青春譚は苦悶式
壊滅的に屎尿と腐敗の臭いに支配された教場で、平安の世のほの甘いシチュエーションに私は頭……及び黒い帽子を抱え、悶々としていた。
ラップで包んだだけの味気ない塩むすびが鞄の中で死んでいく。
ああ……黒板が汚い。
教授が熱を持って書きつける平安の乱痴気は乱層雲の中に沈み込んでいくようで。
またその文字というのも縦横無尽にのたうち回る絶命寸前のムカデの足跡の如し。
隣の席の女がポニーテールを振り乱しながらせっせと手を動かしている。
「何やってんだよ……」
依然として頭と帽子を抱えたまま俯き気味に横に目をやる。
女はぴたりと手を止めて頬を赤らめる。
「やめて、中也!」
「おん?」
「中也の姿でその上からくる感じやめて!」
彼女曰く「悶!」になるからやめろとのことだ。
……って待て!
中原中也(三次元)のコスプレで来いって言ったのあんたやろがい!
おぬしが「悶!」なら私は「苦悶式」だ。
バサっという音が同時に四方八方から集まり、大きな鳥の羽ばたきを彷彿とさせる。
私は頭から手を離し、あたりを見回した。
皆、ダンマリで机の上を見つめている。
──なんだ、視線で机に穴を開ける大会か。
【視線で机に穴を開ける大会】
一点を見つめ、穴を空ける儀式。
当てられたくない授業中、名指しの危機を知らせる警戒ワードが対象から発せられた瞬間、関係のない一点を見つめ回答をキャンセルする方法の隠語。
黒いマントの下で、冷や汗が体温を奪う。
目の前が暗くなる。
果てしない圧を感じる。
……クソ、ニュートンの野郎!
重力を操作しやがったな。
だがこっちにはウィリアム・テルがいるんだ!
(いない)
お前のりんごなんてひと射りで木っ端微塵だ!
「中原中也君、君は一体今何を思っていたのかな?」
教授は試すような眼を向けながら私のレジュメを摘み上げ、分厚いレンズの前で揺らす。
……やばい。
“源氏物語の講義の最中にウィリアム・テルにニュートンのりんご射抜かせて遊んでいた”なんて言えない。
ニヒルな笑みを浮かべた野郎は
「さあ……」と迫ってくる。
A4の右上がわずかに粉っぽくなっていることに私の心は突沸した。
汚れちまった悲しみに 今日も石灰こびりつく
汚れちまった悲しみに 今日も窒素は腐っている
──キーンコーンカーンコーン……
ウィンストミンスターの鐘が終わりを告げる。
──バコーン! ガタッ! ゴトゴト……
鐘と共に去りぬ。
とにもかくにも皆、離れたいのだ。
まるで今にも崩れゆく城から逃げ出すかの如く、とにかく走る。
「廊下は走ってはいけません」
例えその首をギロチンにかけられるとしても、我々は走らざるを得ない。
あまりにも屈強な嗅細胞が、あの強烈な臭気と両者一歩も引かぬ熱戦を繰り広げてしまうからな。
もうそこは早々に降伏してくれよ!
例に漏れず、私とポニーテールの女……もといナオミも走る。
教場の中からして走る。
出口君という嘘みたいな本当の名前の学生が、出口で鞄をひっくり返して通行止を起こしている。
「ああ……ごめんね……俺のせいで出口の見えない地獄みたいな空間作っちゃって……ぐすん……臭いな……本当に臭いな……」
「言ってる場合か! ほい! これも! ほい!」
あの臭いは若者の生きる気力まで奪い去っていく。
「ほら! もうさっさと逃げるぞ!」
我々は遅れること三分ほどで脱出。
ひたすらに服のにおいを嗅ぎ嗅ぎ、臭いがしない場所まで避難する。
しかし、嗅げば嗅ぐほど臭いのだ。
今ならわかる。
あれは服に臭いがこびりついたのではない。
嗅覚と脳にべったりと塗ったくられたのだ。
時計は12時ちょっと過ぎを指している。
酸っぱいものが口の方に上がってきて、どうしようもない。
しかし、腹の虫はグオオオオオとがなる。
それもそのはず。
昨日の昼以降、何も食べてはいない。
さすがは欲求三銃士の一だ。
“食欲”は虫酸などものともせず私の腕と口腔、咽頭に冷徹に指令を下していく。
──にぎり飯、用意!
ラップに包んだだけの無防備な塩おむすびを引っ掴む。
──口を開けろ! 大きくだ! いや、もっと! もっと大きく!
私は貪るようにかじりついた。
「なんか臭い気がする……」
塩むすびは死んだのだ!
我が鞄の内側で、静かに死んでいったのだ!
自暴自棄で舗装不良のキャンパス内の地面のひび割れを右足で踏み鳴らしていると、どこからともなく嗅ぎ慣れた「生」の匂いが漂ってきた。
私は誘われるように匂いの方へふらふらと近寄っていく。
しかし、速度がおかしい。
匂いの方から寄ってきている……?
口を開けたままのオマヌケフェイスの私の横でもう一人、口をポカンと開けたまま立ち尽くしている奴がいる。
「ちょっと……この人……」
震える人差し指の先には、見慣れた男が立っていた。
それも、明太スパゲッティを携えて。
「あー、よかった! いたいた。」
男は平然としている。
割れた地面に色気のないプラスチック容器を置き、鞄をゴソゴソし始めた。
「これ、忘れてったでしょ!」
男は私の臭い靴下をむき出しのまま突き出してくる。
親指の下あたりに盛大に穴が空いているおおよそ外気にさらすべきではないシロモノだ。
ありがたいけど今じゃない!
右手に塩むすび(12:17死亡確認)、左手にイキのいい激臭靴下。
「どう? おにぎりの塩加減は。」
そうだ、この召された塩むすびを作ってくれたのは他でもないこの男だ。
ナオミは私の右手からおむすびをひったくり食べ始めた。
「ちょ! え?」
「え?」
困惑する私と男をよそに恍惚の表情を浮かべ、頬張っている。
彼女の咽頭がわずかに下がる。
そして、小さく口を開く。
「整った卵型の輪郭……」
──私は腹の虫を虫の息にしてやろうと鳩尾をグイグイ押し込む。
「眉の真下、垂れ目で黒めがちな瞳……」
──虫は初めから虫の息だ。
だって、虫そのものなのだから。
「ぷっくりとしたうらやましいばかりの涙袋……」
──グゥ……
潰れろ! 潰れてくれ腹の虫!
「まっすぐ通った鼻筋……」
──呆気に取られ明太子スパゲッティを拾い上げるタイミングをなくしている男。
「少し厚めの下唇……」
──親指で自分の下唇を確認する男。
「身長……多分165センチメートル以下!」
──途端に打ちひしがれる男。
ナオミはくるりと男に背中を向ける。
そして私に耳打ちした。
「ねえ……ピンヒールで踏んづけたい……」
おん?
「だから、ピンヒールで踏んづけたい!」
「何で?」
「めっちゃ中也だから……」
「え?」
「彼、中原中也の生き写しレベルだよ? 踏んづ……」
「いやいや、なんでよ、やだなー、ナオミ! なんてこと言ってんだ!」
……聞こえていませんように。
祈るように男の方を向き直ると、まだぽかんとしている。
中也の顔で。
「踏んづ……」
「あっれー? おっかしいなあ! 私の! お昼ご飯が! ない! 急いで買いに行かないとー!」
私は必死にナオミの言葉を遮る。
中也の格好で。
私は左手の親指と人差し指の爪クッセェ靴下をぶら下げ、右手で彼女の前腕を引っ張りその場をあとにした。
なんということだ……
卒論のテーマにまで掲げた中原中也はピンヒールで踏んづけたい対象だったのか……!
これまで私に彼の詩の美しさを語ってくれた時の熱さの裏でこんな欲望が渦巻いていたとは。
嗚呼……中也、逃げて!
今すぐ雲の後ろに隠れて!
上を向き過ぎて帽子が転がり落ちた。
久しく恋というものから遠ざかっていたナオミ。
エンジンスタートからのフルスロットルで空腹の私をそのままにしてブンブンと暴走していった。
またいつもの教場でナオミと私は隣り合って座っている。
「ねえ、あっちの中也全然遊んでくれないんだけど……」
完全に恋する乙女だ。
私は板と板の間に猛然と挟まりにいく。
「いやまあその……私もあのォ……幾度となく彼の部屋で朝を迎えておりますがその……一度たりとも何もございませんので……」
「それは単におぬしに性的魅力がないだけでは?」
おい!
失礼だろ!
……いや、あながち間違いではないけど!
でも失礼だろ!
そうこうしているうちに季節は流れ、キャンパスの銀杏がえげつないほど黄色くなった頃。
前方からナオミがニヤつきながら近づいてくる。
「ご機嫌だね、どうしたの?」
「ねえ、ランボォ。私、フラれたの中也に。」
──Pardon?
今なんつった?
ランボォ?
「女に興味ないって!」
──だから言ったではないか!
それを「それは単におぬしに性的魅力がないだけでは?」とかなんとか言って退けたのはおぬしじゃろがい!
「でも聞いて! グフ……逆に今燃えてんの! もうさあ……止まんないわけ!」
何が止まらんのかは知らないが止まってくれ。
田園都市線が「池尻大橋には止まりません」っていうたびに惰性で「止まれよ!」とツッコミを入れるが如く、言いたい。
「やっぱりさ……中也の生き写しが出てきちゃうとおぬしの過度な気だるさはもうランボォなわけよ。でね、考えたの。中也×ランボォを! ランボォ×中也じゃないからね! そこの順番は間違っちゃいけない。」
【アンチュール・ランボォ】
フランスの詩人。
15歳から20歳まで詩を書き続けた人。
中原中也にやたらと影響を与えた人物。
「あ、はい。」
「ランボォは飲み過ぎて帰れなくなって中也の部屋に泊まる。あ! あのね、もうこれおぬしは生物学的に男ね! 今この瞬間から男ね!」
「あ、はい。」
あ、はい。じゃないんだよ!
そう簡単にとんでもない運命を受け入れるな!
チャリンコに乗るたびに段差でヒヤヒヤするとかそういう不便があるだろ!
「でも、中也は無防備に爆睡しているランボォに触れることもできない。なぜなら! 尊敬している、憧れている人物だから。でもそれゆえに知りたいの、中也は知りたいの! ランボォの全てを。」
「ええ。」
「だからね、眠るランボォの髪を撫でようとして手を伸ばすけどすんでのところで踏みとどまる。そんなことを繰り返しているうちに夜が明ける。そして中也はまた涙を飲む……」
ナオミ、自分で言って自分で泣く。
恋に敗れた女が描く架空の恋の方がよっぽど切なかったあの日、私は出口君が入口から建物に入る後ろ姿に腹を抱えて命が尽きるまで笑った。
この日、ナオミと私壊滅的に屎尿と腐敗の臭いを嗅ぐことはなかった。
恋の終わりは特大妄想の始まり。
その後ナオミが美術部の非公式オリジナル漫画寄せ集め雑誌に寄稿した『中原中也×アンチュール・ランボォ』は爆発的に流行り、私はよもや彼女は漫画家になっちまうんじゃないかと思いましたよ。
そして、あわよくばこの漫画の製作にはワタクシの涙ぐましい犠牲の日々があったのだと各種メディアの取材に答えるべく身なりを整えたのだった。
もちろん、そんな日は来ていない。
今日も靴下の穴をひた隠しにして、ひっそりと佇んでいる。
↑
ユキオフスキー作
協奏曲第二番「出口」
絶対声に出して呼んでくれ。
自分がいるのが出口なのか入り口なのか、はたまたどれでもないのかわからなくなる。
不思議な体験ができる。
↑
ナオミは高校の先生になりました。
↑
あの壊滅的な屎尿と腐敗の匂いは駅伝の選手も嗅いでいる。
↑
ドッペルゲンガーを使い私を殺そうとしてくるカナもあの臭いの被害者だ。
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ポテトチップスよりも
お・ぬ・し