深淵の大魔道士 第12話「守る者、使う者」|創作大賞2026|ファンタジー小説部門|ライトノベル|ラノベ



黒龍の森を抜けた時、朝の光がやけに眩しかった。
夜の底のような森。
星の映る水面。
白い花々に囲まれた光の祠。
そして、百年ぶりに名前を呼ばれたハイネの横顔。
すべてが、まだ夢の中の出来事みたいだった。
けれど胸元に触れると、そこには確かに、白い花のブローチがある。
フラワー・マンディは、そっと指先でそれを包んだ。
ひんやりとしているのに、不思議とあたたかい。
光というより、帰る場所の温度に近かった。

「……本当に、戻ってきたんですね」
ぽつりと零れた声に、隣を歩いていたラビー・クリステイルが小さく息を吐いた。
「戻ってきたからには、授業も課題もありますわよ」
「う……」
「現実ですわ」
その声はいつも通り少し強気だった。
けれど、以前のように鋭く燃え上がる感じはない。
ラビーの片耳には、金朱色の小さなイヤーカフが灯っている。
ヒュンケルから託された、夜を照らすための火。
ラビーの炎は消えたわけではない。
ただ、外へ漏れなくなった。
「ラビーちゃん、火が静かです」
「……褒めてますの?」
「うん。すごく」
真っ直ぐに言われて、ラビーは一瞬だけ言葉に詰まった。
それから、少しだけ顔を背ける。
「当然ですわ。わたくしは成長が早いので」
その肩で、不死鳥が小さく羽を震わせた。
少し前を歩いていたハイネ・ベルセルクが、眠たげな顔で振り返る。
「ラビーさんは、かなり上手くなりました」
「ハイネさんに素直に褒められると、逆に落ち着きませんわね」
「じゃあ、取り消します」
「そこは取り消さなくていいですわ!」
フラワーは思わず笑ってしまった。
黒龍の森。
光の祠。
百年越しの再会。
あまりにも大きなものを見たはずなのに、学園へ戻る道は、驚くほどいつも通りだった。
けれど、何も変わっていないわけではない。
フラワーの胸元には、白い花の光がある。
ラビーの耳元には、夜明けの火が灯っている。
そしてハイネの横顔には、ヒュンケルに会う前とは少し違う静けさがあった。
ハイネはそれを隠そうとしていた。
いつもの眠たげな顔で。
いつもの気の抜けた声で。
いつものように、何もなかったみたいに。
でもフラワーには、少しだけ分かってしまう。
あの人はまだ、光の祠に心の一部を置いてきている。
「ハイネさん」
呼ぶと、ハイネはゆっくり振り返った。
「はい」
「また、行きましょうね」
「……どこへですか」
「光の祠に」
ハイネは、答えるまでに少しだけ時間がかかった。
やがて、小さく目を伏せる。
「……はい」
それだけだった。
けれど、その声は少しだけ柔らかかった。

*
放課後。
学園裏の水場には、夕方の光が薄く落ちていた。
フラワーは杖を握り、目の前に小さな水珠を浮かべている。
その中には、一枚の白い花びらが揺れていた。
以前なら、フラワーは水場全体の魔力を拾いすぎていた。
水の流れ。
木々の気配。
遠くの生徒の声。
ラビーの火。
ハイネの深淵。
すべてを感じ取ってしまい、どれを見ればいいのか分からなくなっていた。
でも今は違う。
全部を見ない。
必要な一点だけを見る。
水珠の輪郭。
花びらが沈まないための、ほんの小さな支え。
そこだけに意識を置く。
そこにいていい。
沈まなくていい。
強く輝かなくていい。
ただ、帰る場所としてそこにある。
水珠の表面が、かすかに光った。
白い花びらは揺れる。
けれど、沈まない。
一秒。
二秒。
三秒。
「……できた」

自分で呟いた声が、少し震えていた。
ハイネはそばで見ていた。
眠たげな目の奥が、ほんの少しだけ細くなる。
「いいです。前より、魔力の広がりが少ない」
「それ、褒め言葉ですか?」
「はい」
ハイネは真面目に頷いた。
「広げすぎると、守りたいものまで押し流すので」
その言葉に、フラワーは胸元のブローチに触れた。
守る。
でも、包みすぎない。
帰る場所は、閉じ込める場所ではない。
ヒュンケルの言葉が、まだ胸の奥に残っている。
フラワーはもう一度、水珠を作った。
今度は少し大きく。
けれど、広げすぎないように。
白い花びらが、水の中で静かに浮かぶ。
その小さな光を見ていると、ふと、ハイネの背中を思い出した。
光の祠から出ていく背中。
振り返らなかった背中。
深淵が光にとって異物だからと、自分から距離を取った人。
いつかあの人が、また深い場所へ沈みそうになったら。
その時、自分はこの花を咲かせられるだろうか。
「フラワーさん」
ハイネの声で、意識が戻った。
「はい」
「今、遠くを見すぎています」
「あ……」
「目の前の花びらから、離れないでください」
フラワーは、慌てて水珠へ意識を戻した。
花びらはまだ沈んでいない。
ほっと息を吐くと、ハイネが小さく言った。
「でも、悪くないです」
「本当ですか?」
「はい。前より、帰り道っぽいです」
帰り道。
その言葉だけで、胸の奥が少し熱くなった。
少し離れた場所では、ラビーがひとりで炎を灯していた。
指先に、小さな火がある。
以前なら、その火は一瞬で大きく燃え上がっただろう。
けれど今、彼女の指先にある火は違った。
小さい。
静か。
けれど、揺らがない。
「……弱く見えますわね」
ラビーがぽつりと呟く。
「弱くないです」
ハイネが即座に言った。
「漏れていないだけです」
「漏れていない?」
「はい。火が、ちゃんとラビーさんの中にあります」
その言葉に、ラビーは黙った。
火を外へ出すこと。
燃え上がらせること。
見せつけること。
それが強さだと思っていた。
でも、黒龍の森では違った。
燃えすぎれば、森に敵と見なされる。
火を消せる者だけが、本当に火を扱える。
以蔵の言葉が、まだ耳に残っている。
ラビーは小さく息を吸い、指先の火をさらに細くした。
消すのではない。
隠すのでもない。
必要な時まで、内側に畳む。
火が、すっと小さくなった。
その瞬間、不死鳥が肩の上で満足そうに羽を震わせる。
ラビーはふっと笑った。
「……悪くありませんわね」
「はい」
ハイネが頷く。
「今の火なら、森にも嫌われません」
「褒め言葉の基準が黒龍の森なの、どうかと思いますわ」
「実用的です」
「そこは否定しませんけれど」
フラワーは、そんな二人を見ながら笑った。
水の音。
小さな火。
不死鳥の羽ばたき。
眠たげなハイネの声。
ここだけ見れば、世界はとても穏やかだった。
けれど、穏やかな時間ほど、次の嵐の前触れみたいに思えてしまう。
その予感は、すぐに形を持った。
学園中に、鐘の音が響いた。
一度。
二度。
三度。
ほどなくして、校内放送が流れた。
『全生徒へ連絡します。来週より、年に一度の学園対抗戦を開催します。各クラスは四人一組のチームを編成し、明日までに登録を済ませるように』
フラワーは目を丸くした。
「学園対抗戦……?」
ラビーの表情が、はっきりと変わる。
「もうそんな時期ですのね」
「知ってるんですか?」
「当然ですわ。魔法士学校の一大行事ですもの」
ラビーは腕を組み、どこか誇らしげに言った。
「四人一組。選手は魔力反応式のペンダントを装着し、それを破壊されれば退場。陣地クリスタルを落とされても敗北。つまり、火力だけでは勝てませんの」
ハイネが小さく頷く。
「戦術戦ですね」
「ええ。だからこそ、ただ強い魔法を撃てばいいわけではありませんわ」
そう言いながら、ラビーは少し嬉しそうだった。
強さを示し、実力を競い、自分の成長を確かめる場所。
フラワーは少し不安になった。
「私、出られるかな……」
「出ますわよ」
「えっ」
「フラワーさん、あなたもです」
ラビーは当然のように言う。
「せっかく光の祠まで行ったのです。試さずにどうしますの」
フラワーはハイネを見た。
ハイネは少しだけ考えてから、言った。
「出てもいいと思います」
「本当ですか?」
「はい。ただし」
そこでハイネの声が、少しだけ真面目になる。
「大魔道、上位魔法、大魔道具は禁止です」
ラビーの眉が跳ねた。
「は?」
「魔法士学校の試合です。大きすぎる力を使って勝っても、意味がありません」
「ですが、相手が強ければ――」
「強い魔法で勝つ練習ではなく、必要な魔法を選ぶ練習です」
その言葉に、ラビーは口を閉じた。
必要な魔法を選ぶ。
必要な一点を見る。
それは黒龍の森からずっと続いている課題だった。
ハイネは眠たげな目で二人を見る。
「フラワーさんは、守る範囲を見極める練習になります。ラビーさんは、火を出すタイミングを選ぶ練習になります」
「ハイネさんは?」
フラワーが尋ねると、ハイネは少しだけ視線を逸らした。
「私は、できるだけ何もしません」
「何もしないんですか!?」
「私が動くと、学びにならないので」
ラビーが呆れたように息を吐く。
「つまり、わたくしたちに勝てと?」
「はい」
「初級魔法だけで?」
「はい」
「相変わらず無茶を言いますわね」
ラビーはそう言った。
けれど、その口元には笑みがあった。
フラワーも、不思議と逃げたいとは思わなかった。
自分がどこまでできるのか、知りたい。
そう思えたこと自体が、少し前の自分とは違う気がした。

その時、少し離れた木陰から声がした。
「楽しそうだな」
三人が振り返ると、以蔵がそこにいた。
肩に刀を担ぎ、相変わらず気だるげな顔をしている。
けれど、鬼徹の刃は鞘に収まっていた。
「以蔵さん、まだ学園にいたんですか?」
フラワーが驚いて尋ねる。
「迷子だからな」
「堂々と言うことではありませんわ」
ラビーが呆れる。
以蔵は笑った。
「学園対抗戦か。刀で出ていいなら手伝ってやるが」
「だめです」
ハイネが即答する。
「そもそも生徒じゃありません」
「細かいな」
「大事です」
シャムがどこからともなく現れ、以蔵の足元で尻尾を揺らした。
「迷子剣士を参加させたら、大会が別ジャンルになるからね」
「猫もいたのか」
「君ほど迷子ではないよ」
「斬るぞ」
「ほら、すぐ物騒になる」
フラワーはまた少し笑ってしまった。
重いものをいくつも抱えて帰ってきたはずなのに、こうして笑える。
それもまた、光なのかもしれないと思った。
*
同じ頃。
魔法士学校の学園長室には、静かな緊張が落ちていた。
メルスティンは、机の上に置かれた報告書を見下ろしている。

そこには、数週間前に起きた龍族襲撃の記録がまとめられていた。
黒紫の魔法陣。
龍を奈落へ沈めた無数の黒い手。
記憶保護処置。
一部欠落した証言。
そして、中心にいた黒髪の少女。
「説明していただけますかな、メルスティン校長」
低い声が、部屋の奥から響く。
窓際に立っていたのは、ダスティン校長だった。
魔道学校側の権威者であり、魔導協会にも強い影響力を持つ人物。
来るべき龍族大侵攻では、総大将候補と目される人物でもあった。
メルスティンは、いつものように穏やかに笑った。
「龍害の混乱時には、証言が多少誇張されるものですよ」
「誇張で済ませるには、記録の欠落が多すぎる」
ダスティンは報告書を指で叩く。
「生徒たちの記憶に保護術式をかけたのは、あなたですね」
「過度な恐怖記憶は、魔法適性そのものを損なうことがありますから」
「便利な説明だ」
「実際、便利でした」
軽口で流そうとするメルスティンに、ダスティンは笑わなかった。
「私は責めに来たのではありません」
その声は静かだった。
けれど、逃げ道を塞ぐような静けさだった。
「確認したいのです。あの日、校庭で深淵を開いた者は、本当に生徒だったのか」
メルスティンの笑みが、ほんのわずかに薄くなる。
「深淵、ですか」
「百五十年前、十万の龍を沈めた伝説。名は消え、二つ名だけが残った大魔道士」
ダスティンはゆっくりと振り返る。
「その者が、もし今も実在しているのなら」
部屋の空気が、一段重くなった。
「帝国は、それを隠しておくべきではない」
メルスティンは答えなかった。
答えれば、それだけで何かを認めることになる。
窓の外から、学園対抗戦の話で盛り上がる生徒たちの声が届いた。
誰と組むか。
どのチームが強いか。
去年の優勝校はどうだったか。
その無邪気なざわめきが、かえって部屋の静けさを重くした。
「五十年に一度の大侵攻が近い。民には希望が必要です」
ダスティンは続ける。
「フレアが戻った。五十年前の英雄が再び帝国の前に立つ。だが、それだけでは足りないかもしれない」
メルスティンの指先が、机の下でほんの少しだけ動いた。
「もし深淵の大魔道士が生きているなら、これほど強い旗はない」
「旗」
メルスティンが、静かにその言葉を繰り返した。
「彼女は、旗ではありませんよ」
初めて、ダスティンの目がわずかに鋭くなる。
「彼女、と言いましたな」
沈黙。
メルスティンは、ほんの少しだけ目を伏せた。
失言だった。
けれど、もう遅い。
「……言葉の綾ですよ」
「あなたらしくない」
「歳ですかね」
「あなたは、老いを言い訳にするほど枯れてはいないでしょう」
ダスティンの声は、淡々としていた。
「メルスティン校長。これは個人の情では済まない話です。龍族大侵攻が近づいている。民衆は不安に揺れている。帝国には、象徴が必要なのです」
「象徴にされる本人が、それを望んでいなくてもですか」
メルスティンの声は静かだった。
ダスティンは答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「国を救った者は、望む望まざるに関わらず歴史に立つものです」
「歴史に立たされる人間の足元までは、誰も見ませんからね」
「皮肉ですか」
「事実です」
その時、ダスティンは机の上に一枚の書簡を置いた。
帝国議会の印が押されている。
「これは、ポルクス・グラント議長の意向でもあります」
その名前を聞いた瞬間、メルスティンの表情から軽さが消えた。
ポルクス・グラント。
魔導派筆頭の大物政治家。
民衆の不安を読み、英雄の物語を作ることに長けた男。
メルスティンは、その男が嫌いだった。
ハイネもまた、理由もなく彼を嫌っている。
――笑っているのに、誰も見てない感じがするので。
以前、ハイネはそう言った。
その感覚は、おそらく間違っていない。
「大侵攻時、あなたには副将として現場指揮を任せる予定です」
ダスティンは告げた。
「だからこそ、私情で判断を曇らせないでいただきたい」
メルスティンは笑わなかった。
校長として。
副将として。
そして、ハイネを百年以上見てきた者として。
その三つが、胸の奥で静かに軋んでいた。
「民には希望が必要です」
ダスティンはもう一度言った。
「国を救った者を、国が掲げて何が悪い」
メルスティンは、窓の外を見た。
夕暮れの校庭では、生徒たちが学園対抗戦の話題で浮き立っている。
ハイネはきっと、どこかで眠そうな顔をしているのだろう。
フラワーは不安そうにして、ラビーは胸を張っている。
その日常を守るために、政治は動く。
けれど、その日常を壊す形で、政治はいつも近づいてくる。
「彼女は、ずっと静かに生きようとしてきました」
メルスティンは言った。
「百五十年前に龍を沈めても、名を残さなかった。百年前にサクラが聖域を残し、五十年前にフレアが英雄として語られても、自分から表へ出ようとはしなかった」
ダスティンは黙って聞いている。
「それは臆病だからではありません。責任から逃げたからでもない。あの子は、自分の力が何を生むのかを知っているんです」
「だから隠すと?」
「だから、利用させない」
その言葉だけは、はっきりしていた。
ダスティンの目が細くなる。
「それは、副将としての発言ですか」
「いいえ」
メルスティンは静かに答えた。
「校長としての発言です」
しばらく、部屋には時計の音だけが響いた。
やがてダスティンは、書簡を机に残したまま背を向ける。
「学園対抗戦が始まります」
「ええ」
「生徒たちの成長を見るには、良い機会でしょう」
「そうですね」
「同時に、隠しているものが表に出る機会でもある」
メルスティンは答えなかった。
ダスティンは扉の前で足を止める。
「私は、あなたを信頼しています。だからこそ、失望させないでいただきたい」
扉が閉まった。
部屋に残されたメルスティンは、しばらく動かなかった。
机の上には、ポルクス・グラントの名が記された書簡。
窓の外には、学園対抗戦に沸く生徒たち。
その間に、自分がいる。
守りたいものが多すぎる時、人は何から守ればいいのだろう。
メルスティンは懐から銀の懐中時計を取り出した。
蓋を開く。
針は、いつも通り静かに時を刻んでいた。
けれどその音が、今日は少しだけ不吉に聞こえた。
「……兄さんなら、何て言ったかな」
答える声はない。
ただ、遠く校庭から、生徒たちの笑い声が届いた。
それがまだ日常の音であるうちに、守らなければならない。
そう思った瞬間、メルスティンは苦く笑った。
守るために、力を使おうとする者がいる。
守るために、力を使わせまいとする者がいる。
守るために、誰かを旗にする者がいる。
守るために、誰かを部品にする者がいる。
そして自分は、守るためにどこまで嘘をつけるのか。
夕暮れが、学園長室の床を赤く染めていく。
学園対抗戦の告知に沸く校舎の上で、見えない火種が、静かに灯り始めていた。
それは、まだ火事ではない。
けれど誰かが風を送れば、すぐに燃え広がる火だった。
第13話へつづく
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宵町あかりさんが『深淵の大魔道士』について、とても素敵な記事を書いてくださいました。
光栄すぎて、何度も読み返してしまいました。
みなさまもぜひ、読んでみてくださいね。
あかりさん、ありがとうございます✨️
宵町あかりさんは、作品をただ評価するのではなく、物語の奥にある熱や余韻まで丁寧にすくい上げてくださる書き手さんです。
「読む側」として作品に向き合う姿勢そのものが、とても誠実で素敵だなと感じました。
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