『殴り殴られ詩人酒場』ep.90「文士の見送り」
室に入るや否や大ちゃんは畳にごろり、寝転んだ。
午後一番の陽射しがその瞳を青く照らしている。
拭きそびれの窓硝子が幾分か、光の棘を丸くした。
それでも大ちゃんは目を細める。
「なあ、朔ちゃん。おめェも帝大行くべ?」
「行かねェよ。」
「んだよ……つっけんどんに。」
唇を尖らせて不満を顕にする。
俺はつい、笑ってしまった。
「なんだい? なんも面白いことねェだろうよ。」
「悪ィ、悪ィ。ついな。」
大ちゃんの髪の埃を摘んで屑籠に落とした。
「行くべ、帝大。」
「行かねェよ。」
「チェ、つれねェな……」
寝そべったまま、俺の膝を殴る。
「帝大行くったってなんも、釦に桜咲かそうって話でねェんだぞ。」
「おお、そうかい。俺はてっきりあの悪趣味な赤ェ門通って毎日毎日性懲りも無く学問に精を出そうってことかと思っちまったよ。」
「そりゃあとんだ見当違いだな、朔ちゃん。俺は知ってっど。おめェが何処に何を……」
草介君は巨躯を傾け、じっとしている。
ちらとこちらを見てはまた反らす、を繰り返していた。
「大ちゃん。幼気な弟の前で品のねェこと言うもんでねェよ。」
「笑わせんな? どの口が言ってんだ?」
大ちゃんは身を起こすと胡座に脚を組み、俺の両頬を指で挟んだ。
「草介、おめェ、いくつになった?」
「十七。」
「十八だべ?」
「あ。」
「『あ』でねェよ。この素っ惚け侍めが!」
頬の蝶番を引っ掴まれたままの俺はひぃひぃ死にかけの鳥の如く、涎の垂れかかるのを必死で喉へと落としていた。
「朔ちゃん、俺は知ってんだかんな。今の草介の歳の時分、おめェが……」
溜まりに溜まっていたものが大ちゃんの指をつたう。
「汚ね!」
大ちゃんは俺の袴で指をこすりこすり続ける。
「とにかくだ。草介もいい歳だかんな、知っといて損はねェんだ。なあ?」
草介君は困り顔で首を傾げた。
いまいち話が見えない。
俺も首を傾げた。
「んだよ、おめェら。兄弟みてェだな!」
俺は草介君の肩に腕を回した。
「よう、草介。今日から俺が兄ちゃんだ。」
草介君はくっくっと笑って言った。
「ずいぶんと少年顔の兄ちゃんだ。」
「ああ? ひでェもんだな、馬鹿にしやがって。」
笑い合ううちに誰かさんの腹の虫も泣き笑いし始めたものだから、三人揃って腹をおさえた。
「誰だい?」
「俺かもしんねェ。」
「いんや、俺だな。」
「どいつもこいつも自分のことだってェのにわかんねェのかい?」
揃いも揃ってぺしゃんこに潰れた腹を指さしあってげらげら笑った。
余分に腹の虫は一段と音を大にした。
「よし、俺は決めたど。朔ちゃん、俺はおめェにカツレツ食わしてやる。だから帝大行くべ。」
「行かねェよ。」
振り出しに戻る攻防戦と空腹に耐えかねた大ちゃんは、ぐぅ、と喉奥を鳴らした。
「朔ちゃん。おめェ、何がなんでも行かねェんだな?」
いよいよ切札を失ったらしく、ややうつむき加減に低く言う。
俺は「いかにも」と言うかわりに大きく縦に首を動かした。
「ならアレ、貸してくんねェか?」
「んだよ、アレって。」
「アレだよ、アレ。」
大ちゃんは書棚の本の背のひとつひとつを指先で叩く。
「さて、一体どこに隠したんだろうかね……」
俺はしばらくその姿を眺めていた。
わざと焦点を緩めぼやかして。
草介君が窓を開けた。
町の気配が部屋に吹き込んでくる。
湿り土を踏むゴム底の音、何処かの家の飯支度。
雪解け水の匂いが微かに漂ってきた。
しばらく黙って見ていたが俺は腰を上げ、大ちゃんの後ろに立った。
前に座る大ちゃんの肩の横から一緒になって本の背をなぞっていった。
「ああ……お手上げだ……朔ちゃん。どこ隠した。」
「言わねェよ。」
「まァたそれかい!」
「へへ、だってよ、あんなもんあったら大ちゃん。おめェ、本業が手につかなくなんだろ?」
「余計なお世話だ。」
俺は少しばかしむくれた大ちゃんの頬に顔を寄せてみた。
「……こんなわかりやすい処に置くと思うかい?」
十も数えない程の間があって大ちゃんは、
「人が悪ィぞ、朔ちゃん!」
と叫ぶや否や畳の上に俺を転がした。
衣紋を掴む彼の手を払い除ける。
大ちゃんは俺の顔の横に両手をついたまま右の口角を引き上げた。
「よォし、決めたど。」
今度は腕組みをして俺を見下ろしつつ言う。
「アレ、よこすまで俺はここどかねェぞ。」
下腹部に載せられた重みが堪え始める。
「大ちゃん。おめェ、子どもでねェんだから。そんなにわがまま言うんでないよ……」
「んだよ。大人だってわがまま言いてェ時あんだろうよ!」
「あ。」
「なあ?」
一理あると俺は感心していた。
どうしたわけか身体が硬直った。
胸を隠すような間抜けな形のまま。
口をぽっかり開けたまま。
さながらお池の金魚が餌を喰おうとして、そのまま凍ってしまったが如く。
俺の腹の虫が、さめざめと泣いた。
「ほれ、やっぱりカツレツ食いに行くべ。なあ?」
「行かねェよ。」
窓から吹き込む風に頭のてっぺんを撫でられていた草介君がふいにこちらを向いた。
読みかけの本はばらばらと音を立て、彼の膝の上でぱったり閉じてしまった。
「だどもおめェ、なんだってそんなに出たがらないんだい?」
「なんでもだ。」
声を顰めた俺を胡乱がる大ちゃんに指で合図する。
身軽になった俺は起き上がり小法師の如く身を起こした。
振り向いた時にはもう、大ちゃんは弟の頭に制帽を押し付けている。
「これ! 草介。おめェ帝大見んだろ? なァに寝てんだ!」
「しっ! 寝かしといてやれよ。」
どうやら彼はまだ睡の浅瀬に足を浸して歩いていたらしく、ぱちりと目を開けた。
「兄ちゃん、腹が減ったな……」
この部屋の中で一番大きな身体つきをした草介君が、年齢の理に従順になった瞬間であった。
「たんとカツレツ食ってこい、草介!」
俺は彼の肩に、ぽんと手を乗せた。
それから俺は二人の背の揺れを追い階段を降った。
胸をおさえながら。
「本当に行かねェんだな?」
「まだ言うかい? 行かねェよ。」
またむくれ始めた大ちゃんの背を押した。
草介君は帽子の鍔に指をかけ、頭を下げる。
「またな。」
雪解けの泥濘を蹴って進む二人を見送った。
大ちゃんがこちらを振り向かんとしている。
俺は自分の襟に手を突っ込んだ。
振り向いた彼に、突っ込んで引き出した手をひらり振って見せた。
「あ、こら! てめ……」
その声はもう遠い。
「人が悪ィぞ! 朔ちゃん!」
街を歩く人は「朔ちゃん」なる人物を探し、頭を顔をしきりに動かしている。
俺はそれを塀の陰から笑っていた。
例のアレを、覗き見ながら。
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お久しぶりの上原朔也。
大正時代はまだお正月。
大ちゃんの弟、草介は腹が減っているの巻。
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間空きましたね。
直前はこちら。
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貝原瑞樹の通う大学は入試シーズンに突入。
つまり、瑞樹はもうすぐ二年生。
だからなんだよ!
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【習作連載】
習作で連載するな。
井上と白石がとりあえずわけわからないことを真剣に話している。
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暗渠の上にも三年〜
暗渠通って四年〜
なんの歌だよ。
暗渠に縁があるので暗渠が登場する習作です。
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ゆきお様・解説
帝大、カツレツ、弟。
さて、この意味は。
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よもぎちゃーん!
はーい!
何が好き?
ポテトチップスよりも
お・ぬ・し