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【書評】谷崎潤一郎『陰翳礼讃』――明るすぎる近代のなかで、暗がりの知と感性を取り戻す


はじめに 見えすぎる時代に読む谷崎

私たちは、ずいぶん明るい世界に生きています。夜の街は電灯に照らされ、部屋の隅にも影は残りにくくなりました。スマートフォンを開けば、知らない土地の風景も、誰かの感情も、話題の本や映画の評価も、すぐに目の前へ差し出されます。検索すれば答えに近づき、レビューを見れば失敗を避けられ、通知はつねにこちらの意識を呼び戻します。それはたしかに便利なことです。暗さに耐え、手探りで待ち、すぐには分からないものと向き合う必要は、以前よりずっと少なくなったのかもしれません。

けれど、すべてが明るく見えることは、本当に豊かさなのでしょうか。見えないからこそ感じられるもの、すぐには分からないからこそ立ち上がるもの、暗がりのなかでようやく耳を澄ませられるものは、なかったのでしょうか。谷崎潤一郎『陰翳礼讃』は、そうした問いを、静かに、しかし深く投げかけてくる随筆です。

本書は、日本家屋や漆器、和紙、厠、吸い物椀、羊羹といった、生活の細部をめぐって書かれています。一見すると、失われつつある日本美への懐旧の文章に見えるかもしれません。けれど、そこにあるのは単なる昔への郷愁ではありません。谷崎が見つめていたのは、明るくすること、清潔にすること、便利にすること、効率化することによって、私たちがいつのまにか手放してきた知覚のあり方です。西洋近代は、より明るく、より速く、より合理的に、より機能的に、という足し算の文明でもありました。もちろん、その恩恵は大きいものです。谷崎も、近代の便利さをただ否定しているわけではありません。寒い日には暖房がほしくなり、不便なものより便利なものを選んでしまう。そうした人間の弱さを、谷崎はよく分かっています。

それでもなお、彼は問いかけます。便利さのなかで、何が消えていったのか。明るさのなかで、何が見えなくなったのか。西洋近代の流れに乗ることによって、東洋や日本の生活感覚は、別のかたちへ育つ可能性を失ってしまったのではないか。『陰翳礼讃』をいま読む意味は、そこにあります。これは、ナショナリズムとして日本を称える本ではありません。むしろ、ひとつの近代だけが正解だったのかと問い直す本です。明るすぎる世界のなかで、暗がりの知と感性をもう一度取り戻そうとする本なのです。

本記事の図解

第一章 陰翳とは何か

陰翳とは、ただ暗いことではありません。暗い場所は劣っていて、明るい場所は優れている。谷崎は、そのような単純な価値判断から出発していません。彼にとって陰翳とは、物を見えなくするものではなく、物を別の仕方で見せるものです。たとえば、和紙があります。ガラスや西洋紙が光を鋭く反射し、白く明るくものを照らし返すのに対して、和紙は光をやわらかく受け止めます。そこでは、光はまっすぐに跳ね返るのではなく、繊維の奥へ沈みこみ、少し鈍く、少し温かく、空間に広がっていく。谷崎が見ているのは、紙という素材そのものだけではありません。紙が光と出会うときに生まれる、やわらかな関係です。

漆器もまた、陰翳のなかでこそその力を発揮します。明るい場所に置かれた漆器は、ただ黒く艶のある器として見えるかもしれません。けれど、薄暗い部屋のなかで、わずかな灯を受けた漆器は、深い闇を湛えながら、表面にかすかな光を浮かべます。そこでは、器は単なる道具ではなく、夜そのものを抱えた小さな空間のようになる。つまり谷崎にとって、美は物のなかに固定されているのではありません。物と光、物と影、物と空間との関係のなかに現れるのです。

この感覚は、現代の私たちにとって少し遠いものになっています。いま私たちは、物をできるだけはっきり見ようとします。明るい照明の下で、輪郭を明確にし、色を正確に捉え、情報として把握しようとする。そこでは、見えることが、そのまま理解することだと考えられがちです。しかし、谷崎の美学では、見えすぎることがかえって物を痩せさせることがあります。隅々まで照らされることで、物が持っていた奥行きや気配が消えてしまう。すぐに分かることで、分からないものとともにいる時間が失われてしまう。

陰翳とは、その失われた時間を取り戻すための条件なのかもしれません。はっきり見えないからこそ、私たちは目を凝らします。すぐに分からないからこそ、手触りや匂いや重みに意識を向けます。暗がりは、感覚を閉ざすものではなく、むしろ別の感覚を開くものなのです。『陰翳礼讃』の魅力は、ここにあります。谷崎は、暗さを不便として語るのではなく、感性を深める場所として語りますそこでは、知ることと感じることが、分かちがたく結びついている。陰翳とは、知識以前の知であり、身体に沈みこんだ感性の形式なのです。

第一章のポイント

第二章 西洋近代の足し算と、日本的な引き算

『陰翳礼讃』には、西洋近代への批判があります。けれど、その批判は、単純な反西洋ではありません。谷崎は、西洋から入ってきた近代的な設備や技術を、すべて拒んでいるわけではありません。電灯も、水洗設備も、暖房器具も、衛生も、便利さも、人間の生活を楽にするものです。実際にその恩恵を前にすれば、人はなかなかそれを手放せません。だからこそ、谷崎の問いは厄介で、いまなお新しいのだと思います。問題は、便利さそのものではありません。便利さが、どのような感性の上に組み立てられているのかです。

西洋近代は、多くの場合、足し算の方向へ進みます。暗ければ明るくする。遠ければ近づける。遅ければ速くする。不潔に見えれば白く磨き上げる。曖昧であれば、はっきりさせる。そこには、世界をより見やすく、扱いやすく、管理しやすくしていく力があります。それは、たしかに文明の力です。けれど同時に、その足し算は、余白を消していきます。影を消し、沈黙を消し、手探りの時間を消し、物がこちらへゆっくり近づいてくる間合いを消してしまう。

谷崎が惜しんでいるのは、単に古い日本家屋や古い道具ではありません失われていくのは、引き算によって成り立っていた生活の感覚です。強い光を足すのではなく、光をやわらげる。すべてを見せるのではなく、少し隠す。機能を前面に出すのではなく、空間になじませる。物を支配するのではなく、物が沈黙のなかで立ち上がるのを待つ。それは、近代的な効率から見れば、遠回りに見えるかもしれません。けれど、その遠回りのなかでしか育たない感性があります

暗がりのなかで漆器の艶を見ること。椀の底に沈む汁を、目ではなく手の重みや湯気の匂いで予感すること。白い光の下ではなく、影のなかで羊羹の色と甘さを受け取ること。こうした経験は、世界を所有する感覚とは少し違います。すぐに分かり、すぐに使い、すぐに評価するのではなく、物に近づく速度を落とすこと。自分の側から明るみに引きずり出すのではなく、物が暗がりのなかで帯びている気配に、こちらの感覚を合わせていくこと。そこに、谷崎のいう陰翳の美があるのだと思います。

『陰翳礼讃』がいまも読むに値するのは、過去の日本美を懐かしむためだけではありません。明るく、速く、便利になりすぎた世界のなかで、私たちが何を感じにくくなっているのかを考えるためです。西洋近代の足し算によって豊かになったものがある一方で、その足し算の陰で、静かに失われたものもある。谷崎は、その失われたものに名前を与えました。それが、陰翳です。

第二章のポイント

第三章 厠、漆器、羊羹 暗がりのなかで働く身体

谷崎の文章が面白いのは、美を抽象的な理念として語るのではなく、生活の細部から語っていくところです。日本家屋、和紙、漆器、吸い物椀、羊羹。そして、厠。ふつうなら美の話題としては遠ざけられそうなものまで、谷崎は静かに見つめます。そこには、清潔であること、便利であること、明るく管理されていることだけでは測れない、人間の身体と空間の関係があるからです。

現代の感覚からすれば、厠はできるだけ明るく、清潔で、機能的であるべき場所でしょう。白い壁、強い照明、においを消す仕組み、掃除のしやすさ。そこでは、排泄という行為ができるだけ目立たないように、衛生的に処理されます。もちろん、それは大切なことです。けれど谷崎は、古い日本家屋や寺院の厠に、まったく別の美しさを見ています。母屋から少し離れ、木や土の気配が残り、外の音や季節の移ろいがそっと入りこんでくる場所。虫の声、鳥の声、月明かり、庭の気配。もっとも身体的で日常的な場所が、同時に、自然と接する静かな場所にもなっているのです。

これは、機能を否定する話ではありません。排泄の場所を、ただの処理空間としてだけ見ないということです。人間の身体は、合理的に管理されるだけのものではありません。恥ずかしさや静けさ、落ち着きや季節の感覚まで含めて、生きている。その全体を受け止める空間として、谷崎は厠を語っているのだと思います。ここでは、身体は隠されるべきものではなく、世界の気配に触れるものとして置かれています。

漆器や吸い物椀の描写にも、同じことが言えます。明るい場所で見れば、器の色や形はすぐに分かります。けれど、薄暗い部屋のなかで漆器を見るとき、そこには単なる黒や朱を超えた深みが生まれます。わずかな灯を受けて、漆の表面に光がゆらぎ、蒔絵が沈んだ闇のなかから静かに浮かび上がる。器は、料理を載せる道具であると同時に、夜を抱えこむ小さな場所になります。

吸い物椀の場合、さらに身体の感覚が働きます。椀の中身は、はっきり見えません。けれど、掌に伝わる重みや温かさ、蓋を取ったときの湯気、かすかな香りによって、口に運ぶ前から味が予感されていく。ここでは、味覚だけが食事をつくっているのではありません。視覚が少し退くことで、触覚や嗅覚や時間の感覚が動き出すのです。羊羹のくだりも印象的です。暗がりのなかに置かれた羊羹は、ただ甘い菓子ではなく、部屋の闇を含んだようなものとして現れます。明るい光の下で切り分けられた食品ではなく、暗さとともに舌の上でほどけていく感覚。そこには、食べるという行為が、空間全体との交感であることが示されています。

見えないことは、感覚の欠如ではありません。むしろ、見えないからこそ働き出す身体があります。すぐに見えないから、手が感じる。輪郭が曖昧だから、匂いに気づく。明るさが抑えられるから、味の奥行きが増す。谷崎が「陰翳」と呼んだものは、視覚を中心とした世界から、身体全体で受け取る世界へと私たちを連れ戻すものなのです。

第三章のポイント

第四章 東洋に別の近代はありえたのか

『陰翳礼讃』の深さは、生活美の話にとどまらないところにあります。谷崎は、漆器や和紙や日本家屋を讃えるだけではありません。そこからさらに、科学や技術のあり方そのものへと思考を進めていきます。もし東洋に、西洋とは別の科学が育っていたなら。もし日本人の生活感覚や趣味に合った技術が発展していたなら。私たちの家や道具や照明や暖房は、別の姿をしていたのではないか。

この問いは、単なる空想ではありません。近代とは、しばしばひとつの道のように語られます。西洋で生まれた科学技術を受け入れ、産業を発展させ、生活を合理化し、都市を明るくしていく。その流れに乗ることが、遅れを脱することだと考えられてきました。日本もまた、その道を急いで歩いてきました。けれど谷崎は、そこに小さな違和を見ています。

近代設備は便利です。けれど、それが日本家屋に入ってくると、どこか不調和が生まれる。電灯は明るすぎ、便器は空間から浮き、暖房器具は座敷の気配を壊してしまう。便利であることと、生活に馴染むことは、必ずしも同じではありません。ここで谷崎が問うているのは、近代を受け入れるか拒むかではないと思います。そうではなく、近代が、なぜその土地の感性に合わせて変形されなかったのかという問いです。

技術は中立に見えます。けれど、実際にはある文化の光の感覚、清潔の感覚、空間の感覚、身体の感覚を背負っています。西洋近代の技術は、西洋近代の感性とともにやって来た。それをそのまま受け入れるとき、私たちは便利さだけでなく、その背後にある世界の見方まで受け入れることになる。だからこそ、谷崎の想像した「別の近代」は大切です。それは、日本を絶対化するための言葉ではありません。西洋に対して東洋を誇るための言葉でもありません。むしろ、近代は本当にひとつしかなかったのか、と問い直すための言葉です。

もっと暗がりを残す技術、もっと光をやわらげる文明、もっと身体の遅さに寄り添う生活のかたちがありえたのではないか。失われたのは、伝統そのものだけではありません。失われたのは、別の仕方で近代化する可能性です。明るさと速さと効率だけではない文明を考える余地です。谷崎は、その余地を、陰翳という言葉でかろうじて照らし出したのだと思います。

第四章のポイント

第五章 明るすぎる現代と、暗がりの喪失

谷崎が見ていた近代の光は、いまではさらに強くなっています。電灯だけではありません。画面の光、通知の光、検索結果の光、ランキングの光、レビューの光。私たちは、物理的にも情報的にも、明るすぎる世界に暮らしています。分からないものはすぐに調べられ、迷う前におすすめが表示され、読む前から評価が目に入り、行く前から写真で場所の雰囲気が分かってしまう。

それは便利です。失敗を避けられますし、時間も節約できます。けれどその一方で、私たちは、まだ分からないものと一緒にいる力を少しずつ失っているのかもしれません。何かをすぐに判断すること。すぐに言葉にすること。すぐに見せること。すぐに共有すること。そうした明るさのなかでは、物事が沈黙している時間が短くなります。

作品に触れたあと、まだ感想にならない感覚を抱えて歩く時間。誰かの言葉を、すぐに賛否へ振り分けず、少し自分のなかに置いておく時間。答えの出ない問いを、そのまま眠れぬ夜のそばに置いておく時間。そうしたものが、だんだん難しくなっているように思えます。暗がりとは、世界から逃げる場所ではありません。それは、世界を急がずに受け取るための余白です。すぐに明るみに出さず、すぐに意味づけず、すぐに消費しないための間合いです。

谷崎が讃えた陰翳は、古い日本家屋だけのものではなく、現代の私たちにも必要な感性なのだと思います。明るさは、たしかに私たちを助けてくれます。けれど、明るさだけでは受け取れないものがあります。はっきり見えないからこそ近づけるもの。すぐに分からないからこそ残るもの。暗がりのなかで、ようやく輪郭を持ち始める感情や記憶や思考があります。

『陰翳礼讃』は、そのことを思い出させてくれます。見えることだけが、知ることではない。明るくすることだけが、豊かにすることではない。私たちは、ときに電灯を少し落とし、画面を伏せ、答えを急がず、暗がりのなかに身を置いてみる必要がある。そこではじめて、失われた知と感性が、静かに戻ってくるのかもしれません。

第五章のポイント

結び 電灯を消した館としての文学

『陰翳礼讃』がいまも読み継がれているのは、そこに古い日本の美が描かれているからだけではないと思います。むしろ本書は、明るく、速く、便利になっていく世界のなかで、私たちが何を感じにくくなっているのかを、静かに問い返してくる一冊です。

谷崎は、近代の光を完全に拒んだわけではありません。人は便利なものを前にすれば、それを使わずにはいられない。そのことを分かったうえで、なお、消えていく影の価値を書き留めようとしました。現実の家屋や道具から陰翳が失われていくとしても、せめて言葉のなかに、その暗がりを残そうとしたのです。

そう考えると、『陰翳礼讃』そのものが、ひとつの電灯を消した館のように見えてきます。ページを開くたび、私たちは少しだけ明るすぎる場所から退き、物がすぐには姿を現さない空間へ入っていく。そこでは、見ることよりも待つこと、分かることよりも感じることが大切になります。

見えすぎる時代だからこそ、暗がりは必要です。それは過去へ戻るためではなく、世界をもう一度、急がずに受け取るための場所なのだと思います。『陰翳礼讃』は、その場所を、いまも静かに開いてくれています。

結びのポイント

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