寒冷前線
「ずいぶんと長居してしまって……」
あれから白石は麦茶を一杯だけおかわりした。
俺はあの後三回、水が流れる音を聴いた。
「それに送っていただいて。」
夕立の如く降ってくる蝉の声が言葉を曖昧にしてしまう。
だから俺は、ただひたすらに唇の輪郭を辿るほかなかった。
「挙句、アイスキャンディーまでご馳走になってしまって。いやはや恐縮です。」
俺は「ああ」だの「うん」だの「ううん」だのと、ぶつ切りの反応を返した。
「ここからまっすぐ行けば、帰れると思うよ。」
「あれ……僕の家、ご存知でしたか?」
「ああ……いや? ええと……」
本当のところを告げる勇気はなかった。
真実を蔽うには土から這い出たばかりの蝉には荷が重いだろう。
俺は口を噤んだ。
「そうですか。いや、僕もそうじゃないかと思ったんですよ。」
「え?」
「こちらの公園、子どもの頃、よく来たものですから。」
今も子どもだろ、そう言いかけてやめた。
食べ終えたアイスの棒を二度三度見返して、再び口の中に戻す。
まだほのかにソーダの味が残っていた。
「ちょうどこの下で、よく本を読んだものです。」
「へえ。」
「そうだ……」
白石は左手だけで器用に鞄を開けると、中身を漁り始めた。
公園灯が白く点る。
その光はまださほど意味をなしていないように思えた。
「これ、見てください。」
ぺしゃんこの黒いナイロンバッグから出てきたのは、表紙が剥き出された古ぼけた文庫本だった。
「ああ、さっきの。」
「そうです。さっきのです。」
再び手にしたその本を、俺はぱらぱらとめくる。
相変わらずアイスの棒は口の端に引っ掛けたまま。
「そこ!」
「は?」
声を上げた拍子に棒が唇を離れた。
白石は俺の膝の上でページを五枚ほど戻すと「これです。」と言った。
茶色く大きなしみができている。
日焼けした紙に、絶え間なく生まれ続ける水紋に似た模様が浮かび上がっている。
水紋は、そこから十三ページほど続いていた。
アイスの棒はコンクリートの筒を二回打って、砂利の上に落ちた。
「土管の中って、入ってみたくなりませんか?」
白石は身体ごと傾け、筒の中を覗いている。
「まあ、うん。」
「どこか、秘密基地のようで。」
その瞳は、子どもみたいにはしゃいでいた。
「実はその本もこの中で読んでいまして。」
「そう。」
「あろうことが眠ってしまったんですよ。」
なにか記憶にくすぐられたのか、白石はわずかに身を縮こめ、苦しげに笑った。
「失敬。それで目が覚めたら制服が濡れてい……」
「ちなみにそれっていつ頃の話……?」
「忘れもしません。中学二年のちょうど、今時分です。」
──それなら会ったこと、あるかもな。
白石は首を傾げた。
なんだ、聴こえなかったのか。
「なんでもない。そんなことより早く食えよ、アイス。」
その帰り道、丸い虹を見たと白石は言った。
俺は文庫を奴の鞄に滑り込ませた。
「どこかで雨が降っているかもしれませんね。」
「え?」
「ほら、風が冷たくなったでしょう?」
白石の前髪が額の上を流れる。
「直にこちらも降り出すはずです。君、傘は?」
俺は首を横に振った。
こいつを送るだけのつもりで、財布と携帯しか持って持ってこなかったのだ。
「帰らないと。」
「ああ、早く帰れ。」
「君がですよ。」
「俺、すぐだし。」
俺は白石の背中を押した。
半ば無理矢理に立たされた白石は立ちくらみでも起こしたらしく、砂利にしゃがみこんでしまった。
しばらくして立ち上がった白石はアイスの棒を振りながら言う。
「あ、あれはお早めに。できれば今晩中には召し上がってください。」
「わかった。」
「それから、あのお二方の分はまだ日もちしますから、ご安心を。」
俺は頷きつつ、手の甲で空気を払いのける。
「それから……」
「もういいから、行けって。」
俺は公園東側のフェンスの切れ目を指さした。
絡まった正体不明の蔓性植物の葉が小刻みに揺れる。
「では、また明日。」
「また。」
俺はしばらく灰色の筒の上に座っていた。
あいつが何度も振り向いて手を振るから、帰るタイミングを失ったのだ。
公園の脇を油切れの自転車がのろのろと走る。
もう白石の背中は見えない。
茶色く枯れた紫陽花だとか、その隣で高く伸びる向日葵だとか、そんなようなものを眺める。
案外平屋が多いんだな。
青い瓦屋根が目立つな。
当たり前と思って顧みたこともなかった風景に、やや胸を打たれていることにたじろいだ。
気づけば積まれた筒の一番上で爪先立ちになっている。
その時だった。
空が白く閃いて、電撃の墜落する音が鼓膜を劈いた。
雷鳴が蝉を黙らせる。
たちまち筒は色を黒く変えた。
砂利を雨粒が打ち砕き、フェンスの先のアスファルトは白く飛沫を上げている。
「椋!」
俺は走り出していた。
家とは反対方向に。
ちょうど市境まで走ったところで気がついた。
俺は一体何をしているのだろう。
仮に追いついたとして、俺は白石に何かしてやれるだろうか。
傘を持たない俺は、何を──
答えを見つけられないまま、西へと歩き出した。
黄みがかった灰色の雲が暮れきらない空を掃いている。
東の空は藍を深くして、黒雲に沈んでいた。
蝉の声が戻ってきた。
でもそれは雨音よりも遠く、雨粒の落ちるのより緩やかに、しみ入ることもなく肌の上をつたい落ちていった。
【習作】です。
白石襲来編、次回完結予定です。
私が読切以外で完結させるの珍しくないですか。
雪降るかもしれませんね。
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前回はこちら。
川端康成です。
川端康成×拝啓×パンドラの匣、これらから導き出される文豪は……
太宰治でした。
例の芥川賞事件にまつわる手紙と、彼の書いた「パンドラの匣」。
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誰も待っていないとは思いますが、『殴り殴られ詩人酒場』、連載再開です。
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詩人酒場、ここにまとまってます。
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何を書くかは明白なのに書き出せないつつじの続き。
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白石襲来編まとめマガジン作りました。
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白石主観の習作もある。
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ゆきお様・解説
アイスキャンディーの役割など!
分析していただかたびに、ゼミのことを思い出してにんまりするのだ。
私は散々金田一氏の論文読んでいたな、と。
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