七夕の天使
あの朝、俺は確かに天使を見た。
翼を持たぬ、天使を見た。
奴は窓枠に切り取られた空に背を向けて、偽物の空へと手を伸ばす。
そして天使は表情ひとつ変えないで、真っ逆さまに堕ちていく。
──重力を知らない顔だ。
気づいた時には俺は腕を広げ、奴を待っていた。
そして──
「おはようございます、井上君。」
「んあ? え? お……おはよう……」
まさか先客がいたとは……
俺の連続一番乗りの記録が五十二日目にしてついえてしまった。
英単語にすると「F」から始まる四文字の下品な日本語が脳裏を過ぎる。
しかし、いつも後ろから数えて三番目に悠々と登校してくる白石がこんな早くから学校にいるなんて。
梅雨明けどころか、夏の阿佐ヶ谷に大雪来たれりなんてことになってしまうんじゃないのか?
阿佐ヶ谷改め酸ヶ湯なんてことになってしまうんじゃないのか?
「ずいぶんと早いんですね。」
「ふつうだよ……」
「君の『ふつう』は僕にとっては並々ならぬ努力の結果、かなりの奇跡が起きて初めて得られる事象ですよ。」
意味不明な形の声は蛍光灯のあたりから降ってくる。
なんだかよくわからないが、だいぶ無理をしているらしいことだけはわかる。
だったらおとなしくいつもの時間に来ればいいじゃないか。
あれやこれや言いたいことはあるのに、俺の口は炎天下のカラスの如くぽっかり空いたままになっている。
「すみません……そこのそれ……とってもらえますか?」
こいつは馬鹿なのか?
指示語ばっかりだ。
よほど他人は自分のことを注意深く見つめているなんて自信があるとみた。
「ありがとうございます。助かりました。」
白石は危なっかしい足元で笹にてるてる坊主をくくりつけた。
笹はすでに、おびただしい数のてるてる坊主で埋め尽くされている。
「彼らは見せもんじゃないって怒るでしょうが、ある種のエンターテイメントですからね。」
「いや、何の話だよ!」
「君だって、見たいでしょう? 他人の逢引き。」
「……アイビキ?」
「恥じることはありませんよ。人間、誰しも下世話な一面があるものです。」
「……ゲセワ?」
「なに、健全な少年少女のためにやっているんですよ。」
「ほんと意味わかんないんだけど?」
「ですから、織姫と彦星の、く……」
その時だった。
机の上に乗せた、心許ない木板と金属棒の椅子がぐらぐらと揺れたのは。
俺は脊髄反射的に腕を広げていた。
そして今、自分のよりやや高い生物的な温度に胸部と腹部を濡らされている。
「く?」
「いいえ、失礼しました。では、皆さんが『れんあい・りありてぃ・しょう』とやらに熱狂するのはなぜです?」
恋愛リアリティショー……なぜそれがそんなにたどたどしくなるんだ。
日頃澱みなくつらつらと、さながら無人のカフェの蓄音機みたいに喋り続けているじゃないか。
「そりゃあまあ……野次馬根性とか……? ノウハウを学ぶ、とか?」
「正解と不正解、両方です。」
「え?」
「野次馬根性、まさにそれです。ですがね、れんあい・りあり……れあ……り……」
「恋愛リアリティショー。」
「そう、それです。でも、あれはだめです。」
何を突然テレビ番組にダメ出ししているんだ。
お前はベテランプロデューサーか。
それとも局長か。
「あんなこれみよがしに。見られることが想定された関係性など興醒めです。」
「は……はあ……」
「ああいうのは見られてはいけない……知られてはいけない……当該人たちになにかしらうしろ暗い感情があるからこそ視るに値するのですよ。」
いったい俺は、なにを聞かされているのだろう。
連続一番乗り記録をふいにされ、その上、胸やら腹やら潰されて。
「ですからね、僕は駅の改札で抱き合っている男女だとか教室で乳繰り合っている方々のことは見てやらないんです。」
白石の視線は廊下側の後ろから三番目のあたりを彷徨った。
こいつと俺以外存在しない教室で、不在の存在を憂う。
睫毛の先と前髪の先が互いを押し合いへし合いしている。
奴は突然立ち上がった。
そして人差し指を俺の鼻の頭すれすれに突き出し、
「おい、白石。この状況はどう見たっておかしいだろう? 俺の趣味がどうかしちゃったんじゃないかって疑われたらどうしてくれるんだ! 違うのに!」
と叫んだ。
「……なに? 今の喋り方って俺の真似なの?」
「ええ、よくおわかりで。周りに他人がいる時の君の真似です。」
白石はひっくり返った椅子を直している。
汗でわずかに透けたシャツからのぞく背骨が小刻み震えた。
「ともすれば、なぜ暗渠なんてものがあるんです?」
「は?」
「いや……違いますね。なぜ、暗渠なんてものを作った挙句、そこに思いを馳せ、鼻息荒くその上を歩き回る人が尽きないのです?」
なぜだ……
なぜ突然街歩き的な話をしているんだ……
俺の首は四十五度近くまで傾いている。
「見えなくなった川ほど、人は見たがる。」
もうやめてくれ。
首が痛み始めた。
白石は窓を背に腕を組み、窓枠のわずかな凹みに腰掛けている。
「ほら、望遠鏡を覗き込むのはなぜですか?」
「あ……」
十五度まで返ってきた首をさする。
汗でベトついていた。
「隠されたものにこそ、興味をそそられ、心惹かれてしまうんです。」
やっとのことで制汗シートを一枚引き抜くと、俺は首から胸からとにかく拭いた。
ネクタイは後で直せばいい。
「だから天の川もそうです。……まあ、あれは川と言っておいて水なんかありませんがね。」
白石は突然口元を押さえた。
肩が震えている。
「笑ってんの?」
返事はない。
「織姫と彦星。彼らは年に一度だけあの川で落ち合う。」
だからなんだって言うんだ?
俺たちが眺める雲なんて天の川の遥か下を流れる塵のようなものじゃないか。
「彼らは会いますよ。僕たちが雨に濡れていようが、雪で凍えていようが、はたまた晴れていようがね。」
窓の方へ顔を向け日の光に目を細める。
その頬は空に透けているかのように見えた。
「ですから雲が出て困るのは僕たち、野次馬的傍観者の方なんです。」
──健全な少年少女、それはつまり多感な年頃の俺たち全員のことを言っていたのか。
俺はふと廊下側、うしろから三番目の席に目をやった。
桑原さんがぼんやり黒板の方へ目を向けている。
どうしたのだろうか。
ほどなくして、片桐が現れた。
奴らの指と指が窓側で十本に組まれた瞬間、心底興味がなくなった。
俺の目には、さっきまで桑原さんが見ていたであろう景色が映っている。
「井上君、もう願い事は書きましたか?」
「いや……まだ。」
「ではこれを。」
白石は今日の空にそっくりな青色の短冊を俺の机に置いた。
そしてまた窓枠に腰をかけた。
「見んな。」
「ああ……失敬。君、公私混同するタイプですか?」
「は?」
「シャープ・ペンシルの持ち方です。」
「え?」
「それ、毛筆の持ち方でしょう?」
「あ。」
「ずっと気になっていました。」
なんなんだ、こいつは。
俺のシャーペンの持ち方は、こいつにとって天の川での逢瀬の覗き見だとか暗渠に対する興奮だとかに値する興味関心の対象だったのか?
そもそも持ち方と公私混同ってそれこそ……
やめだ。
もうやめだ。
頭が疲れた。
「左下に、♯が見えましたね。」
「シャープじゃねえ! 井上の井だわ!」
言われてみれば確かに直線的で……
って俺は墓穴を掘ってしまった。
ああ、穴があったら入りたい。
いや、あるな。
そこに墓穴が。
「いや、だから見んなって!」
「なるほど……」
「なんだよ。」
「縁起がいい。」
教室にはひとり、またひとり、クラスメイトが入ってくる。
ふたりでひとかたまりになっているのもいれば、三人連なっているものもある。
「さてと……」
白石は立ち上がる。
そして奴はまたてるてる坊主を笹にくくりつけている。
背伸びをして、顔をあげて。
青いゴムソールは教室の床の上で折れている。
──どうやら天使は重力を思い出したらしい。
七月七日、本日晴れ。
今夜俺は南の空を眺めるのかもしれない。
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【習作】
今日の習作の仲間。
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【創作対象2026】
『殴り殴られ詩人酒場』
上原朔也は餅を焼く。
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【恋愛小説部門エントリー中】
ペトリコールとゲオスミンの別もなく言葉だけ使うあなたと俺は違うんです。
なんて貝原瑞樹は言いません。
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【エッセイ】
レモン三部作です。
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ゆきお様・解説
最終的なテーマこれでしょ?
がゆきお様に見抜かれた。
さあ、あなたもご一緒に。
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