大阪城は五センチ《 6 》 【創作大賞2024】
《1》《2》《3》《4》《5》《6》
《7》《8》《9》《10》《11》《最終話》
<back next>
何をされても、気持ちがよかった。
シーツをひねり掴んで呻きながら、もっとつよくおさえてほしいと切れ切れに訴えると「ええけど肩外れても知らんで」と宥めるように笑う宇治が、伏せたわたしの肩口を押さえる左手に体の重さを加えていく。
いつもよりも宇治の口数が少なかった。
声を掛けてもらえないことが不安であるのに、不安であることすら止めどなく快楽にすり替わってしまい、わたしの方はいつものように黙っていられず、みだりに言葉をこぼしてしまう。
宇治。
こらえきれずに名前を呼ぶ。そんな名前の人間は現実にはいないのだと理解しながら、他に呼びようがないのでもう一度宇治と呼ぶと、背中にくちびるが当てられた。
入ったものが、ふくざつに動かされ、速められる。おびただしい数の直線を肌の内側に引かれ続けているような混乱の中で、自分が声を上げているのかいないのかも分からなくされて、ようやく安堵してほころびる。
数時間前、展示会を終えて多部ちゃんと別れてからすぐにアプリを開いたけれど、稼働しているセラピストの一覧に宇治はいなかった。
引き下がることが出来ずにDMのページにうつり、文字を打ち込んでは消してを繰り返した末に「今日は予約無理ですか」それだけを宇治に送った。展示会場近くのサイゼリヤでドリンクバーとミラノ風ドリアを頼み、悶々と待っていると通知が来て「十時過ぎなら、時間作れます」と、宇治の方からも見たことのないような簡素な返信が来た。
ほんとうに会ってしまって、だから隔たったのだとはっきり分かって、スマホを持つ手にどうしようもなく力がこもった。
セラピストが一回の施術で得るのは、客の支払う料金の半分ほどらしい。いつか宇治の話ぶりから報酬の見当をつけたことがふと思い出され、隔たりながらも無理を通してくれた人にせめて「客」としてお金をたくさん払おうと、選択できる全ての追加オプションをつけて予約をした。
風俗店が紹介している、予約の要らない安価なホテルの名前を宇治に伝え、約束の時間よりも早く部屋に入り、全力で杵を振り下ろして餅をつくような気持ちで自分の体をすみずみまで洗った。
時間通りに現れた宇治の「さっきは、どうも」とおどけたように笑う面持ちが、ほんの少しだけ強張っていた。笑い返したわたしの顔も、きっと強張っていただろう。ちゃんと自分で体洗ったから、今日はすぐに、してほしいです。丁寧に頼むと、宇治は黙って頷いた。
「予約してくれたオプション、ほんまに、全部やったほうがいい?」
施術が始まってから二回、大きく果てたところで確かめるように訊かれて、頷こうとしたけれど体が心底くたびれていた。
予約をしたからには責任を持ってサービスを受けなければと言う使命感と、いっさい放置されて一眠りしたいと言う単純な眠気とがせめぎ合う。あんなにも退っ引きならない心持ちでいたのに、その心持ちは体力と一緒にすっかり尽きて殻だけが浜に打ち上げられてしまい、ときどき申し訳程度にちゃぷんと波に打ち寄せられるばかりになっている。恋は頭よりも体と深くつながっているのかもしれない。返事をしないまま息を整えていると、背中からそっと布団が掛けられた。ベッドを軋ませて、宇治が足元に移動する。
「とりあえず、足揉んだるわ。今日はずっと立ち仕事やったやろ」
足の裏に薄いタオルをかぶせる宇治の声が、すっかり平常のものに切り替えられていた。右頬をシーツにつけてぐったりと俯せたまま(この人は初めて会ったときも、いまも、ちゃんとセラピストなんや)と、バブを二、三個埋め込まれたような、盛大に発泡し続ける脳みそで思う。
胃。腎臓。小腸。足裏のツボをなぞっていく宇治の手つきが優しい。寒ない?と訊かれて頷き、痛ない?と訊かれて頷き、ユヅルさん胃悪いでと言われて頷く。だんだんと泣きたい気持ちになっている。
「もう。怖いやん、なんかしゃべってや」
前触れなく宇治に胃のツボを強く押されて「ぃいったぁぁっ」と叫びながら反射的に膝下を跳ね上げた。体をよじって振り向くと、南国のバリを百倍インチキにしたような部屋の中、落ちついた紫の照明に肌の色を染められた宇治が、力なく笑っている。そっちの方が、よっぽど内臓悪そうに見えるで。ぼんやり思うと、ふつふつと笑いが込み上げた。
「……プライベートで会っちゃった客からその日のうちに連絡来て、休みやって言ってんのに予約したいとか言われて、しかもオプションプレイに全部チェックついてて、焦った? 距離感と性欲がバグった客から本格的に言い寄られると思った? 断ったらプライベート拡散するぞって脅されると思った?」
淡々とわたしが言い連ねるのをぽかんと聞いていた宇治が、間をおいて勢いよく吹き出して「うん、ちょっとだけ思った」目尻にゆっくりと笑い皺を作った。手を伸ばされたので、大人しく左足を引き渡し、起こしかけた体を横たえる。再度タオルをかけられた足の裏の、ゆるやかな刺激に身をゆだねた。(やっぱり、ちょっとだけ思われたんや)と思い、すん、と鼻で笑って目をつむると、
「でも結局、ユズルさんはそういう人や無い、って思い直した」
まなうらの暗闇に、宇治の声が響いた。目を開けて、首だけを捻って宇治に振り向く。何度見ても体調のすぐれなさそうに見える、紫の顔色の宇治があどけない表情を一瞬見せ、すぐ手元に目を落とす。
「今日は、びっくりした。いきなりユヅルさんがおるから」
「わたしやって、びっくりした」
「しかもダサいとこ見られて最悪や」
「そんなことないよ。わたしなんか会期中いっこも契約とってへん」
「それはダサいと言うより、あかんやつや」
「そう。あかんやつやねん。わたし」
「まあおれも、似たようなもんやねんけど。……いまの会社、先月入社したばっかやねん。中途採用で。久しぶりのカイシャで、気持ちばっか焦って空回ってるわ」
穏やかな顔つきで言いながら、宇治が体を大きく右に傾け、深くあぐらを組み直す。合点がいかずに「せんげつ?」呟くように訊くと、俯いたままふっと肩を揺らして頷かれた。汗が引いたらしく、こめかみの方へ流れていた宇治の前髪がひとすじ、額へと音もなくこぼれ落ちる。
「この仕事、本業の合間にしてるって言うたやん?」
「うん」
「あれ、うそ。これが本業やってん」
丹念に土踏まずを撫ぜていた親指が、足の指の付け根の方へと移される。
「卒業してから飲食の本社勤務しててんけど、コロナで自主退職せなあかん空気になって。仕事できるやつは堂々と残ってたから、情けなかった。あんとき世間もあんなやったし、おれもへんなプライドで次の仕事選り好んでたから、転職先ぜんぜん決まらんかってん。もう嫌になってもうて。ろくに転活せんと、PCRの検査場バイトだけ気ぃ向いたときにやったりしててんけど、そんなんで生活できるわけないやん。だから金借りて。ただでさえ奨学金返さなあかんのにな。そんなこと続けとったら、当たり前やねんけど、気づいたときには借金えらいことになるやん。で、焦って面接受けた高額バイトがこれ。セラピストになってすぐ、アホには出来ひん繊細な仕事なんやって分かったし、相手がいる以上、真摯にやってきた自負はあるよ。それでも、何でおれこんなことしてんねやろって、心のどっかでずっと思うてた」
あまりに正直な物言いに、紙で指を切るときに似た痛みが、さっと胸の内に走った。当然のように揉ませていた足を思わず引こうとすると、素早く手のひらに力が込められ「ちゃうねん、最後まで聞いて」静かに引き留めた宇治が顔を上げる。
「ユヅルさん、おれね。セラピスト春で辞めんねん」
「え」
「返済の目処立ったから。再就職したのも、それが理由」
にっこりと言われ、言葉が出てこなかった。引き留められた左足はそれ以上揉まれることなく、タオル越しに宇治の手に温められている。
「借金がチャラになったら辞めて、この仕事してたことはおれの人生に無かったことにしよう。って、ずっとそんな風に考えながら働いててん。最初から使い捨てる前提で『宇治』になって、自分の人生には絶対交差せえへんようなレーンを走ってるつもりやったから、辞めるって決めた時も、ただ自分のレーンに戻るだけって感覚で。セラピストのプロフィールページ削除してもらって、しれっと消えて、それで終いやと思ってた。けど。展示会場にユヅルさんがおったから、意味がわからんくて」
そこまで話したところで、わたしの顔を見ながら宇治が遠慮なく笑い始めた。何かを思い出したのかもしれないし、紫の顔色で神妙に聞き入る女の見てくれが単純に可笑しかったのかもしれない。宇治につられてわたしも笑い、包まれていた左足を今度こそ引き抜いて体を起こした。布団を引き上げて肌を隠し、体ひとつ分の距離を取って、宇治と真面目に向かい合う。
「レーンつながってたんや、って思った。セラピストになってから、ずっと嘘の時間を過ごしてるような気でおったけど、嘘なわけが無いよな。仕事で身ぃついたこととか会った人とか全部、ほんまごとなんよな。やから、『宇治』が教えてもらった辛辛魚を、『おれ』が食べたりすんねん。嘘やけど、嘘じゃないねん。そんなふうに思ったら、なんか知らんけど、セラピストになってからの二年分のモヤモヤが吹っ飛んだような気ぃした。そのことを、ユヅルさんに話したいと思ってん。ずっと指名してもらっててんから、春で辞めることも、ちゃんと伝えなあかんと思ってん」
宇治の顔つきが誠実にやわらぐのを見て、今まで見てきたどの表情よりも、この顔をいちばん好きだと思った。心細さに似たものが兆して、体に掛けた布団の内側でこっそりと自分の胴回りを抱く。スマホケースに触りたくなったところで、今日は初めて、施術前に銀行のカードに触れなかったことに気づいた。口角がきちんと上がっていたかは分からない、自分では微笑んでいたつもりの口元をうすく開く。
「春って、なんがつ?」
ようやくそれだけ訊くと、さんがつと答えながら宇治がベッドから降りて部屋を見回し、「やっぱ寒いって」と壁に備え付けられているリモコンへ歩み寄る。ボタンを姿勢良く連打する宇治を目に焼き付けながら、風俗を利用すればセックスが出来ると思っていた、初めて利用した日のことを思い出す。
わたしは、三十八歳の処女だった。
施術前のカウンセリングで男性経験の有無について訊かれ、引け目を感じながら「ないです」と告げると、挿入行為はありませんから安心してくださいと宇治に言われて驚いた。積極的にじゃまではないけれど隙あらばいつでも捨てたいと、ずっとそんなふうに思っていた処女だった。
二世帯の報告を受けた孤立感で気持ちが凶暴になっていたことも手伝って、
「施術後も、わたし処女のままなんですか」
詰め寄るような口調で呟くと、宇治の雰囲気がわずかにゆるみ、穏やかな眼差しが向けられた。
「マッサージの範囲ではあるけど、今日は、めっちゃええことしようと思ってます。気持ち込めて、ユヅルさんに触らしてもらいます。でもユヅルさんが嫌なことは絶対にしないです。だからユヅルさんも、無理したり我慢したりしたらあかんで。そしたらきっと、終わったとき、今とは違う気持ちになってるんちゃうかな」
ゆっくりと伝えられた宇治の言葉通り、わたしの体は大切に扱われて、ほんの少しも痛くなかった。人の体が温かくて重たいことを肌で感じられたことが、自分以外の誰かに敬意を持って触れてもらえたことが、あまりに嬉しくて酔いが覚めて、わたしは枕に顔を押し付けてこっそりと泣いたのだった。
空調を整える宇治から目を逸らし、バリと言うよりは西川と言った趣のある、シックなペイズリー柄の布団をかき寄せる。ゆっくりと首を垂れて顔を埋めると、洗濯の清潔な匂いがした。宇治が戻り、ひとの体重ひとつ分、じわりとベッドが沈み込む。
「ユズルさん」
「なに」
「顔あげて」
「いや」
「ユヅルさんて、おれ以外のセラピストと会ったことないやろ」
「うん」
「いいセラピスト、たくさんいてはるから」
「うん」
「みんな、ちゃんと信頼できるから」
「うん、そうやね」
頷きながら、ますます布団を体に押し付ける。「好き」という言葉だけが、体の中を駆け巡っていた。わたしと同じように、海に落ちた客は他にいるんだろうか。その人たちは、泳ぎ続けることができるんだろうか。四月から先も、宇治に会える人はいるんだろうか。その人は、宇治のほんとうの名前で、宇治を呼んだりするんだろうか。
一瞬、全身を激しい嫉妬が貫いて、けれどすぐに霧散した。
消えていくものばっかりや。思いながら顔をあげる。わたしが少しも泣いていないのを見て、宇治がほっと肩の力を抜く。
「大丈夫。辞めるまで、まだ二ヶ月あるから」
「うん。また、予約するわ」
「たぶん、もう出勤表示にせえへんと思うから、今日みたいに直接連絡してもらえたら」
「うん。そうするわ」
大人しく相槌を打ちながら、もしかしたらもう、予約をすることは無いかも知れないと思う。ふと黙り込んだ宇治がこちらに寄り、布団ごとやわらかく抱きしめるので何事かと思ったら、二時間が終わっただけだった。
消えていかないものが欲しい。
思いながら、宇治の体に初めて体重を預けてみる。肩越しに見ている偽物の南国の部屋が、少しずつ滲んでいく。
