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井上家の食卓──15歳の夏──

「出汁、変えた?」
味噌汁をひとすすりした父が言った。

一名を除く全員の箸が止まり、食卓は中途半端な静寂に包まれた。

さっきまで大合唱していた夏の虫も、どう言うわけだか静まり返っている。
かつて「滅びろ」などと気軽にのたまったことを今更ながらに反省する。

俺は極力、音が鳴らないように口に残る胡瓜の漬物を咀嚼した。
妹は口から蒸し茄子を垂らしたまま固まっている。
母と祖母は阿形像あぎょうぞうと化したまま顔を見合わせている。
父だけがにこにこと、米やらハンバーグやらをもりもり食べ進めている。

いよいよぬるまってきた胡瓜が不快指数の最大値を超えようか、という時だった。
阿形像その一が、辞書的用法で、、、、、、口を開いた。
「こりゃあ猛吹雪になるかも……」
それはほんの数時間前にやってきた夏も、帰路についた梅雨も驚くこと間違いなしの気象予測だな。
俺はハンバーグのなかから伸びたチーズをたぐりつつ、父のうしろの窓に目を遣った。
妹が俺に寄せる、心底呆れたような顔に気付く。
「なに?」
「チーズだけほじくり出して食べるのやめてよ。」
「あ……」
俺は肉とチーズとをまとめて切り、口へ運んだ。
妹もまた、ハンバーグに箸を入れる。
そのハンバーグからは、肉汁だけがしみ出ていた。

「明日、晴れみたいだよ。」
父は指紋にまみれ携帯画面を印籠の如く見せつけてくる。
誰も反応しないものだから、ぱちんと閉じてテーブルの隅に置いた。
そして父はまた味噌汁をすする。
俺も味噌汁を口に含んだ。

そのかんも阿形像たちの話は続いている。
「この人、昔っから味なんかわかんないで生きてるもんだと思ってたけど。」
「ねえ……」

「で。出汁、やっぱり変えた?」
「ああ、そうそう。変えた。」
「わかった。煮干だ。でもなんでまた急に?」

俺はもう一度、味噌汁をすすった。
さらにもう一度、すすった。
「お兄ちゃん?」
「あ、ああ、なんかこう、深いね。」
妹の笑いが、味噌汁の温度を一気に下げた気がした。

「白石君が持ってきてくれたの。」
「白石君?」
「ほら、悠来ゆうきの……」

母の髪がショッキングピンクに変わっても気づかなかったこの父が──
猫が一匹増えたことに、一ヶ月経ってようやく気付いて「お名前は?」なんて問いかけるこの父が──

機微どころか大いなる変化にすら気づかないこの男が……

俺は自分の舌を恨んだ。

「ひとつお言葉なのですが。」
椀の底に渦巻く、銀の膜を箸先でつつく。
「そっちは猫にって。」
「え?」
「煮干は猫にって。」
「白石君がそう言ったの?」
食べ物の恨みは怖いぞ。
じゃれついてきた二匹の身体を感じながら、俺は味噌汁を飲み干した。

「こっちが人間用です。」
食卓の真ん中に白い紙の箱が置かれた。
どういうわけか、父が勇んで封を切った。

「あら。」
祖母は顎に手をやった。
「ここは、せーの、で選ぶのが吉じゃない?」
母の提案に一同が頷いた。

──せーの!

全員の指先がてんでんばらばらに散った。
ある種の一家離散、と我が身をうれえた。

「え、お前さ。この間、いちご狩りの時、一生分の苺、食ったって言ってたじゃん。」
「そんなこと言ったらお兄ちゃんだって、たった今ハンバーグのチーズほじくり出してたくせにチーズケーキ選んでるじゃん。あと、『お前』って言うのやめてくんない?」
「あ、はい。なんか、ごめん。」
俺は加熱されたチーズが好きなんだ、別にいいだろ。
苺の種の弾ける音を聴きつつ、三角形の頂点を崩した。

ハルちゃん、、、、、もこないだ、『もう苺見たくない』って言ってたのに、また食べるの?」
「言った。言ったけど。それ言ったらみっくん、、、、だって誕生日にチョコレートケーキ食べたばっかりでしょ?」

確かにそうだ。
ただろうそくが三本立っただけのテラテラ輝く茶色いケーキ。
あれの相伴を預かってから、まだ二週間と経っていない。

「それに見て? 苺は一個……これ半分に切れてるから、二個。あとはブルーベリーでしょ、それから……」

そんなことよりその、「ハルちゃん」「みっくん」呼びはどうにかならないものだろうか。
俺は熱すぎる紅茶にこっそり麦茶を注ぎ入れた。

「ていうかパパ、あの時、練乳だけ舐めてなかった?」
赤く染まった剥き出しのタルト生地を切りつつ妹が言った。
確かにあの日、父が苺をもいだところを見た気がしない。
係の人の説明中も上の空で、トッピングコーナーを物色していた。

みっくん、、、、はさ、昔っからそうじゃない? 季節限定のいちご味のポッキーなんかには食いつくくせに、誕生日にショートケーキを手作りしたら苺だけ全部、私によこすの。」
母はタルト生地をフォークの先で突き崩し、真夏の三角コーナーでも触れる時のような眼で父を眺める。
「ハルちゃん、苺、好きでしょ? って! あたかも君のために、みたいに!」
「そう。昔っから本当にそう。病院で出されるシロップ薬ってあるじゃない?」
うんうん、と母が首を振っている。
「あれ舐めたさに仮病なんか使って!」
祖母はココアパウダーを鼻息で飛ばす。
「かき氷も絶対、いちご味選ぶよね。」
サービスエリアのソフトクリームも、ご当地限定シリーズには目もくれず絶対に、だ。

「俺はさ、いちご味が好きなの。」
「何それ。」
妹が俺たちに笑顔を見たのはいつぶりだっただろう。

膝に乗ったスゥ、、ジェット、、、、が、煮干をかじる。

俺は残り一口になったベイクドチーズケーキにフォークをさした。
窓の外ではまた、夏の虫が鳴き始めている。

明日の天気、晴れ。

夏はまだ始まったばかりだ。


【習作】、井上と白石シリーズ、「白石によるの井上のご自宅訪問編」完結しました。

ただ、【習作】はまだ続きまして。
井上と白石はまだしばらく皆様に会いにきますので、温かく見守るなり、時に厳しく叱るなりしていただければ幸いです。
彼らのクラスメイトとして読むもよし、彼らの担任目線になるもよし、はたまた電車で一緒になったていで読むもよし。
です。


最終回直前はこちら。


【連載再開】
再開しました。
すみません。
やはり人生初の短編ということもあり、不人気でも私はこれが自作の中では一番思い入れがあります。


【再開見込】
少しずつ次の一話、進み始めています。
次の章さえ書ければあとは芋づる式に書けそうなんですよ。
いかんせん頭の中では貝原瑞樹がずっと生活していますから。


ちょうど今くらいの気候にあった「水辺のつつじ」の世界線。


【紀貫之】
ちょうど一年前に投稿した記事。
紀貫之の話だと思います。


ゆきお様・作
父の謎、15歳の苦しみ。
大解明!

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