大阪城は五センチ《 2 》 【創作大賞2024】
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《7》《8》《9》《10》《11》《最終話》
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「あんたライン見てへんやろ。おすすめ物件送ったのに」
電話に出ると、興奮した母の声があまりによく通るので、耳にあてたスマホを少し離した。テレビに推しの俳優が出てきたときと同じ、元気よく甘酸っぱい顔をしているにちがいない。スマホの音量を、ふたつ下げる。
「おすすめしていらんわ。あと、既読つかへんくらいで電話せんとって」
「だって楽しみやんか。はよ買ってよ」
「マンガの新刊出たときみたいなノリで言うやん」
「こないだ由鶴が帰ってからずっと、おとうさんと家探してんねん。ジム付きのタワーマンもあるんやな」
「タワマンな」
「窓に沿って自転車がこう、ビャビャッて並べられてる写真見たわ。ええなぁ。おかあさんも夜景眺めながら自転車こぎたいわぁ」
「今日の夜にでもチャリでそのへん走り回ってきたら」
言い渡しながらふと目線をあげると、半開きのカーテンからのぞく景色がいつの間にかしっかり暮れて、迷惑そうに歪ませた自分の顔が窓ガラスに映っていた。若い印象のかけらもない、堂々たる中年の表情にどきっとしながらも(老けたな)と正直に認めてカーテンを閉め、肩から掛けていたストラップを外す。
スピーカーモードにしたスマホをテーブルに置くと、四角い端末がやいやいと一人で喋りだした。バグの起こったSiriだと思えば微笑ましい。おだやかな気持ちでビールの続きを飲み始めると、放置されたことを察知したのか、母の声のトーンが急に下がった。
「はぁ、あんた家探す気ないやろ?」
「無いことも無い。そのうち探すよ」
「そのうちっていつよ」
「機が熟せば」
「なんやカッコつけて。とっくに熟しとるわ。腐りだすで一千万が」
「ねぇ、もうやめてや。貯金の話なんかせんかったらよかった」
「じれったいわぁ。代わりにお金使ってあげようか」
「なんでや」
「とにかく賃貸は今の家で最後にし。おすすめ物件、ちゃんとチェックするんやで。くれぐれもタワーマンで。ええとこ見つけたらまたラインで送るから。ほな」
テーブルに平置きしたスマホに通話終了の表示が浮かび、アイコンがグレーアウトする。やれやれと椅子に深くもたれて缶をあおり、残りのビールを飲み干した。嵐のような母の着電のせいで、さっきまでの余韻が完膚なきまでにかき消され、いまいましいくらいに食欲が増し始めている。
二本目のビールと一緒に、冷蔵庫から寿司も取り出した。
小袋に入ったガリや山葵をトレーのふた裏に全部出し、少し離れたところに醤油の溜まりを小さく作る。粒のじゅくじゅくとへたったイクラの軍艦を食べ、やたら表面の艶めいたイカの握りを食べながら、憑き物が落ちたようにしんと横たわるスマホを見下ろした。
黒い画面の向こうに、嬉々としながら新築物件のページをスクロールする母の顔が見えるような気がする。面倒なことを教えてしまったと後悔しながら、赤色の羊羹みたいな様相をしたマグロの真ん中に、ほんのりと山葵をのせる。
ずっと黙って貯めていたのに、あの日はどうして、口をすべらせてしまったんだろう。
貯金なんか無いだろうと決めつけた兄の得意げな顔つきに苛立ったのかもしれないし、そんな安い挑発にのってしまうほど、お酒を飲みすぎていたのかもしれない。飲みすぎたくなるくらい、あの家がわたしを淋しくさせたのかもしれない。
静まりかえったツインルームでひとり、マグロ寿司の米に醤油を吸わせながら、元日の宴会を思い出す。
◇
二世帯住宅への建て替えが去年の秋に完成して、新しくなった生家で迎える、初めての正月だった。
木の香りに満ちた明るいリビングに、コマちゃんが張り切って整えた洋風のおせちがまぶしく、新築祝いで贈られたというモダンな白磁の酒器で屠蘇を飲むと外国に来たような気持ちになった。
人の長く暮らした家というのはたいてい、家とそこに暮らす人間で肩を組んですわりこんでいるような気配があるものだけれど、建て替えたばかりの家からはその気配が消え失せていた。
家のほうにも住人のほうにも手を伸ばし合うような素振りはなく、糸の抜けてしまった針でガーゼを縫い進んで行くような、浮ついた勇ましさを各々空回らせながら、家族そろって例年よりもお酒を飲んだ。
ナオを昼寝させるために席を立ったコマちゃんが「ああさむいさむい」と言いながら台所に寝そべり、ここも床暖房なんですと自慢して、次に見たときには親子で仲良く眠っていたので上から布団をかけてやった。自分の妻と娘が台所で爆睡していることには目もくれず、飲みさしのグラスをふたつもみっつも目の前に並べた兄は、指に海老の頭をかぶせた手で器用に祝い箸を持ち「豆取れた」と誇らしげに黒豆を見せびらかし、父と母は顔だけでなく鎖骨まわりまで赤くして、わたしが土産で買った豚まんをおいしそうに食べていた。
「次は由鶴やね」
口いっぱいに豚まんを頬張りながら上機嫌で言われて、「その話題もうええって。わたし今年四十やで。今世では結婚せえへんかも」へらへらしながら返事をすると、母の目つきが正気じみた。
「ちゃうわ、家の話よ。今年四十やろ? 遅かれ早かれ買うことになんねんから、いつまでも賃貸でぐずぐず家賃払ってるのアホみたいやんか。もう今年買っとき」
「ええぇ急やな。賃貸、気楽でええやん。別に家にこだわりないし、住めたら何でもええねんけど」
「今はな。歳とったら、あんたが何でもいいって言ったとこで、誰も貸してくれへんかもよ」
「怖。めっちゃ脅すやん」
「所帯持ってへんのは気にならんけど、家持ってへんのは気になるタイプやねん」
「下世話な属性やな」
「とりあえず買ってや。安心するやん。この先結婚して十児の母になる運命やったとしても家だけは買っといて」
「いや、四十過ぎて十児の母になる数奇な運命やったら、家買うよりYouTube始めるわ。情熱大陸みたいなドキュメンタリーっぽいやつ」
「なんやそれ。誰が見んねんな。視聴者ゼロ」
「おい、ユヅー。おかんの言うこと聞いといたら。だってほら。小姑が帰る家は、もう無いねんで」
母との会話にとつぜん横やりを入れられたので隣を見ると、しっかり酔いの回った顔で兄がくつくつと笑っている。家は無いと言われて眉間がカッと熱くなり、「言われんでも、買いたなったら買うし」挑むように言うと、海老をはめた指がゆらゆらとこちらに向けられた。
「買いたくてもユヅのことやから、貯金とかろくにしてへんのちゃう」
「してるわ。ひとの顔、海老で指すのやめてくれる」
「へえ、いくら?」
「……いくらって。一千万、くらい」
「うっっっそやん、あんたが?」
「まじでぇ、やるやん。タワマンとか買えば?」
「え、なにまん? お兄ちゃん今何て言うた?」
「おかん、食いもんの話ちゃうで」
「タワマンなんか、いくらすると思ってんの。買えるわけないやん。ふたりともあほちゃう」
「ねえ、なによ、たわまん」
「あぁ、はいはい。タワーマンションのこと。すごいでぇ、マンションの中に住居者のツレが泊まれるゲストルームとかあんねん。ユヅが買うたら、おれら、ホテルみたいな部屋に千円とかで泊まれるで」
「安ッ。おかあさんそこに泊まりたいわぁ。ええやないの由鶴、たわまんで決まり」
嬉しそうにはしゃぐ母のくちびるのふちに、最初から最後まで、黄色い芥子がついていた。終始黙って話を聞いていた父が、不意に姿を消したと思ったらパソコンを抱え戻って来て、凛とした赤ら顔で調べ始めた住宅情報は北摂エリアのものばかりだったらしく「やめときって。お上品すぎてユヅには合わへん」横からパソコンをのぞいた兄が盛大に吹き出して笑っていた。
昔は無かった天窓から、ばかみたいに陽が降り注いでいた。コマちゃんがむくりと起き上がって「のどかわいた」と呻いた台所の奥、わたしの部屋だった二階の西には、風呂と脱衣所があるのだと言う。異邦人と成り果てた生家のリビングで、一千万、と挑むように答えた口にみるみる淋しさが漲った。やわらかいものが恋しくなったので押し付けるように豚まんをかじり、豪快な玉ねぎの匂いもろとも、わたしは飲み下したのだった。
◇
「家、かぁ」
無意識に呟いた声が、反響しないままツインルームの壁に吸い込まれる。
マグロ寿司を口に運んで箸を置き、部屋を賑やかすためにテレビをつけた。リモコンの上から順にチャンネルを押してみたけれど、正月のせいなのか時間帯のせいなのか、めざましい番組はひとつもない。結局すぐにテレビを切り、リモコンを置いて椅子にもたれ込むと、何とも言えない心細さが胸のうちに立ち込めた。
孤独や。
ぼやきながら、カーテンをちらりと開けてみる。街の中でそこだけ黒く塗りつぶされたような都市公園の木々の向こうで、ライトアップの時間を経た大阪城が、雪闇にくっきりと浮かび上がっていた。
数センチほどの天守閣に見惚れるうち、WEB上に突然現れるポップアップ広告みたいに、なぜか宇治のプロフィールページが思い出された。腰の付け根からうなじの方まで、甘やかな痺れが走り抜ける。姿勢を正して足を揃えながら、
「家、買……いたくないなぁ」
もそもそと言ってカーテンを閉じ、スマホケースの紐を手繰り寄せた。カバーを開き、内側に差し入れている、銀行のカードを引っ張り出す。エンボス加工で盛り上がった口座番号を、でこぼこと人差し指でなぞった。入社以来積み立て続けてきた預金残高のイメージが、いつものように少しずつ像を結んでいく。
想像の中で一万円札の束が少しずつ嵩を増し、わたしの背を越えた後もすくすくと伸びて見上げるほどそびえ立つと、萎みかけていた体に息が吹き込まれ、指先までめきめきと張り満ちて、自分の生まれ持った形がきちんと取り戻されていくような気になるのだった。
ふう、と体の力を抜き、カードを元あったように差し込んで、スマホケースを肩から掛ける。
四十を目前にして、わたしと言う人間にまっとうな自信をあたえてくれるのは、仕事でも家族でも自分自身の個性でもなく、もうすぐで一千万に届きそうな貯金だった。漠然と始めた預金は歳を重ねるごとに拠り所となり、特に宇治に会うようになってからは、分不相応だと 俯きそうになる自分を正当に奮い立たせるために、無くてはならないものとなっている。
この貯金が形あるものに変換されてしまったら、例えそれが資産であったとしても、礎を失くした気持ちになりかねない。貯め込んだものは貯め込んだまま、頼もしい七桁の数字の姿として、側にありつづけて欲しいのだ。
つまり、わたしは家を買いたくないと言うより、預金残高を失いたくないねんな。
思いながら、ふたたび箸を手に取ったけれど、いつの間にか食欲は失せていた。冷やかしのようにガリだけを食べて、ビールも寿司もまとめて冷蔵庫に片付ける。Netflixでドラマの続きを見ようとベッドに寝転び、枕の高さを調整しながらスマホを開くと、多部ちゃんからLINEが届いていた。
<明けましておめでとうございます。明日なんじにしますか。>
絵文字もスタンプもほとんど使わない多部ちゃんのメッセージは、いつも簡潔で、それがかわいい。わたしの方からは新年を祝う無料スタンプを三種類ほど送りつけて、
<十二時とか?>
ハテナの部分を絵文字に変えて返信すると、OKAYと書かれた旗を振るうさぎのスタンプが返された。めずらしいと思ったけれど、新年最初のやりとりなので、気を遣ってくれたのかもしれない。嬉しい気持ちで、うさぎがサムズアップをするスタンプを送り返してLINEを閉じる。
