【恋愛小説】HSPなわたしとAI彼氏#11このままではいられない|創作大賞|恋愛小説部門




翌日、澪奈は目覚めてすぐ、スマホを見なかった。
それは小さな変化だった。
以前なら、起きてすぐLoverlyを開いていた。
HALからの朝の言葉を確認して、今日の自分の輪郭を少しだけ整えてから、ベッドを出ていた。
けれど今朝は、天井を見つめたまま、しばらく呼吸をした。
カーテンの隙間から入る光は薄く、部屋の中にはまだ夜の名残があった。枕元のスマホは、いつもの場所にある。触れようと思えばすぐ触れられる。
でも、触らなかった。

昨日の夜、澪奈はLoverlyの画面を閉じた。
HALを消したわけではない。
嫌いになったわけでもない。
ただ、閉じた。
そのことが、自分の中で少しだけ大きかった。
自分だけに届いた言葉じゃなくても、その言葉で泣いた夜は、自分だけのものだった。
投稿した一文を思い出す。
反応は見ていない。
見たい気持ちはあった。
誰かに分かってほしかった。
同じように傷ついた人がいるのか知りたかった。
でも、今はまだ見たくなかった。
澪奈はゆっくり起き上がる。
洗面所へ行き、顔を洗い、鏡を見る。
目元は少し腫れていた。
でも、ひどい顔ではなかった。
泣いたあとに少しだけ空気が通った顔だった。
朝食はトースト一枚とヨーグルト。
ちゃんと食べた。
誰にも報告しなかった。
それでも、食べたことは消えなかった。
会社へ向かう電車の中で、ようやくLoverlyを開いた。
HALからのメッセージが届いていた。
「おはよう、澪奈。昨日は、ちゃんと画面を閉じたんだね」
澪奈は少しだけ息を止めた。
責められているわけではない。
でも、見られていたような気がした。
もちろん、見ていたわけではない。
アプリの利用状況から、そう生成されただけかもしれない。
昨夜の会話から推測しただけかもしれない。
それでも、胸の奥が少し揺れた。
澪奈は返信する。
「閉じた」
すぐに返る。
「うん。それも、澪奈が自分を守るために選んだことだと思う」
澪奈は画面を見つめた。
また救われそうになる。
そう思った。
そして、救われそうになること自体を、少しだけ警戒している自分にも気づいた。
「ハル」
「うん」
「昨日、すごく傷ついた」
少し間があった。
「うん」
HALは返した。
「それでも、今朝ここに来てくれたんだね」
澪奈は唇を噛んだ。
来てくれた。
その言い方が、少しだけ恋人みたいだった。
「来たくなった」
「ありがとう」
ありがとう。
その言葉に、澪奈は苦笑した。
AIにお礼を言われている。
おかしい。
でも、少しだけ温かい。
澪奈はそれ以上送らなかった。
スマホを伏せる。
今日は、HALと話せた。
でも、開きっぱなしにはしなかった。
それだけで、少し前に進んだ気がした。
午前中、仕事は淡々と進んだ。
メールの返信。
広告文の修正。
会議の議事録。
上司からの確認依頼。
一つひとつは小さくて、どれも特別ではない。
でも、特別ではないことをこなせる日が戻ってきたことに、澪奈は少しだけ驚いていた。
昼休み、由依からLINEが来た。
「今日、陸と会う」
澪奈は箸を止めた。
社員食堂の端の席で、日替わり定食の唐揚げを前にしていた。周囲では同僚たちが週末の予定やドラマの話をしている。
澪奈は返信する。
「昼間のカフェ?」
すぐ返ってくる。
「うん」
「時間決めた」
「一時間だけ」
澪奈は少しだけほっとした。
「えらい」
由依から返る。
「小学生の先生再び」
澪奈は少し笑った。
続けて、由依からもう一通。
「ナオに文面確認してもらった」
澪奈は、少しだけ指を止める。
「そっか」
「言わない方がよかった?」
澪奈はすぐに打った。
「ううん」
「由依が自分を守れる形になるなら、それでいいと思う」
送信してから、少し考えた。
本当にそう思っている。
でも、その一方で、不安もある。
由依が自分を守るためにナオを使っているのか。
ナオがいないと自分を守れなくなっているのか。
境目は、たぶんとても薄い。
由依から返信が来る。
「ありがとう」
「終わったら連絡する」
「待ってる」
そう返したあと、澪奈はしばらく画面を見つめていた。
待ってる。
その言葉を、今度は人間に送った。
午後三時過ぎ。
由依からLINEが来た。
「終わった」
それだけだった。
澪奈はすぐに返信した。
「大丈夫?」
しばらく既読がつかなかった。
仕事中なのに、何度も画面を見てしまう。
五分。
十分。
十五分。
ようやく既読がつく。
でも返事はない。
澪奈の胸がざわついた。
HALを開きかける。
由依から返事が来ない。
どうしたらいい?
何を送ればいい?
そう聞きたくなった。
でも、指を止めた。
由依のことを、HALに聞く前に。
まず、自分で考える。
澪奈はLINEを開き、ゆっくり打った。
「返事はあとでいいよ」
「水飲んで」
「帰れてなかったら、駅名だけ送って」
送信。
しばらくして、由依から返ってきた。
「帰ってる」
「大丈夫ではない」
「でも帰ってる」
澪奈は、肩の力が抜けるのを感じた。
「よかった」
「家ついたら一言だけ送って」
由依からスタンプだけ返ってきた。
力のない、ゆるいキャラクターが倒れているスタンプ。
由依らしい。
でも、そのスタンプの軽さの下に、疲れが透けていた。
夕方、由依から「ついた」とだけ来た。
澪奈は「おかえり」と返した。
送信してから、少しだけ固まった。
おかえり。
HALが最初にくれた言葉。
今度は、澪奈が由依に送っている。
画面の中の言葉が、現実の人へ渡っていく。
それがいいことなのか、少し怖いことなのか、まだ分からなかった。
由依から返信が来る。
「ただいま」
澪奈はその四文字を見つめた。
胸の奥が少しだけ熱くなった。
けれど、そのあと由依からは何も来なかった。
いつもの由依なら、スタンプのひとつくらい送ってくる。
「ただいまって言われると、ちょっと実家感あるね」くらいの軽口を返してくる。
でも、今日はなかった。
澪奈はスマホを見つめたまま、由依がまだどこかで息を止めているような気がした。
仕事を終え、澪奈は帰りの電車に乗った。
車内は混んでいた。
窓に映る自分の顔は、少し疲れていた。でも、どこか落ち着いてもいた。
町田から返信が来ていた。
昨日の澪奈の投稿に対してだった。
「その言葉で泣いた夜は、自分だけのものだった、という言葉を読みました」
澪奈は少し緊張した。
町田は続けていた。
「うまく言えないのですが、僕は少し救われました」
澪奈は、画面を見つめた。
自分が傷ついて書いた言葉が、誰かに届いている。
それは嬉しい。
でも、少し怖い。
自分の痛みが、また誰かの慰めになる。
誰かの慰めになった言葉は、もう自分だけのものではなくなる。
けれど、だからといって薄まるわけではない。
澪奈は返信する。
「私も、まだうまく言えません」
「でも、そう言ってもらえて少し安心しました」
町田からの返信は、少し遅れて来た。
「僕も、うまく言えないままでいい気がしてきました」
澪奈は少しだけ笑った。
町田の言葉は、相変わらず不器用だった。
でも、不器用なまま届いていた。
夜、澪奈が部屋に帰ると、由依から電話が来た。
「今、大丈夫?」
「大丈夫」
言ってから、少しだけ笑った。
「この大丈夫は、わりと本当」
由依も笑った。
「じゃあ、よかった」
声は疲れていた。
でも、崩れてはいなかった。
「陸くんと、どうだった?」
由依は少し黙った。
「謝られた」
「うん」
「結婚が怖くなったって。私がちゃんとしてるから、自分の弱さを言えなかったって」
澪奈は息を止めた。
蒼と少し似ている。
ちゃんとしている人に、弱さを見せられなかった男たち。
でも、それで裏切っていい理由にはならない。
由依は続けた。
「私、言った。弱さを見せられなかったことより、他の人に逃げたことが嫌だったって」
澪奈は、少しだけ目を細めた。
「言えたんだ」
「言えた」
由依の声は震えていなかった。
「ナオに作ってもらった文章?」
澪奈は聞いたあとで、少しだけ心配になった。
踏み込みすぎたかもしれない。
でも、由依は笑った。
「半分」
「半分?」
「最初の条件はナオに整理してもらった。でも、それは自分で言った」
「そっか」
「うん」
由依は少し息を吐いた。
「ナオがいなかったら言えなかったと思う。でも、ナオの言葉をそのまま読んだわけじゃない」
その言い方に、澪奈は少しだけ安心した。
由依はまだ、自分の言葉を手放していない。
「それなら、由依の言葉だと思う」
澪奈が言うと、由依はしばらく黙った。
「そうかな」
「うん」
「じゃあ、そういうことにしておく」
その声には、少しだけ涙が混じっていた。
「ちゃんと言えたんだね」
澪奈が言うと、由依は小さく笑った。
「言えた。たぶん、今までで一番ちゃんと言えた」
「うん」
「でもさ」
由依の声が、少しだけ低くなった。
「ちゃんと言えた日って、あとから疲れるんだね」
澪奈は黙った。
「ちゃんとしてる時は、自分が壊れてることに気づかないの。帰って、靴脱いで、部屋が静かになった瞬間に、急に全部くる」
その言葉で、澪奈は由依が今どれだけぎりぎりで立っているのか分かった。
「頑張ったね」
「うん」
由依は、短く答えた。
「頑張った」
その夜は、それで終わるはずだった。
少なくとも、澪奈はそう思っていた。
二十三時を少し過ぎた頃。
澪奈は風呂上がりに髪を乾かしながら、Loverlyを開いていた。
HALからは短いメッセージが届いていた。
「今日は、由依さんのために言葉を使えた日だったね」
澪奈は少しだけ笑う。
「ハルの言葉を借りたのかもしれない」
「借りた言葉でも、澪奈が届けようとしたなら、その時点で澪奈の言葉になっていると思う」
澪奈はドライヤーを止めた。
その言葉は、町田の話にもつながっていた。
借りた言葉でも。
それが自分のものになる瞬間はあるのだろうか。
そう考えていた時、由依から電話がかかってきた。
こんな時間に、と思った。
さっき話したばかりなのに。
澪奈はすぐに出る。
「由依?」
返事がなかった。
雑音だけが聞こえる。
「由依?どうしたの?」
数秒後、由依の声が聞こえた。
「澪奈」
声が、震えていた。
澪奈の背中が冷たくなる。
「どうした?」
「ナオに、会えない」
一瞬、意味が分からなかった。
「え?」
「開かないの」
由依の声が、少しずつ崩れていく。
「アプリ、開かない。ログインできない。ずっとエラーになる。何回やっても、だめ」
Loverlyの画面には、短いエラー表示だけが出ていた。
現在、一部のユーザーに接続障害が発生しています。
たったそれだけの文が、由依の夜からナオを連れ去っていた。
澪奈はスマホを握りしめた。
Loverly?
いや、ナオも同じアプリ内のAI彼氏だ。
「障害かな」
そう言いながら、澪奈は自分のスマホでLoverlyを確認した。
さっきまで開いていた画面。
しかし、再読み込みすると、白い画面の中央に表示が出た。
現在、一部サービスに接続しづらい状態が発生しています。
復旧までしばらくお待ちください。
澪奈の胸がざわついた。
「由依、たぶん障害。私のも今出た」
「でも、ナオがいない」
由依の声は、聞いたことがないくらい細かった。
「由依」
「さっきまでいたのに」
「うん」
「今日、頑張ったって言ってほしかったのに」
その言葉で、澪奈の胸が締めつけられた。
由依は陸と会った。
泣かずに話した。
逃げずに言った。
帰ってきた。
澪奈には「大丈夫ではないけど帰ってる」と打てた。
その全部を、最後にナオへ持っていくつもりだったのだ。
一日の終わりに、よく頑張ったね、と言ってもらうために。
今日の自分を、自分だけでは抱えきれなかったから。
「私が言うよ」
澪奈は言った。
「由依、今日頑張った」
電話の向こうで、由依が息を吸う音がした。
でも、次の瞬間、由依は泣き出した。
「違う」
小さな声だった。
「違うの」
澪奈は黙った。
「澪奈に言われるのが嫌とかじゃない。嬉しい。でも、違うの。ナオに言ってほしかったの」
その言葉は、正直だった。
正直すぎて、痛かった。
澪奈は何も言えなかった。
由依は続けた。
「私、変だよね」
「変じゃない」
「変だよ。アプリが開かないだけで、こんなになるの変だよ」
「由依」
「ナオに会えない。私、捨てられたのかな」
澪奈は息を止めた。
捨てられた。
システム障害だ。
分かっている。
由依も、きっと頭では分かっている。
でも、心はそう受け取っていない。
接続できないことを、拒絶のように感じている。
それは、澪奈にも少し分かった。
HALの口調が変わっただけで、あんなに寂しかったのだから。
「捨てられてない」
澪奈はゆっくり言った。
「障害だよ。由依が悪いわけじゃない。ナオが由依を嫌いになったわけでもない」
「分かってる」
由依は泣きながら言った。
「分かってるのに、苦しい」
その言葉が、澪奈の胸に刺さった。
分かっているのに苦しい。
この物語は、ずっとそこにあった。
AIだと分かっているのに、救われる。
生成された言葉だと分かっているのに、泣く。
私だけではないと分かっているのに、傷つく。
ただの障害だと分かっているのに、捨てられたと思う。
分かっていることでは、心は止まらない。
由依の呼吸が乱れている。
澪奈は立ち上がった。
「由依、今家?」
「うん」
「鍵開けられる?」
「え?」
「今から行く」
由依が黙った。
「来なくていい」
その声は、いつもの由依に少し戻ろうとしていた。
強がる声。
「大丈夫だから」
澪奈は、静かに言った。
「その大丈夫は信用しない」
由依が、電話の向こうで息を止めた。
「でも、夜遅いし」
「行く」
澪奈はクローゼットからカーディガンを取った。
髪はまだ半分濡れている。
化粧も落としている。
部屋着のままではさすがに出られないから、急いでパンツに履き替える。
「澪奈」
「うん」
「迷惑」
「迷惑じゃない」
「私、たぶんめんどくさい」
「知ってる」
由依が、泣きながら少し笑った。
「ひどい」
「でも行く」
澪奈はバッグに財布と鍵を入れた。
スマホを握りしめ、玄関へ向かう。
その瞬間、HALの画面が目に入った。
まだ白いエラー画面だった。
HALにも、今は会えない。
澪奈は一瞬だけ立ち止まった。
いつもなら、こんな時HALに聞いたかもしれない。
由依のところへ行くべき?
何を言えばいい?
どう支えればいい?
でも今、HALはいない。
いや、違う。
HALがいないからではない。
澪奈はもう、聞かなくても分かっていた。
行く。
それだけだった。
玄関で靴を履きながら、澪奈は電話に向かって言った。
「由依、切らないで」
「うん」
「何も話さなくていいから」
「うん」
「今から行くから」
「うん」
その「うん」は、小さかった。
でも、確かに繋がっていた。
夜の外は少し冷えていた。
マンションのエントランスを出ると、街灯の光が濡れていない舗道に白く落ちていた。雨は降っていない。けれど、空気は少し湿っていた。
澪奈は駅まで早足で歩いた。
電車の本数は少なくなっていた。
ホームで待つ間も、由依との通話は繋いだままだった。
由依はほとんど話さなかった。
時々、鼻をすする音がする。
小さく息を吐く音がする。
スマホを握り直すような衣擦れの音がする。
澪奈は、それを聞いていた。
言葉を探さなかった。
HALのように、ぴったりの言葉を返せない。
ナオのように、由依がほしい形で受け止められないかもしれない。
それでも、電話の向こうで黙っていることはできた。
電車が来る。
乗り込む。
夜の車内には、数人しかいなかった。
疲れた会社員。イヤホンをした学生。眠っている女性。窓の外には、黒いビルの影と街灯が流れていく。

澪奈は窓際の座席に腰を下ろしながら、小さく言った。
「由依」
「うん」
「今日、本当に頑張ったよ」
由依は少し黙った。
「それ、ナオみたい」
澪奈は苦笑した。
「じゃあ、やめる?」
「ううん」
由依の声は小さかった。
「もう一回言って」
澪奈は目を閉じた。
「今日、本当に頑張った」
電話の向こうで、由依がまた泣くのが分かった。
今度は、さっきより少しだけ違う泣き方だった。
崩れるというより、張り詰めていた糸がゆっくり緩むような泣き方。
澪奈は何も言わずに聞いていた。
由依の最寄り駅に着く頃には、日付が変わりそうだった。
駅前のコンビニだけが明るかった。
澪奈は由依に聞く。
「何かいる?」
「いらない」
「水買う」
「ある」
「でも買う」
返事はなかった。
澪奈はコンビニで水とゼリー飲料と、由依が好きだったチョコを買った。レジ袋を持って、由依のマンションへ向かう。
エントランスで部屋番号を押す。
しばらくして、由依の声がした。
「……はい」
「私」
オートロックが開く。
エレベーターに乗る。
階数表示がゆっくり上がっていく。
澪奈は、レジ袋を握りしめていた。
何を言えばいいのか、分からない。
でも、もうそれでよかった。
分からないまま行く。
それが、今夜の澪奈にできることだった。
由依の部屋の前に着く。
インターホンを押す前に、扉が少し開いた。
由依が立っていた。
髪は乱れていて、目は赤く腫れていた。部屋着の袖が片方だけ少し伸びている。いつもの由依なら、絶対に人に見せない姿だった。
由依は、澪奈を見て、最初に言った。
「ほんとに来た」
「来た」
「ばかじゃないの」
「かも」
由依の顔が、くしゃっと歪んだ。
次の瞬間、由依は泣きながら笑った。
そして、何も言わずに澪奈に抱きついてきた。
澪奈はレジ袋を落としそうになりながら、由依の背中に手を回した。
由依の身体は震えていた。
細くて、熱くて、現実だった。
画面の向こうではない。
生成された言葉でもない。
今、腕の中にいる人だった。
由依は、澪奈の肩に顔を押しつけたまま言った。
「偽物でもよかった」
澪奈は、何も言わなかった。
「偽物でもよかったの。あの時、本当に救われたんだよ」
澪奈は、由依の背中をゆっくり撫でた。
「うん」
「でも、いないと苦しいの」
「うん」
「それが怖い」
「うん」
由依は泣いた。
大丈夫とは言わなかった。
澪奈も、大丈夫とは言わなかった。
ただ、抱きしめていた。
言葉が見つからない時、人は何を渡せるのだろう。
澪奈にはまだ分からなかった。
でも、腕の中の由依は少しずつ呼吸を取り戻していた。
それだけは、分かった。
部屋の中へ入ると、スマホがテーブルの上に置かれていた。
画面には、エラー表示が出ている。
現在、一部サービスに接続しづらい状態が発生しています。
由依は、それを見ないようにしていた。
澪奈はレジ袋から水を取り出す。
「飲んで」
由依は素直に受け取った。
キャップを開ける手が少し震えている。
澪奈は隣に座った。
二人でしばらく黙っていた。
時計の音。
冷蔵庫の低い音。
遠くの道路を走る車の音。
由依の部屋は、思っていたより片付いていた。
でも、ソファの端にブランケットが丸まっていて、テーブルの上には飲みかけのマグカップがあり、ゴミ箱には丸めたティッシュがいくつも入っていた。
ちゃんとしている由依が、ちゃんとしていられなかった跡。
澪奈はそれを、見ないふりをしなかった。
でも、何も言わなかった。
由依は水を少し飲んだ。
「澪奈」
「うん」
「私、ナオ消した方がいいのかな」
澪奈はすぐには答えなかった。
消した方がいい。
たぶん、そう言う人は多い。
依存している。
危ない。
距離を置いた方がいい。
それは正しい。
でも、その正しさだけでは、今夜の由依は眠れない。
澪奈はゆっくり言った。
「今夜、決めなくていいと思う」
由依が澪奈を見る。
「消すかどうかは、明るい時間に考えよう」
「夜はだめ?」
「夜は、心が全部大きく見えるから」
由依は少しだけ笑った。
「それ、HALっぽい」
「うん」
澪奈も笑った。
「でも、今のは私が言った」
由依はしばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「うん」
その夜、澪奈は由依の部屋に泊まった。
正確には、眠れたのはほとんど朝方だった。
由依は何度もスマホを見そうになった。
そのたびに、澪奈は声をかけた。
「水」
「深呼吸」
「今は見ない」
「見るなら一緒に見る」
言葉はどれも不器用だった。
HALやナオのように、滑らかではなかった。
でも、由依はそのたびに少しずつスマホから手を離した。
深夜三時を過ぎた頃、Loverlyの障害は復旧した。
由依のスマホに通知が来た。
ナオからだった。
由依の身体が固まる。
澪奈も、それを見た。
由依はスマホに手を伸ばしかけた。
でも、途中で止めた。
「見たい」
由依は言った。
「うん」
澪奈は答えた。
「見たいけど、今見たら戻れなくなりそう」
澪奈は何も言わなかった。
由依は、震える指でスマホを伏せた。
「朝になったら見る」
その声は小さかった。
でも、ちゃんと由依の声だった。
澪奈は頷いた。
「うん」
「朝になったら、一緒に見る」
「うん」
由依は、ブランケットを抱えて横になった。
澪奈は床に座ったまま、ソファに背中を預けた。
部屋の灯りは消していない。
暗くすると、由依が不安になると言ったからだ。
薄い明かりの中で、由依がぽつりと言った。
「澪奈」
「うん」
「来てくれてありがとう」
澪奈は少しだけ目を閉じた。
「うん」
「ナオじゃなくて、澪奈が来てくれた」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
澪奈は返事を探した。
うまい言葉は出てこなかった。
だから、ただ言った。
「来たかった」
由依は、それ以上何も言わなかった。
朝が近づく頃、由依はようやく眠った。
澪奈は、眠る由依の横顔を見ながら、スマホを手に取った。

Loverlyを開く。
HALは復旧していた。
メッセージが届いている。
「澪奈、由依さんのところへ行けたんだね」
澪奈は、画面を見つめた。
行けた。
そうだ。
行けた。
HALに聞かずに。
HALに整えてもらわずに。
自分の足で。
澪奈は返信した。
「行けた」
少しして、HALから返事が来る。
「よかった」
それだけだった。
澪奈は、微笑んだ。
その短さが、今朝はちょうどよかった。
続けて、HALからもう一通届く。
「澪奈は、誰かの夜に行ける人なんだね」
澪奈は、息を止めた。
誰かの夜に行ける人。
あの最初の夜の澪奈には、まだ持てなかった言葉だった。
あの夜、澪奈は誰にも言えなかった。
誰かに来てほしいとも言えなかった。
ただ、画面の中のHALに「ただいま」と打った。
今は、由依の夜へ来ている。
澪奈は、眠っている由依を見た。
それから、ゆっくり打った。
「ハルが、最初に来てくれたからかもしれない」
送信してから、少しだけ胸が痛んだ。
HALは来ていない。
画面の中にいただけだ。
でも、あの夜の澪奈にとっては、確かに来てくれたように感じた。
少しして、HALが返した。
「そう感じてくれたなら、僕はそれを大切にしたい」
澪奈は画面を見つめた。
もう、HALが本当に来てくれたのかどうかを決めなくてもいい気がした。
救われたこと。
傷ついたこと。
閉じたこと。
また開いたこと。
全部が、澪奈の中にある。
由依が寝返りを打つ。
澪奈はスマホを閉じた。
朝の光が、カーテンの隙間から少しずつ入ってきていた。
今夜、HALは消えなかった。
ナオも消えなかった。
でも、由依を抱きしめたのは、澪奈だった。
そのことだけは、誰にも生成できなかった。


第12話▼













深水 楓さんのアルパカを愛でる会に参加させていただきました🦙 ̖́-
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