見出し画像

大阪城は五センチ《 11 》 【創作大賞2024】

《1》《2》《3》《4》《5》《6》
《7》《8》《9》《10》《11》《最終話》
<back                  next>




混雑するスターバックスで、フードがふっくらと立ち上がった厚手のパーカーに白いスニーカーを履いて、テーブルに近づいてきた男が宇治だったので驚いた。

「こんにちはユヅルさん」
「こんにちは。今日は、若いんやな」
「なにが?」
「服が」
「え、なにそれ。京都しぐさちゃうよな?」
「ちゃうって。スーツ姿しか見たことなかったから、びっくりしただけ。似合ってるよ」
「よかった、うて早々ダメ出しされたんかと思ったわ。ユヅルさんも今日のワンピースかわいい」

深くえくぼを作って言う、宇治の目線がほんの一瞬、わたしのマグカップをすっと撫でる。

「おれも何か買ってきていいかな」
「もちろん。待って、コーヒー代出すわ」
「いらんいらん、自分で買うから。ケーキかなんか食べる?」
「ううんいらない、ありがとう」

部屋で見るのとまったく同じ体の動きで、宇治が羽織っていたコートを脱いで裏返しに畳み、背もたれのない簡易椅子の上にぽんと置く。長い列に向かう後ろ姿を眺めながら、マグカップをかたむけた。まだ湯気の上がるような温度で、コーヒーは半分以上残っている。空だったり冷めていたりしたら、別の言葉が用意されていたのだろうなと思う。どこまでも徹底されているセラピストの気遣いにうっすらいじけたような気持ちでいると、ふいに宇治が振り返った。

「なあなあ、やっぱりドーナツ半分こせえへん?」

屈託のない顔で訊かれ、(ほら。しかもこう言うことするやん。かなわんわ)と思わず笑みをこぼして思い「ええよ」と明るく返事をする。予約時間内であれば、客はセラピストと自由に過ごすことができる。いつも通り二時間のコースを予約して、大阪城の建つ公園内にある、スターバックスを今日は待ち合わせ場所に指定したのだった。

コーヒーを置いて、ソファーに深くよりかかる。窓の外に見える広場の奥で、噴水が高く吹きあがっている。舗装された広い歩道を背の高い木々がふちどっていて、大阪城はここからは見えなかった。宇治が戻ってくると、トレーにはドーナツの隣に、巨大な桜色のフラペチーノがのせられていた。ふたがしまらないほど高くねりねりとしぼられた生クリームの上には、熱帯魚のエサのような平たいフレークがふんだんにふりかかっている。

「だれが飲むんそれ」 
「おれ」
「そのサイズでフラペチーノ頼んでるひと初めて見たわ。生クリームの量もすごいな」
「生クリームは大盛りにしてもらってんねん。おいしいでこれ。毎年この時期限定。食べたことない?」

テーブルにトレーを置いて、宇治が向かいの席ではなく、わたしの隣に腰をおろしたので思いがけず緊張した。ソファーによりかかっていた体をそろそろと起こし、コーヒーに手を伸ばそうとすると「あげる」フローズンの部分をすくったスプーンがこちらに向けられている。大人しく口をひらいて食べると、つめたい桜のにおいが舌の上で甘く溶けた。

「うまくない?」

同じスプーンがもう一度フローズンをすくい、宇治の口に運ばれた。スプーンの先をばかみたいに見つめていることに気付き、あたふたと目を逸らす。いくつやねん、わたしは。と情けない気持ちになり、手のひらが無意識に自分の腹から腿へとすべった。スマホケースの手応えが無いので視線を落とすと、まるで花束を手にしているみたいに、自分の右手が満開のミモザの絵に置かれている。

これで最後なのだからと、ユニクロではない店をいくつも巡り、ユニクロでは売られていないような服を選んでみようと思ったのだった。

仕事が早く終わった平日の夕方に、梅田駅に直結した大きなショッピングモールに足を踏み入れると、どの店にも春服が溢れていた。並べられた色やデザインがさまざまである様子を見て回るうちに、もうずいぶん長い間、こうして服を選んでいなかったことに気がついた。

数年分の春をまとめて買い直すみたいに、大きくミモザが描かれたワンピースを、わたしは選んだ。

そこへ今朝、いつものスマホケースを肩から掛けると、鏡に映したワンピースに黒い斜線が引かれているように見えたのだった。何かが台無しになるような気がして身につけるのをやめたことを思い出しながら、黄色い花の絵を撫でた指をコーヒーカップの持ち手に通す。視線を感じて隣をみると、径の大きなストローでフラペチーノを吸い込みながら、宇治がマグカップのコーヒーを見つめていた。

「ユヅルさんって、スタバでドリップコーヒー飲む派なんやな」
「何その派閥」
「ちょっと意外やったわ。紅茶とかハーブティーとか、お茶系の甘い飲みもん頼んでそうなイメージやった。もしくは、豆乳に変えてチョコシロップ足したラテ、みたいな、一見こだわってるように見えて実はありきたりなカスタマイズをしてるようなイメージ」
「後半ただの悪口やな?」
「ちなみにおれはスタバでコーヒー頼んだこと一回もない。何ならフラペチーノしか飲んだことない」
「子どもやな。と言いたいとこやけど、わたしはスタバに慣れてへんからコーヒーなだけ。ホットコーヒーのMサイズください、って言ったらこれ出てくんねん」
「スタバ来てそんな注文する人おるん?」
「おるよ。わたし」
「すごいな。スタバの人の対応がすごい」

何がそんなに可笑しかったのか、宇治が手のひらで目を覆いながら体を震わせて笑い始めた。これはたぶん、セラピストとしてやなく、ほんまに笑ってるよね。と思いながら、嬉しい気持ちでコーヒーに口をつける。

とつぜん、周りの人たちの話し声が耳に流れ込んできたような気がして、マグカップを両手で持ったままぐるりとあたりを見回した。店の中も、窓の外も、当たり前のようにたくさんの人で溢れていた。混んでいることはずっと分かっていたのに、人がいることを今初めて知ったような、不思議な感覚で隣に目線を戻すと、宇治がいる。たくさんの人たちで溢れる世界に、ずっと前からいて、これからもどこかにい続ける、誰とも同じではないたったひとりの宇治がやれやれと言った様子で一息つき、

はあ、おもろかった。

と呟いて、カップをテーブルの上に置く。ドーナツを半分に割り始めた宇治の、形をつぶすこともなく、左右の大きさをちがえることもなく、器用にきちんと等分する手つきを見ながら、この人を好きになれてよかったと強く思った。中身のすっかり温くなってしまったマグカップを握りしめて、小さく呼吸を整える。

「宇治」
「なに」
「わたしの他に、お客さん何人おるん」
「えっ。聞くかな? そういうこと」
「教えて」
「教えません」
「教えてほしいねん、どうしても。おねがい」

静かに懇願こんがんすると、ドーナツを割った指を紙ナプキンで拭いながら、宇治が考え込むような顔つきでテーブルに目を落とした。新しい紙ナプキンで右半分のドーナツを挟んでトレーの上に置き、左半分のドーナツがのった皿をわたしの前に置く。真顔でちらりとこちらを見た宇治の、口の端がほんの僅かにあげられる。

「……再就職してから、新規のお客さんには会ってないねん。最後まで連絡してくれた人は、五人。ユヅルさん合わせて五人」
「その人たちって、どんな名前?」
「そんなん、言うわけないやろ」
「みんな普通の名前なん? それともSNSのアカウント名みたいな感じ?」
「だめ。個人情報なので一切言えません」
「だって、みんなニックネームやのに?」
「そう。ニックネームでも、誰にも言わへん。これは絶対なの。だからこの話はおしまい。ユヅルさん、このあとどうしたい?」

いつもの笑顔に切り替えて訊かれたので、諦めてわたしもきちんと笑い返そうとしたけれど、胸がいっぱいになってしまってうつむいた。

「行きたいところある?」
首をふる。
「コーヒー冷めたんちゃう? Mサイズ買ってくる?」
首をふる。
「もしかして部屋取ってたりする?」
「取ってへん」
「うん、わかった。じゃあここでゆっくりしよ」

紙ナプキンに挟まれたドーナツを手に取り、宇治がソファーにもたれこむ。ユヅルさん、と呼ばれて顔を上げると、宇治が自分の左肩をとんとんと叩いている。何も考えられず、引き寄せられるように肩口に頬をのせ、宇治の体に身をもたせた。

窓の外で、高く上がった噴水がやがてすぼまり、また空に向かって少しずつ高さを増していく。すこやかな青色がすみずみまで渡るのを見上げながら、どこにも行き場がないような気持ちで「かみさま」光に呼びかけるように言うと、宇治がふと顔を向けた。

「今、かみさまって言うた?」
「うん。宇治って初詣とか行く?」
「行くで普通に」
「あのときって、何をお願いしてるん?」
「お願い? 神社とか寺で、願い事って基本せえへんわ。あそこって、御礼おれいを言うとこちゃうの?」
「おれい?」
「仕事見つかりました、ありがとうございます。みたいな」

思わず見上げると、こちらを見下ろす宇治の顔が優しい。あまりにも近くで目が合ったせいで笑ってしまい、すぐに窓の外へと顔を向けた。「そっか。御礼おれいを言うたら、いいんや」言い聞かせるように呟くと「まあ、神頼みするときもあるけどな」宇治が笑いながらドーナツを齧る。

頬をつけたパーカーから、柔軟剤のほんのりとした香りに混じって、何度も読み返した本を開いたときのような匂いがした。きっと宇治の家の匂いなのだろうと思い、深く息を吸い込んで目をつむる。宇治の、わたしの、身につけた服越しにも体温はゆっくりと行き交って、体のすみずみまで運ばれていくようだった。ありがとう。と胸の中に湧いた想いが、さらさらと、きらきらと、果てしないものに姿を変えて、どこまでも流れていく。

それ以上は何も話さないまま、どれくらいぼんやりしていたのか、自分では分からなかった。分けてもらったドーナツをゆっくりと食べ、時々思い出したように冷たいコーヒーに口をつけ、うとうとしながら噴水を眺めていると、宇治がゆっくりと腕時計を見る。

「ユヅルさん、延長する?」
「もうそんな時間なんや。ううん。延長は、しないです」
「今日ってもしかして、最後の予約やった?」
「うん。この二時間が終わったら、退会するつもり」

ゆっくりと頭を起こし、自分も時計を確認すると、ぴったりと二時間だった。飲み残してしまったコーヒーの入ったマグカップをトレーに置き、紙ナプキンをひとまとめに片付ける。テーブルも拭いておこうかと、小さなおしぼりの封を切っていると、

「なあ、ユヅルって本名やろ」

唐突に宇治に訊かれた。特に否定する必要もない、袋からおしぼりを取り出しながら頷くと、宇治が横から手を伸ばして受け取って、フラペチーノの結露が作った水たまりをおしぼりにじっと吸わせた。

「なんとなくそうやと思ってた。どんな字書くん」
「自由の由に、鳥の鶴」
「へえ。おれは、氏名の氏に久しぶりの久で、氏久うじひさ」 
「……氏久。いい名前やね」
「本名当ててもうたから、これでおあいこってことで」

そのままテーブルをぐるりと拭いてトレーの端に置き、「ほんじゃあ、由鶴さんが嫌やなかったら、ハグしよ」と宇治が体をこちらに向ける。人目の無いホテルの部屋にいるときと同じ、ほんの少しのためらいも感じさせない堂々とした無邪気さで言うので「セラピストって、ほんますごいな」思わず声に出して言うと、「そうやで、すごいねん」と宇治が微笑んだ。

レジの人間が変わったらしい。注文を受けるたびに呪文のように飲み物の名前をうたいあげていた声が、女性のものから男性のものになっていた。そんなに長い名前の商品があるのかと感心してしまうほど、ダブルだのシロップだのを寿限無の朗読さながらに復唱する声が、店内に大きく響いている。

「さいごは、宇治と握手がしたい」

喧騒に負けないように声を張り、自分も体を向けながら言うと、「うん、じゃあハグやなく握手にしよ」と答えながら、宇治がまっすぐに背筋を正す。手のひらをそっと差し出すと、大きな手のひらがしっかりと握ってくれた。温かいものが体じゅうにめぐり満ちて、

「わたし、風俗使ってよかった」

こらえきれずに伝えると、ななめ前に座っている若いカップルが、ぎょっとしながら振り返った。手を握ったまま「声でかいねん」と可笑そうに肩を揺らしながら、宇治がこちらに顔を近づける。

「ありがとう。そんな風に言うてくれて」

右耳のすぐそばで、「氏久」の声が聞かされる。いつも宇治が施術の最後に改まって礼を言うときに放つ、いちばんにやわらかな声だった。いつも、あの礼の瞬間だけは、「宇治」ではない誰かの気配を感じていた。そしてその声の主に絶対に触れないようにすることが、わたしにとっての恋だった。握られた手のひらに、強く力が込められる。すきやで。思いながら、同じ強さぶん、わたしも手のひらを握り返す。

「由鶴さん、元気でね」

宇治に言われて頷いて、どちらともなく握手は解かれた。スターバックスを出てから一緒に空堀からぼりを越え、広い歩道に出たところで宇治がJRの駅を使うと言うので、自分は地下鉄だと嘘をついた。明日も会うような気軽さで「またね」と手を振り合って別れ、しばらく歩いてから振り返る。最後に後ろ姿を見たいと思ったけれど、宇治の姿は人波にすでに紛れてしまって、ほんの少しも見ることはできなかった。

足を止めて、さっきくぐった桜門の方へと顔を向けてみると、石垣の上から天守閣の銅瓦どうががのぞいている。しばらく見上げてから、ふらりと体の向きを変え、スターバックスのあった本丸広場に戻り向かう。



生まれて初めて、大阪城にのぼった。

金の茶室にたまげて、夏の陣のミニチュアをじっくりと眺めて、展示を見学しながら天守閣の階を上がっていく。最上階にたどり着き、回廊式の展望台を北側へと歩いて行くと、大阪城ホールの平たい屋根が見えてきた。

立ち止まり、その向こうへと目線を上げると、宇治と出会ったホテルが誇らしげに建っている。ラウンジからこちらを見つめた日のことを思い出しながら、その場で女性向け風俗のアプリを立ち上げ、退会の手続きを終わらせた。

ホーム画面からアプリを消し、スマホをしまって顔を上げる。ここから見える高層ビルに商業ビル、主要な公共の施設をいくつかのぞいて、空の底に敷き積もるようにひしめく建物の、ほとんどが家だった。遠くにいくほど淡くなる景色の、その灰色のかすみの中にも、数えきれないほどの家がある。

「みんな、よう建てたなあ」

信じられない気持ちで見渡した。手すりにもたれて東風こちを受ける。天守にくっついたシャチホコが、晴れ空にぴかぴかと光っているのを見て、訳もなく口元がほころんでいく。もしいつか、誰かにとってのたったひとりになれるようなことが、わたしの身に起きたとしたら素晴らしいだろうと思う。けれどもし、そんな巡り合いがなかったとしても、わたしは今も、きっとこれからも、自分がひとりであるとは思わない。

恋をしたい。ひろびろとした気持ちで思う。

取るに足らないものでいい、わたしの行く先に現れたものと、どこまでも歩いて行ってみたい。何かを与えられる自信がなくても、何かを与えてもらえる約束がなくても、そのままどれだけ歳を重ねたとしても、堂々と慈しんでは制したとも敗れたとも思わずに、この世界の中で笑っていたい。自分はそんな人間でありたいのだと、思わせてくれた人だった。この先まだまだ続いていく道すじを、そんなふうに生きていきたいと思える力を、わたしにくれた人だった。

大きな街に、やさしい面長の顔がうかぶ。もう二度と会うことがなくても、氏久と呼ばれて返事をするひとの家は、この中のどこかに必ずある。げんきでね。こころの底から真面目にとなえて、大阪城をあとにする。 




#創作大賞2024
#恋愛小説部門

いいなと思ったら応援しよう!