『殴り殴られ詩人酒場』ep.84「妬き焼きて餅」
障子は全て開け放たれている。
家中を真新しい風が抜け、茶けた寝ぼけ畳も老いたる鳩時計も皆目を覚ましたようだ。
黒の外套も花紺青の襟巻も、おろしたての顔をして軒下で揺れている。
俺は雪上がりの裏庭で顔を洗っていた。
あまりの水の冷たさに、思わず胸の拳を震わした。
手拭いに顔やら前髪やらの水を吸わせているうちに、目まで清らになってきた。
嬉しくなってしばらく溜まり雪だの解け水の滴なぞを眺め、ぼうっとしていた。
無患子を弾く、軽やかな音が心地よい。
「兄ちゃん、羽子こっちに投げておくれよ!」
見れば足元に色のある影が降りている。
声は柊の垣の向こうから聴こえる。
朱の着物が跳ねる、また跳ねる。
「ほれ!」
虹映しの羽根を生やした黒玉は天から地から光線を受け、一角獣のように天を駆けた。
幻獣は弧を下り、少女の手の中へ舞い降りる。
「ありがと!」
雪を踏み走る軋り音と笑い声とが天高く響く。
空はくすぐったそうに薄霞の白雲を脱ぎ去った。
空も空気も全てが新調されたかのような朝に俺は眼を細め、身体を伸ばした。
澄む風で肺をまっさらに洗い、吐く息が透明になるまで繰り返す──
はずだった。
「朔ちゃん!」
焼け野原の如き声が背後で俺を呼んだ。
「なんだい。」
俺は振り返らない。
まだこの景色に浸っていたかったのだ。
「朔ちゃん!」
ため息をつく。
一回、二回、三回……
いやはや、これでは深呼吸だ。
「ほれ、朔ちゃん!」
「んだよ!」
俺は力任せに振り向いた。
故に首の筋がいかれた。
さすりさすり眺める。
長卓には無尽蔵に五片の花が咲いている。
内白く、外紅い……橙色の花である。
俺は沓脱石の雪を払い、部屋へ入った。
「なあ、イヨさん。いつからやってんだい……これ。」
「あんたが起きてくる前からさ。」
「そりゃあ随分と早起きなもんで……」
「朔ちゃん、そりゃあんたが寝坊助なだけだろ?」
「言うじゃねェか! これでも今日はここいらのセキレイどもを起こしてやったのはこの俺だぜ?」
「……迷惑な子だねェ。寝かしといておやりよ、こんな日くらい。」
イヨさんは回らぬ呂律できれのいい台詞まわしを披露する。
彼女は空になった硝子杯の底を振った。
「そんなもんにしときな。」
「なんだい、下戸のくせに!」
窘める俺を鬱陶しそうに押しのけ、イヨさんは土間へ降りて行った。
足元がおぼつかない。
「やめとけってもう……」
彼女は何かを探しているらしい。
土間を抜け、裏庭へと出る。
「イヨさん? そんなとこに何があるんだい?」
酒でも隠しているのだろうか。
イヨさんは葉蘭の前で立ち止まった。
はりのあるつややかな葉は雪を破って風に揺れている。
彼女は根本の雪を払い、深い緑を掻き分けた。
「あった。」
茂る葉のちょうど真ん中あたりにいつもの煤けた雪平が、かくれんぼの生残りみたいな顔して鎮座している。
イヨさんは真っ赤にぼやけた顔で俺を眺め上げた。
彼女の顔が悪魔の色に変わる瞬間にはもう遅かった。
「臭ェ!」
俺はしばらく土間の隅でイヨさんに背を向けしゃがんでいた。
「朔ちゃんはいつになっならこのおいしさがわかるんだろうね……いくつになっても舌だけは子どもなんだからけったいなもんだよ……」
「うるせェや。椎茸なんか食えなくなって死にやしないんだ……」
学生たちが故郷へ散ったあとの下宿は、極めて静かだ。
イヨさんが茸を咀嚼する音が解け残る雪へと吸われていった。
しかし、静寂は三分ともたなかった。
「おんや、朔ちゃん。この黒豆絶品じゃないか!」
「そうかい、イヨさん、それ好きかい?」
「朔ちゃん、あんたも食いな。」
「俺はいいよ。散々食って、美味ェのも知ってっから。」
「へえ……」
そして、アナカマの方は一分ともたなかった。
しかし再び訪れた穏やかなる時間を俺は自ら打ち破ってしまった。
「なんだい、イヨさん。また妬いてんのかい?」
「馬鹿おっしゃい! ちょっと……朔ちゃん?」
「あ?」
餅は、二色の碁石を背中合わせに貼り付けたかのようになっている。
火箸を鳴らし、イヨさんは言った。
「ほんっとに……世話の焼ける子だね、朔ちゃん。」
俺は彼女の背後につっ立ったまま、続く言葉を見つけられずにいた。
庇の雪がひとかたまり落ちてきた。
その音は低く、腹にずんと響いた。
「ああ……なんだかね、さっぱりしたもんが食いたいよ。」
イヨさんは俺の肩を軽くついて、部屋へと戻っていった。
俺は迷いなく土間の隅の樽を開け、中から白菜を引っ張り出りだした。
沫雪の如き気泡が爆ぜる。
曹達水に似た音を立て、生熟のりんごの香がわっと立ち昇った。
これを「饐えた」だの「古ぼけ雑巾」だのと二、三日前に思ったような覚えがある。
しかし、今日はどうだ。
この上なく瑞々しく感ぜられる。
出刃振り下ろさんとした瞬間のことである。
「何やってんだい!」
「何って見たらわかんだろ。白菜……」
「見なくたってわかるよ。私が着けた白菜だからね!」
酔いが過剰に回っているイヨさんは右腕に酒瓶を抱き、左腕で柱にしがみついている。
そこからその眼光のみで俺の動きを留めている。
俺の手はわなわなと震える。
「それともなんだい? 切りたい縁でもあんのかい?」
イヨさんは哀れみの表情で俺を見つめた。
薄紅の結膜に、血の道が太く走っている。
「は?」
「ああ……因果応報……女かい?」
イヨさんは瓶を真っ逆さまに振った。
冷たい飛沫は俺の眼で熱く沸いた。
「おい!」
「何が『おい』だ! 口の利き方がなってないねェ!」
四等に切り分けただけの葉球は、樽の中で縮みこそしたが尺は立派なのだ。
結局、長卓では老いし大蛇がとぐろを巻いて、睨みをきかすのだった。
「ほれ、朔ちゃん! そっち引っ張っとくれ!」
「んん!」
「もう少し!」
大蛇が去る頃にはもうすっかり疲れ果て、イヨさんと俺は畳に仰向いたまま黙っていた。
相変わらず空は青く、高らかである。
こんな日くらい──俺は光の粒を睫毛で弾き、夢を見ようと息を吐いた。
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ゆきお様・解説
砕いて砕いて読みやすく。
いつもありがとうございます。
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はーい!
何が好き?
ポテトチップスよりも
お・ぬ・し