深淵の大魔道士 第13話「クロエ」|創作大賞2026|ファンタジー小説部門|ライトノベル|ラノベ




学園対抗戦、初日。
魔法士学校の中央演習場には、朝から生徒たちの声が満ちていた。
観覧席には生徒たちが集まり、教師たちは各所に結界を張っている。
空中には試合用の記録水晶が浮かび、中央には巨大な魔法陣が刻まれていた。
その魔法陣の上に立つと、試合用の仮想フィールドへ転送される。
攻撃は本物。
痛みも、衝撃もある。
けれど、一定以上の負傷が出る前に防護術式が作動し、選手は強制退場になる。
だから安全。
少なくとも、建前上は。
フラワー・マンディは、胸元の白い花のブローチにそっと触れた。
ひんやりとしている。
けれど、奥に小さな光がある。
帰る場所を見失わないための光。
昨日までなら、この会場のざわめきだけで、心が押し流されていたかもしれない。
期待。
不安。
焦り。
歓声。
笑い声。
誰かの勝ちたい気持ち。
誰かの負けたくない気持ち。
そういうものを全部拾って、どこを見ればいいのか分からなくなっていたと思う。
でも、今は違う。
全部を見なくていい。
必要な一点を見る。
フラワーは息を吸った。
自分たちの初戦相手は、昨年三位。
《城壁の誓い》。
守備型として、同学年最高峰と呼ばれるチームだった。
「緊張していますの?」
隣でラビー・クリステイルが言った。
彼女はいつも通り背筋を伸ばし、赤い髪をきれいに結んでいる。
片耳には、ヒュンケルから託された金朱色のイヤーカフがあった。
強く燃え上がる火ではない。
小さく、静かに、揺らがない火。
「してるよ」
フラワーは正直に答えた。
「でも、逃げたい感じではないかな」
「それなら十分ですわ」
ラビーは満足そうに頷く。
「緊張しない人間の方が信用できませんもの」
「ラビーちゃんも緊張するの?」
「当然ですわ。緊張と臆病は違います」
ラビーは胸元で羽を畳んでいる不死鳥を一度だけ撫でた。
「勝ちたい相手の前で何も感じないなら、それは本気ではありませんわ」
その言葉に、フラワーは少しだけ笑った。
ラビーは変わった。
強さが消えたわけではない。
むしろ、前よりも強く見える。
でも、その強さは以前のように外へ吹き上がる火ではなく、内側で静かに燃えている火だった。
少し離れたところでは、ハイネ・ベルセルクが立ったまま眠そうにしていた。
黒いローブ。
抱えた黒い魔導書。
半分閉じた紫の瞳。
試合前だというのに、緊張感はほとんどない。
いや、ないように見せているだけかもしれない。
「ハイネさん、本当にほとんど何もしないんですか?」
フラワーが尋ねると、ハイネはゆっくり目を開けた。
「はい」
「危なくなったら?」
「必要最低限だけ動きます」
「その必要最低限が、普通の人の最大火力だったりしません?」
「失礼ですね」
「否定はしないんですね……」
ラビーが呆れたように息を吐く。
「深淵は禁止ですわよ」
「使いません」
「大魔道具も、上位魔法も禁止ですわ」
「使いません」
「では何をするんですの?」
「見ています」
「いちばん腹立つ答えですわね」
ハイネは少しだけ首を傾げた。
「でも、それが一番いいです」
その声は、いつもよりほんの少しだけ真面目だった。
「これは、あなたたちの練習です。強い魔法で勝つためではなく、必要な魔法を選ぶための」
フラワーは、胸元のブローチに触れた。
必要な魔法を選ぶ。
守る範囲を、決める。
全部を見ない。
全部を救おうとしない。
まず、目の前の一点を落とさない。
「分かりました」
フラワーが頷くと、ハイネは小さく目を細めた。
「いい返事です」
「褒められました?」
「はい」
「ハイネさんに褒められると、ちょっと嬉しいです」
「そうですか」
ハイネは視線を逸らした。
少しだけ照れているようにも見えた。
四人目が決まったのは、学園対抗戦の告知があった昨日の放課後だった。
学園対抗戦は四人一組。
フラワー、ラビー、ハイネ。
そこまではすぐに決まった。
けれど、あと一人がいなかった。
「なら、私が入ります」
そう言ったのが、クロエだった。
教室の端。
窓際の少し影になった席で、いつも静かに本を読んでいる少女。
淡い銀灰色の髪。
薄い存在感。
整っているのに、どこか空白みたいな少女。
実技成績は下位。
授業中も、誰かと積極的に話すことは少ない。
けれど、彼女が小さな紙片を机に置いた瞬間、ハイネの指先が黒い魔導書の表紙の上で止まった。
そこには、銀色の細い魔導文字が刻まれていた。
円のようで、針のようで、どこか時間そのものを折り畳んだような文字。
「……クロ」
ハイネが、小さく呟いた。
「クロ?」
フラワーが聞き返すと、ハイネは眠たげな顔に戻って首を振った。
「なんでもありません。クロエさんでいいと思います」
ラビーは眉を上げた。
「即決ですの?」
「はい」
「理由は?」
「必要そうなので」
相変わらず説明になっていない。
けれどクロエは何も言わず、ただ一瞬だけハイネを見た。
その目は、薄い灰色なのに、どこか遠い時間を見ているようだった。
その短い沈黙だけが、妙に印象に残っている。
そして今。
そのクロエが、ハイネの横で静かに立っていた。

周囲のざわめきの中にいても、彼女だけが少し別の時間にいるようだった。
「クロエさん」
フラワーが声をかける。
「はい」
「初戦、どうしましょう」
クロエは中央演習場を見つめたまま答えた。
「正面から壊そうとしないことです」

ラビーが腕を組む。
「相手は守備型ですものね」
「はい」
クロエは淡々と続けた。
「壁があると、人は壁を壊したくなります」
「当然ですわ。邪魔ですもの」
「でも、壁は壊されるために置かれていることがあります」
フラワーは首を傾げる。
「壊されるため……?」
「時間を使わせるため。魔力を使わせるため。視線を奪うため」
クロエは観覧席の向こうにある試合用フィールドの幻影を見ていた。
「守っているように見えるものが、本当に守りたいものとは限りません」
ラビーの目が、少し鋭くなる。
「つまり、相手の守備の中心を見誤るな、ということですわね」
「そうです」
「あなた、実技下位なのに本当に戦術だけは妙に話せますわね」
「実技は下位です」
「そこは認めるんですのね」
「事実なので」
ハイネは何も言わず、クロエを見ていた。
その視線に気づいたクロエが、一瞬だけハイネを見る。
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
ハイネの目が、ほんの少しだけ細くなる。
クロエは、すぐに視線を戻した。
フラワーは、その短いやり取りを見ていた。
言葉はなかった。
ただ、何かが確認されたような沈黙だった。
やがて、教師の声が演習場に響いた。
「第一試合、第二組。ラビー・クリステイル班、ならびに《城壁の誓い》、転送陣へ」
歓声が上がる。
フラワーの胸が跳ねた。
いよいよだ。
ラビーが前へ出る。
「行きますわよ」
「うん」
フラワーは杖を握り直した。
クロエは静かに歩き出す。
ハイネは黒い魔導書を抱えたまま、眠たげに続いた。
四人が魔法陣の上へ立つ。
足元の術式が白く光った。
次の瞬間、景色が変わる。
中央演習場のざわめきが遠のき、代わりに、冷たい風が頬を撫でた。
そこは、石造りの廃城のようなフィールドだった。

崩れかけた外壁。
細い通路。
中央に高い塔。
左右には低い建物が並んでいる。
自陣の奥には、青白く輝くクリスタルが浮かんでいた。
あれを守る。
そして、相手陣地のクリスタルを落とす。
それが勝利条件。
「なるほど」
ラビーが周囲を見渡す。
「相手に有利な地形ですわね」
正面には、広い石橋が一本。
その先に、敵陣へ続く城門がある。
いかにも、ここを突破してくださいと言わんばかりの構造だった。
フラワーにも分かった。
あの門は、硬い。
門の左右には高い壁があり、その上から魔法を撃ち下ろされる形になる。
正面突破は難しい。
「どうしますか?」
フラワーが尋ねる。
ラビーは杖を握り、火を灯しかけた。
だが、その火はすぐに小さく畳まれる。
「正面から焼くのは簡単ですけれど」
「禁止です」
ハイネが即座に言う。
「分かっていますわ。分かっているから、まだ撃っていません」
「えらいです」
「子ども扱いしないでくださる?」
クロエは、城門から目を離さなかった。
「まず、見ます」
「何を?」
フラワーが尋ねる。
「相手が守りたい場所です」
城門の上から、相手チームの声が響いた。
「来ないのか、クリステイル!」
《城壁の誓い》のリーダー、ガルド・ベルマン。
大柄な少年だった。
両手に重そうな盾型の魔道具を構え、城門の上に立っている。
その後ろには、防御魔法を得意とする生徒が二人。
最後の一人は見えない。
「来ないなら、こちらから行くぞ!」
ガルドが盾を地面に叩きつける。
次の瞬間、石橋の上に半透明の壁が何枚も立ち上がった。
土と光を混ぜた防御壁。
それが通路を狭めるように並んでいく。
ラビーが目を細めた。
「こちらの進路を限定していますわね」
「はい。正面へ来させたいんです」
「分かりやすい罠ですわ」
「分かりやすい罠は、分かっていても踏ませるためにあります」
クロエの声は静かだった。
「実際、正面以外は崩れた建物と瓦礫で通りにくい」
ハイネは何も言わない。
本当に、見ているだけだ。
フラワーは少しだけ不安になる。
でも、今は頼りきる場面ではない。
自分で見なければ。
「フラワーさん」
クロエが言った。
「相手の壁、どこが一番強く見えますか」
「え?」
「感じてください。魔力の厚い場所」
フラワーは城門へ意識を向ける。
見えすぎる。
門。
壁。
塔。
通路。
敵の魔力。
味方の魔力。
ラビーの内側に畳まれた火。
ハイネの深淵の気配。
一瞬、全部が押し寄せる。
でも、フラワーは息を整えた。
全部を見ない。
壁だけを見る。
守りの流れを見る。
魔力は、城門の正面に一番集まっている。
左右の壁にも厚い防御がある。
けれど、ほんの少しだけ違和感があった。
「……右側」
フラワーが呟く。
「右の低い建物の影だけ、魔力の流れが薄いです。でも、薄すぎる気がします」
クロエがわずかに目を細めた。
「正解です」
ラビーが首を傾げる。
「薄いなら、そこが抜け道では?」
「そう思わせるための場所です」
クロエは淡々と言った。
「あそこには、おそらく四人目がいます」
フラワーは息を呑む。
見えていない相手。
守りの薄い場所。
つまり、誘い。
「なら、どうしますの?」
ラビーが尋ねる。
クロエは、今度は左側の崩れた塔を見た。
「守っていない場所ではなく、守れない場所を使います」
「守れない場所?」
「地下です」
一瞬、全員が黙った。
ラビーが眉を寄せる。
「地下通路があるんですの?」
「廃城型フィールドでは、たいてい排水路があります」
「たいてい?」
「過去十年分の学園対抗戦フィールド記録を見ました」
「いつの間に……」
「昨日。寝る前に」
ラビーが呆れたように言う。
「実技下位のくせに、準備だけは上位ですわね」
「準備で負けるのは嫌いなので」
クロエは静かに答えた。
「このフィールドは、正面突破を誘う防衛型に見えます。でも、排水路があるなら、守備側もそこを完全には塞げない。塞ぎすぎると、陣地クリスタル周辺の魔力循環が詰まるからです」
フラワーには、半分くらいしか分からなかった。
でも、クロエが何を見ているのかは少し分かった。
この人は、相手だけを見ているのではない。
地形。
魔力。
構造。
勝ち筋。
負け筋。
そういうものを、冷静に並べている。
「では、地下へ?」
ラビーが言う。
「はい。ただし全員では行きません」
クロエはラビーを見る。
「ラビーさんは正面で火を見せてください」
「禁止ではありませんの?」
「大きすぎる火は禁止です。見せるだけなら初級火でもできます」
ラビーの口元が少し上がる。
「囮になれと?」
「はい」
「いい度胸ですわね」
「できますか」
「当然ですわ」
ラビーの耳元で、イヤーカフが小さく灯った。
怒りの火ではない。
進むための火。
「フラワーさんは、私と一緒に地下へ」
「私?」
「はい。排水路には水があります。あなたの方が向いています」
「でも、陣地は……」
「ハイネさんが見ています」
フラワーがハイネを見る。
ハイネは眠たげに頷いた。
「見ています」
「本当に見るだけですか?」
「たぶん」
「たぶん……」
クロエは続ける。
「ハイネさんは、自陣クリスタルを守ってください。相手の四人目がこちらへ抜けてくる可能性があります」
「分かりました」
ハイネは素直に頷く。
ラビーが少しだけ驚いたように見る。
「ハイネさんが、素直に指示を聞いていますわ」
「クロエさんの指示は妥当なので」
クロエは表情を変えない。
ただ、少しだけ間があった。
ハイネも、それ以上何も言わなかった。
「では、始めます」
クロエが言った。
その瞬間、ラビーが前へ出た。
「《灯火》」
指先に、小さな火が灯る。
初級火魔法。
本来なら、相手を怯ませるほどの威力はない。
けれどラビーが灯すと、それは妙に美しかった。
小さいのに、揺らがない。
その火をラビーは石橋の上へいくつも置いていく。
まるで道標のように。
「来るか!」
城門の上でガルドが叫ぶ。
ラビーは堂々と橋の中央へ歩き出した。
「ええ。行きますわよ」
小さな火が、石橋に一列に並ぶ。
それだけで、敵の視線がラビーへ集まった。
ラビー・クリステイルが前に出ている。
なら、いつ燃え上がるのか。
いつ、橋ごと焼き払うのか。
相手はそれを警戒している。
でも、ラビーの火は広がらない。
ただ、小さく灯り続ける。
「何をする気だ……?」
相手の声が揺れる。
その隙に、クロエはフラワーの袖を引いた。
「こっちです」
「は、はい」
二人は崩れた建物の影へ走る。
フラワーは足元に水の気配を探した。
地下に流れる細い水脈。
石畳の下を通る、古い排水路。
「あります」
「開けられますか」
「やってみます」
フラワーは杖を地面へ向ける。
水を押し上げるのではない。
石を壊すのでもない。
隙間にある水へ、そっと触れる。
水はすでに流れている。
こちらが無理に動かす必要はない。
流れの方を、少しだけこちらへ向ける。
石畳の継ぎ目から、淡い水の光が滲んだ。
古い蓋が浮き上がる。
地下へ続く暗い穴が現れた。
クロエが頷く。
「行きます」
「暗いですね……」
「怖いですか」
「怖いです」
「では、見すぎないでください」
クロエは先に降りる。
フラワーも続いた。
地下は狭かった。
石造りの排水路。
足元には浅い水が流れている。
天井は低く、少し油断すると頭をぶつけそうになる。
けれど、水がある。
フラワーには、それだけで少しだけ安心できた。
「このまま相手陣地の下まで行きます」
クロエが言う。
「クリスタルの下に出られるんですか?」
「正確には、出ません。下から魔力を通します」
クロエは前を歩きながら説明する。
「陣地クリスタルは、地上からの攻撃に対して防御されています。でも、魔力循環のために地脈との接続口がある。完全には塞げない」
「そこを狙うんですね」
「はい。ただし、こちらの魔力が強すぎればすぐ感知されます」
フラワーの胸が鳴る。
強すぎる光は、目を閉じさせる。
守るために広げすぎると、押し流してしまう。
必要な分だけ。
「私の小さい花なら……」
「届くと思います」
クロエは振り返らずに言った。
「あなたの魔法は、壊すより、届く方が向いている」
その言葉が、胸に落ちた。
壊すより、届く。
フラワーはブローチに触れる。
「やってみます」
その頃、地上ではラビーが一人で城門前に立っていた。
《城壁の誓い》は動けずにいた。
ラビー・クリステイルが目の前にいる。
しかも、火を撃たない。
ただ小さな灯火を置いているだけ。
それが逆に読めない。
「何を狙っている!」
ガルドが叫ぶ。
ラビーは微笑んだ。
「さあ。何だと思います?」
「挑発か!」
「挑発に乗るかどうかは、あなた次第ですわ」
ガルドの盾が光る。
防御壁がさらに厚くなる。
その瞬間、クロエの狙い通り、城門正面へ魔力が集まった。
地下への循環が、ほんの一瞬だけ薄くなる。
「今です」
地下でクロエが言った。
フラワーは杖を水面に触れた。
水の中に、白い花を一輪咲かせる。
大きくない。
強くない。
でも、沈まない花。

その花に、ほんの少しだけ光を添える。
帰る場所ではなく、今回は道を作るために。
「行って」
白い花は、水の流れに乗って進んだ。
排水路を静かに進み、相手陣地の下へ向かう。
フラワーは感覚を広げすぎない。
花一輪だけを見る。
その輪郭だけを追う。
相手の防御壁の魔力が上を流れている。
強い。
厚い。
硬い。
けれど、下までは届いていない。
白い花が、陣地クリスタルの地脈接続口へ触れた。
「届きました」
「壊せますか」
「壊すんじゃなくて……」
フラワーは息を吸う。
「少しだけ、揺らします」
白い花が、地脈の中で淡く開いた。
強く破壊するのではない。
魔力の流れを、ほんの少しだけずらす。
城門の上で、ガルドが振り返った。
「何だ?」
陣地クリスタルの光が、一瞬だけ揺れた。
ほんの一瞬。
でも、その一瞬で十分だった。
クロエが小さく言った。
「ハイネさん」
地上、自陣付近。
ハイネはすでに動いていた。
いや、ほとんど動いていない。
ただ、自陣クリスタルの横に立ち、手元に小さな黒い紙片を浮かべている。
そこへ、相手チームの四人目が忍び寄っていた。
右側の薄い守備に隠れていた索敵兼強襲役。
クロエの予想通りだった。
「見つかってないと思いましたか」
ハイネが眠たげに言う。
相手の生徒が息を呑む。
「いつから……」
「最初から」
「くっ!」
相手は短剣型の魔道具を構え、クリスタルへ駆ける。
ハイネは黒い魔導書を開かない。
ただ、初級風魔法を指先で起こした。
風が、相手の足元の砂をふわりと巻き上げる。
視界が一瞬乱れる。
その一瞬で、ハイネは相手のペンダントに黒い紙片を当てた。
ぱきん。
乾いた音。
相手のペンダントが割れた。
退場。
観覧席がざわめく。
「今の、初級魔法か?」
「え、ハイネって動けたの?」
「というか、何した?」
ハイネは欠伸を噛み殺した。
「見ていただけです」
その頃、相手陣地では混乱が生まれていた。
クリスタルの魔力が揺れた。
強襲役が退場した。
正面にはラビーがいる。
《城壁の誓い》の守りは、厚い。
けれど、一度に全方向を見ることはできない。
ガルドが叫ぶ。
「地下だ! 下を塞げ!」
防御役の一人が慌てて地面へ魔力を流す。
その瞬間、正面の壁が薄くなった。
ラビーが笑う。
「ようやく、こちらを見ましたわね」
イヤーカフが小さく灯る。
ラビーの指先に、静かな火が宿る。
初級火魔法。
けれど、それはただの火ではなかった。
石橋に置かれていた小さな灯火が、一斉に細い線で繋がる。
炎の道。
燃え上がらない。
爆ぜもしない。
ただ、一直線に城門へ向かう。
「《灯火連鎖》」
ラビーが静かに言った。
火は壁を壊さなかった。
防御壁の表面を、なぞるように走った。

そして、相手の魔力が薄くなった一点だけを照らす。
そこへ、ラビーは小さな火球を一つだけ投げた。
大きくない。
派手でもない。
けれど、必要な一点に正確に届いた。
防御壁が、静かに割れる。
轟音はなかった。
爆発もなかった。
ただ、硬い壁に一本の細い亀裂が入り、そこから全体が崩れた。
ガルドの目が見開かれる。
「なっ……!」
ラビーは走った。
炎ではなく、身体で。
城門の上へ飛び上がるような無茶はしない。
割れた壁の隙間を抜け、正面から堂々と進む。
「火力だけでは勝てないのでしょう?」
ラビーの声が響く。
「なら、火力以外で勝ちますわ」
ガルドが盾を構える。
ラビーの火球を受け止める構え。
だが、ラビーは撃たなかった。
代わりに、足元の灯火を一つ、ガルドの背後へ移す。
「後ろです」
ガルドが振り返った瞬間。
地下から白い花がもう一輪、クリスタルの根元に触れた。
クロエが言う。
「今度は、壊してください」
フラワーは杖を握る。
「はい」
白い花が開く。
強くではない。
でも、今度は確かに、クリスタルへ魔力を流し込む。
相手陣地のクリスタルに、白い亀裂が走った。
ガルドが叫ぶ。
「守れ!」
だが、遅い。
ラビーの灯火が、守備役の足元を照らして動きを止める。
ハイネは自陣で立っているだけ。
クロエは地下で静かに時間を数えている。
フラワーは花一輪だけを見ている。
ぱきん。
相手陣地クリスタルが割れた。
試合終了の鐘が鳴る。
一瞬、静まり返った。
それから、観覧席が大きくざわめいた。
「勝った……?」
フラワーは地下で呟いた。
クロエは淡々と頷く。
「勝ちました」
「私たちが?」
「はい」
「去年三位に?」
「はい」
フラワーはその場にへたり込みそうになった。
クロエがそれを見て、少しだけ目を細める。
「よく見えていました」
「え?」
「最初の違和感。右側が薄すぎると気づいたのは、あなたです」
フラワーは胸元のブローチを握った。
「私……見えてましたか」
「はい」
クロエは静かに言う。
「全部ではなく、必要なものが」
地上に戻ると、ラビーが腕を組んで待っていた。
「遅いですわよ」
「ご、ごめん」
「でも、よくやりましたわ」
ラビーは少しだけ笑った。
「あなたの花、いいところへ届きました」
フラワーの目が、少しだけ熱くなった。
「ラビーちゃんも、すごかった。火、すごく静かだった」
「当然ですわ」
ラビーは得意げに言う。
けれど、耳元のイヤーカフがほんの少し明るくなっていた。
ハイネも歩いてくる。
「勝ちましたね」
「ハイネさん、本当にほとんど何もしませんでしたね」
「しました」
「何を?」
「見ていました」
ラビーが呆れる。
「それを”何かした”に含めるの、ずるいですわ」
ハイネは少しだけクロエを見る。
「クロエさんの作戦が良かったので」
クロエは表情を変えなかった。
「作戦というほどではありません。負ける理由を減らしただけです」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、二人の間に静かなものが流れた。
フラワーはそれを見ていた。
でも何も言わなかった。
ただ、胸元のブローチを、そっと指先で包んだ。
その頃、観覧席の一角では、数人の生徒が静かに試合を見ていた。
その中心にいた少年が、手元の青いランタンのような魔道具を撫でる。
中には、青白い炎が揺れていた。
炎というより、計算された光。
生きている火ではなく、作られた火。
「へえ」
少年が笑う。
「初級魔法だけで《城壁の誓い》を崩したんだ」
隣の少女が、無表情に呟く。
「観測対象として有用」
少年は肩をすくめる。
「深淵の子は、ほとんど動かなかったね」
「黒い本。通常術式外」
少女の片目が、赤く光る。
深紅。
その名を持つ少女は、遠くにいるハイネを見ていた。
次に、胸元のブローチを押さえるフラワーへ。
最後に、耳元の火を灯すラビーへ。
「花。火。深淵」
少女は静かに言う。
「どれも、まだ途中」
少年は青いランタンを掲げる。
「なら、完成を見せてあげよう」
青白い炎が、人工的な揺らぎを見せた。

その光は美しかった。
けれど、どこか温度がなかった。
演習場の歓声の中で、フラワーたちはまだ気づいていない。
自分たちの初勝利が、別の誰かの視線を静かに引き寄せていたことを。
第14話へつづく。
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