの変化は、この問題をよく示しています。彼は夢をかなえ、物語を語ることで成功します。しかし、成功した後の彼は、自由に物語るのではなく、成功を維持するために物語を作り続けます。夢は実現したのに、夢を生きる時間が失われているのです。
ニノも、店を発展させながら、人が集う場所としての店を失っていきます。客を急かすニノは、支配する側に見えますが、実際には彼もまた、店を効率化し続けなければならない圧力に従っています。人を急かす者も、自分自身を急かしているのです。
『モモ』は、働くことと生きることを単純に対立させません。ベッポの道路掃除は、労働でありながら、彼自身の速度と呼吸を失わない営みとして描かれています。彼が「ひと掃き、ひと呼吸」と進むとき、仕事は未来の完成のためだけに耐えるものではなく、現在の一歩を生きることでもあります。
ところが、モモを救わなければならないと思い込まされた瞬間、その働き方は変わります。ベッポは目の前の一掃きではなく、遠い目標のために自分を追い立てます。大切な友人を思う気持ちが、終わりのない労働へ組み込まれていくのです。
灰色の男たちの論理は、欲望だけでなく善意にも入り込みます。責任を果たし、夢を追うことは大切です。しかし、そのためなら現在の自分をどこまでも犠牲にしてよいと考えたとき、大切なものは支配の道具へ変わります。

第五章 時間を取り戻すとは何か
円形劇場は、資本主義社会の外側にある無垢な世界ではありません。そこに集まる人々も、仕事をし、商売をし、家族や町との関係を持っています。それでも円形劇場では、一つの役割が人間の全体を覆いません。
ニノは店主でありながら友人でもいられます。ジジは語り手でありながら、誰かに聞いてもらう人でもいられます。ベッポは道路掃除夫でありながら、独自の言葉で時間を考える人でもあります。子どもたちも、将来のために教育される存在である前に、いまこの場所で世界を作り出す遊び手です。
灰色の男たちが奪ったのは、仕事以外の時間だけではありません。人が複数の関係や役割のあいだを行き来する余白だったのではないでしょうか。
仕事が生活の一部であるうちは、人は仕事の外でも別の自分を生きることができます。しかし、成功や効率が生活全体の尺度になると、友人と過ごす時間も、休む時間も、遊ぶ時間も、仕事へ戻るための手段へ変えられます。人間が一つの役割だけで説明されるようになるとき、円形劇場へ通じる道は見えなくなっていきます。
モモの聞く力は、その逆の働きをしています。
彼女は、相手を効率よく変えようとはしません。結論を急がず、その人が自分の言葉へたどり着くまで待ちます。聞くこととは、相手のために時間を使うことであると同時に、相手を一つの評価や役割に固定しないことでもあります。
モモに聞いてもらうと、人々は「店主なら」「成功者なら」「大人なら」といった言葉の手前へ戻ります。そこで初めて、自分が何を感じ、何を望んでいたのかを聞き直すことができます。円形劇場が人々をつなぐのは、同じ価値観へ統一するからではありません。それぞれが異なる時間を生きたまま、一緒にいられるからです。
時間の花が一人ひとり異なるのも、同じことを示しているのでしょう。人間の時間は、すべて同じ単位として交換できるものではありません。何分かかったかだけでは、その時間の価値は決まりません。何が生まれたのか、誰と過ごしたのか、その人の過去と未来がどのように結ばれたのかによって、時間は異なる花を咲かせます。

第六章 死を恐れるから、時間を貯めるのか
マイスター・ホラを時間そのもの、あるいは死の象徴と断定することはできません。作品も、その正体を説明し尽くすことなく、謎を残しています。しかし、モモが彼に死について問いかける場面は、灰色の男たちがなぜ人々を支配できたのかを考えるうえで重要です。
人々が時間を貯めようとするのは、単に欲深いからではありません。人生は有限であり、何も成し遂げないまま終わりたくない。そうした切実さがあるからこそ、「いまを節約すれば、あとで豊かな人生を受け取れる」という言葉が入り込みます。
しかし、死を遠ざけようとして時間を貯めるほど、人々は生きることを先送りしていきます。いつか自由になるために働き、いつか幸せになるために現在を我慢し、いつか十分な時間ができたら、大切な人とゆっくり過ごそうと考えます。
けれども、「いつか」は、必ずしも訪れません。
有限な人生を大切にしようとする思いが、現在を生きてはいけないという命令へ反転する。ここに、灰色の男たちの最も深い罠があります。
時間の花は、保存するために咲くのではありません。咲いているその瞬間に、香りと音楽を生きるために咲きます。花がしぼむことは、その時間が無意味だったことを意味しません。終わりがあるからこそ、その花は一度きりのものになります。
死を知ることは、人生を急いで消費することではなく、時間を無限に所有できないと知ることなのかもしれません。その有限さを受け入れたとき、私たちはようやく、時間を貯めるのではなく、生きることができます。
マイスター・ホラが時間を止める場面も、同じ問いにつながっています。灰色の男たちに勝つために必要なのは、彼らより速く走ることではありません。より速く、より多くという競争そのものを、いったん止めることです。
立ち止まることは、人生を放棄することではありません。何のために走り、自分の時間が誰のものになっていたのかを見つめ直すための中断です。

結び 誰かとともに時間を生きる
『モモ』が勧めているのは、仕事を捨てることでも、昔の暮らしへ戻ることでもありません。また、単にゆっくりすればよいと語っているわけでもないでしょう。休息さえ生産性を高める手段にできる時代では、ゆっくりすることも、灰色の男たちの論理へ回収されかねません。
大切なのは、時間を誰のために、何のために使うのかという問いを、自分たちの手へ戻すことです。
誰かの話を聞くこと。目的のない時間を共にすること。すぐには役に立たない遊びや物語に心を預けること。仕事や肩書だけではない自分を思い出すこと。それらは、節約して後へ回すことのできない時間です。
ここまで見てきた物語には、別の思想的な読み方を重ねることもできます。灰色の男たちにはマルクスの疎外論を、ジジやニノにはハイデガーの頽落を、円形劇場には網野善彦のアジール論を、時間の花にはベルクソンの持続を、時計の停止にはベンヤミンの進歩批判を思い浮かべることもできるでしょう。
ただし、そうした概念を前面に置くことは、『モモ』の柔らかな世界には、少しそぐわないのかもしれません。それらは作品を説明し尽くす答えではなく、物語を別の角度から見直すための補助線にすぎません。
『モモ』は難しい言葉ではなく、一人の少女が誰かの話を聞く姿によって、時間について語っています。ゆっくり歩くカシオペイアと、一度だけ咲く時間の花によって、限りある生の豊かさを伝えています。
モモが人々へ返したのは、失われた何時間、何年という量だけではありませんでした。友人と話し、子どもたちと遊び、まだ存在しない物語を語ることのできる時間です。
時間を取り戻すとは、自分の人生を効率よく所有することではなく、誰かとともに、ふたたび生き始めることなのかもしれません。

